天の父
「それは無理だ」
とりあえずホッとした「科学というものは実験結果などから得た数値と仮説とを突き合わせて検証し、初めて理論として認められる。今の状態だとそれらしく脚色した嘘を創るくらいが限度だが、それ以前にこんな人と一緒にチームを組んで仕事をするはお断りだ」
そう言うだろうと思った。
「まさか降りるんじゃないですよね」
「降りたら人事考課を下げられる。それもごめんだ」
「じゃあ」
「こっちはこっちの理論でやる」
すかさず麦原に向き合う。
「キリスト教を信じるのは勝手ですがもう少し歩み寄れないのですか」
「銀山くんはサタンに魂を売れと言うのでーすか」
「大袈裟なんですよ。羽黒さんは科学だけでは説明できないと言ったんです。ということは答は宗教か哲学の中にしか期待できない。麦原さんが少し態度を軟化してくれるだけで丸く収まるんじゃないですか」
「歩み寄らないのは羽黒くんも同じではあーりませんか」
「どこが」
羽黒が体を起こす。
「私は羽黒くんの理論を聞きまーしたが羽黒くんは我々の話を聞いてくれませーん」
羽黒が今の言葉に反応する。
「じゃあ話を聞けば態度を変えるというのか」
「真剣に聞く気があればのことでーす」
「それなら話を聞こうじゃないか。どちらが先だ」
「答は分かっているのですから当然私ということになりまーす」
大きく出たものだ。お手並み拝見と思っていたらバイブの音がした。
「羽黒だ」
何やらフンフンと相槌を打っている「すまんがもう一度行ってくる」
これでは進むものも進まない。
「羽黒さんちょっと待って下さい」
「すぐ戻るから後にしてくれ」
「どうして羽黒さんが行かなければならないのですか」
「特許の共同出願の調整で手を焼いているんだ。上の奴らじゃ仕事にならん」
そう言い残して行ってしまった。麦原はともかく、なんとか羽黒だけでもやる気を出させる方法はないだろうか。
気は進まなかったが大水に相談してみることにする。部屋の隅にある内線電話を手にした。
「はい調達の大水でーす」
ものすごい音量だった。思わず耳から受話器を離す。
状況を話すと珍しく間があった。
「羽黒くんをやる気にさせると変な方に行っちゃわない」
「鬼谷次長の話をうなずきながら聞いていたからそれはないと思う。でもこんな調子だとタラバ蟹は遠くへ行ってしまうだろうな」
「ダメ。羽黒くんはなんとかするから蟹は頼んだわよ。じゃあまた後で電話する」
立ち上がる音がして通話が切れた。
麦原と二人で無言の時を過ごす。羽黒が戻ってくるまでは進めることができないからだ。
程なくして羽黒が戻る。
「それじゃ話を聞こうか。麦原さんからだったな」
三人が座ったところで今度は内線が鳴った。大水に違いない。
「あっ銀山くん。今執務室で小村っちと一緒にいるんだけどね、さっきの話は昼まで待ってって言ってたよ。なんとかしてくれるみたい。じゃあ蟹のこと頼んだからね」
一方的にガチャっと切れる。しかしどうするつもりだろう。
二人に謝りを入れて席に着く。
「あまり期待はできないが言ってみろ」
「その前に一ついいでしょーか」
「なんだ」
「その怒り、空腹のせいではないでしょーか。時刻はそろそろ十二時になりまーす。早く食堂に行かなーいと人気メニューはなくなってしまいまーす」
羽黒がサッと視線を落とした。普段と違うので時間の感覚がなかったのだろう。自分もまだ昼までには時間があると思っていた。
「さっきの資料はドキュメントにセーブしてパソコンをシャットダウンするんだ」
言われた通りにしてエントランスに出ると小村が来ていた。
「お食事をお持ちしました」
すぐに鼻を衝いたのはさわやかなお吸い物の香りだった。なかなかの演出に苦笑してしまったがそれも重厚な漆塗りの弁当箱を開けるまでだった。
「なんだこれは」
蓋を開けた羽黒が絶句する。あわてて覗くと目に入ったのは端から端までありそうな海老の天ぷらだった。他にもウナギの蒲焼きや中トロと思われる刺身にイクラ、それを入れてある器もアルミではなく陶磁器の小鉢ときている。
