経典
部屋に戻ると鬼谷が来ている。ボロを出すといけないので応対は羽黒に任せてあった。鬼谷の質問も羽黒の応答も先回と同じだ。
本に神経を集中する。次はアイタレーヤ・ウパニシャッド。テーマは前出と同様に自己であるが第二章が本来的自己の出生とある。とはいってもこれまで期待がことごとく裏切られてきているので落ち着いて読むことにする。
第一章はこれまでと同様に意味の把握しにくい内容だった。ところが第二章に入って様相が一変する。
『①まことにこの胎児は、精液として最初から男の中に生じる。すべての身体の部分から集められたこの熱を、彼は自己として自己において保持する。女の中に彼が(精液を)注ぐ時に、彼はこれ(自己)を生む。これが自己の最初の出生である』
『②女の身体的部分の一つとして、それ(精液)は女の身体と一つになる。それゆえに、それは彼女を傷つけない。ここ(子宮の中)にいる、彼の自己を彼女は養育する』
『③彼女は養育するものであるがゆえに、養育されるべきである。女は彼を胎児として保持する。まさに最初に彼は(子供の)生まれる前後に子供を養育する。その子供が生まれる前から彼はまさに自己自身を、これらの世界の存続のために養育する。なぜなら、このようにしてこれらの世界は存続しているからである。これが自己の第二の出生である』
『④彼のこの自己は、メリットのある行為をするように定められている。しかし彼の他のこの自己は、なすべきことをなし終えて、老いて、この世を去る。しかしこの世を去ったあとで、それは再び生まれる。それが、自己の第三の出生である』
『⑤それゆえ聖仙によって次のように言われている。すでに母胎の中にあった時に、わたしはこれらの神々の一切の出生を知っていた。百の鉄のとりでがわたしを監視した。それからわたしは鷲として、私は素早く飛び去った。まさに母胎の中に横たわりながら、ヴァーマデーヴァは、このように言った』
『⑥このように知って、この崩壊後に彼は上に歩み出て、あの天界において一切の欲望を満足させて不死になった、不死になった』
一気に目が覚めた。もちろんこのウパニシャッドがそのまま日本に入ってきたという証拠は何もないが思想としては間違いないと思う。むしろ社長はどこに書いてあったかなど問題にしていないのだからこれを基にして科学的な肉付けをしていけばいい。
早く二人の報告したいが鬼谷がいるので何事もないふりをする。文字数としてはたいした量ではないのですべて入力してもよかったが、鬼谷が興味を持つといけないのでページ数を記憶して引き続き読むふりを続けた。
「いずれにしても我々は真剣にやるしかないんです。これ以上作業の邪魔をするのであれば次長の行動も併せて報告しますよ」
羽黒の切れたような声が耳に入ってきた。
「おいおい脅すのはやめてくれ。君は分かっていないだろうが現実社会には報告してしまってからでは取返しのつかないことだってあるんだ。一時の正義感だけでは成り立たない。そこを理解した上で行動して欲しい。私から言いたいのはそれだけだ」
羽黒の返事を待たずに部屋を後にする。言葉は選んでいたと思うが表現としてはかなり威圧的であった。麦原が入ってくる。
「羽黒くん大丈夫でしょうか。感情で行動すれば人事権を持つ次長にはかないませーん。この談話が明るみに出れば次長もお咎めがあるかもしれませーんが我々はもっと大きな被害を被ることになりまーす」
「分かっている。君たちに迷惑をかけることはしないと約束する。それより何か新しい事実は見つかったか」
「はい」
すかさず返事をすると羽黒が驚いた顔で少し身を引いた。自分にそのつもりはなかったが意気込んで見えたらしい。
該当のページを開いて一気に読む。
「そこまではっきりと書いてある物があるとは思わなかったな。何という経典だ」
「アイタレーヤ・ウパニシャッドです」
「インドの哲学書になりまーす」
麦原が説明を加える。
「ウパニシャッドという名は聞いたことがあるがこんなことが書かれていたのか。他にはどうだ」
「この後ろは読んでいませんが難解な文が多く関係があるかどうか分からないのが多いです」
「ふむ」
小さくうなずく「ここも結構難解だと思うが社長からの課題として考えた場合二章すべては必要ないだろう」
「そうですね。メカニズムだと①から④までで行けると思います」
「よし、じゃこれをベースに理論を組み立てたよう。すまんが④までをエクセルに転記してくれ」
言い間違いかと思った。
「ワードではなくエクセルですか」
「ああ、一語一句毎に考察を加えていく。すべてを一つのセルに入れないでセンテンス毎に縦に並べて記入していってくれ」
「はい」
どう使うのかイメージが湧かなかったが言われた通りにする。
入力が終わったと伝えるとディスプレイが切り替えられた。
「じゃ考察していこう。まず最初は『この胎児は、精液として最初から男の中に生じる』からだ。意味の分からないところはないか」
「細かいことでもいいですか」
「もちろんだ。気が済むまで出してくれ」
「『男』は胎児の父親という判断でいいですか。それと精液の中に生じるというのはどういう状態を指すのですか」
「胎児の父親は問題ないでーす。精液の中はそこに霊魂が宿るという意味でいいのではないでしょーか」
「宿るといってもイメージが湧きませんね」
「霊魂自体がつかみどころのなーいものですから」
「とは言っても不問にできるような問題ではないし」
少し考えて指を差した「右のセルに疑問点を書いておくんだ。考察と疑問は色分けしておいた方がいいな。よし次に行こう。『すべての身体の部分から集められたこの熱を』までで切るとするか。この熱はデモクリトスが言った物と同じか」
急いでセルを二つに分けた。麦原は前後を繰り返し読む。
「いいと思いまーす。ただこれを見る限りで霊魂というものは脳とか心臓にあるのではなーく全身に広がっているということになりまーす」
「分かった。銀山、考察として書いておいてくれ。次の『彼は自己として自己において保持する』はどうだ」
「自己という言葉は丁寧に見ていかなければなりませーん。サンスクリットではアートマンといい、もっとも重要な語として扱われていまーす。特に単数、両数、複数は必要な情報になりまーす」
「りょう数とは何だ」
「二つという意味でーす。両親や両手両足、太陽と月などに使いまーす」
「ここにはその『自己』が二つあるが何の自己かという観点で見ていけばいいのだな。するとこれはどうなる」
「最初が胎児に移管される自己でーす。二つ目は父親の自己でいいと思いまーすが器程度の意味で解釈しておいた方がいいでーす。それよりこの訳では単数や複数が判定できませーん」
「原文を見れば分かるのか」
「『自己』の部分をすべてアートマンと表示しているのであれば分かると思いまーすが、代名詞はすべて暗記しているわけではありませーんし他の語はもっと厳しいでーす」
「原文のあるサイトは知っているのか」
「それもこれから探すことになりまーす」
「ふむ」
すぐに顔を上げる「先に考察を進めてもやり直しになるだろうから皆で探した方がいい」
「原文はサンスクリットなのでお二人が見ても分からないと思いまーす。まだ読んでいない本がありまーしたらそれを先に」
麦原はマヌ法典を薦めてくる。読めということらしい。
参考文献(ウパニシャッド、湯田豊、大東出版社)