悔いるスパイ
僕を捉えた皇女は王族用出口から廊下に出る。
外には道具を抱えた女中二人が控えていた。
『ごめんね。不自由かもしれないけど我慢してくれる?あの女に見せつける必要があるの。鎖と手枷は後で外してあげる』
アナスタシアは笑顔で一方的に話しながら僕の両手首を目の前で強引にそろえて握り締める。何をされるか分からない恐怖で動けずにいると女中に革の首輪と木製の手かせを着けられる。ぴったりと首に巻きついた輪の背中側からは鎖が伸びており、鎖の端は首輪を付けた女中が握っている。長さは数メートル。
いつの間にか廊下に出ていたラスプーティンが皇女に進言する。
『準備は整いましたか?殿下。では陛下の許に参りましょう』
『英国のスパイは捕えたの?』
『部下はそのつもりでしょうが、あれを捕えるのは無理でしょう』
『ふうん。いいの?捕まえなくて』
『この男を確保した以上、我々に負けはありません。あれは決して諦めないでしょうが、再び罠を張るだけのことです、殿下』
『・・・そうね。行きましょう』
中佐はきっとここから逃げきり、僕を救い出してくれるはずだ。僕は自分に言い聞かせる。
アナスタシアは鎖の端を女中から受け取ると、僕の手を引いて廊下を歩きだす。首輪につながれた鎖で引き回されないだけでもありがたいのかもしれない。彼女の口調や態度はどこにでもいる少し生意気な女の子に見える。王族特有の育ちの良さのようなものは感じられない。この娘はどんな境遇で育ってきたのだろう。
連れて行かれた先に構える王宮深部の豪華な扉。何の躊躇もなくその扉を勢いよく開けたアナスタシアは大きな声を張り上げた。
『陛下!いる?賊を捕まえたわよ!』
部屋の中央、スーツ姿で腕を組んで立っていた人物が振り返る。
長身で涼しげな容貌、寂しげな雰囲気を纏ったその女性こそ、ウィーンのオペラハウスで確認した女帝ニコライだった。
*****
向かい合う女帝と皇女の背格好は全く同じだ。ウィーンで見た時にはロングヘアだった皇女は、女帝と同じすっきりとしたショートヘアにしており顔の造作も極めて似ている。唯一、年齢の違いだけは誰の目にも明らかだ。まるで異なる時間にいる同一人物を映し出す特殊な鏡の前に立っているようだ。
背筋を伸ばして腕を組んだ女帝は僕を見ても表情一つ変えず口を開こうともしない。沈黙を守る女帝に代わり、恭しく頭を下げたままラスプーティンが報告する。
『陛下、先般ご報告させていただきました情報に基づき、アナスタシア殿下ご指揮の下、無事、賊を捕えることに成功いたしました。問題は排除されましたので、舞踏会はこのまま続行させていただきたく』
相変わらず女帝は無表情で僕を見ている。その瞳は冷たく一切の感情を感じさせない。僕が着ている羽織に気付いていないのか。その態度に僕は不安を覚える。彼女はもう紀之介さんのことを忘れてしまったのだろうか?
長い沈黙の後に女帝は短く応じる。僕は初めて彼女の声を聞いた。それは想像以上に弱弱しく掠れた声だった。
『分かりました・・・他に報告することは?』
女帝の掠れた声を聞いたアナスタシアは満足したらしい。首輪の鎖をこれ見よがしに見せつけると嬉しそうに吐き捨てる。
『無いわ。日本が何を考えてこの男を送り込んだか、これからじっくりと彼から聞き出すから待ってて』
彼女は乱暴に僕の肩を突いて部屋の外に向かう。女帝の前での彼女の態度は廊下にいた時よりも明らかに厳しい。敢えてそうしているように見える。僕を利用しようとしているのか?
