第45話 特性解放者
朝焼けが水鏡神社を包み込み、穏やかな光が神社の境内を照らしている。
静かな空気の中で、薄桃色の光が柱に反射し、境内の古びた木々を柔らかく染めていく。
日の出の瞬間、神社全体がまるで時が止まったかのように静寂に包まれている。
その美しい景色を見つめる僕の目の前で、三周目の僕――オカルト教授が、禰宜の老人と静かに話している。
彼らの言葉は届かないが、何か重要な話をしているようだ。
僕は曲がり角の影に身を隠し、二人の会話を見守ることにした。
――やがて、オカルト教授がゆっくりと足を進めて神社を後にする。
その背中を見送りながら、僕はひとつ深呼吸をして、恐る恐るその場を離れた。
数歩踏み出すと、禰宜の老人が神社の階段を降り、ひとりで考え込んでいる姿が見えた。
その肩はわずかに竦められ、視線は地面に落ちたままだ。
何か深刻に思案しているようで、誰かが近づく気配にも気づかないようだ。
僕はしばらくその姿を見つめ、ゆっくりと近づいていく。
足音を立てぬように、静かに歩を進める。
そして、老人に声をかける。
「あの――なんと言ったらいいか……僕は、さっきの”僕”なんです。四周目の」
少し言葉を詰まらせながら、温和に、軽く話しかけたつもりだった。
だが、老人は僕を見上げることなく、絶句したまま、しばらく返事もできなかった。
その沈黙に、僕は少しばかり動揺を覚える。
――当然だろうと思う。
こんな話、誰も信じられるわけがない。
☆☆☆
「この手紙を書いた記憶はありますか?」
僕がそう尋ねると、老人は目を閉じ、しばらくの間、力なく首を振った。
僕はその反応を見逃さず、続けた。
「おそらく、あなたもループしている。それも相当な回数を」
「なんだって?」
老人の目がわずかに震えた。
何かに気づいたようだが、すぐにまたその目線は地面に戻る。
「おかしいと思っていました。あなたは本当にここに実在する人なんですか?」
その問いかけに、老人はしばらく黙っていた。
まるで答えを探しているかのように、時間が止まったように感じた。
やがて、老人はゆっくりと口を開いた。
「別の時間軸から来た。記憶を失い、禰宜として誰にも認識されぬまま幾星霜を経てきた」
その言葉は、僕が想像していた以上に重く、そして痛々しく響いた。
僕は一歩、また一歩と慎重にその真実を追っていく。
「あなたは、ここで認識されていない。僕はあなたが怪物に消されたのだと思い込んでいた。それでここの宮司さんに訊いてみたんです。そしたら――この神社に禰宜は最初からいなかったと」
「そうか」
老人の声は、どこか遠く、理解を超えた場所に響いているようだった。
「教えてください。あなたは一体、誰なんですか?」
☆☆☆
真夜中、水鏡池の周りには三十人あまりの男女が集まっている。
闇に包まれたその光景は、不気味さを増していた。
風が一切ないのに、木々の枝が微かに揺れる音が聞こえてくる。
しかし、その揺れは不自然で、まるで何かの指示に従っているかのように感じられた。
これから男の日記に習って入水の儀式を行う。
とはいえ、サダコから順番に水鏡池の水に触れればいいだけのことだ。
一人ひとりが、池の縁に触れ、次々に姿を消していく。
最初は静かな動作だったが、やがてそれがルーチンとなり、誰もが恐怖に引き寄せられているかのようだった。
その瞬間、誰かが悲鳴を上げるが、それもすぐに消えた。
声は響かず、ただ無の中に吸い込まれるようだった。
次の人物が池に触れると、その姿も掻き消える。
その行為が繰り返されるたびに、辺りの空気は重くなり、まるで時間そのものが圧縮されていくように感じた。
そして、突然、世界が反転した。
昼夜の境界が曖昧になり、薄暗い霧が池の周囲を取り巻いている。
木々は不自然に歪み、曲がりくねった枝が奇妙な方向を向いている。
その景色は、どこか異質なもの、常識では説明できないものを感じさせた。
生き物の気配はなく、ただ冷たさだけが支配している。
この場所は、僕がかつて迷い込んだ時間軸の果てのようだ。
昼も夜もわからず、すべてが固定されたように動かない。
そして、ふと目の前に上原雄介が現れる。
廃人のように佇んでいるその姿は、まるで精神が壊れてしまったかのようだった。
あの恐怖が、今、再び僕を包み込んでいく。
☆☆☆
霧の向こうから、遠くに悲鳴が響く。
