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長月、桔梗は仁科の御元に。

作者: 來遠 秋

 花の夢、憧れの地。

 七日通りに生まれたこと、紫花(しか)はいつだって誇りに思っていた。


【長月、桔梗は仁科の御元に】


 桔梗の花は七日通りでも、独特の気品があり一目置かれる種であった。

 古くから七日通りに栄えている、その誇りがそうさせるのか、まだ若いのに紫花(しか)は独特の凜と近寄り難い空気を纏う。


 口数少ない静かな紫花だがこのごろは特に物言わない。気怠そうにぼうっとしている。その視線の先がいつも同じであることに誰も気付かない。


 七日通りより少し低い所に構えた武家屋敷。人が忙しなく出入りし暮らす古びた屋敷は、相も変わらず。ただ去年とは少し違う。

 何百年も屋敷で大切にされてきた紅葉の木に、樹精が宿ったのだ。若い男の姿で、髪は燃える紅だった。その長めの髪を丁寧に結い上げ、黒い直垂を着て木のてっぺんに座っている。


 これは珍しいことだと紫花は眺めた。人の世の中で生きる樹というのは、大抵長生きしない。世話する人間が絶えたり、移り住んで置いていかれたり、最後は邪魔だと切り倒されて長く生きることがほとんどないからだ。

 人の世の中で生まれたせいか、樹精にしては神聖さと威厳には欠ける気はした。美しいとも言えないが、しかし端正な容姿で丸みのある優しい顔つきの方だった。

 紅葉の精が扇片手にふわりと舞うと、紅く染まった葉もくるくると宙を舞う。屋敷に住む仁科(にしな)の人々が『美しい』と喜び庭へ出ると、紅葉の精も喜んでいるようでまた大層優美に舞い続けるのだ。


 七日通りの花たちは、人に飼われて喜ぶその風変わりな精を皮肉を込めて『仁科の紅葉」と呼んだ。

 本来ならば樹精は花たちとは別格の存在で敬うべきなのだが、とかく人と交わるのを嫌う七日通りの花たちが仁科の紅葉を嘲り笑うのは仕方のないことだったかもしれない。 花たちの小馬鹿にする声にも気付かず、仁科の紅葉は人が眺めていれば何度でも舞った。


