087.絶望をあなたへ
表層から中層へ潜り、さらには深層へと進む。先に進むに従って、魔物の数も増え、その強さも増してきたが、ここまでは概ね順調に来たと言える。
「大丈夫か、クライ?」
「ああ、ちょっと頭が痛むけどね」
ミアズマに意識を集中し過ぎて、俺の脳はオーバーヒート気味だ。
そういうイーズもさすがに疲れたのか肩で息をしていた。
「くっ! こいつらまた一段と強くなってやがる……」
ダンジョン内で最もミアズマ濃度の高い中心地まであとわずかというところで、襲ってきたのはグリムリーパーと呼ばれる大型のカマキリの魔物だ。
人の身の丈ほどもあり最初は巨大種かと思ったのだが、これで普通の成体だというのだからなかなか厄介な相手だ。
グリムリーパーの一番の武器は何と言ってもその鋭い鎌。普通、カマキリの鎌と言えば、ギザキザとした棘があって、獲物を捕獲するために使うものなのだろうが、グリムリーパーのそれは読んで字の如く鋭く磨かれた鎌だ。捕えるのではなく殺すことに特化している。
一方のニーズの戦闘スタイルは、武器を持たず火魔法を纏わせた肉体のみで戦う徒手空拳。その洗練された身のこなしと技の数々は見事の一言で、表層や中層では襲い来る魔物を次から次へと粉々に粉砕していた。
鎌二刀流のグリムリーパーが相手であっても、ここまでは『蝶のように舞い、蜂のように刺す』を地で行く感じで難なく切り抜けてきたのだったが、しかし、深層ともなると同じ魔物でもその強さは桁違いで、イーズ自身の疲れもあってか、攻撃の通りが悪くなっている。
「ふう……これじゃあ、キリがないぜ」
どうにかグリムリーパーを屠ったイーズだったが、一息つく暇などない。
周囲でひしめき合うグリムリーパーの大群がその無機質な複眼をこちらへと向けていた。
じりじりとにじり寄ってくるグリムリーパーの大群。それに対し構えをとるイーズ。
まさに一触即発のそのとき――俺とイーズが同時に同じ方向へと顔を向けた。
「悲鳴だ!」
イーズが叫ぶ。
どうやら俺の空耳ではなかったようだ。
それに悲鳴だけではない。俺たちが視線を向けた先は、ミアズマの中心地。そしてそこで蠢くミアズマに大きな動きがあったのを感じたのだ。
「走るぞ!」
そう言うなり弾けるようにイーズが飛び出して、俺は必死にその後を追う。
もともとの身体能力が違う上に全力疾走のイーズに追いつけるはずもなく、ぐんぐんと距離が離れていく。
それでも俺は全力で追う。
そうして、息も絶え絶え、ようやく追いついた先で、イーズはただ茫然と立ち尽くしていた。
その視線の先には、絶望が広がっていた。
優に十匹は超えるグリムリーパーの群れ――その全てが巨大種だった。
十メートルを優に超える巨躯に、俺の背丈と同じぐらいの二本の鎌。その威容はまさに『死神』だった。
そして、そのギラギラと光る鋭い鎌に、青髪の女性が腹を貫かれていた。
「うわああぁぁあ!」
拳を握り締めたイーズが、絶叫とともに飛び掛かっていく。
「待て! イーズ!」
しかし、今の彼に俺の声など届くはずもない。
「チッ! 仕方ねえ」
ここまでくればミアズマの追跡はもう必要ない。
意識を切り替えた俺は急いで始原魔法を展開する。
「始原魔法光盾!」
しかし、そう叫んだところで、ようやく俺は重大なことを見落としていたことに気付いたのだった。
グリムリーパーに弾き飛ばされ、激しく壁に身を打ち付けるイーズ。
激しく咳き込むイーズだが、その胴が二つに分かれなかったのは僥倖だっただろう。イーズがぶつかったのは鎌の刃ではなく、鎌と腕をつなぐ関節部分だ。勢いよく突っ込んでいったのが功を奏した格好だ。
倒れ伏すイーズに、二つの人影が駆け寄っていく。鎌にぶら下がっている青髪の女性の仲間たちだろう。どちらも満身創痍だ。
ふらふらと立ち上がったイーズは再び怒声を上げて死神に飛び掛かろうとするが、それを二人が引き留める。
イーズは無事だ。負傷しているとはいえ、生存者もいた。
さあ、勝負はこれからだ――いつもであればそう考えるところなのだが、俺にはただただ絶望とともに立ち竦んだ。
誰が無事で、誰が無事じゃなくて、敵はどれだけいて。目には入っているが、それは単なる視覚情報というだけで、俺の思考に何ら影響を与えるものではなかった。
俺の頭の中は恐怖一触で塗り潰されていた。
青い顔をしてガタガタと震えることしかできなかった。
俺は大きな思い違いをしていたのだ。
深層に行くほど魔物が強くなった――
疲れのせいで魔法の威力が落ちた――
しかし、真実はそうではなかった。魔物が強くなっていたのではない。
俺たちが弱くなっていたのだ。
俺は虚ろな目のまま、真っ黒で真っ暗な景色を眺める。
見渡す限りに黒、黒、黒。光のただ一つも見当たらない。
そう、ここにはプネウマがなかったのだ。
プネウマがなければ俺に何ができる?