その音は次第に近づき、振り向いたとき、初老の女性が腰を抜かして縋り付いてきた。
目を見開き、震える声で言う。
「前の――最初の私がいたんです!」
女性は息を切らし、恐怖に支配された目を見開いたまま答える。
「落ち着いてください。遭遇したのは、今さっきのことですか?」
「ええ。そうです」
僕はその答えに深く頷き、霧の中を見つめるが、何も見えない。
目を凝らしても、ただ薄い霧と暗闇が広がるばかりだった。
そのうち、次々に周囲から息を呑む声が聞こえ、続けて悲鳴が上がる。
それに反応した禰宜の老人は、ため息をつきながら歩いてくる。
「ドッペルゲンガーというやつでしょうか?」
「自己投影に近い。自分がでっち上げた怪物だよ。安心しろ。迷い込んだわけではなく、自ら来た者たちは慣れてくる」
その言葉に僕は冷や汗をかきながら考える。
「奴らはこの時間軸に自らを閉じ込めようとする。あらゆる手段を使ってな。本当は出たくなんてないんだ。この時間軸の王さまなんだから」
「それじゃあ僕らは全員、自傷行為を繰り返していたことになる――ループが終わらないはずだ」
それが僕の頭に浮かぶ、最大の疑問だった。
手紙を届けたのも、新田を唆したのも、怪物の名をかりた何周目かの僕だったとしたら。
――しかし、あくまでそれは憶測に過ぎない。
人間は、自分と同じ結論に誰もが至ると思いがちだが、現実は違う。
「この世界は崩壊する」
恵理が言った通りだった。
彼女の本能が感じ取ったもの、それは間違いなく正しかった。
どれだけの人間が、どれほどのループを繰り返し続けてきたのだろう。
もはやそれは摩耗し、薄く擦り切れ、そして間もなく消える。
僕はその先に待つものを知っている。
怪物は存在する。
何周目かの自分と対峙するその場所に、僕らはついに足を踏み入れてしまった。
☆☆☆
「ここは、なんなんですか?」
禰宜の老人が霧の中から穏やかに答える。
「時間の狭間。言ってしまえば異界。あの世。冥府。そんな世界だ」
僕はその言葉を理解できないまま、恐る恐る尋ねる。
「し、死んだってことですか?」
「そうじゃない。ただし、選択しなくてはいけない。この閉じられた世界から出るか、あるいは滅びていく時間軸と運命を共にするかを」
僕の胸に重いものが押し寄せる。
「あなた――あなたは、留まることを選択したと?」
老人は黙って頷き、目を細めた。
「ああ。それで、君が言う”特性”のある者にしか認識されなくなった。滅んだ時間軸の亡霊だ――できれば、君にはこうなってほしくはない。いいや、誰にもだ」
その言葉が僕の心に深く突き刺さる。
あの日記の男は、結局、時間の中に閉じ込められたのか。
そして――摩耗して、魂だけが時間軸から放り出されたのだろう。
その姿は、もはや時間の流れに囚われた亡霊のようなものだ。
「同じことを繰り返すのは麻薬だよ。破滅するとわかっていながら――やめられない。自分の中から怪物を創り出してでも」
その言葉が、まるで記憶の中で響いてくるようだった。
まさにその通りだ。ループの中で僕たちは、自らを破壊する道を選び続ける。
何度も繰り返すことで、目の前に立ちはだかるのはもう、過去の自分が創り出した化け物だけになってしまう。
恐怖、絶望、そして無力感。
それでも、再びその世界に足を踏み入れることを選んでしまう。
やめられない。
最初は意志を持っていたはずなのに、次第にその力が削られていくのだ。
僕は言葉に詰まって、ただ静かに老人を見つめた。
存在が、確実にあやふやになっていっているのがわかる。
視認ではなく、感覚的に。
どうやら、この場所ではそれが自然なことのようだった。
「私が書いた手紙と、古い日記を返してくれ」
その言葉に僕は息を呑み、手元の手紙と日記を差し出す。
「どうするつもりですか?」
老人はしばらく黙っていたが、やがて小さな微笑みを浮かべる。
「君が言った通りの店へ行って、君が言った通りに預けることにする。また来る次の君のために――」
その瞬間、禰宜の老人は霧の中に溶け込むように消え去った。
ただ、静けさと霧だけが残り、僕はその場に立ち尽くした。
☆☆☆
サダコの顔をした恵理が歩いて来た。
悲鳴でもあげていれば可愛げがあったのだろうが、芝居でもないのに、そんなことをする女ではない。
「この時間軸は終わりだよ。あまりにも矛盾が多すぎる。どう考えたって、もう容量限界だ――見ろ」
僕はこの世界の端を指差した。