「人には、貴方の姿は見えていますまい」


 それなのにどうして仁科の紅葉は舞うのか。紫花は不思議でたまらない。

 同じように、紫花の声は仁科の紅葉には届かない。それなのに紫花も、囁かずにはいられなかった。どうしてかは答えられないが。


 おかしな方。皆は馬鹿にするけれど。それもわからなくもないけれど。


 でも、あの方の舞いは、嫌いではない。



 夜が更けるにつれて、七日通りは一層華やぎ騒がしくなる。


「紫花様、夏の花叶のことお聞きになりましたか」

「いえ何も」


 今日もだんまりな紫花を気遣ってか、話し好きな小菊たちが辺りを囲む。紫花が短く答えると、それは教え甲斐があると楽しそうに笑い合った。


「七日通りに生まれて間もないくちなしが、人間と話すために花叶を使ったそうですよ」

「今夏の花叶は紫陽花の雨月(うげつ)様に決まっていたのですが」

「それをくちなしは、場所を明け渡す代わりにと雨月様から花叶を譲り受け、何処ぞに消えてしまったのです」

「眷属が増えたものだから、雨月様はまだ眠りにつかず威張り散らしておいでで」


 花が咲いていなければ人の姿を成すことは難しい。時期が過ぎれば眠りに入る。暗黙の決まりを破って騒いでいるというのだ。

 秋の花はなんだか味気無いなどと、仲間うちでこれみよがしに話しているらしい。もの知らずなくちなしのせいだと小菊たちは喚いた。


「……なるほど、それであの男、いつまでも騒がしく起きているのか」


 紫花は合点した。

 余計な力の蓄えが出来たのを自慢したいようだ。嫌味な雨月らしいことだ、と紫花は嘲る。これ以上五月蠅く騒ぐものなら、一言言ってやらねばと心に留めた。

 季節を過ぎても散らぬ花ほど、見苦しいものはないのだから。

 しかし紫花は雨月の様子より気になることがあった。


「して、くちなしのはどうして人と話したいと思ったのだろうな」


 その問いを聞いた小菊たちは呆気にとられて、しばらく口が開いたままだった。


「さあ…… 私共もそこまでは存じておりません」

「どうなさいました紫花様」

「お戯れを。人と関わる卑しいものの考えなど、想像するのも無駄ですよ」


 紫花はふざけてなどいなかった。思慮の浅い小菊たちでは話にもならない。深いため息をついた時だった。


「ほらほら、あなた方。おしゃべりもほどほどにして紫花を放してくださいな」


 振り返ると撫子の常夏(とこなつ)が立っていた。美しい所作は周囲の者を釘付けにするようだ。小菊も幾分か慎ましやかになり、常夏の来訪を喜び合った。

 愛らしい常夏は皆の憧れだ。

 毎夜森の中で年長の花たちによる集会がある。常夏は紫花の馴染みで、いつも連立って歩く。

 紫花には唯一心置けない友である。


「もうそんな時刻だったか」

「ええ。まいりましょうか」


 花たちは夜になると人の姿で動き回ることができた。その姿は人間には見えない。

 ただ七日通りから出ると人間にも見えるようになり、七日通りから花の姿も消える。花が皆消えると人が大騒ぎする為、花叶の大切な時以外は決まったものしか自由に歩き回ることはできない。

 常夏の後について歩き出す。出掛けがけ、小菊の一人が大袈裟な声で皆に言う。


「ああ、見てくださいな。仁科の紅葉ですよ。人が眺めていると舞うんですって。樹精の名折れというものです」


 舞う。

 ゆったりと、惜しみなくその身揺らして葉を散らせる。夜目にも鮮やかに、熟れて滴る赤。

 見たこともないほど穏やかなまなざしで人々を見下ろす。


「奇妙な方。仁科の屋敷という場所でなければ、敬われて然るべき樹精であらせられるのに。ねぇ、紫花」


 常夏が振り返り返事を求める。

 仁科の屋敷では小さな子供が寝床を抜け出してきたようで、暗闇の中に目を凝らして紅葉の葉を拾っている。随分と紅葉を気に入っているらしい。

 その様子を見ていた仁科の紅葉は、扇をぱんっとひと振いして葉を数枚散らせた。

 月明りに時々照らされながら落ちてくる葉を見上げて、子供はにっこりと笑ってみせる。

 それを見た仁科の紅葉も、満足そうに微笑み返す。


「紫花」


 何も答えない紫花を気遣って常夏が呼ぶ。けれども紫花は仁科の紅葉を見つめたまま。


 どうして誰も不思議に思わぬのか。


 例えばたった一夜。

 その為にくちなしがこの七日通りを捨ててまで人と話さねばならなかったこととは、何だったのだろう。ここにいれば生きるのに何不自由ないというのに。

 そうしてそのくちなしは、何処に行ってしまったのか。


 何より不思議なのは、人に対してあんなにも柔らかな表情を見せる仁科の紅葉。


 どうして誰もあの方の胸の内を知りたいと思わぬのか。



 ――ああ、あの方なら、くちなしの気持ちが分かるかもしれない。


 紫花は何故だかそう思った。いてもたってもいられなくなり、森への道を外れて走り出した。


「紫花、どうしたの」

「今日は席を外すと伝えて」


 常夏が止める間も無く、紫花の濃い紫の着物は夜の漆黒の中に滲むように消えていった。



 今宵の月は一段と美しい、と紅葉の精は思った。

 雲で輝かしい姿が隠されているが、時折顔を出す金色の光は殊更鮮やかに映える。

 そうして月見を楽しんでいると、かさりと落ち葉を踏む音が聞こえた。見下ろしてみると、娘が一人塀際に立っている。仁科の家のものではない。


「おや今度はどこの娘さんだろうか。いやいや、今夜は御客人の多くて賑やかなことだ」


 言葉と裏腹に仁科の紅葉は楽しそうだ。来訪者を歓迎する忙しさは、苦ではない。


 では一舞い。

 木でできた扇がざらりと音を立てて開く。それほど背丈の高くない舞台で、仁科の紅葉は軽業のように飛び細い枝々へ着地する。一ひら、また一ひら。紅葉の木の下を落ち葉が染め上げる。

