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「こんにちは、ジル先輩。先輩もお買い物ですか?」
突然現れたジルにもエルザは礼儀正しく挨拶をして、近寄っていく。
ジルは白いシャツに白いクラバットを締め、薄手の茶色のコートを羽織っている。
晴れた春の日であったが、日も暮れ始め、少し肌寒さを感じるようになっていた。
「ちょっと街に用事があってね。でももう済んだから帰るところだよ。学院まで送ってあげるから、一緒に帰ろう?」
ジルは着ていたコートを脱ぎ、制服姿のエルザにかけてやる。
その温かさに、エルザは自分が寒かったということに初めて気が付いた。
「ありがとうございます」
背の高いジルを見上げて、エルザはお礼を言う。素直な可愛らしさに、ジルは満足そうに微笑んだ。
親密な二人の間に、オリバーが体を滑り込ませる。
まるで子犬が大型犬に噛みつくように、ジルを見上げて睨みつけた。
「ジル様、エルザは俺が送っていくから、大丈夫です」
ジルは口元に微笑みを浮かべたまま、自分より背の低いオリバーに合わせてかがんで、彼の耳元で小さな声でひそりと喋る。
「今日は俺の唯一を一日独り占めできて楽しかった?夕方まで待ってあげたんだから、もういいだろ?」
普段の温厚なジルとは違う、一段低い、からかうような、けれど冷たい声だった。
青ざめた顔のオリバーを残し、ジルはいつもの優しい口調に戻って、明るくエルザを誘導する。
「さ、オリバーもいいって。エルザ、帰ろう」
「ジル先輩、わたしは乗合馬車で帰るからいいですよ?」
「学院のほうに用事があるから、ついでだよ」
断るエルザに有無を言わせず、ジルは彼女の腰に手を添えて歩き出す。
「オリバー、今日は楽しかった。ありがとう!また休み明けに」
エルザは歩きながら振り向き、オリバーに手を振る。
声を掛けられたオリバーはハッとして、同じように大きく手を振り返す。
「ああ、休み明けに次の計画を練ろう!」
『七色の勇者』シリーズのランチに、ランチ弁当完全版の作成、エルザはこれからの楽しみな予定に思わず顔が緩む。
エルザはこれまで小説のことを話すような友人がいなかった。
将来独り立ちすることを目標として学院に入学したのだが、まさか『七色の勇者』について、こんなに熱く語り合えるなんて、思っていなかった。
嬉しくなってニコニコしてしまう。
少し歩いたところにクリスター公爵家の家紋付きの豪華な馬車が待っていた。
ジルにエスコートされ、馬車に乗り込む。
先に乗ったエルザの隣に、ジルは自然と横並びに座る。
しばらく、二人は馬車に揺られていた。ゆっくりと街の景色が流れていく。
エルザは乗合馬車とは違う、ゆったりとした車内、乗り心地のよい座席を楽しんでいたが、馬車に乗ってからジルと会話をしていなかったことに気が付く。
いつもであれば、彼のほうから何くれとなく話をしてくれていたのだ。
横に座るジルに目を向けて見ると、彼はエルザのことをじっと見つめていた。
「ジル様、どうしました?」
「エルザはいつのまにオリバーと仲良くなったの?この前までほとんど話もしなかったのに」
珍しく真顔のジルに、エルザはドキリと胸が騒ぐ。
「たまたま好きな小説の話で盛り上がって、それで、です」
「ふーん。それで急に名前を呼び捨てにしたり敬語じゃなくなったり、ランチデートに休日デートもしちゃうんだ」
「名前呼びと敬語はオリバーから許しを得て、デートは成り行きです」
ジルはじっとエルザの目を見てそらさない。
「じゃあ、俺もエルザに名前で呼んでほしい。先輩ってつけないで『ジル』て呼んで甘えてほしい」
「それは、ちょっと……」
言いよどむエルザの頬を両手で挟んで、ジルは言葉を重ねる。
「ねぇ、エルザお願い」
ジルとエルザは目が合ったまま、しばらく見つめ合う。
この男は、どうしようもなく顔がいい。
これまで彼を異性として意識していなかったエルザだが、至近距離で見つめ合っていると、自分の顔が熱くなっていくのがわかってしまう。
思わず目をぎゅうっと閉じて、答える。
「ジル先輩は三年生で、わたしは一年生なので、敬語で先輩なんです」
少しの無言の後、ジルが諦めて口を開く。
「しょうがいない。学院にいる間は先輩と後輩だから、我慢するよ」
そう言って、エルザの額に柔らかく湿った何かを数秒押し付け、頬に当てていた手を離して、エルザを解放してやる。
学院に馬車が着く頃にはジルの機嫌は回復していて、いつものように微笑んでエルザに他愛のない話をしてくれていた。
次の試験のことや食堂の人気メニューの話をしている二人の手は重なって、ジルはエルザの手の甲を優しく撫でている。
「送ってくれてありがとうございます、ジル先輩」
「ついでだから気にしないで。でもお礼に次の休みは俺とデートしてね」
ジルはニコリと笑ってエルザに別れを告げた。
エルザの返事は聞かない。ジルにとってそれは決定事項だから。
次の休みも、出来ればその次も一緒にいたい。
早くエルザにも自分と同じ気持ちを持ってほしい。
学院に入っていくエルザの後ろ姿が見えなくなるまで、ジルはそこに立っていた。




