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23話 鏡のなかのひと 1

 新章、突入!!

 ブクマ、評価、感想などお願いいたします。

『鏡のなかのひと』のロケ現場には、正直、一度顔を出せばいいだろうと思っていた。

 映画の監修といっても、どうせお飾りのような立場だと思っていたからだ。

 しかし、そんな甘い考えはあっさり覆された。

 中嶋さんからの連絡で、「本読みからお願いします」と伝えられたとき、すぐに状況の重さを感じた。


「本読みから……? 完全に関係者ではないか」と頭の中で呟く。

 どうやら、ただ名前を貸すだけの監修ではなく、がっつり制作の中に組み込まれているらしい。

 脚本の解釈やキャストの表現のディテールにも意見を求められることになりそうだ。


「まあ、呼ばれた以上、やるしかない」と心を決めたが、内心は焦っていた。

 映画の監修なんて初めてだし、特に主演の杉山恵理が絡んでいるとなれば、余計にプレッシャーがかかる。

 彼女は国民的女優であり、なおかつ僕の前の人生、上原雄介としての記憶で知る限り、気難しくて、妥協を許さない妻であり、人間だった。


 ☆☆☆


 ナベさんが断った理由が、今になってよく分かる。

 彼なりの「危険予知能力」が働いたからだ。


 しかし、僕にはもう逃げ道がない。

 断る選択肢もないまま、ついにその日がやって来た。

 映画の本読みが行われる当日の朝だ。


 頭の中で、「今更、逃げられないよな」と覚悟を決める。

 お飾りの監修だと思って気楽に構えていたが、これでは完全に責任を持つ立場だ。

 杉山恵理がどんな演技を見せるのか、どんな質問を投げかけてくるのか――そのすべてに応える準備が求められる。やるしかない。


 脚本の読み合わせが始まると、現場の空気は一気に殺気立つ。

 俳優たちは台詞を読み込む中で、真剣そのものだ。

 特に主演の杉山恵理。

 彼女の圧倒的な集中力と表情から、まるでその場に「何か」が現れたかのような緊張感が漂っている。


 僕は監修という立場で後ろに控えていたが、全身に冷や汗が滲む。

 これは本当に地獄のような現場だ。

 脚本に対しての意見が求められるかもしれないと想像するだけで、胃がキリキリと痛む。


「あの――先生、こちらのシーンについてどう思われますか?」


 突然、プロデューサーがこちらに声をかける。

 周囲の目が一斉に僕に向けられた。

 俳優陣もスタッフも皆、僕の口から出る言葉を待っている。

 杉山恵理もじっとこちらを見つめていた。


 ☆☆☆


 最初の一言は上擦り、声が震えていたが、なんとか持ち直し、自己紹介を始める。

「えーと、渡辺先生とは昔からの呑み仲間でして……」と続けると、場の緊張感が少し和らぐのを感じた。徐々にリズムを掴み、少し自信が戻ってくる。


「監修と言われてますが、実は原案は僕なんです」と続けると、周囲から「へえ」という反応が返ってくる。


 そこで僕は言葉を少し慎重に選びながらも、自分の思いを伝える。

「確かに脚本では恋愛要素が入っていますけど、もともと僕が提案したのは、純粋なホラーだったんですよ」


「考えてみてください。死んだはずの夫が鏡に映るんですよ? そんな話、普通にホラーでしょ。恋愛小説にしちゃうなんて、逆にどうかしてると思うんですよ」と、少し冗談混じりに言うと、現場に笑いが起こった。


 その瞬間、僕は肩の力が少し抜け、ようやくこの現場に馴染んできた気がした。

 主演の杉山恵理も少しだけ微笑んでいるように見えたが、相変わらず彼女の鋭い視線は僕を捉えて離さない。

 それでも、初めてこの地獄のような現場で、ほんの少しだけ光が差し込んだ気がした。


 ☆☆☆


 監督が突然、「実際に再現してみよう」と言い出して、スタッフに鏡を用意させた。

 その提案に場の空気が一変し、全員が集中し始める。

「恵理ちゃん。ちょっと鏡の前に立ってみてくれないか?」

 監督が恵理に声を掛ける。


 恵理はすうっと立ち上がり、鏡の前に立つ。

 たったそれだけのことだが、緊張感で空気が凍るようであった。


「先生。さっきのホラー……原案を再現していただけないでしょうか。いえ、難しい話ではなく、鏡越しに恵理ちゃんを見る――それだけやってくれたら」

 監督が僕を指名すると、スタッフが一斉に僕を見た。

「え? 僕がですか?」


 仕方がない。

 まあ、考えてみれば、鏡越しに元妻を見るだけではないか。

 なんてことはない。


 ☆☆☆


 鏡の前に立つ恵理は、演技とはいえ、その姿勢や表情が本当に何かを感じ取っているかのようだった。

 なにをそんなに緊張しているのだろう。


 僕も同じように鏡を覗き込むと、その瞬間、身体が硬直した。

 ――待て。これは……

 ――これは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 心臓が止まるような感覚とともに、現実が歪んでいく。


 そこに映っているのは、ただの演技ではない。

 第一、僕は演者ではないのだ。

 演技などしようがない。


 実際、正真正銘、僕は恵理の亡き夫ではないか!

