罠にかかった者
朝、家に帰るとライリー中佐は機嫌が悪かった。
分かりやすく拗ねてあまり話しかけてくれない。僕がやっていることなど彼女は聞きたくもないだろうし、僕も話したくない。代わりに彼女の状況を聞かせてとお願いすると、少しづつ口を開いてくれる。スラブ系の血も受け継ぐ彼女は、ロシア軍に建築資材を卸す会社に勤めている。開戦を控え軍の需要は増えているらしい。
『ロシア軍は要塞の外の高台にある前進砦を補強しており、そこに材木を卸しています。日本が内陸部から兵を前進させたとき、最初に旅順港の湾内を見渡せる高台なので戦略上の要所です。図面を入手次第、日本陸軍に連絡します』
それは、この戦争の陸戦を左右する情報だ。軍に所属する者として心からお礼を述べると、彼女は僕を抱きしめて囁く。
『そういう他人行儀な態度はやめてください。貴方の為にやると決めたことです。モトジロウ、今日は家でゆっくりと体を休めてください。今晩は早く帰ります』
彼女の想いは手に取るように分かる。そうだね、仲直りしよう。日本のために頑張ってくれる彼女に、僕は笑顔で応じた。
『では、夕飯を準備して待ってます。いってらっしゃい、中佐』
*****
3日後の夕暮れ、お店の掃除を終えマダムとお茶を楽しんでいると、スミルニツカヤ大佐の使いが現れる。情報が得られず焦り始めていた僕は、素直に呼び出しに応じる。そのまま馬車に乗せられた僕は、景色を見る機会もなく彼女の寝室に通される。姿を現した彼女は、ゆったりとした睡眠用のガウンを羽織っている。
『周瑜殿、来てくれてありがとう。荷物は好きなところに置いてもらって構わない。早速だがはじめようか』
『承知しました、大佐殿』
前置きは不要。荷物を置いた僕は、すぐに仕事を始めた。
*****
翌朝、目を覚ますと横にいるはずの彼女がいない。
部屋を見渡すとすでに軍服に着替えた彼女が窓際のカーテンから景色を眺めている。僕が目覚めたことに気付いた彼女は朝の挨拶をくれる。
『おはよう、周瑜殿。まだ時間はある。しばらくそこでゆっくりしてもらって構わない。何か飲み物を取ってこよう』
朝日に照らされた彼女の笑顔は印象的だった。冷たい感じのする彼女だが、あんなにやさしい顔もできるのか。
一人、部屋に残された僕は窓からの景色が気にかかる。外を見れば周辺の様子を知ることが出来る。起きて服を着るべきか。彼女は暫くこのまま休めと言った。なら、裸のまま景色を見て彼女が戻ってくる前にベッドに戻るべきだろう。
全裸で足早に窓際に進みカーテンの隙間から外を伺った僕は、目の前に広がる光景に驚く。そこには渤海に張り出す旅順港と係留された幾隻もの軍艦の景色が広がっていた。
「旅順港がこんなに近い・・・ここは殆ど港なんだ。この屋敷は要塞の最深部にあるという事か・・・」
独り言を呟きながら外を見ていると背後に気配を感じる。振り向いた僕は固まる。
部屋の扉の横、腕を組んでうつむいた彼女が壁に寄りかかっていた。驚きのあまり口がきけない僕に対し、彼女は眼を閉じたまま困惑の色で語り始める。
『赤子の手をひねるとはこのことだな。しかし、君はあまりに隙が多すぎる。もしかして、私を困らせようとして、わざとやっているのか? モトジロウ・アカシ大佐』
*****
苦しそうな表情で彼女は語る。
『とにかく何か着たまえ、大佐。君は本当にあのアカシ大佐なのか? ペテルブルグの王宮で王家を揺るがした事件の張本人などとは、とても信じられん。これほど隙をさらして、いったい私にどうしろというのだ?』
激しい後悔で暫く口もきけなかった僕は、ようやく言葉を絞り出す。
『何時からですか?』
『君の正体に気付いたときか? 君は自分を諜報員と思っているのだな? よかろう。答え合わせをしてあげよう。まず最初は初めて君に会った時だ。君は私に気付かない”ふり”をした。私がそのことを指摘すると君はとても不味そうな顔をした。あの時点で君が民間人でない可能性を考えていたよ』
『・・・』
『君は私が貴族だと気付いていたのだろう? 私の目は節穴だとでも思ったのか? 皇女殿下の御印を堂々とさらして私が気づかないとでも?』
