東條英教
朝日のもとで見る新築校舎はきれいで、明治特有のどっしりとした風格が感じられる。
僕は初めて陸軍大学校(陸大)の青山校舎に登校した。
陸軍大学は、士官学校卒業生もしくは若い尉官を対象に将来を嘱望される候補生を全国から集めて入学試験が行われる。第1期は15名しか入学が認められなかった。その意味では同期生は全員がエリートだ。就学期間は3年間。僕たち第1期生は、来年3月に卒業予定らしい。授業は座学を中心に、数学などの理系科目や語学(フランス語)など、文字通り大学と言える内容だ。かつて理系大学の大学院を卒業した僕でも、精神年齢が中年となった今、ついて行くことができないほど。今後、猛勉強が必要だろう。
昨日、僕は黙って座っているだけで1日を乗り越えることができた。その日は僕の顔色が悪いことを理由に、先生も同窓生も、僕の体調を心配するだけ。以前の僕と今の僕の差を気にする者は現れなかった。
だけど、そろそろ黙って1日を過ごしているわけにもいかない。僕は山縣さんに教わった以前の僕の“ツンデレ”風な語り口で当面を乗り越えることに挑戦する。
そんな僕に訪れた最初の難関が彼女、<東條英教>だった。
彼女はショートヘアのメガネが良く似合う身長175cmぐらいの女性で、同窓生の中では僕に次いで身長が低い子だ。年齢は24、25歳ぐらいだろう。座学の成績は同窓生一番で、入学試験は首席だったらしい。唯一、士官学校を卒業せずに入学が許可された苦労人でもある。本日の授業終了後、彼女は僕に語りかけてきた。
「明石君、昨日は体調が悪そうでしたね。心配しました。もう大丈夫ですか?」
大丈夫。心配かけてすまないね。(こんな感じか?)
「体調が戻ったなら結構です。今日は以前からあなたに進言していた件で、再度、意見しに来ました。」
“意見”しに来た?穏やかじゃないな。きっと例のやつだろう。僕はあえて何も語らず、彼女に先を促す。
「あなたは陸軍大学校を退学すべきです。」
*****
昨日、山縣さんに教えてもらった。彼女(東條)は以前から僕が陸軍大学校に在籍していることを快く思っていなかったらしく、ことあるごとに僕に退学を進言しに来たらしい。そのたびに僕に追い返されていたらしいけど。何でも男性はおとなしく女性の庇護のもと暮らすのが一番幸せなのだから、僕もこんなところ早くやめてしまえ、というのが彼女の主張だそうだ。その考え方の為か、僕のことを応援してくれていた山縣さんともよく意見が対立したらしい。
とはいえ、今の僕に彼女を説得する材料など何もない。そりゃ、彼女の言う方が幸せになれるなら、そうしたいのはやまやまだ。けれども、今の僕には選択肢はない。(山縣さんが僕の面倒を見てくれるなら、それもありかと思うけど。彼女に迷惑はかけられない。)当面、現状維持を図りながら、以前の続きの人生を歩む他に良い案は見つからない。
とりあえず僕は黙って彼女を見つめる。すると、彼女は少し頬を赤く染め、視線をそらしたうえで、主張を続ける。
「たしかに、あなたの意見は一理あります。諜報戦は国同士の戦争の結果を左右するほど重要ですし、そこに男性の力が加われば相当な成果が望めるでしょう。でも、それではあなたの人生はどうなるのですか?活動中につかまればスパイとして拷問されますし、性的暴行を受けるのは明白でしょう。そんな危険に、何もあなたが望む必要はないのではないですか?」
・・・・諜報戦?・・・・何のことだろう。後で、山縣さんに聞いてみよう。
この子と僕の以前の詳細なやり取りを承知していないので、正直、何も言い返せない。とにかく僕は今の僕が空っぽな存在であることを見破られないように、強い意志で彼女を見つめてつぶやく。
「それで?」
すると、僕に見つめられる彼女の顔はますます赤くなる。自ら勝手に窮地に追い込まれているようだ。
「だ、だから、私はあなたの人生を考えて進言しているのです。あなたは早々に退学し、だれか好きな女性でも見つけて、その方の庇護のもと、子孫繁栄に尽くすべきです。」
彼女の主張は理解した。聞いていた通りだ。僕は何とかツンデレ風に彼女に応える。
「君の言いたいことは分かった。悪いが今の僕には他に生き方はないよ。他に話がなければ、この件でこれ以上君と議論するつもりはない。」
僕はなんとか会話を終わらせようとする。だけど彼女はなかなか僕を解放してくれない。僕は助けを呼ぶ視線で山縣さんを見る。すると、彼女が僕に助け舟を出してくれる。
「東條さん、あなたの意見は彼も承知の上で、彼は日々頑張っているのです。彼もこれ以上は議論するつもりはないと言ってます。」