 楽しげに仁科の紅葉は舞うが、娘は微動だにしない。紅葉を拾うでもなくどこか別の所を見つめているようだった。それに気付いた仁科の紅葉も舞いを中断し、娘の方を覗き込む。


「どうしたことか。紅葉の舞いはお気に召さなかったかな」

「違います」


 仁科の紅葉は目を円くした。独り言に娘が答えたように思えた。そうして、娘の妙な視線は紅葉の上にいる己に向けられていることに気付く。


「やあ、これは驚いた。私の姿が見えるお方ですか」


 短い黒髪を綺麗に切り揃え紫の着物をきちんと着こなしている。その娘は紫花だった。


「私は人ではありません。言うなればあなた様と同じ命の者」

「もしや、噂に聞いた七日通りの花君でしょうか」


 紫花がうなずくと仁科の紅葉は子供のような笑顔を作った。


「やあやあ、噂はかねがね。この姿になるまでは塀のせいで何も見えずにいたが、近頃は遠くから見物させていただいている。まこと美しい通り道です」


 七日通りでは嫌われ者だと知らずに褒める仁科の紅葉に、紫花は困った顔をみせる。


 種を運ばれてやってきた草木が七日通りの話をして聞かせるという。花が人に化けた姿を初めて見る仁科の紅葉は、紫花を隅々まで眺めるようだ。


「そちらでは塀が影になって暗いでしょう。私は紅葉から離れられないので申し訳ないが、どうかもっとこちらで話しませんか」


 仁科の紅葉は地面へ降り立つと紫花を手招きする。しかし紫花はそこから動こうとしない。


「ここは七日通りから見えることはないので」

「それはどういう……」

「人に育てられて喜ぶものは、恥です」


 ようやく仁科の紅葉は紫花たちの嫌悪に気付く。七日通りの花は人間を毛嫌いしているらしい。

 なるほど人と共に生きてきた己も嫌悪の対象になりうることは理解できない話ではなかった。


「知らず知らずに嫌われものか。参ったな」


 しかしそれを聞いても仁科の紅葉は紫花への態度を変えたりはしなかった。


「して、貴女はどうしてここへいらしたのか。よもやそれを知らせるためにわざわざ訪ねることもないでしょう」


 その問いに紫花は答えられずに言い淀む。仁科の紅葉もその様子を見て無理に問い正そうとはしなかった。


「ならば名をお聞きしてもよろしいか。貴女は何の花なのでしょう」

「あなた様に名乗る名などございません」


 紫花は戸惑っていた。名など答えてよいのだろうか。誰か、七日通りのものに知られては困ると思ったのだ。仁科の紅葉は皆が言うほど悪い方ではない、それは紫花も気付いているが。