女帝の態度が僕を見ても変化がないことに不安を覚えた僕は、部屋を出る直前に再び彼女の顔色を確認する。僕と目が合った瞬間、彼女は目を逸らす。
ラスプーティンは無言で深く頭を下げ廊下に出ると静かに扉を閉める。扉が閉じた直後、楽しそうにラスプーティンに告げるアナスタシアの声が廊下に響き渡る。
『母様の言うとおりね!あんなに動揺したあの女を見たのは初めてよ!あれ、絶対、何か企むわね!ううん。もしかしたら、もう私たちに秘密で何か仕込んでるかも。うん、きっとそうよ。油断ならないわ』
あれで動揺していた?そうは見えなかったけど。
『殿下、ここは宮中です。あのお方のことは ”陛下” とお呼びください』
『そんなのもういいわよ!それより、これでもうやるべきことはやったのよね?この子、今から私の好きにするから。口出しはさせないわよ!』
『承知しております、殿下。警備は手配しておりますので。部屋では手枷を取っても構いませんが首輪には』
『分かったって言ったでしょ!何度も言わせないで!ねえ君、私の部屋に行きましょう!そこで手枷を取ってあげるから!ごめんね、窮屈でしょう?』
彼女は僕の腕を取り嬉しそうに移動を始める。
部屋を出る直前、女帝は僕から目を逸らしたように見えた。皇女は彼女が動揺していたと言う。
僕は何かを感じさせる事が出来たのだろうか?あの寂しげな女帝の心に。
=====
アナスタシアとラスプーティンの退室後も、女帝は寂しげにその場に立ち尽くす。一行が退室した直後から、整ったその顔に深い苦悩の色を浮かべる彼女。暫く立ち尽くした後、震える声で部屋の奥に控えていた女中を呼び出す。
『エバ!エバ・アゼフ!こちらに!』
姿を現したのは先日までイワンの下で彼を支えていた部下の女性。新たに女中として働く彼女は、女帝の前に進み出て頭を下げる。辛そうに震える声で女帝は彼女に告げる。まるで救いを求めるような声色で。
『貴女の言うとおりでした。警告がなければ私は冷静を保つことはできなかったでしょう。彼がアカシ大佐ですね。キノスケに瓜二つです。あのハオリを見たときは涙を堪えるのに必死でした。彼は首輪に鎖を付けられ両手の自由も奪われていました。痛ましくてなりません』
『アナスタシア殿下は以前からあの男性に強い興味を示していました。当面は彼女の道具として使われるでしょう』
『・・・』
『彼を救いたいですか?陛下』
『叶うものなら今すぐにでも。しかしラスプーティンは周到です。エバ、彼の様子を探ろうとしてはいけません。王宮内で見かけたときには彼の様子を報告しなさい』
『畏まりました』
深く頭を下げたまま、エバは明石大佐の処遇について皇帝に進言する。
『陛下、この先、彼を連れ出す機会が訪れるかもしれません』
『どういうことです?』
エバは女帝に報告する。
誰よりも強く、諦めることを知らない彼の ”守護者” について。
=====
王宮に近いセーフハウス。
部屋に飛び込んだ彼の ”守護者” は、ソファーに座る上司を確認するも、言葉を交わすことなく衣装棚に向かう。棚の奥、隠してある小銃と拳銃、それらの弾と整備道具を持ち出しテーブルに並べる。
ソファーに座る上司は深いため息と共に彼女に告げる。
『その様子では、大願は果たせなかったのですね、中佐。銃の整備は良いですが、まさか早急に彼を救いに行くつもりではないですよね?』
ライリー中佐は応えることなく、小銃を分解し整備し始める。
『落ち着きなさい、中佐。今の貴女は冷静さを欠いています』
作業をする手元から目を離さずライリー中佐は応える。
『私は女王陛下に仕える身です。陛下の御命令がない限り、私は自身の判断で動きます。貴女の命令に従う必要はありません』
『これは命令ではありません。旧知の友としての助言です。聞きなさい、中佐。貴女は彼が今、宮中のどこに居るか把握しているのですか? 仮に彼の許にたどり着いたとして、彼が気を失っていたらどうするのです? 彼を抱えて移動するのですか? あまりに無謀です』
『・・・』
『よく考えるのです。王宮には情報部の手の内の者がいます。彼女達の報告を待つのです。彼がどこに居るのか。どんな様子なのか。その上で彼の救出を考えるべきです』
『だったら!・・・その者は何故事前に情報を上げなかったのですか!今日の舞踏会で皇帝が入れ替わっていると!』
突然、声を荒げたライリー中佐を落ち着かせるよう、局長は努めて冷静に彼女の問いに答える。
『今回はラスプーティンが我々を上回ったのです。彼女の周到な準備により私たちはそれを事前につかむことができなかったのです。それを今責めても無益です』
作業の手を止めたライリー中佐は長い沈黙の末に、がっくりと肩を落とし深く首を垂れる。肩が小刻みに震えだす。
『申し訳ありません、局長。これは私のミスです。彼に教えたのは私なのに・・・』
彼女は思い出す。初めて彼に諜報について教授したときの事を。
<さて、人に対して諜報活動をする際、最も注意すべきことはなんでしょうか?>
< ・・・その人と仲良くなること? >
< くっ!!ず、随分と可愛いらしい回答ですね。危うくまた理性を失うところでしたよ。まあ、貴方の場合は間違いではないですが。重要なのは間違いなく本人に対して行うことです>
震える声を絞り出す中佐。
『皇帝の顔を確認せずに彼を送り出したのは私です。私のせいで、彼は今頃・・・』
これほど落ち込む中佐の姿を見るのは局長にとって初めての事だ。彼女はライリー中佐を諭す。
『中佐、冷静さを欠いては敵の思う壺です。彼を救い出すにはあの魔女が仕掛ける罠に飛び込む必要があります。だからこそ十分な情報に基づき行動を起こすべきです。冷徹な判断こそ貴女の強みだったはずです。王宮からの報告を待つのです。彼は我々が知る男性よりも、ずっと強い人です。きっとあきらめずに貴女の救出を待ち続けるはずです』
中佐は再び小銃の整備作業を始める。
彼は今、この瞬間にも辛い思いをしているかも知れない。だが確実に救い出すには報告があるまで待つしかない。
彼女は感情を振り払いひたすらに作業に没頭することで、折れそうになる心を奮い立たせようとしていた。
読んで頂きありがとうございます。
次の更新は来週前半を目指します。
ミルズ