東條さんは相手が僕から山縣さんに代わることで、急に勢いを増したかのように自らの主張を続ける。
「山縣さん、あなたは本当に彼の将来を思っているのですか?あなたは彼と懇意にしているようですが、ただ単に彼の言うことになんでも従うことで、気に入られたいだけではないのですか?今しかないのですよ!卒業したら彼は情報部所属の外国公館駐在武官として諜報活動を開始するのです。その上で、彼がスパイ容疑で捕まってから後悔しても遅いのですよ!」
すると山縣さんも言い返せなくなってしまう。周りにいた同窓生も黙っているが、彼女の主張は何やら共感を得ているようだ。彼女はかなり口が立つらしい。このままでは言い負かされてしまう。とにかく一旦、議論を終わらせるため、僕は東條さんに告げる。
「僕は生き方を変えるつもりはないよ。以上だ。山縣さん、帰ろう。」
僕が強引に議論を終わらせ帰ろうとする。それでも彼女はあきらめない。僕の手を握り、議論を続けようとする。
「明石君、待って。後悔しても遅いのですよ。あなたなら、多くの女性が面倒を見ることに同意するはずです。私だって。だから、今一度考え直してください。任官してからでは遅いのですよ?」
彼女は僕に言い寄るあまり、力を込めて僕の手を握ってしまったようだ。この世界の女性はかなり力が強いらしい。僕は痛みに思わず顔をしかめる。すると彼女は、驚いて僕の手を離した。
「ごめんなさい!貴方を傷つけるつもりはありませんでした!つい・・・・」
なんとか議論を終わらせることができたようだ。僕は彼女の横を通りすぎ、山縣さんに促す。
「帰ろう。山縣さん。」
教室を出る直前、振り返って彼女を見る。彼女は本当に残念そうな顔でこちらを見ている。その視線に悪意は感じられない。悪い子じゃなさそうだ。きっと、以前から、心底僕のことを心配していたんだな、この子は。
僕は何だか少しだけ東條さんに同情したくなった。
*****
その日の夜。僕は例によって山縣さんの部屋にいる。昨日と同じく、二人で風呂屋に行き、そのままお邪魔した。やっぱり、僕の部屋は狭すぎて、落ち着かない。それに、山縣さんのそばにいるととても安心する。僕は山縣さんから以前の僕と東條さんのやり取りを教えてもらう。
「君は以前から諜報戦の重要性を主張していてね、男性が関わることで大きな戦果が望めると主張していたのだよ。それはその通りだと思う。何せ貴重な男性に言い寄られたら、世の女性は大概の事は断れないはずだからね。」
ふーん。そういうことか。・・・・ここで、ようやく僕はふと思いつく。
そういえば、・・・・“元二郎” という特徴的な名前のせいで、僕はその名前を知らないと思ってしまっていた。だけど、“明石” という名字には覚えがあるような気がする。・・・“明石”、“明石”・・・うーん。思い出せない。なんだっけ?
「清との戦争が終わり、このところロシアの動きがキナ臭くなってきている。このままでは戦争は避けられないだろうね。我が国にとっては強敵だよ。諜報戦でも、できることは何でもやらないと、我が国の勝利は望めないだろうね。」
ロシアとの戦争?日露戦争か。
たしか秋山好古とか真之って、日露戦争で活躍したんだ。国営放送のスペシャルドラマで見た。あれっていつだったんだろう。1900年ごろかな?そうするとあと10年位か。・・・・ん?・・・・明石って、もしかして!!あの “明石大佐” の事か?!!
「君の主張は、我が国がロシアに勝利するためには、男性の誰かが諜報戦の任務に就くべきであり、適任者が他にいないならば自分が遂行する、というものだったよ。」
・・・・マジか・・・・どうしよう・・・・
僕は自分の運命に大いなる不安を感じる。でも、こればっかりは誰にも話すことはできない。
不安そうな表情をしていたのであろう僕を心配し、山縣さんが声をかけてくれる。
「どうしたんだい?急に顔色が悪くなってきたよ?大丈夫かい?」
「山縣さん、僕は心配になってきたよ。やっていけるだろうか?」
「心配ないよ。君ならできるさ。私が応援するよ。」
山縣さんは僕を抱きしめてくれる。
ああ、もういいか・・・・きっと僕が逃げるわけにはいかないんだ。
同期のみんなはここを卒業したらきっと日露戦争に従軍することになるはず。僕がこの運命から逃げれば彼女たちを危険にさらすことになる。そんな卑怯なことはしたくない。
僕は山縣さんと抱き合うことで、不安な気持ちを忘れようとした。
次回は『秋山好古』、GW後半、投稿予定です。