「ではせめて花の名だけは教えてくださいな。貴女が昼間はどんな可憐な姿でいらっしゃるのか」


 あの穏やかな笑顔を向けられる。遠くから見ているだけだった、あの暖かな表情が間近にある。

 仁科の紅葉の言葉にほだされて、紫花はとうとう答えた。


「桔梗でございます」

「桔梗。そうでしたか」


 仁科の紅葉は大袈裟に褒め囃す。そう言われると漂う気品が違うだの、清廉な香りがするだの。


「では貴女のことは千代(ちよ)と呼ばせてくださいな。貴女ではもったいないですから」

「ご冗談もほどほどに」

「私は真面目です」


 全くこの方の奔放さに、生真面目な紫花としてはどう接してよいかわからなくなる。

「桔梗は花も蕾も千代紙のように可愛いらしいでしょう」


 千代。紫花ではない別の誰かになった気がした。悪い意味ではない。七日通りとか、人間嫌いとか、全てをまっさらにしてまた生まれてきたような。


「あなた様のことは、何とお呼びすれば」

「私に名はまだありません。そうですね、仁科の姓で呼ばれるのも悪くない」


 その名は七日通りの花達が馬鹿にしてつけるほど嫌われいる。しかし仁科の紅葉はそれを自ら望むという。


「仁科の方」


 紫花が恐る恐る呟くと、仁科は目を細めて心地よさそうに微笑んだ。やっと仁科の家族になれたようだ、と。


 やっぱりおかしな方。人の家族になれて喜ぶなんて。


 夜が明ける。その前に紫花は七日通りへ帰らなければ二度と七日通りの中へ戻れなくなってしまう。聞きたいことも言えないまま、紫花は仁科へ別れを告げた。


「千代、千代」

「明日もまたおいで」


 何度も何度も繰り返す。紫花の耳からその声がしばらく消えなかった。



 その日から紫花は集会には出ず夜毎仁科の紅葉の元を訪れるようになった。他愛もない話をするだけで特別なこともなかったが、紫花はその時間が待遠しいとさえ感じた。


 しかし七日通りを密かに抜け出す紫花のことを常夏が黙ってはいない。何しろよからぬことの片棒を担がされているようなものなのだから。


「集会にも行かずに一体何をしているのです。言い訳を考える私の身にもなってくださいな」


 常夏が強い口調で戒める。紫花はそれも一理あると言い、


「では今宵は気分が乗らないからとでも言えばいいのでは」

「ふざけないでくださいな」


 久し振りに常夏が怒るところを見た。しかしどう言われても仁科の紅葉の元へ行くことを止めようとは思わない。秋の間しか会うことはできないのだ。


「私にも言えない秘密なのですか。皆も心配しているのですよ。少しの間でも集会に顔を出してくださいな」

「年長というだけで威張り散らした者が集まり、互いにへつらうばかりの集まりに出る意味などあろうか」

「そんなことを言うものではありません。あれは由緒正しき集い。皆が憧れ敬意を払う」

「私にいわせれば悪しき風習です。地位を誇示しているだけで中身など伴わない」


 常夏の言葉を遮って紫花は主張する。 常夏もそれに気付いていないほど愚かではない。ただ紫花も常夏も集会に出られはしても、その中ではまだ発言もままならない若輩なのだ。言葉にしたところで事態が好転するわけでもない。


