山縣さんの決意
朝、彼の寝顔を見ていると思い出す。
あの日、私の前に現れた参謀の言葉を。
「考えてごらん、山縣君。もし彼が危険な状態に陥った時、男性であることで彼が救われることもあると思わないかい?そう考えれば、選択の余地はないだろう。君以外の女性と関係を持たずに死ぬか、関係を持つことで生きながらえるか。」
そんなの選択の余地があろうはずがない。
「健気だね。・・・君にその気があれば、卒業後、情報部で働く道がある。この国で、彼を支える道だ。」
それも、答えは一つしかない。
「では、最初の命令だ。彼の出発の日まで、彼を支えて欲しい。彼との ”関係” を続けてくれてかまわない。彼には ”大人の男性” になってもらわなければならないからね。ただし、旅立つ彼を引き留めてはならない。笑顔で彼を送り出すのだ。来たるべき時、君は彼を手放せるかい?」
この人にだけは涙を見せたくない。私は拳を握り締め、震える声で応える。
出来るかどうかは分からない。でも他の誰かにやらせるくらいなら、私にやらせて欲しい。
「誠実な答えだね。君を信じるよ。・・・私のことを恨んでくれてかまわない。出来るだけ早くロシアと決着をつけ、君たちに平穏が訪れるよう、微力ながら全力を尽くすことを約束するよ。」
そう言って参謀は私のもとを去っていった。
彼女は私に選択の余地を一度も与えてはくれなかった。
*****
12月の朝。室内でも吐息は白い。でも、二人で眠る布団は優しくて温かい。
部屋の冷たさを思うと、このまま温かい彼の身体を抱き締めて眠っていたいという誘惑にかられる。でも、私は彼を卒業させなくてはならない。起きて準備を始める。布団から出るとき、外の冷気が布団の中に入り、彼が寒さに震える。その様子は私を笑顔にさせる。
登校前、私は彼に尋ねる。明石君、外套はあるかい?
「それが、先日、冬物を取りに部屋に行ったら、いろんな荷物がなくなっていたんだ。外套も無くなってて・・・」
こんな寒い日に外套なしでは風邪をひいてしまうよ。困ったね。私が持っている物は君には少し大きいよね。
「大丈夫。制服の下に服を重ね着するよ。」
そこで私は思いつく。確か私が陸軍幼年学校の最終学年時に使っていた外套が残っていることを。押入れからそれを取り出し、彼に着せてみると、大きさは丁度よさそうだ。襟に大きめの毛皮があしらわれた外套は驚くほどよく似合っている。こうしてみると、まるで現役の幼年学校生のようだ。その可愛さに、私は思わず感激する。
「ぴったりだよ。明石君。それなら温かいだろう?」
彼は自分が着ている外套が幼年学校生が着るものだとは気が付いていないかもしれない。喜んでお礼を言ってくれる。
「ありがとう。山縣さん。とても暖かいよ。」
今日の彼は幼年学校の外套を着ているせいか、年齢以上に幼く見える。私はたまらず手をつないで歩いてしまう。彼が教室に現れた時の同期の様子を想像すると、笑顔が止まらない。
*****
「おはよう!」
私はいつも以上に元気よく挨拶をして教室に入る。部屋にいた同期生が振り向き、挨拶を返してくれる。私に続いて彼が教室に入ると、彼を見た同期生の動きが止まる。
「「・・・・・」」
彼は笑顔で挨拶をする。同時に周囲の様子に戸惑う。
「おはよう。・・・・?何かあった?」
たまらず秋山さんが彼に語り掛ける。
「おはよう、明石君。・・・よく似合っているね。その外套。可愛いよ。」
応える彼はどこまでも素直だ。
「ありがとう。山縣さんに借りたんだ。」
東條さんは顔を真っ赤にして口を開けてぷるぷると震えている。彼女が一番衝撃を受けているようだ。この手の男の子が彼女の趣味に合うのだろうか。彼女には少し刺激が強すぎたかもしれない。
黙って彼を見つめていた長岡さんが彼に告げる。
「明石君。その外套、とてもよく似合っている。ちなみにそれは陸軍幼年学校生が着るもの。」
「陸軍幼年学校?」
彼はまるで、それは食べ物なの?と言わんばかりの顔で私を見つめる。私は彼に詳細を応える。
「それは、私が士官学校に入る前に通っていた陸軍の学校の最終学年時に着ていた外套だよ。今の君にサイズがぴったりで、とてもよく似合っているよ。そうしていると、まるで本物の陸軍幼年学校生のようだよ。」
彼は無言でしばらく考えた後、不満もなく納得したように返してくる。
「そっか。山縣さんの昔の服が再利用できたんだね。それは環境に良いことだと思うよ。」
彼は東條さんの横を通り過ぎて、いつもの席で外套を脱ぐ。そこでようやく正気を取り戻した東條さんが、真っ赤な顔で眼鏡に手をかけながら、今更のような朝の挨拶と共に、とんでもない提案をする。
「明石君、おはようございます。外套、とてもよく似合っていました。ご馳走さま、いえ、ありがとうございます。ところで、今日の終業後、一緒に写真館に写真を撮りに行きませんか?」
その日の終業後、陸大1期生全員で近くの写真館に行き、集合写真と彼が外套を着てひとりで映る写真を撮り、それぞれ全員+1名分(秋山さんが何故か2枚所望)焼き増した。
彼の写真は大切な宝物だ。
*****
写真館から宿舎への二人の帰り道。
澄んだ冬の夕焼け空に、宵の明星が煌めく。
外套の毛皮の襟に白い吐息を重ねながら、彼は恥ずかしそうに問いかけてくれた。
「山縣さん、お願いがあるんだけど。」
「何だい?」
「僕も山縣さんの写真が欲しいんだ。いいかな?」
こんなに嬉しいことはなかった。こらえた涙は厚い膜となり瞳を覆う。彼に応える私の笑顔は崩れてはいないだろうか?
「承知したよ。今度、身だしなみを整えて撮ってくるよ。大事にしてくれると嬉しいね。」
彼は素直な笑顔で喜びを伝えてくれる。
「ありがとう!山縣さん。ほんの少しでいいから、笑顔で撮ってもらえるといいな。僕は君の優しい笑顔が好きなんだ。大切にするよ。」
何とか堪えてきた私の瞳から、とうとう大粒の涙が零れ落ちてしまった。
この時代、写真を笑顔でとる習慣はあまりなかったと思います。
費用もそれなりのものでした。