川上操六
爽やかな秋の朝。教官は開口一番、僕の予定を伝える。
「明石、本日の終業後、校長室に行きなさい。君の卒業後について話がある。」
教官の言葉で思い出す。先日、山縣さんが受けたものだろう。どんな話をするのか。少し緊張する。
本音をいうと、今は卒業後を心配するほどの余裕は僕にはない。以前の明石君は成績は良かったらしい。だけど今の僕はかなり苦労している。特にフランス語は散々で、次の試験に向け猛勉強の日々だ。将来、欧州で活動するには必要な技術でもある。
今日は砲術で弾道計算の授業を受けた。これには以前の人生で工学部だった経験が生きている。授業中、教官に指名され黒板で問題を解くことになり、無事正解を導き出せた。数学や統計学などの一般教養も問題なく対応できており、理系科目は及第点はとれそうだ。
黒板で問題を解き終わり席に戻ると山縣さんが小声で囁く。
「明石君、体調を崩して以来、いろいろ忘れてしまったみたいだけど、理系科目は以前と変わらず大丈夫そうだね。大したもんだよ。」
でも、フランス語と軍事科目(戦術や戦史など)がねえ。毎日勉強してるんだけど、なかなか難しいよ。
「戦術や戦史は試験前の勉強で何とかなるけど、語学は成果が目に見えるまで時間がかかるからね。でも、地道に単語や熟語を覚えれば、必ず成果に結びつくから、頑張りたまえ。君ならできるよ。」
山縣さんに言われると、不思議とやれそうな気がしてくる。そうだね。とにかく今は頑張るしかないね。僕は休み時間もフランス語の単語帳に目を通す。
最近は1日が過ぎるのが早い。
*****
授業後、山縣さんには先に帰ってもらい、僕は校長室に向かう。
入室許可を得、部屋に入ると立見校長のほかに、見知らぬ女性が座っている。
陸軍の制服を着ているから軍人だろう。校長がその方を紹介してくれる。
「明石君。こちらは川上参謀だ。情報部の部長でもある。君が卒業したら上司になる予定の方だ。」
年齢は45歳前後、自然にウエーブしたロングヘアが似合う、美しく落ち着いた大人の女性だ。身長は175cm前後、東條さんと同じぐらいだろう。彼女は席を立ちあがると僕に近づき、まじまじと僕の全身を値踏みするように眺め、おもむろに語り始める。
「君がうわさに聞く明石君か。ごく普通の男子だね。いや、悪い意味ではないよ。しかし、なぜ情報将校などを希望したんだい?理由を聞かせてくれるかい?」
それが彼女、<川上操六>との最初の会話だった。
彼女はこの先、僕を手塩にかけて間諜として育ててくれる恩人となる方だ。
でも、その時は、とにかく彼女が身にまとう魅惑的な雰囲気にのまれてしまい、上手に会話ができなかったことを覚えている。
*****
川上参謀の大人の女性の雰囲気に押されつつ、僕は山縣さんから聞いた以前の僕の主張を述べる。
「この先、ロシアとの対決は避けられ無いでしょう。かの国に対し通常の諜報戦では勝利はおぼつきません。より多くの戦果を諜報戦で望むには、男性軍人が任務に就くことが有効だと考えます。」
彼女は僕の話を聞くと、何かに満足したように、優しそうな笑顔になり、立見校長に告げる。
「立見君、申し訳ないが彼と二人だけで話をさせてくれるかい?情報部の内情は機密事項が多いのでね。」
校長が一礼して部屋を出ていく。川上参謀のほうが上官だということがわかる。二人になると、参謀は校長の机の上に座り足を組む。スカートから覗く足は大人の色気にあふれている。
「明石君。先ほど君のことを普通の男子だと言ったね。あれは誉め言葉だよ。君は昨年の大津事件を覚えているかい?」
大津事件?確かロシアの皇太子が日本の大津で襲われた事件かな?細かくは思い出せない。
「事件に会う前、女帝ニコライは立ち寄った神戸の遊郭で一人の日本人少年を甚く気に入り、幾夜も同衾したらしい。彼には、いまだに彼女から恋文が来るそうだ。私はその少年を取り調べたことがあるが、君の外見は彼にそっくりだよ。彼女が君を見たら、放ってはおかないだろうね。」
僕は川上参謀の意図を理解できずに押し黙ってしまう。今、遊郭の少年の話を持ち出す理由は何だろう?もっと明解に話してくれれば良いのに。
「さて。君の言うことは一理ある。国際的にも、男性の間諜は珍しいが、その特性を生かせば大きな成果を望めるかもしれぬ。その上で君に問いたい。女性より体力的に劣る男性の間諜がやるべきことは理解しているね?」
・・・・言いたいことはなんとなく分かる。迷った末に応える。
僕は子供ではありません。
「ならいいよ。もし君が女性を知らない場合は、私が教えてあげるつもりだったが。そうだね、山縣君あたりに教えてもらっているのかい?結構なことだ。」
・・・・・?なぜ山縣さんがここで出てくるんだ?