「あなたの怒りはわかります。でも七日通りで孤立しては生きにくい。それはわかっているでしょう」

「常夏、黙って見送って頂戴」

「一体何処へ行くというのです」


 必死の常夏にも折れることなく、紫花は仁科の屋敷へ急ぐ。

 常夏に仁科の紅葉のことは話せない。密会が露見したとき、事情を知って見送っていたとあれば常夏も咎められかねない。


 もうそろそろ限界だろう。嘘をついて集会に出ないのも、常夏に黙っているのも。そうなれば仁科の紅葉に会える日も数少ない。


 未だ、紫花は仁科の紅葉へ聞いていないことがある。今宵はそれを聞かねばと紫花は意を決めた。



「仁科の方」

「やあ千代。よく来てくれました」


 紫花がやってきたのを見るなり、仁科の紅葉は顔をほころばせる。


「見てくださいな。仁科の子らが、庭に樫や楢の木が生えるようにとどんぐりを撒いていったんですよ」


 広い庭に紅葉の木が一本では寂しかろうと、たくさん拾ってきたのだと言う。仁科の紅葉はつやつやと膨れたどんぐりを愛しそうに見つめた。

 紫花には少しずつ感じられるようになっていた。人と、人には見えぬ樹精との不思議な絆が。


「私はあなた様に聞きたいことがあって此処に参りました」

「はて、聡明な千代でもわからぬことが私にわかりますかどうか」


 七日通りで生きる場所を失ってでも、人と話したいと願った花がいた。そうしてついぞ七日通りには戻らず何処ぞに消えてしまった、くちなしの話。

 仁科の紅葉はどんな難しい問いを出されるのかと眉根を寄せていたが、聞き終えるとなるほどと漏らした。


「私にはくちなしの心は理解できません」

「人好きの奇っ怪な樹精であればわかるかもしれぬ、と」

「失礼は承知の上です」

「いや、私は仁科の家へ生まれたことを誇りに思っています。失礼などとは思いませんが、少し意地悪だったでしょうか」


 仁科の紅葉は少しおふざけが過ぎたと小さく笑った。そして仁科の屋敷を見つめる。懐かしむような、在りし日々でも眺めるような遠く儚い視線だった。


「心ほど難儀なものはない。くちなしの胸中は私にも計れません。計れませんが」

「願い叶ってくちなしが人に気持ちを伝えられたなら、羨ましいです」


 くちなしの話を聞いたとき、仁科の紅葉に共通する点があるように思えた。くちなしの気持ちを通して、仁科の紅葉の心が知れるような気がしたのだ。

 でも聞かなければ良かったと、紫花は後悔した。


「どうして。自ら人に関わろうとするのです」

「私も聞きたい。何故七日通りの花君たちは人を毛嫌いするのですか」


 紫花を捕らえた仁科の紅葉の瞳が、憂いを帯びている。涙の色を称えているようだった。思わず紫花の口調も鈍る。


「人は花を手折る。踏みにじる。傷つける。それでも人が好きになれましょうか」


 仁科の紅葉は答えない。ただ抑揚のない声で言った。


「どうしても人が嫌いで、どうしても私の気持ちを理解する気がないのであれば、貴女は此処へ来るべきではない」


 言葉が紫花の胸に突き刺さる。首を締め付けられているように、息継ぎができない。頭がじくじくと痛み出すと同時に、踵を返してその場を逃げ出していた。


 人を愛する仁科の紅葉の前で人をけなした。きっと怒らせてしまった。あの優しい方を。

 紫花は初めて仁科の紅葉の顔を見ていられなかった。


 仁科の紅葉に問うたことを後悔したとき、紫花の胸には卑しい感情が込み上げていた。

 人と話したい仁科の紅葉の気持ちはわからない。仁科の紅葉もくちなしの気持ちはわからないと言ったが、それは多分誰が答えを出したところでそれは憶測の域を出ないからだろう。


 でもきっと二人は同じ気持ちを共有していると紫花は思った。仁科の紅葉に羨ましいと思わせたくちなしを、妬ましいと感じたのだ。


 知りたいのに。あなた様の心が知りたいだけなのに。私とあなた様の溝は深い。


 紫花は生まれて初めて涙した。


 どうしてあなた様の好きなものが、私の嫌いなものなのですか。

 どうして私の嫌いなものに、あなた様は愛を注がれるのですか。


 ――どうして。

 それでも私は仁科の紅葉と会っていたい。



 前の晩泣き腫らした顔で帰った紫花に声をかけるものはいなかった。気落ちしているのは火を見るよりも明らかだが、しかし何があったか知るはずもなくどんな言葉をかけるべきか見当もつかない。

