前編
桜の下で佇む彼女の姿を初めて目にしたのは、ある春のうららかな日のことだった。
友人の子爵令息の屋敷に遊びに行った帰り道、僕はふとあるものを見つけて、馬車を止めるように言った。
そこら辺では滅多にないほどの大きな桜の木。
満開に薄紅の花を綻ばせた桜の花を近くで見たいと思った僕は、御者を馬車で待たせて一人で桜の木の方へ走って行った。
そこで、彼女と出会った。
桜によく似た淡いピンクブロンドの髪、青空を閉じ込めたような瞳、そして風にそよぐ若草色のドレス。
僕より八つは年上かと思えるその少女はとても美しかった。
僕はしばらく我を忘れて、彼女を眺めていた。
桜の精だろうか、と思ったが、そんなわけあるはずがないと首を振る。妖精だなんておとぎ話の中の住人に過ぎない。この美貌の女は確かにそこに立っている。
僕は伯爵家の子息として、多くの貴族令嬢たちと引き合わされてきた。
だが、こんなに素敵な人には未だかつて会ったことがない。僕の胸は熱くなり、高鳴っていた。
その激しい心音が少女にも聞こえたのだろうか。
初めてこちらに気づいたらしい彼女は、「あっ」と言って振り返る。肩口まで伸ばしたピンク髪がふわりと膨らみ、可愛らしかった。
「……珍しいね、こんなところに人が来るなんて。あんた、どこの子? 貴族のお坊っちゃまなんでしょ。あたしに話しかけたところで何も出てきやしないよ」
しかし聞こえてきたのは、棘がたっぷり含まれた言葉で。
桜の精と見紛うほどの美少女が言ったのだと気づくまでにはしばらく時間がかかったくらいだ。
「ぼ、僕はそういうつもりじゃ。ただ、あなたが綺麗だなって」
「綺麗? あたしが、綺麗ねぇ……。ありがと。でもあたしには関わらない方がいいよ? あたし、悪い女らしいからさ」
ケラケラと笑いながら、だが、彼女の目は笑っていなかった。
薄青の瞳はどこか遠くを見つめているようで――どこまでも深いその瞳に、ドキリとさせられる。
可憐で、桜のように美しく、それでいてどこか闇を抱えている。
魅力的過ぎた。彼女はまだ幼い僕の心を鷲掴みにしたのだ。
これが僕の初恋の瞬間だった。
もっとも、これが恋と気づいたのは、しばらく後だったけれど。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
桜の下でしか会えないその少女の名前を聞き出すことができるまで、初めての出会いからたっぷり一ヶ月ほどかかってしまった。
都合をつけては友人の子爵令息の家に遊びに行き、帰りに必ず彼女の元へ寄る。春が過ぎて桜が散り、青葉の茂る季節が近づいても、彼女はその桜の木の下にいた。
が、なぜかあまり僕と話したがろうとしない。
フィデルという僕の名前を教えても、ドギーソン伯爵家の長男だと言っても興味を示さず、あんたとしか呼んでくれないくらいだった。
彼女が喋る気になってくれたのは、僕が通い続けたおかげか、あるいはただの気まぐれかも知れない。
「しつこいね、あんた。どうして名前なんかを聞きたがるのさ」
「だって、あなたのことが知りたいんです。……友達になりたい」
「ふーん……。あたしは、ミア。ただのミアよ。だけどあたしと友達になるのは絶対にダメ。あんたがお貴族様なら余計にね」
「どうして?」
「ねぇ坊や、いいことを教えてあげようか。女には口にできないことの一つや二つ、あるんだよ。知りたきゃ自分で調べな」
彼女に言われ、僕は母様にお願いして手伝ってもらいながら必死で彼女の正体を探った。
そしてその結果わかった答えは、驚くべきもので。
「ウィオミア・アラベル男爵令嬢ですか。……フィデル、ウィオミア嬢とのことは私以外に話さないように」
アラベル家は末端の男爵家。
その養女であったウィオミア嬢は、三年ほど前に社交界を賑わせたらしい。なんでも、王太子殿下をたぶらかして心を奪い、公爵家の令嬢に冤罪で断罪させて処刑しようとまで企んでいたのだという。
しかし公爵令嬢はきっちり言い返し、そのおかげで男爵令嬢は社交界を追放された。公爵令嬢は王太子を捨て第二王子に乗り換えて、めでたしめでたし。
それは幼い僕でさえ聞いたことがあるほど有名な話だった。
でも信じられない。桜の花のように可愛らしい彼女……ミアが悪女だなんて。
「そんなのきっと、間違いに決まってる」
僕はあの桜の木の元へ足を運んだ。
しかし、ミアは意外とすぐに肯定した。
「ほらね? あたし、可愛い男の子を襲っちゃう悪女なの。近づいたら食われるよ?」
――ミアがウィオミア嬢なら、すぐに離れなさい。
母様にそう言われていたのに僕は気づいたら首を振っていた。
「それでもいいよ。僕はあなたにまた会いに来る」
「……変なの」
ミアは僕を見下ろしながら、驚いた様子で呟いた。
青空のような瞳に初めてまともに見つめられた気がして、僕は嬉しくなってしまう。
この頃にはもう、恋してしまったことを自覚していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「毎日来すぎだろ」と友人に呆れられつつも、僕はミアの元へ通い続ける。
何を勘違いされたのか、その友人の妹と婚約させられたりしたけれど、それもなんとか収まって平和な日々が過ぎていった。
ミアはどんなに季節が移ろっても変わらず美しさを保ち続けている。
可憐さはそのままに、五年経った頃にはすっかり大人の女性になっていた。
「あんた、もう十五でしょ。あたしのところなんかに来てたら婚約者様に嫉妬されるよ」
そう言いつつも、僕を無理に遠ざけないミアは優しい。
彼女が男爵令嬢ウィオミアだとしても、僕は構わなかった。ミアへの想いは日に日に高まっていくばかりだ。
「大丈夫だよ。僕の婚約者は、そんな子じゃないから」
「ならいいけどさ」
「じゃあ訊くけど、あなたは嫉妬してくれないの?」
僕が冗談半分でそう言うと、ミアの言葉が詰まった。
気を悪くさせてしまっただろうか。慌ててミアの方を見たが、僕から顔を逸らしてしまっていた。
「……馬鹿なこと言わないでよ、子供のくせに」
「もう十五って言ったばかりじゃないか」
「それはそれ、これはこれ。あたしみたいな二十三歳の女を揶揄うのはやめなってば」
――揶揄っているんじゃない。本気であなたのことが好きなんだ。
本当はそう言いたかったけれど、僕がグッと我慢し、口を噤む。
そうしてさらに二年が過ぎた。