29話 続・特性追跡者 2
「二度、生まれてきた?」
僕は思わず、先生の言葉を反芻した。
意味を理解するのに時間がかかった。
「つまり……あの子の時間は重複しているんだよ。私が未来を知ってしまったせいで、あの子の運命まで狂わせてしまったのかもしれない」
先生はグラスを見つめながら、少し遠い目をして言葉を続けた。
「娘はね、十歳になっていたんだ。それから……私は十年遡った。そして、また同じ娘が生まれる瞬間に立ち会うことになったんだよ」
言葉の意味を咀嚼しきれないまま、僕は困惑したまま頷いた。
それは比喩でも、文学的な表現でもない、明確な事実を告げている口調だった。
そんな僕の様子に気づいたのか、ナベさんがくすくすと笑いながら間に入る。
「SFか? それともオカルトの話かよ?」
ナベさんは肩をすくめ、目を細めて僕と先生を交互に見やった。
だが、すぐに興味を失ったようで、お気に入りのチーママの方に向かって元居た席へと戻ってしまった。
ナベさんは相変わらず自分のペースで生きている。
僕はその後ろ姿を見送り、再び向き直って先生を見つめた。
どう答えればいいのかわからず、無意識に言葉が口をついて出る。
「重複者……ですか?」
先生は、ひと呼吸置いた後、ゆっくりと頷く。
「うん、そうだ。時間は本来、一直線に進むだろう? でも、あの子は違う。ある時点で分岐して、元に戻って……まるで、二度同じ時間を繰り返すような状態になっているんだ。まあ、親がこんなことを言っても信じてもらえないかもしれないけどね」と、先生は苦笑した。
僕は先生の言葉を追いかけた。
どういうことだ?
つまり、彼の娘であるサダコが、時間の流れを歪めているとでもいうのだろうか?
そして、彼女の存在そのものが何か異常な事態を引き起こしていると?
「……では、サダコ――娘さんは……変な言い方になりますが、そういった『重複者』だから、時間の流れが不安定になる、と?」
僕の言葉に、先生はゆっくりと頭を縦に振った。
「そういうことになるな。あの子の時間は……一本の線が、二重になっている。重複者で合ってるよ」
先生は、手元のグラスを指でなぞりながら話した。
その動作が、彼の言葉の重みをいっそう強調しているように見えた。
「重複する……時間――」
僕のグラスを持つ手は震えだしていた。
僕はその言葉の重さに息を呑んだ。
十年遡るという意味が、僕には容易に想像できたからだ。
先生は静かに笑みを浮かべたが、その奥には苦しみが見え隠れしている。
「最初は嬉しかったさ。もう一度、あのかわいい盛りを見られるなんて……娘の成長をもう一度見届けられることが純粋に喜ばしかった。どうせ、このまま売れない小説家として腐っていくんだと思っていたからね」
先生の言葉には、少し皮肉と自己嘲笑が混じっていた。
喜びの裏には、逃げられない現実や、時間の狂いによる恐れがあったのだろう。
「でも……それがどれほど異常なことか、気づくのに時間はかからなかった。二度目の娘は……同じであって、同じではない。成長が少しずつ違っていくんだ。私が知っている未来と重なる部分もあれば、違う部分もあって……そして、私はそれを無視できなくなっていった」
先生はその時のことを思い返すように、少し眉をひそめた。
「再び生まれてきた娘……サダコは、私が知らない時間を生き始めたんだ。時間が重複しているだけじゃなくて、彼女自身が……何かに引き寄せられるように、違う道を進んでいるように思う。進んだ時間を彼女自身も気がつかないうちに戻ったりするようになっていった」
先生は、静かに僕に目を向けた。
「娘は二重の時間を生きている。本来の時間と、重なるように生きているもう一つの時間を。完全におかしい。存在自体――私にはとても理解ができない……」
先生の言葉には、父親としての愛情と、同時に抱える罪悪感が入り混じっていた。
「そう。あの子はね、変な拍子に時間の流れを変えちゃうんだ。たとえば、あるはずのない記憶を持ったり、消えたはずの出来事が戻ったり。そんな状態で……親としては、なんと言ったらいいか……」
先生は言葉を詰まらせた。
僕は、先生の口から出てくる一つ一つの言葉に耳を澄ませながらも、彼の微妙な表情を見逃さなかった。
言いづらそうに、どこか自嘲気味に続ける彼の様子に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「……私はどこかで、ほっとしているんだ」と、ぽつりと呟いた。