 ここ数日の機嫌の良さから一転、どうしたものかと皆戸惑うばかりだ。

 これは常夏に任せるしかない、と見兼ねた小菊たちは夜が更けると同時に常夏を紫花の元へ引き連れてやってきた。


「紫花、どうしたのですか」


 こんなに感情を露わにした紫花は見たことがない。さすがの常夏も動揺した。昨晩見送った後に何かあったのは間違ない。何が何でも止めるべきだったのだと深く後悔した。


「何をしていたんですか。何があったんですか」

「話せない。常夏には」


 紫花は頑として口を開かない。常夏にも事態が打開できないとあって、話は前にも後にも進まない。そう思われた矢先、紫花の元に紫陽花の雨月がやってきた。


「紫花、何を悲しんでいるのかな」

「お前には関係ないことだ」


 紫花は冷たく言い放つ。呼びもしない者に構ってやるほど優しくはないのだ。

 しかし紫花は、雨月の来訪の意味に気付いていなかった。


「仁科の紅葉と仲違いでもなさったか」


 小さな疑問と悲鳴のような声で辺りが沸き立つ。それに気を良くした雨月は唇を舐めてにたりと笑う。


「私の眷属の者がね、仁科の屋敷にいる紫花を見ていたというのだよ。まさかとは思ったが、いや紫花には心当たりがあるようだ」

「雨月。でたらめを言って皆を煽るものではありません」


 常夏が険しい顔で雨月を戒める。が、それに素直に応じる雨月ではない。

「では常夏に聞く。紫花は昨晩も集会に出なかったそうだが、一体何故か。何かと理由をつけて庇うお前は紫花の向かう場所を知っているのでは」

「それは」


「もうやめて」


 聞くに堪え難い会話に、紫花は黙っていられなかった。結局関係のない常夏にまで嫌な思いをさせてしまっている。


「私は仁科の方に聞きたいことがあり、密かに会いに行っていた」


 息を潜めて見守っていた周囲が一瞬にして騒がしくなる。ここぞとばかりに雨月は紫花を攻め立てにかかる。


「あの人間被れの樹精に質問とはね。人の言葉でも教わるつもりでいたのか」

「やめなさい。紫花にも考えがあってのことでしょう」


 常夏の庇う声など誰に聞こえようか。

 花たちは或いは驚き、或いは嘆き、或いは雨月同様紫花を蔑んだ。あの樹精と言葉を交わすなど考えるだけでもおぞましい。七日通りの面汚しが。

 一層騒ぎが大きく膨れようとした時、


「黙れ」


 容赦ない紫花の怒りが響き渡ると、水を打ったように静かな澄んだ空間も行き渡るようだった。


「仁科の方は素晴らしい樹精であらせられる。皆言葉を慎みなさい」


 強い説得力を含んだ口調に、最早誰も異論をたてられない。雨月以外は。


「そんなことを言っても集会に泥を塗るような真似をして、上が黙ってはいまい。今までのように振る舞えるとは思わないことだ」


「時節もわきまえない身分でよくも堂々と歩けたものだ。みっともない。お前こそ身の程を知るべきだ」

「なにを」


 雨月の肩が怒りで震える。紫花が言うように気にかかるところはあるらしく、羞恥に顔もみるみる赤らんでゆく。


「紫花お前、私の土地が増えたことを妬んでいるのか」

「勘違いするな。それはくちなしがお前に譲らせてやったのだろうよ。せいぜい大切にして暮らせばいい。何だったら、私の場所もくれてやろうか」


 立つ瀬ない雨月がこれ以上言葉を紡ぐことはなかった。ただ常夏だけが、紫花の最後の言葉に不安そうな表情を浮かべる。


「紫花、あなたまさか」


 宝玉のように美しく大きな常夏の瞳に見つめられては、紫花の気持ちも揺らぐというものだ。七日通りに心残りがあるとすれば、唯一の友との別れなければいけないことだろう。


「常夏、有り難う」


 柔らかに首を傾げてそう言うと、七日通りの土手を降りていった。後ろを振り返ることもなく。



 紅葉の木の下に子供が一人。行灯代わりに月夜に紅葉の葉を照らして、綺麗な葉を吟味しているようだ。

 誰かの下駄の音が聞こえると、びくんと身をすくめる。今にも泣き出しそうな曇り顔で恐る恐る後ろを振り返ると、そこには見知らぬ娘が立っていた。紫花という名だが、その子が知ることはない。


