063.対策をあなたへ
それから数日後。俺たちは再びリーゼロッテ女史の下を訪れていた。
「まさか蚊が原因だというのか……」
疫学的な情報から得られた考察を告げると、リーゼロッテ女史は口元を手で押さえて考え込んでしまった。
俄かには信じられないといった様子だ。
彼女たちの認識では『呪素』は空気中を漂うもの、つまりは空気を介して伝達するものだったようなので、それも無理からぬことだろう。
確かに彼女たちの認識は間違ってはいない。空気感染をする病原体は無数に存在するのだ。
元の世界でも冬場に大流行するインフルエンザなどはその好例だろう。
しかし、人間を最も多く殺した生物は蚊だと言われるように、蚊は多くの病原体を媒介するのも確かなのだ。
「蚊が呪素を運んでいる可能性が高いのは確かですが、残念ながら今それを証明することはできません」
遺伝学的な、あるいは免疫学的な検査ができれば話は別だが、ここでそれを望むことはできない。
証明しようと思えば、蚊に刺された群と蚊に刺されなかった群に分けて呪病の発症率を比較するなどといった大規模な疫学実験が必要となるだろう。
しかし、求められているのは、蚊が呪病の原因であることを証明することではなく、呪病の発生をなくすことだ。
「ですから、とりあえず蚊が原因だと想定して、できるだけ蚊に刺されないような対策をとってはいかがでしょうか?」
「それで呪病の発生が抑えられれば、間接的に蚊が原因だったと証明されるということか」
リーゼロッテ女史の呟きに俺は頷いた。
「そしてその対策に必要な物というのがそれか?」
リーゼロッテ女史は俺たちが持ち込んだ荷物を見遣る。
「紹介させていただいても?」
「もちろんだ」
リーゼロッテ女史が了解の意を示すと、ブリックが荷を解き、蚊帳を広げた。
「これは?」
「蚊帳です。就寝時にベッドを覆うように使うものです」
「なるほど。天蓋のようなものか」
おお、天蓋はこの世界にもあったのか。俺は見たことはなかったが、さすがはお嬢様だ。
しかし、天蓋があるのであれば話は早い。
「就寝時は最も無防備なときですからね。これを使って蚊の接近を物理的に遮断しようというわけです」
まあ、中に最初から蚊がいるとまったく意味はないけどね。
俺も田舎の祖父母の家に泊まりにいったときにひどい目にあったことがある。
「大切なのは網目の大きさだけですので、素材にさえこだわらなければ比較的安価に作ることができるでしょう」
俺の説明にリーゼロッテ女史はふむふむと頷いている。
彼女は経営者でもあるので、金勘定は敢えて俺が言うまでもないかもしれないな。
「そしてもう一つ」
「これは、香――か?」
「そのとおりです。名付けて『蚊取り線香』です」
別に俺が名付けたわけではないが、俺は堂々とそう言った。
これは、ルーベニマ商会に紹介してもらったお香作りの職人に頼んで作製してもらった試作品だ。線香ではなくお灸のような形をしているのだが、語感的にはやっぱり『蚊取り線香』の方がしっくりくるので敢えてそう呼んでいる。
俺としては、ぐるぐるとらせん状の物にしたかったのだが、形にこだわるのはまた次の機会ということで。
「ふむ……独特な香りがするのだな……」
リーゼロッテ女史が呼んだ赤髪の男が蚊取り線香に火を点けると、薄い煙が立ち昇った。
この香りが好きか嫌いかは意見が分かれるところだろう。俺はどちらかというと好きな香りだ。この香りを嗅ぐと夏が来た感じがするのだ。
まあ、本題とは関係がないので、香りに関する感想は一旦隅に置いておくとして、俺は持ち込んだ小瓶に入った蚊を使って蚊取り線香の効果を実演して見せることにした。
「このようにこの香には蚊を殺す成分が含まれています」
「す、すごい……」
次々と墜落していく蚊に、リーゼロッテ女史は驚きに目を見開いている。
「蚊帳とこの蚊取り線香があれば、少なくとも屋内で蚊に刺される機会はずいぶん減るだろうな……」
「他にもとり得る対策はあります」
森などの蚊がよくいる場所に入る際にはできるだけ肌の露出を控えること、屋外の水たまりをなくしボウフラの発生を抑えること。こういうったことは金をかけずにできるので是非とも実践してもらいたいところだ。
「そして最後にもう一つ――」
そう言って俺は懐から茶色の小瓶を取り出した。
リーゼロッテ女史だけではなく、ルシュとブリックも不思議そうにその小瓶を見ている。
せっかくだからサプライズをということで、二人にも内緒で準備していたのだ。
「今ご紹介した蚊取り線香は除虫菊という花の粉末を香に練り込んだものです。そしてこれは、その除虫菊から抽出した油です」
除虫菊の殺虫成分はピレトリンという脂溶性の物質だったはずだ。
本来は水蒸気蒸留で分離するものなのだが、俺には知識はあれど経験はないし、なんと言っても装置がない。
