case1 柚木奈緒美 ①
ピロリン♪
とメッセージアプリケーションが起動した軽快な音が鳴る。柚木奈緒美の寝ぼけ眼が見開き、裏面になっているスマートフォンを手に取る。――時刻は0時を超えている。仕事の連絡はありえない、友人にしては非常識すぎる時間帯。
そんな時間にメッセージを送りつける失礼極まる人物、心当たりは一人しかいない。
何度、この音が間違えであってくれたらと願っただろう。柚木奈緒美は心臓を冷たい手で鷲掴みにされた錯覚と同時に、自分でも言葉に出来ない心模様から鼓動が跳ね上がる気持ちを覚える。そして覚悟を決め、一拍置いてスマートフォンの明かりを見る。
――今家?
間違えない。思った通りの人物だ。ぶっきらぼうで鈍くて全てにおいて粗忽な男……。
【そうだけど?】
返信などしなければいいのに。辛くなることなんて分かりきっている。しかし拒絶する理性的な脳とは正反対に、指が勝手に動いてしまう。
――酒ある?
柚木は苛つくと同時に、安堵の感情を覚える。
苛ついた理由は、ぶっきらぼうで鈍くて全てにおいて粗忽な性格が変わっていないところ
安堵した理由は、ぶっきらぼうで鈍くて全てにおいて粗忽な性格が変わっていないところ
【前回、前々回 あんたが置いていった酒が山ほどありますけれど?】
――助かる 泊めて
ここで断れればどれだけ人生は素敵だろう。柚木が返事をする間も無く、玄関からチャイムの音が鳴る。そして出迎える間も無く、ガチャリと開錠の音が鳴る。
「お邪魔しま~す。」
「ちょっと!わたしまだ着替えもしてないんだけれど!」
「いいじゃんどうせオレも泊まるんだし。ほい、つまみとお菓子。見てこれ、新作スイーツ480円だってさ、最近のコンビニも凝ってるよな~。」
「そういう問題じゃない!」
乱れたスーツ姿に酔いの覚めていないほんのりと赤い顔。百刈啓介。柚木の元カレで、会社員そして――
左の薬指には銀色のリングに宝石の拵えられた指輪がはめられている。
「毎回毎回さぁ、奥さんに悪いと思わないの?」
「ん~~?だってナオんっ家からの方が会社近いし、オレ奥さんから信頼されてますから。」
「呆れられてるの間違えじゃないのバーカ。」
表情こそ怒りを装っているが、何処か安堵している自分がいる。柚木はビール缶の口が開けられテーブルにグラスが二つ置かれている事に気が付く。相変わらず、変なところだけ気が回る。
「んじゃ、かんぱーい!」
「かんぱい……。」
お酒が入れば理性なんて箍は容易に弾けて飛んでしまう。なんてことないバカ話に仕事の愚痴で大盛り上がり。
……付き合っていたころは大学生の就活中、そして社会人の一年目で、二人とも自分の事で精いっぱい。お互いがお互いを思いやることも、こうしてバカ話をすることも出来なかった。
「おっとっと。」
「ちょっと呑みすぎじゃないの、バカ!」
「なんてね。」
そういって百刈は柚木と唇を重ねた。やられた……と思ったところでもう遅い。跳ねのける気力もない、辛うじて脳裏の隅に陣取る理性が何か騒いでいるが、酩酊した脳では桃色の軍勢に蹂躙されるだけだ。この後行われるのが、どんな大罪であるか、それで何度後悔したことか。
それでも跳ねのけることも出来ず、柚木は身を委ねる。
――わたしはこんなバカな男に、未だ恋をしている。
◇ ◇ ◇
「あんたバカじゃないの?」
柚木は高校からの友人にして奇遇にも職場の同期、三野に呆れた眼差しを向けられる。ほぼ無理やりな形で仕事終わりに、三野の家に呼ばれた。当然だ、〝飼っている猫に引っ掻かれて〟と首筋にでっかい絆創膏貼って出社してくれば、鈍い男どもならまだしも、女性なら何があったかすぐに悟る。
「はい……都合のいい女、柚木で御座います。」
「自覚があるから、なお質が悪いわよね。」
「う~~。」
「…………最悪300万。」
「え?」
「奥さんにバレて訴訟されたときの慰謝料よ。あんた払えるの?」
柚木は自分の貯金残高を思い出し、大きく溜息を吐いた。
「溜息吐きたいのはこっちよ。なんで高校からの友人がこんなバカな男に……って昔からあんた男運悪かったわね。」
「ちょっとひどい!」
「初カレの本木君はどうなったっけ?」
「劇団員になるからって上京して、オレオレ詐欺の受け子で捕まった……。」
「次の彼氏の佐々木君は?」
「大学中退して公務員専門学校通って今も公務員浪人中……。」
「元カレは?」
「大学から無事商社の総合職に就職して、幸せに結婚しました。……わたしじゃない女と。」
「絶賛あんたと不倫中が抜けてるわよ。とにかく……。相手もフリーで復縁したいとかなら百歩譲って応援するけれど、既婚者よ?あんただってこの関係が永遠に続くなんて思ってないでしょ?」
「そうだけど……その……。」
「あーーーもう煮え切らない。あんたのそういうところ本当に変わらない。」
「そりゃミノッチみたいにスパスパ物事考えられるといいけれどさぁ。」
「わたしも恋愛のプロじゃないからなんとも言えないけれど……、そうそうナオこんなの知ってる?」
そういって三野が出してきたのは【失恋保険】と銘打たれた、なんとも胡散臭いパンフレットだった。