「え?」
僕は耳を疑った。
「そうさ、ほっとしている。あの子が家を出て、私の手の届かないところにいることにね」
先生は、遠い目をして語った。
その眼差しには、罪悪感と安堵が入り混じったような複雑な色が浮かんでいた。
「……どういうことですか?」
僕は問い返すと、彼はため息をついた。
「親としては、失格かもしれないが……あの子といると、私はどうしても怯えてしまうんだ。あの子の周囲で起きること、すべてが異常に見えて、狂い始めるのを止められない自分が怖くなる。まるで、現実が歪んでいくのを見せつけられているような気分だ……だから、あの子と離れて、私はどこかで安堵しているんだよ」
先生は、ひどく疲れた様子で目を伏せた。
僕は言葉を失っていた。
親が自分の子供に対してそんな風に感じるなんて、普通なら考えられないことだ。
けれど、先生がただの異常な親であるとは思えなかった。
先生の表情には、本当に自分の娘を愛し、同時に深く怯えている複雑な感情が宿っていたからだ。
「サダコは……どこにいても、たぶん時間を狂わせ続けるだろうな。親としては悲しい話だが……それもまた、彼女の運命なんだよ」
そう言って、先生は静かにグラスの中のウイスキーを一気に飲み干した。
「じゃあ、先生はそれにどう対処してきたんですか? あの子を……その……」
言い淀む僕を見つめ、先生は深い息をついた。
「分かっているんだ。あの子はなにも悪くなどない。だが、だからといって、私は彼女のそばにいられる自信がない」
その言葉の後、僕らの間に長い沈黙が落ちた。
周囲の喧騒が遠く、まるでこの場所だけが別世界に取り残されているかのように感じられる。
ナベさんの笑い声が響くが、それすらも虚ろに聞こえた。
「だから、君が知っているというなら……あの子のことを頼むよ。私は……もう、あの子と向き合うことができない」
気まずい沈黙が続く中、僕は自分の中で何かが弾けたように、勢いに任せて話すことに決めた。
「あの……今度は僕の話をしていいでしょうか?」
先生はグラスを置き、少し驚いたように眉を上げたが、すぐに興味を示した。
「君の話? ええ、ぜひ聞かせて欲しいね」
その言葉に、僕は深呼吸を一つして、これまで心にしまい込んでいた事実を口にした。
「では……僕は元々、政治家でした。去年、自殺した上原雄介といいます」
その瞬間、先生の顔色がみるみる変わっていった。
穏やかな表情を浮かべていた先生の顔が、驚愕と困惑が入り混じり、明らかに狼狽した様子だった。
もちろん、僕は真剣だったし、先生の話を訊いた後で冗談など言えるはずもない。
そのことを受け止めてくれたからこその反応なのだと思う。
「――上原? なんだって?? 政治家だった? 君は……ちょっと待ってくれ……自殺した政治家?」
先生の声は掠れていて、信じられないとでも言いたげだった。
彼はグラスを片手に持ちながら、その手が微かに震えているのが見て取れた。
僕はその反応に、何かが大きく動き始めるのを感じた。
「いや、待ちなさい。そんな馬鹿な。それじゃあ、君も――」
その言葉に、僕は再び胸の奥に込み上げる感情を押し込め、静かに答えた。
「わかりません……僕も、自分がどうしてここにいるのか。どうして別の人生を歩んでいるのか。本当に理解できていないんです」
まるで、この瞬間だけが切り取られて、時間の流れが止まっているかのようだった。
先生はゆっくりと息を吐き、少し落ち着きを取り戻したように、真摯な表情で僕を見つめた。
「君が上原雄介……」
「ええ、間違いありません。それなのに……今は、こうして別の名前で別の人生を歩んでいる。先生の言っていた、時間が重複するという話……もしかして、僕にも何か関係があるんじゃないかと」
僕の言葉を聞きながら、先生は静かに考え込んでいた。
そして、しばらくしてから、再び口を開いた。
「……君の話を聞いていると、確かに、何か大きな因果が絡んでいるように思える。私の娘、サダコもそうだが……君の運命にも、同じように時間の流れを変える力が作用しているのかもしれない」
先生の言葉には、これまでにない重みがあった。
「もしそうだとすれば……君とサダコが出会ったのは、偶然ではないかもしれないな」
その言葉に、僕は無意識に拳を握りしめていた。何かが動き出した。
これまでの謎が一つずつ解けていくような感覚が、僕の中で渦巻いていた。
僕は息を詰まらせながら話を続けた。