ボロボロと消えていっている。
「さあ。行こう」
「待って! 行くってどこへ?」
「この時間軸の端から出るんだよ。脱出するには、それしかない」
「待ってよ。ここに居れば、また繰り返せる――そうじゃない?」
これだ。僕は、彼女のコレが嫌だった。
約束も、取り決めも、直前になってひっくり返す。
ドタキャン癖が出た。
付き合いきれない。
「は、端から出るって――見なさいよ! 崖じゃない! そんなの自殺と変わらないわ!」
「自殺って、君も一度、死んだじゃないか」
僕は冷静に恵理を見た。
おそらく、こうなったら彼女は行かない。
「残念だよ。君はサダコとして生きるんだね?」
「は――そうよ? 悪い? 売れない芸人だっけ? 私ならきっと売れてみせる。絶対に」
「それはそれは、ありがとうございます」
恵理に頭を下げた人がいた。
三十人あまりの中の一人。
名前は思い出せない。
中年女性である。
「私たちだけで行きましょう」
僕は、中年女性に手を引かれて歩き出した。
「サダコなのか?」
「はい」
返事の仕方に愛着がある。
ああ。彼女だ。
もう霧の向こうに恵理は消えている。
世界の端から出ること。
――たった、それだけのことを共有した仲間たちのうち、何人が脱出できただろうか。
脱出できなかった者たちは、この時間軸に縛られ、やがて霧の向こうへと消えていく。
そして、脱出した者たちはどこへ行くのだろう。
そんなことを考えながら、僕は残された場所を見つめていた。
霧の中、消えゆく世界の端を。
☆☆☆
前畑くん――いや、武山先生が霧の中から現われた。
「やあ。来たね」
「お父さん」
「うん。そう言われるのは――なんだか、おかしい気がするよ」
無理もない。
見た目は大学生と、中年女性なのだ。
「まさか、断崖絶壁が時間軸の端だとは……」
「ええ。さきほど恵理が拒否しました。残念です」
「むりやり放り出すわけにもいくまい。なにせ、すべてが憶測だ。実際、目の当たりにしても――とても理解が追いつかない」
「先生がそう仰るなら、我々はもっとです。とにかく、僕はもうループするのはうんざりしているんですよ。やり方は教えたんだ。意思さえあれば、今引き返した人も再び戻ってくることでしょう」
「それまで、この時間軸が保てばいいが」
先生の一言で僕らは無言になった。
☆☆☆
霧の中の怪物が、僕らを追いかけてきた。
あらゆる誘惑を投げかけてくる。
先生は、猛然と走り出していた。
僕もサダコの手を取り、その後を追う。
先生も。僕らも。
なにかを叫んで断崖絶壁から飛んだ。
三十人あまりの老若男女が、集団で飛び降りる。
端から見れば、レミングの集団自殺に映るのか?
あれは迷信だと、どこかで読んだなと思った。
”特性”ある者が見れば、怪物に追われて逃げて行く人々?
霧の中で、足を踏み外した哀れな犠牲者?
一瞬で、色々考え、それからサダコを見る。
彼女も僕を見ていた。
怪物がなにか言っている。
どうでもいい。
僕らは手を繋ぐ。
「待ちなさいよ!」
恵理の声が頭上から聞こえてきた。
そうか。
僕らはもう――飛び降りていたんだな。
恵理は摩耗した時間軸のなかで、限られた永遠を生きていく。
それが彼女の選択なら尊重しようと、僕は思った。
彼女とはもう遭うこともないだろう。
僕は胸をなで下ろし、それから突然、理解した。
そうか。
わかった。
恵理。
怪物は君だ。
僕をこのループに閉じ込めていた怪物は――
もう、どうでもいいことだな。
☆☆☆
コマ送りのアニメーションのように、何十、何百、何千――幾星霜の僕が一瞬で通り過ぎていく。
体を変え、同じ時代を、同じ魂が延々と。延々と。繰り返して。繰り返して。繰り返して。
僕の魂は深い時空の海の底へ沈んでいった。
底だと思った海底の更に深くへ潜り込んでいく。
怖くはなかった――というより、思考ができなくなっていた。
底の底は、岩盤の上に広がる無意識の世界。
俗に言う、あの世であろう。
僕は死んだのか。
魂が沈んでいく。
岩盤のなかへと。
魂のなかへと。
内宇宙へ。
いちばん、おくへ――
僕は、やっと、僕でなくなった。
僕はこの世界から消え去っていった。
お読みいただきありがとうございました。
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カクヨムでも書いております。宜しくどうぞ。