「お気に召して頂けましたか」
エントランスに入ってきたのは姫山課長だ。羽黒が蓋を戻して向き直る。
「VIP用では」
姫山が柔らかく微笑んだ。
「突然の要請を快く引き受けて頂いた社長からのお礼です」
大水の言葉を思い出す。たしかにこの方法なら羽黒の意識を変えられるかもしれない。
姫山はゆっくりとテーブルの横に来て口を真っすぐに結んだ。
「鬼谷次長が要らぬ忖度で何かを指示したかもしれませんが、これが社長のお気持ちであることを理解して下さい。それと」
小村を横に並ばせる「明後日の九時までこちらの専任として置きます。職務に専念して頂くことが目的ですので必要なことはなんなりとお申し付け下さい」
軽く会釈をして引き下がる。
「食事が終わりましたらお茶をお持ちします。他の要件につきましても内線で連絡下されば結構です。よろしくお願いします」
丁寧にお辞儀をして小村は配膳する。
これだけのご馳走を味わうことなく食べ終えたのは初めてだった。三人ともが無言でワゴンに片付けて椅子に腰を落とす。
「まいったな」
羽黒が天井を仰ぎ手を額に当てる「社長は本気だということか」
「真剣にやればいい、ただそれだけのことでーす。私は最初からそのつもーりでいました」
「続きをやるぞ。まずは麦原さんからだ」
羽黒の眼付が変わった。
「社長に報告する答を先に言ってしまーうことになりますがそれでいいでーすね」
「どうせそのままでは報告できないからさっさと言ってくれ」
「そう言っていられるのも今だけでーす。キリスト教の教えにおいて人の命は神である天の父によって吹き込まれーるとされています。男系の思想はこの天の父と肉親である父の混同によって生まれーたものであるのです。勘違いがそのまま伝統にすり替わってしまったのでーす」
言い終わってから自分の意見を正当化するように大きくうなずいた。
「この世に科学というものがなかったら拍手喝采を浴びたところだろうな。次長の言っていた根拠がないと結論づける一つの案ではあるが男系の思想は世界中にあるんだぞ。そのどれもが同じ勘違いをしたというのか。ちょっと待ってくれ」
話の最中に入った電話に出る。またかと思ったが対応が違っていた。
「こっちはこっちで忙しいんだ。これからは君たちの裁量でやってくれ」
今度はスイッチを切る「悪かった。続けてくれ」
「今のは違いまーす。勘違いは一度きりでそれが基本原理となって世界中に広まったのでーす」
「でまかせもそれくらいにしておくんだな。その思想が日本にあるのならどうして天の父が日本の神に登場しないんだ」
「キリスト教では神の名をみだりに唱えることは禁じられていまーす」
「日本の最高神はアマテラスだ。その名を唱えることは禁じられてもいないし、そもそもアマテラスは女性神のはずだ」
「それも勘違いの結果でーす。アマテラスの上には天上の三神がおらーれ古事記の冒頭にも書かれていまーす。その三神こそが三位一体のお姿なのでーす」
「みだりに名を唱えることは禁じられているんじゃなかったのか」
「ですから日本の言葉に置き換えたのでーす」
羽黒は憮然とした表情で大きく息を吐いた。
「どちらにしても社長の言った聖書に書いてあったとか誰かが言ったというレベルを超えるものじゃない。ちょっと科学的な議論に戻させてもらうぞ」
僕の意見を聞くのが先だと思う。
「ちょっと待って下さい。ミームだって誰かが言ったというレベルじゃないんですか」
沈黙があった。少しは効いたのだろう。
「それならもっと基本的な命に関することに戻ろう。分かりやすく言うと赤ん坊の誕生についてだ」
その内容なら必要かもしれない。羽黒はネットを検索し始める。CH1に切り替えるとディスプレイに表示されていたのは精子と卵子が結合する連続イラストだった。