しかし、そこはチートな始原魔法の出番だ。
除虫菊の花房から殺虫成分を含む油を抽出し、市販の植物油で希釈したのものがこれだ。
俺はその油を数滴指へと垂らし、それを塗り広げる。
そして除虫菊油を塗った指を徐に蚊の入った小瓶の中へと入れた。
「蚊が寄って来ないね」
小瓶の中の様子を観察しながら、ルシュが呟く。
「まあ、もうちょっと見ててくれよ」
俺の言葉に促され、三人がまじまじと小瓶の中の蚊を凝視している。
すると、次第に蚊はふらふらと苦しむようにしながら、やがて墜落していった。
除虫菊油に含まれる殺虫成分が体温で気化し、その効果を発揮したのだ。要は、虫除けスプレー的なものだ。
「例えば森などの蚊が多くいる場所に行く際に、この油を塗っておけば、それだけで蚊に刺される機会は大きく減少するでしょう。定期的に塗り直しをしなければならないのでやや面倒ではありますが」
目の前で見せつけられた実験結果に、リーゼロッテ女史は腕を組んで考え込んでしまった。
俺たちからのプレゼンはこれですべてだ。あとはこれを見た彼女がどう考えるのか。その考えがまとまるのを静かに待つ。
「疑うわけではないのだが、本当に蚊が原因なのだな? いや、違うな。それを明らかにするための対策か……しかし、誤りだった場合は……ううん、誤りでも別にいいのか、そもそも蚊は不快昆虫なわけだし、呪病と関係なくても対策には価値はあるかも……うん、それに、本当に蚊が原因だったら呪病はぐんと減るんだし……うん、いいかも……」
最初こそ俺に話しかけているのかと思ったが、どうやら思考が口から漏れていただけのようだ。
素の口調が出ていることには気づかないふりをしてあげるのが優しさというものである。
「こほん……失礼……」
俺たちの生暖かい目に気づいたのか、リーゼロッテ女史はバツが悪そうに咳払いを一つ入れた。
「クライが提案してくれた蚊の対策について財団で検討したいと思う。とは言っても、対策をとること自体はもう確定事項だがな」
「よかったです。これでマラリ――いえ、呪病が減るといいのですが」
「ふふ、そうは言うものの、クライはもう確信しているのだろう? 私も今から結果が楽しみだ。それで、対価についての相談なのだが――」
「対価ですか?」
「ああ、そうだが?」
そうか、対価か……
なんとなくリーゼロッテ女史の相談に乗る感じで取り組んでたから、今回はあんまり商売のことを考えてなかったんだよな……
どうする?
ルシュとブリックにそんな視線を向けてみた。
俺たち三人はチームだ。俺が勝手に決めてしまうのはちょっと違う。
そう思ったのだが、ルシュもブリックも「お任せします」と言うような視線を返してくるだけだった。
だったら二人には悪いが、俺が決めさせてもらおう。
「対価は必要ありません」
「な!?」
俺の答えに、リーゼロッテ女史は言葉を詰まらせた。
しかし、ルシュもブリックも平然とした顔をしていたので、二人とも納得してくれているのだろう。
「クライ、貴殿は商人だろう? 対価もなくこのような技術を開示するのは些かどころか大いに問題があるのではないか?」
まあ、それが普通の感覚だろう。いや、普通とは違うな。リーゼロッテ女史が良識を持っていたからこそ、対価を支払おうとしてくれていたのだから。
しかし、もともと対価については考えていなかったというのが事実で、今からそれを考えるのは面倒臭いというのが本音なのだ。
「今回はただ単にリーゼロッテさんの相談に乗っただけですので。友人として当然のことでしょう?」
「友人か……確かにそうだったな」
俺の言葉を聞いたリーゼロッテ女史がはにかんで薄っすらと頬を染める。。
彼女が謝罪に訪れたあの日、恥を忍んでまで口にした友達申請。『友人』という言葉が彼女に対するキラーワードなのは間違いない。
「二人もそれで構わないのか?」
リーゼロッテ女史はルシュとブリックに顔を向けた。
二人はそれに頷いて答える。
「決定権はアニキにありますからね」
「おい、ブリック。そうじゃないだろ。三人で話し合って決めるんだよ。俺たちはチームなんだからさ。まあ、今回は俺が勝手に決めちゃったけど……」
「ははは、そうでしたね。すみません」
「チームか……少し羨ましいな」
俺とブリックのやりとりを見て、リーゼロッテ女史がそんなことを呟いた。
羨ましい? そんなことはないだろう。
俺のそんな気持ちをルシュが代弁してくれた。
「リーゼロッテさんもいいチームをお持ちじゃないですか。この治療院も、アズドール財団もとてもいいチームだと思いますよ」
「そうか……そうだな」
ルシュの言葉を聞いたリーゼロッテ女史は、一瞬だけきょとんとした後、満面の笑みを浮かべたのだった。
クライ編は火曜連載です。
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