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三貴子誕生神話

「そろそろ出かけるぞ」


 昨日とは時間帯が違うせいか館内の様子もかなり違っていた。昨日借りた本を返しながら貸し出しの行列を見渡す。


「けっこう人がいますね」


 平日なので若い者は少ない。ほとんどは会社を定年退職したと思しき初老の男性だ。公式ではないが老後の生活費は二千万かかるとの試算もある。有料の施設等を利用できる人はごく僅かだろう。


「ここに来られる人は健康だからまだいいのかもしれんな」


 カウンターで利用者カードを提示して借りる本が準備されるのを待つ。


「銀山くん。後でこれ読んで下さーい」


口調が元のゆったり調に戻っていた。背表紙には『ウパニシャッド』と記されている。


「何の本ですか」


「これはヴェーダの奥義書と呼ばれるものでーす。ヴェーダを理解するーには欠かせないものでーす」


 一応中を見てみる。麦原の言う通り原文の訳とその注釈でほとんど占めており解説は末尾に少しあるだけだった。


「奥義書というと秘文でも載せているのですか」


「性質で言えーばヴェーダの研究論文といったところでしょーか。運がよければずばり答が得られるかもしれませーん」


「だったら自分で読めばいいじゃないですか。なんで僕に読ませようとするんです」


「解決したくなってきたからでーす。私はアビダルマとチベット仏教を読みまーす。銀山くんはヴェーダを攻めて下さーい。インドに答があればお寺の未来につながるかもしれませーん」


「麦原さんとしては、どちらが可能性が高いと思っているんですか」


「チベット仏教の最高位であーるダライラマは転生を繰り返していると言われていまーす。天皇の継承が転生であるなら関係は強いでしょう。しかし古事記の起源がインドにあるなーらチベットは経由していなことになりまーす。片方だけやって結果が出なかった場合、夕方にもう一度来れるとしても後がありませーん」


 その言葉を信じることにする。


 応接に戻ったのは十一時半を過ぎていた。すぐにリグヴェーダの本を開く。目次で探すと宇宙創造讃歌の中にプルシャ讃歌は見つかったが新しい発見はなかった。というより逆に失望してしまった。


 盤古神話を読んで不完全と感じたのはスサノオの存在がなかったからで太陽が左目、月が右目というところは揃っていた。しかしプルシャでは太陽が目から、月が意から生まれたとなっていたのだ。加えて鼻から何かが生まれたという話もない。


 がっかりして本を置いたところで昼食が来た。和食の昨日とは違い今日はステーキがメインだった。そうは言っても昨日ほどの驚きはないのに加えて徹夜明けでさほど食欲もない。今朝の方が数倍ワクワクした。


 右手で箸を持ちながら膝の上でアタルヴァヴェーダを開く。目次にプルシャの語がなかったので更にやる気を失いながら読み進めた。


 呪法の書と前書きにあった通り呪いの讃歌が続く。三分の一ほど読み終えたところで目次に戻った。終わりの方に思想的讃歌がある。リグヴェーダのプルシャも後ろの方にあったので何か参考になるものがあるとすればここにある可能性が高い。時間も限られているので増益法、贖罪法など関係なさそうなものは飛ばすことにした。


 食事が終わったところで急に睡魔に襲われる。徹夜明けは特にこの時間帯が体に堪える。読む量も少ないからと自分に喝を入れるが、気付くと何度も同じところを読んでいたり2ページほど記憶になかったりでなかなか先に進まない。それでもなんとか最後の『ヴラーティア』まで来た。というか何の収穫もないまま来てしまった。


 盤古神話の解説にもアタルヴァヴェーダは出てこなかった。やはりインドから直接入ってくることはなかったのかとあきらめかけたとき、求めていた讃歌がついに出てきた。


 最後の最後となる十八節に右目から太陽、左目から月、鼻孔から昼夜とあった。好意的に見れば太陽が昼、月が夜、その間つまり大地と海を治めるのが鼻と解釈できないこともない。少なくとも古事記に一番近い割り振りであった。


 おそらく半信半疑で進めているであろう二人にそのことを報告する。


「やりましたね」


 すぐに麦原が喜んでくれた。羽黒も無言だったが口元が緩んで見えた。


 しかし喜んでばかりもいられない。秘密が眠る国は分かったが足を踏み入れたばかりなのだ。答があるという保証もない。


 麦原はアビダルマ・コーシャを読み進めていた。日本に入った可能性を考えればヴェーダより数倍高い。宗教学を学んでいたのだから確信もあって取り組んでいるのだろう。こちらも麦原の“運がよければ”の言葉を信じてウパニシャッドに取り掛かる。


 最初はブリハッド・アーラニヤカ。解説を読むとテーマは色々あるが“性愛と妊婦の確保”と“異なったタイプの子供をもうける儀式”があった。期待を持って読み始めるが、いきなり意味不明の文に出くわす。