「元々の上原は……自殺なんかしていません。僕は上原の次に、気がついたら、ジャーナリストの新田悠也という人物になっていたんです。僕が元々、生きていた世界とは全く違う……」
その言葉を聞いた先生は、急に身を乗り出してきた。
「世界が違う? ……確かに、私にもそんな感覚がある。ああ。確かにあるよ」
先生の目は鋭く光り、まるで僕の言葉を必死に理解しようとしているかのようだった。
その反応に、僕は驚きと共に、不安がさらに膨れ上がっていくのを感じた。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「でも……僕は、まったくの他人として生きているんです。他の誰かの人生を歩んでいる。そんなループなんて、あり得るのでしょうか?」
先生は一瞬目を閉じ、深く息を吐いた。
「君の話が本当なら、私の娘、サダコの話ともリンクしてくるかもしれないな……あの子も、時間の流れを変える力を持っているんだから」
「サダコ……」
「そうだ、あの子は重複者だ。私が体験したように、彼女も何度も同じ時間を生きている。ただ、そのことを意識しているかどうかは分からない。だけど……」
先生は少し間を置き、続けた。
「もし君が言うように、世界が違うのだとすれば……君とサダコが出会ったこと自体、偶然ではないかもしれない。この世界は君や私やサダコの運命が交錯する――ただひとつの、唯一の世界かもしれない」
僕は言葉を失った。
ループや重複、そして時間を超える力――それがここで、この時間軸で、交錯しているというのか。
「先生……僕が今、ここにいる理由は――ここに至った理由は、この世界であなた方に――」
僕は言葉に詰まり、感極まって泣きそうになったのを堪えるため、一気にウイスキーを呑み干した。
先生は困惑したような表情を浮かべたが、やがて静かに答えた。
「それは……君自身が見つけ出すしかない。サダコもまた、君の人生に関わってくるかもしれない。だが、その答えがすぐに見つかるとは限らないよ」
先生の言葉は、僕の胸に重く響いた。
「同じ時間を何度も生きているというならば……サダコ、これは芸名だけど、娘と一緒にいてくれないだろうか。君と娘がいることで、この繰り返す時間から……抜け出せるかもしれない」
先生の真剣なまなざしを受けて、僕は思わず息を呑んだ。
今までの彼の態度からは想像もつかないほど、切実な願いが込められているように感じた。
サダコと一緒に……?
「先生……それは、どういう意味ですか?」
「私も、正直言って、確信があるわけではない。ただ……あの子が時間の流れを変える力を持っていることは確かだ。そして、君自身もまたその流れの一部だと考えれば……何かを変えられる大きな可能性を秘めているのかもしれない」
僕は言葉を探したが、うまく出てこなかった。
先生が言っていることは信じ難い。
だが、この不可解な出来事が続いている以上、完全に否定することもできなかった。
「娘……サダコには、私ができなかったことをしてほしい。私の願いはひとつだけだ。娘が、時間の繰り返しから解放されること。これだけだよ。君と一緒にいることで、何かが変わるなら、それに賭けたい」
「でも……僕がサダコさんの力になるなんて、本当にできるのでしょうか?」
先生は静かに頷いた。
「できる。必ずできる。君はただ、彼女と一緒にいてくれるだけでいい。それだけで……」
僕はしばらく考え込んだ。
サダコと一緒にいることで、果たして本当に何かが変わるのだろうか?
そして、僕自身が巻き込まれているこの奇妙な現象――その答えが彼女との繋がりにあるのだろうか?
先生の願いを無下にすることはできない。
それは絶対にできないことだ。
彼を理解し、僕を理解できるのは、おそらく同じく、時間を超越してきた者だけであろう。
この捻れた時間軸を実際に経験している者同士でしかありえない。
上原の言葉を借りるならば、我々は”特性追跡者”同士ということになる。
「分かりました……先生。僕もサダコさんと一緒にいて、できる限りのことをしてみます」
先生は安堵の表情を浮かべ、僕の手を握った。
「ありがとう……君がそうしてくれることが、私たちにとって最後の希望かもしれない」
「とんでもない。それは僕も同じです」
僕は先生の手を堅く握り返した。
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