 鏡の中にいるのは役柄の上での妻ではない。

 上原雄介として見ていた「本物の妻」なのだ。

 彼女の目は、まるで死んだ夫を見つめるように、強い感情を宿しているように見えた。


「恵理……」と僕は声にならない声を出す。

 鏡に映っているのは妻だ。

 本当に、上原雄介としての僕が彼女を見つめ、彼女もまた、それを感じ取っている。

 演技でもなんでもなく、元の人生で本気で愛した人。もう会えないと思っていた人。


 脳裏に過去の記憶が一気に溢れ出す。

 恵理は、僕の妻だった。

 不意に涙が出そうになった。

 そんな僕の動揺をよそに、恵理は一瞬、ほんの少しだけ微笑みを浮かべた。

 それは、彼女がかつて愛していた夫を見た時と同じ微笑みだった。


 背中に悪寒が走り、全身に鳥肌が立つ。

 恵理の演技は、単なる演技の域を超えて、何かに憑依されたかのような迫力があった。

 僕はその瞬間、本能的に彼女が何かを感じ取ったのではないかと思った。

 彼女が演技に没頭する姿は美しくもあり、恐ろしくもあった。


 ☆☆☆


「カット!」


 一瞬の静寂の後、現場に拍手が巻き起こり、僕はハッと我に返った。

 監督が満足そうに僕の方を向き「素晴らしいよ! まるで本物の夫にしか見えなかった!」と褒めてくれる。

 そんな風に言われ、僕は内心動揺しながらも、なんとか笑顔を作り「いえ、そんな……演技なんて全く経験がないんです」と恐縮した。


 だが、拍手と賞賛の中で、ただ一人、恵理だけがじっと僕を見つめ続けていた。

 その視線は、さっきまでの演技の延長ではなく、まったく別のものだった。

 冷静でありながら、何かを見透かすような、疑念と確信が混ざり合った視線。

 僕が誰なのか、何かを見抜かれたような、奇妙な感覚が背筋を這い上がる。


 恵理のその眼差しに耐え切れず、僕は視線を逸らした。

 だが、心の中に渦巻く疑念は膨らむ一方だった。

 彼女も気づいているのか?

 それとも、僕が勝手に自分を重ねてしまっているだけなのか?


 恵理が突然、静かに口を開いた。

「先生にも出演して欲しいわ。是非、お願い」と、まるで全てを知っているかのような口調で言う。

 その瞬間、周囲の視線が一斉に僕に集まり、監督もすぐさま乗り気になった。

「ああ。それがいい。お願いです、先生。今の演技を拝見して確信しました! あなたの存在感が必要なんです!」と監督が熱心に頼み込んできた。


 僕は頭の中が真っ白になり、どう返事をすればいいのか一瞬戸惑った。

 まさか、こんな展開になるとは思ってもいない。

 出演など想定外だ。だが、恵理の鋭い視線が僕を捉え続けていた。

 彼女の目は、僕の中の何かを見透かしているかのようで、逃げ場がない。


「いや、そんな……僕はただの監修者ですから……」と弱々しく言いかけたが、恵理が微笑みを浮かべて一歩近づく。

「先生、あなたしかいないのよ」と、彼女の声には不思議な力があった。

 断れない、断ってはいけない、そう感じさせる何かが。


 監督も重ねて頼む。

「先生、あなたがいると説得力が全然違います。お願いです、一度だけでいいので、やってみてください」

 場の雰囲気は完全に固まっていた。

 僕は、ここで断れば何かを失う気がしてならなかった。


「……分かりました」と、ほとんど無意識に返事をしてしまった。

 すると、恵理の表情が一瞬緩み、監督は満足そうに拍手を打ち始めた。

 現場がざわめき立ち、次のシーンの準備が始まる中、僕はまた、背筋に冷たい感覚を覚えた。

 果たしてこれで良かったのか?


 監督が微笑んで「夫役はすでに決まっているので、急遽新しい役を用意しましょう」とあっさり言い放った。

 瞬間、軽い安堵感が広がったものの、同時に新たな問題が生じる。

「おそらく妻の知り合いという役柄になるでしょう」と続ける監督の言葉に、僕の頭の中では次の展開が急速に巡った。


 新しい役を追加するということは、当然、僕だけでなく他のキャストも必要になる。

 新しい人物設定を作り、キャストを増やす。

 そうなれば、物語の構成が変わり、シーンの流れも大幅に変わることになる。

 簡単な監修だと思っていたものが、一気に複雑化していくのが目に見えてきた。


「えらいことになったな……」と、心の中で呟いた。

 恵理がじっと僕を見ている。

 彼女の鋭い視線には、何か意図があるように感じられる。

 それが一体何なのか分からないが、この流れを止めることはもうできないのだろう。


 次々とスタッフが動き出し、すぐに新たなシーンの脚本を調整し始めた。

 僕はその場に立ち尽くしながら、どうしてこんな事態になってしまったのかを考えつつも、もはや後戻りできない現実を受け入れるしかなかった。

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