『・・・』
『帰りの馬車、私は君に同行した部下に指示を与えていた。君が理由を付けてカーテンを開けようとするかもしれないと。君は馬車が出た途端にカーテンを開けるよう頼んだそうだな。此処には再び来ることになっていた。機会はいくらでもあったはずなのに、なぜそれほどまでに不注意なのだ?』
言葉を返せない。彼女の言うとおりだ。
『極めつけがこれだ。私が部屋を空けた途端、君は裸で窓際に飛びついた。いいか、スミルニツカヤ家は男性を社会の宝として大切に扱うことを旨としている。加えて君には英国情報部のダブル・オーに準ずる能力を持った守護者がいると聞いた。その者は絶対に諦めずに世界の果てまでも君を追ってくるだろう。君は本当に厄介極まりない存在だ。今、私がどれほど困っているか君には想像もつくまい』
こんな屈辱、生まれて初めてだ。
完膚なきまでに僕を打ち負かした彼女は、自分こそ被害者と言わんばかりに僕の扱いに困惑する様を語ってくる。まるで勝者がとるべき態度ではない。これなら、敵意に満ちた目で僕に向かってきたラスプーティンの方がずっとましだ。
僕は裸のまま怒気を込めて彼女を睨みつける。
此方の視線に気付いた彼女は、しばらく目を合わせた後、大きなため息とともに尚も屈辱の言葉を投げつける。
『その眼はわざとやっているのか?成程、女というのは情けない生き物のようだ。一糸まとわぬ姿でこちらを睨みつける男性の姿にこれほど魅了されるとはね。きっと女性の体の奥深くには、太古の男性が持ち合わせていた攻撃性みたいなものに憧れがあるのだろう』
彼女の言っていることが分からない。握りしめたこぶしの震えを抑えることができない僕に、彼女は続ける。
『君は私を陥れる為に遣わされた悪魔か何かか? 私が一体何をしたというのだ? ただ、男を買っただけだと言うのに・・・』
語りながら昨夜自ら着ていたガウンを裸の僕に着せようとする彼女。これほどの屈辱は我慢できない。敗者に対して失礼にもほどがある態度だ。僕は大きな声で目前の彼女に怒鳴りつける。
『僕を拘束なさい!首輪でもなんでもつけて、裸で引きづり廻すべきだ!それが勝者がとるべき態度だ。ラスプーティンはそうしましたよ!いいですか、最初に言っておきます!僕は諦めません!覚悟しなさい!オルガ・スミルニツカヤ大佐!』
突然の僕の態度に、目を見開いた彼女は身動きが出来ずにいる。
僕は強く心に誓った。
このままでは終わらせない、絶対に。
*****
夜、モトジロウが潜入した遊郭で彼の帰りを待つ。
彼は拘束されたかもしれない。正体がばれたのか、あるいは相手の女が彼を返さないと言い出したのか。私にとってはどちらも同じことだ。一刻も早く彼を救出したい。だが彼がいるのは堅牢な旅順要塞の中だ。焦って行動を起こし、しくじるわけにはいかない。
マダムと無言で向かい合って席に座っていると、扉を叩く音が聞こえる。入口で来客に応じたマダムが国際電報を手に席に戻ってくる。昼間、彼が要塞から戻らない事をマダムは英国情報部に国際電報で報告していた。その返事が届いたのだ。暗号解読用の冊子を手に電文を書き下した彼女は、私にそれを手渡す。
『本部の局長からライリー中佐宛です』
無言でマダムのメモを受け取った私は局長からの電文に目を通す。
<これは英国情報部が当初から想定した展開です。
安心なさい、彼を手にかける者などいません。まずは掴んでいる情報をマダムに託し身軽になりなさい。彼を罠にかけ捕えたロシア士官は、今頃、思い知っていることでしょう。本当に罠にかかったのが誰なのか。中佐、落ち着いて対処するのです。彼が本領を発揮するのはここからです>
メモを読む手が怒りで震える。局長はこの展開を予想した上でこの作戦を提案したのか。彼女はモトジロウを利用したのだ。彼女がほくそ笑む姿が脳裏に浮かんだ私は拳で机をたたく。
言葉を絞り出して私はマダムに助けを求めた。
『情報部は彼を利用しました。彼を救出します。協力していただけますか?マダム』
読んで頂きありがとうございます。
次回は来週後半、もしかしたら週末までかかるかもしれません。
再び読んで頂ければ幸いです。
ミルズ