始原魔法が使えない俺に何ができる?
何もできるわけがない。
始原魔法が使えなければ俺はただの人だ。いや、この世界ではただの人以下だ。
敵を屠る武器もなければ、身を守る防具もない。仮にあったとしても、それを扱う技術も力もない。ここから逃げ切るだけの脚力も体力もない。
プネウマはいつも当たり前のようにそこにあって、好きなときに好きなだけ使うことができた。
しかし、その思い込みこそが、最大の思い違いだった。
プネウマは有限の資源だったのだ。
思い返してみれば、それに気付けるだけのヒントはいくつもあった。
始原魔法は別として、少なくとも水魔法では、使用したプネウマはその効果を発現した後、消失した。
プネウマは使えばなくなる――そんなことはとうの昔に知っていたことだった。
ただ、いつでもどこでも当たり前のようにそこにある物だったから、そのことを軽視していたのだ。
そして、いつでもどこでも当たり前のようにあるわけではないということも、よくよく考えてみれば気付けることだった。
プネウマとミアズマが干渉すると対消滅する――このことはキッザヤ村でのアーマーボアを討伐した際にわかったことだ。
そして、そのことが示すのは、プネウマを凌駕するだけのミアズマが存在する環境では、すべてのプネウマが消失し得るということだ。
俺がこのダンジョンに足を踏み入れる前に底知れぬ恐怖を感じたのは、本能的にこのことを感じ取っていたからかもしれない。
あのときに、もっと深く考えていれば……
いや、そもそもプネウマとミアズマの関係について普段からもっと深く考察していれば……
しかし、後悔役に立たず、だ。いくら後悔したところで、いくら嘆いたところで、今この状況が変わるわけではない。
今の俺にできることは絶望することだけだ。もはやそれ以外何もすることはできない。いや、そもそも、ここまでうまくやってこれたことの方が奇跡だったのだ。
ああ、俺はここで死ぬんだな……
ろくでもない最期だが、ここに至るまでの道のりはそう悪いものではなかった。色々な人と出会って、楽しい時間を共有し、美味い飯も食べた。
商売なんかも始めて、意外と上手くいって、信じられないぐらいの金も稼いだ。
大切だと思える人たちに出会い、その人たちからも大切に思われている。
うん、俺は十分異世界を堪能したな。
ルシュとは仲直りできなかったけど。最後に見たのが涙だったけど。それだけは心残りだけど、うん、まあ、仕方がない。死にたくないけど、しょうがない。
「ほっほっほっ」
恐怖と絶望を乗り越え、どこか達観した気持ちで己の死と向き合ってると、どこからか笑い声が聞こえてきた。
「諦めたらそこで人生終了ですよ」
その言葉は、俺が敬愛する白髪の監督のものだが、俺にそう語りかける声は、この世界で出会った白髪の巫女のものだった。
諦めるなって? 今の俺にいったい何ができるっていうんだよ。
だけど、お前がそう言うんだったら、諦めるわけにはいかないよな。
考えろ。
考えるんだ。
自分を悲観したらダメだ。俺にはまだやれることがあるはずだ。
俺はこのダンジョンの入り口で恐怖を感じた。
それでも中に足を踏み入れたのはなぜだったか。俺がいなければイーズを死なせてしまうと、俺なら何とかできると、直感的にそう思ったからではないのか。
あのときの俺は、無意識下で解決方法に気付いていたはずなんだ。
それを思い出せ。いや、意識の底から引きずり出すんだ。
戦場にもかかわらず俺は目を瞑る。
そして自らの深層心理に潜っていく。
思い出されるのは、これまでの魔物との戦闘の数々。ロッサによる現代魔法理論の講義。積み重ねてきた始原魔法の練習と実験の日々――その知識と経験がゆっくりとつながり合い、やがて一つの結論を導き出した。
それは、この絶望的な状況を打破し得る一筋の光――いや、闇だった。
クライ編は火曜連載です。
同タイトル【アキラ編】と合わせて二軸同時進行中です。
https://ncode.syosetu.com/n1886ja/
よろしければそちらもお楽しみください。