「ああ驚いた。勝手に部屋から出たのが母上にばれたのかと思った」


 子供はとりあえず母親でなかったことに安心したようだが、紫花はというと子供と鉢合わせしたことに驚いて慌てている様子だった。

 その場を去ろうとする紫花を子供は引き止める。


「待って待って。うちにご用があるのかと思ったけど、お客さんは庭に来ないよね。きっと僕と同じように紅葉を見にきたんでしょう」


 紫花は戸惑っていたが、子供の期待に満ちた目差しに打ち負けて小さくうなずいた。


「ね、夜の紅葉はとってもきれいだもの。一緒に落ち葉を拾おうよ」


 そう言って紫花の手を引いて紅葉の木の下に招くと、しゃがんで手探りで葉を拾う。紫花もその横に黙ってしゃがんだ。


「こうしてね。お月様に照らすとよく見えるんだ。お姉さんはどんな葉っぱが好きかな」


 紫花は答えない。ただ風がそよぐ微かな音が響くだけで、庭には静かな時間が流れる。


「お姉さん、もしかして話せないんだね」


 紫花は何か考えているようで、子供から視線を逸してうつむいていた。紫花を悲しませたと勘違いした子供はにっこり笑った。


「大丈夫だよ。話せなくてもね、会話はできるんだよ」


 自信に満ちた表情でそう言うと、落ちた紅葉の葉を掻き集める。


「父上が言ってた。言葉を話せないものと話したいときは、心で声を聞くんだって。でね、この紅葉の木にもきれいだねって言うと」


 子供は寄せ集めた葉を両手いっぱいに持って、それを紫花の上へ降らせた。


「こうして葉っぱを降らせてありがとうって言うんだよ」


 目の前いっぱいに広がった紅葉の赤。それは一瞬で終わったかのように見えたが、紅葉の木からまた一枚もう一枚と止むことなく二人に降り注いだ。

 真っ赤な真っ赤な雨。鮮やかな、恍惚の情景。


 降り注ぐ紅葉の合間から子供の無邪気な笑顔が覗いた。小さな前歯をむき出しに、落ちる葉を捕まえようと手を懸命に広げて。


「ほら、ね」


 紫花も呆気にとられていたが、子供の言葉に優しく微笑むと、紅葉の木にもその笑顔を向けた。

 もう寝なくては、と子供は屋敷に戻っていった。好きなだけ見ていってと言い残して。


「もう来てはくれないかと思っていました」


 仁科の紅葉が紫花の側へ降り立つ。


「来てはいけないとおしゃったのはあなた様です」

「そうです。ひどい事を言ってすみませんでした」


 仁科の紅葉は深々と謝って紫花に言う。


「仁科の人間が悪く言われて、少しも嫌だと思わなかったわけがない。私はこの土地の人々に育てられたのだから」


 何百年も。同じ場所で。何人もの人に出会って。


「けれども」

「千代を嫌いにはなれなかった」


 千代。人は君たちを美しいと思うから手折るんだ。それは愚かなことだけれど、人はちゃんと私たちを慈しむ心を持っているよ。その証拠に、仁科の子は私の声を聞いていてくれた。


 紫花の小さな肩が震えるのを、仁科の紅葉は優しく包んでそう教えてくれた。


 怖かったのだ。認めてしまえば、自分が大きく変わってしまう気がして。自分はくちなしのように思い切った行動などできるものか、と。


 ずっと見ていたのに。仁科の紅葉が人と話すところを。心を通わすところを。

 そして今日、初めて人に触れた。驚くほど温かで、時々脈打っていて、紫花は悲しくなった。


「優しい子でした」

「そうでしょう」

「あの子は桔梗の花にも優しいでしょうか」


 仁科の紅葉は驚いて紫花の顔を覗き込んだ。


「千代。貴女は七日通りを出たら、その姿で自由に歩くこともできなくなる。また来年咲くこともできるか確かでは」

「わかっています」


 それでもいい。


「私は千代です。あなた様がくださった名前ですよ」


 紫花がはにかんで笑うと、仁科の紅葉は

「ええ」と答えて紫花を抱き締めた。


「仁科の人間もきっと大切にしてくれますとも」


 そうして朝になり紫花が桔梗の姿になるまで、仁科の紅葉は何度も千代の名を呼んだ。





 仁科の屋敷には紅葉の木が生えている。心優しい樹精が宿る美しい木だ。


 その袂には、一輪の桔梗の花が寄り添う。千代紙のように可愛いらしい姿を誇って。


【終わり】

前回書きました『文月、七日通りのくちなしは』と同じ世界観です。季節は秋。

調べたところ桔梗が咲く時期は秋というより夏の終わり頃で、紅葉する時期には被らないようです。個人的なこだわりで、どうしても桔梗にしたかったのでそこは大目に見て読んでくださると幸いです。

春の話とはまた違った花の恋が描けていたらよいと思います。

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