『祭祀に適した馬の頭は、まことに曙である』


 これで日本語訳といえるのだろうか。意味を考えていたらどれだけ時間がかかるか分からない。しかし出だしから理解できないのに分からないところを読み飛ばしていけば、ほとんど得るものがなく終わってしまうだろう。


 一度目を閉じて考えた。時間がなくて読み残しを作るよりはいい加減でも目は通した方がいい。そう思いながら目を開けるとドアの霞ガラスの向こうで人が激しく動くのが見えた。


 何だろうと思って開けてみる。


「ちょっとだけだから」「駄目です」


 二人の女性が言い争っていた。こちらに顔を向けているのは大水で背中が見えているのは小村だ。


「あっ銀山くん元気」


 口を大きく開けて力いっぱい手を振る。


「ごめんなさい。中まで聞こえました」


 小村が顔だけ向けて謝る。その瞬間、体臭が鼻の中に充満した。


「うっ」


 思わず顔をそむける。同時に小村の「あっ」という声が聞こえたが、どんな表情かは見えなかった。


 体を離して二人に向き合う。


「いや、ガラスの向こうから見えたので」


「ねえねえ差し入れを持ってきたよ。夜お腹がすいたら食べて」


 大水が紙の手提げ袋を顔の前で揺らす。


「ありがとう」


 とにかく受け取った。


「それより調子はどうなの。明日の朝までにはできそうなの。タラバ蟹は大丈夫」


 他の人が聞いてもまったく理解できない会話を大きな声でしてくる。社員のほとんどは大水を知っているため聞き流してくれるが、その都度注目を浴びるのは困りものだ。


「用事が終わったらお引き取り下さい」


「もう小村っちは固いんだから。じゃあ頑張ってね」


 大きく手を振りながら走っていった。見えなくなったところで小村に照れ笑いを見せたら無表情で歩き去る。嫌われたかなと思った。


 両頬をパンパンと叩き腰を下ろす。その後も意味不明な文は続いて不安にかられながら読み進めていくとそれらしい内容が出てきた。


『人間のために二つの道を、わたしは聞いた、祖先および神々に至る道を。父母(天地)の間にあって動いている、この一切は、それらの二つによって行く。』


 これは死後の世界のことではないだろうか。解脱へ至る道と父母から生まれる道。しかしこれでは父母の差はない。さらには、


『存在していないものから、存在しているものへ、わたしを導け! 暗闇から光明へわたしを導け! 死から不死へわたしを導け!』


『ここには最初、人間の形をした自己だけが存在していた。それは見渡して、自己自身の他に何も見なかった。「わたしは、ここにいる」と、最初それは言った』


 聖書を読んでいるようだ。共に起源はメソポタミアにあるそうだから同じような神話があっても驚くに値しないが。


 関係のありそうなものを抜き出してゆく。


『大地の精髄は水である。水の精髄は植物である。植物の精髄は花である。花の精髄は果実である。果実の精髄は人間である。人間の精髄は精液である』


 ほとんど意味不明だが人間の精髄を精液としている。使えるかと思ったが付随する説明がなかった。


『「彼女が妊娠するように」と考えて彼が彼女を求めるならば、彼は彼女の中にペニスを挿入し、口と口を合わせ「わたしの生殖能力および精液によって、わたしはお前に精液を与える」と言いながら息を吸い込み、それから彼女の口の中にその息を吐き出すべきである。彼女はまさに妊娠するようになる』


 吹き込む先が鼻と口で違うが麦原が言った旧約聖書と似ている。参考になりそうな気はするものの、ここから根拠を絞り出しても嘘や誇張が混入するだけだ。


 次はチャーンドギヤ・ウパニシャッド。前出と二つで全体の半分を占めるほどの分量だ。テーマは自己。それも肉眼によって認められない生命、生命力とある。


 読み始めてすぐに前作と同様の不安が襲ってきた。意味の分からない単語が多すぎて隠語でも使われたときには間違いなく見逃すことになる。眠気もピークまで来た感じだ。面白いストーリーならともかく起きていられるかどうかも分からない。


 その結果かどうか分からないが収穫なく終わった。


 もう半分、されど半分である。次はタイッティリーヤ・ウパニシャッド。ページ分量は前出の五分の一程度ながら韻文ではなく散文に変わっているため密度は高い印象がある。テーマは自己自身を覆う五つのコーシャだ。図書館へ行く前に麦原が言ったアビダルマ・コーシャと関連があるかもしれない。


 しかし読み始めて前出より難解な表現に閉口する。それでも精子や卵子、受精や出産などの語があれば注意して読むがそれもほとんどなかった。


 集中して読んでいたため時間の経過が分からない。時計を見ると四時を過ぎている。気分転換を兼ねてトイレに行った。

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