「社長の問題提起に戻って考えたい。男系の思想が真実だと仮定すればどこかで何かが引き継がれているはず。女性の場合は十か月程度腹の中にいるわけだから何かを引き継ぎたければその間にすればいい。しかし男性の場合は性交渉を行う時に限られる。状況的に圧倒的有利な女性にはできなくて不利な男性にのみ可能な何かを探せばいいんだ」
「なるほど、命が宿る瞬間ですね」
羽黒のやる気を維持させるには肯定の返事を返すことも必要だ。
「麦原さんはここで天の父が命を吹き込むと言った。仮にそれが現実だとした場合に吹き込まれる前と後ではどんな違いが生じているんだ」
「命が吹き込まれる前の体は死体と同じでーす」
「それは聖書に書いてあるのか」
「それはないでーす。いつまでも命が吹き込まれなければ死体となって出てくるだけでーす」
「流産か死産というわけだな。しかし一つ一つの細胞を見ると生命活動をしているし、人が死んでも細胞はしばらく生きている。つまり細胞の誕生イコール人の誕生というわけではないから精子と卵子が結合して受精卵ができるだけでは赤ちゃんが誕生したとは言えない。では受精とは何か」
次に映し出されたのは精子と卵子の拡大図だ。引き出し線があり、核とかミトコンドリアなどの説明がある。
「精子が持っているのは大まかに言って核と動くための尾とエネルギー発生装置のミトコンドリアだけだ。精子が持つミトコンドリアは受精卵には取り込まれないことが分かっているから実質は核しかないと言っていい。もちろん精液も一緒に運ばれるがエネルギー源となる果糖やペーハーを一定に保つクエン酸、たんぱく質分解酵素など精子を活発に動かすための物質ばかりで人によって異なる成分は検出されていない。さっき麦原さんは天の神によって魂が吹き込まれると言ったがそれはどのタイミングだ」
「出来上がった肉体の鼻から吹き込むのでーす」
「つまり鼻という器官ができた後という意味か」
「その通りでーす」
「天の父が鼻から息を吹き込むのですね」
「そう、でーす」
同じことを聞いているだけなのだが改めて問われると答に自信がなくなるものらしい。羽黒は無言でネットの検索を続ける。
再び壁に目を遣るとディスプレイにはアリストテレスの文字があった。
「たしかギリシャ哲学では息という意味のプシュケーが魂をも意味すると聞いたことがある。アリストテレスは紀元前の思想家だからキリスト教の影響を受けているわけではない。むしろキリスト教がギリシャ哲学の思想を受け継いだとすれば辻褄が合う」
理系の者は地理や歴史に疎くても平気な顔をしていられるがなぜか哲学だけは妙にこだわりのある者が多いと感じる。分野としては文系に入るのだがデカルトやライプニッツにおいてはこちらが引いてしまうほど学んでいる者もいる。羽黒もそんなタイプなのだろう。
「命というものは人だけでなくどんな動物、いや植物にも存在する。それが物体と結びついている間は生きているし離れれば死んでしまう。人が死ねば20グラムほど軽くなるという研究結果もあるから肉体の他に命とか魂と呼ばれる何かが存在していることは間違いない。今回の課題は天皇を父に持つ子が天皇にふさわしいかということだ。遺伝でなく天の父によって命が吹き込まれたなら神は人を誕生から差別することになる」
顔を上げた「麦原さんの理論が正しいとすると神は子どもに差別を与えることになりますよ」
「それは違いまーす。命はすべての者に平等で与えられるものでーす」
「西洋の科学でも同じ研究結果を出しているはずだ。しかしさっき天の父がしたことを肉親の父がしたと勘違いしたと言った。天皇が特別な能力を持っていると仮定すると天の父は人ごとに違う能力を授けることになる」
「特殊な能力を授けたのはイエスだけでーす」
「ならば天皇も社長も一般の人と同じということだな。社長に何を言って通されたんだ」
「天皇の誕生も継承も聖書に語られているものでーすとお答えしました」
「つまり帰された者と同じというわけだ」
羽黒の口角が上がる「次は銀山の理論を聞こう」