「不思議かい?情報部にとって、君は将来の重要な人的資産だ。君の配属希望が情報将校であることを聞いて以来、君の動向はある程度調べさせてもらっているよ。」
・・・・・成程。そういうことか。みんなお見通しなんだ。
「彼女とも先日話をした。君が将来、情報将校として任務に就くことがどういうことか、理解してもらった。彼女はその上で、今、君の面倒を見ている。陸軍大学校は当初、君たちの関係に何らかの注意も考えた様だが、私の方から君たちを放っておくよう指示した。」
僕の心の中に、言いようのない感情が沸き上がる。川上参謀が山縣さんと話したのは、おそらく、先日の秋山(妹)さんと帰宅した日だ。思えば、あの日から山縣さんの様子がおかしかった。なぜ彼女を巻き込んだのだろうか?
「彼女は関係ないと思っているかい?それは甘いね。君は国に殉じるんだ。この国の為にその身をささげて活動するのだよ。場合によっては、文字通り、君自身の体を使ってね。彼女はそんな君と大きく関わってしまった。もしかしたら君がそうしたのかもしれないがね。」
それはつまり、僕に責任があるということだ。
「いずれにしても、君と関わった以上、彼女には君の任務を知る権利があった。彼女は自ら進んで、君の将来の職務を私から聞き出したよ。彼女はすべてを理解したうえで、今の生活を送っている。将来の君の活動に役立つように、君との "関係" を続けているのだ。彼女自身が望んでね。」
以前の明石君が、女性を寄せ付けないような態度をとっていた理由を、今頃になって理解する。将来の自分の責任を自覚していたからこその態度だったんだ。僕は、彼女にひどいことをした。
「安心したまえ。彼女は何一つ、誰一人、恨んではいない。」
僕は俯いてこぶしを握りしめる。言葉にならない。
「今日はこのことを君に伝えに来た。君には選ぶ権利がある。このまま退学し、彼女の世話になる未来もある。これを知ったうえで、まだ情報将校として働く意思があったなら、卒業後、私のところに来なさい。」
*****
「明石君、フランス語だけはしっかり勉強しておきなさい。君がどういう選択をしても、将来役立つはずだ。」
最後に一言を残して、川上参謀は部屋を後にする。今の僕の成績も把握した上での助言かもしれない。
残された僕は、しばらく立ち尽くした後、茫然と校長室を出て教室に向かう。
直ぐにあの部屋に帰る気にならない。教室に入ると、そこには山縣さんがいた。
「明石君、終わったかい?帰ろうか。今日は、夕飯、何を食べようね?」
彼女は優しい笑顔で語り掛けてくる。僕の事を待ってくれていたのだ。何から話せばいいんだろう。言葉が見つからない。彼女はそんな僕に、明るく声をかけてくれる。
「今日は疲れたろう。何も言う必要はないよ。とにかく帰ろう。しんみりしたりするのは無しだよ。明るく過ごそうじゃないか。」
山縣さん、ごめん。君を巻き込んでしまった。
「なぜ謝るんだい?君はいろいろ分からなくて不安だったんだろう?私しか頼る先は無かったのだろう?私はそれを利用したんだからお互い様さ。さあ、帰ろう。私たちの関係は学校から公認されたも同然だからね。残された時間を有意義に過ごすべきだと思うよ。」
僕はあの日を思い出す。体調不良で医務室で一夜を明かした次の日、彼女と一緒に銭湯に行った後。
<なんかあの宿、全然なじめなくてさ。あまり帰りたいと思わないっていうか・・・・出来れば泊めてもらえると助かるなーなんて。>
あのとき僕は不安だった。彼女なら助けてくれると思い頼ってしまった。彼女は僕が部屋に上がることを逡巡していた。それなのに、僕は半ば強引に部屋に泊めてもらったのだ。僕は、心から後悔する。
それでも、僕は明石元二郎としての諜報活動を止める訳にはいかない。僕がここであきらめると、来るべく戦争でここにいる同期生を危険にさらす事になる。
明石君、君は正しかったよ。
君の態度は君の優しさ故だったんだね。