山縣有朋
その日、僕は医務室で一夜を明かした。
面倒を見てくれた彼女<山縣有朋>によると、現在僕が身を寄せている宿舎は貧乏学生ばかりで碌に病人の面倒を見れるものはいないらしい。それならば、無理して宿舎に帰るよりも、このまま医務室で一晩休んだほうが良いだろうと助言してくれた。従わない理由はなかった。彼女は僕が再び眠るまで、横についていてくれた。
翌朝、残念ながら僕を取り巻く状況に変化はなかった。相変わらず僕は“陸軍大学校”というところにいる。かなりの時間眠った気がする。体調は戻ってきたようだ。これなら立って歩けそうだ。すると昨夜の彼女が医務室に顔を出す。彼女の身長はおそらく180cmぐらいだ。ストレートのロングヘアを後ろで一つにまとめた優しいたれ目の美女だ。年齢は30歳ぐらいだろう。後で聞いたが、彼女は士官学校卒業後、既に従軍しており、軍での働きが認められて、この大学校に入学したらしい。見れば見るほどきれいな人だ。
「おはよう。具合はどうだい?君の為に房楊枝(江戸~明治時代に使われていた歯ブラシ)と手拭きを持ってきたよ。顔を洗って歯を磨いたら気分もすっきりするだろう。」
笑顔で “ありがとう、山縣さん” と礼を言うと、彼女は急に頬を赤く染めて、可愛らしい雰囲気になる。
「体調のせいか、ずいぶんとしおらしい男性になってしまったね。以前の強気で凛とした君の態度は大変好ましく思っていたけども、そういう素直な君も好ましいと思うよ。出来れば私だけに見せてほしいけどね。」
これほどの美人にもかかわらず、僕のようなどこにでもいる男に好意を持ってくれるんだ。
「何を言っているんだい。この世で男性というのは言葉では言い表せないぐらい貴重なものだろう。君も知っているだろう?」
彼女曰く、この世で男性は大変数が少ない貴重な存在らしい。そんな中、以前の僕は国の為に働きたいという意欲にあふれた青年だったようだ。
「さあ、顔を洗って歯を磨いておいで。すっきりするよ。」
彼女は僕に手拭きとブラシの付いた棒を渡してくれる。見たことない道具だ。
「どうしたんだい?歩けるかい?」
いや。歩けるけど。これ、どうやって使うんだっけ?
*****
「まったく。急に世話が焼けるようになってしまったね。ほら、もう少し上を向いて。」
彼女は口を開けている僕の上の歯を“房楊枝”で磨いてくれる。なるほど。基本、使い方は一緒か。でも、真っ直ぐだから歯の裏側を磨くのは使いづらそうだね。ブラシのところを曲げればいいのに。
「・・・・君、天才かもしれないね。確かに、そのほうが使いやすそうだ。はい。終わったよ。」
僕は口をすすいで顔を洗う。本当に気分がすっきりした。ありがとう、助かったよ。
「そうか、それは良かった。どうだい?授業は出られそうかい?」
授業か。ちょっと自信はないな。いろんな意味で、やっていける自信がないよ。
「・・・随分と弱気だね。分かったよ、私が君のことを助けるから。安心したまえ。先生も同窓生も、皆、君の応援団なんだから。誰もが助けてくれるさ。何か分からないときは素直に分からないと言えばいいよ。」
そうか・・・・・・
確かに、他にやるべき事も無いのだから、君の助言に従うよ。手助け、よろしくね。
その日、僕は陸軍大学校の授業を初めて体験した。
想像を超える専門的なその内容に、僕はまったくついていけなかった。
おそらく僕は1日、青白い顔をしてじっと座っていたのだろう。しきりに周囲に体調を気づかれた。そのたびに山縣さんが僕の体調がすぐれないとして対応してくれた。それが僕に起きた変化を隠してくれたのかもしれない。
*****
僕は今、大変な1日を終え、宿舎の自分の部屋にいる。だけど自分の部屋とは思えない。どこに何があるかさっぱり分からない。迷うほどの物もないんだけど。
授業には全くついていけなかった。僕はただ茫然と一日を過ごした。想像以上に深刻だ。この先、やっていける自信がない。そんな僕の横で、わざわざ部屋までついてきてくれた山縣さんが箪笥の中を調べている。着替えを探してくれているようだ。
「ほら。替えの下着と服だよ。気を取り直して風呂にでも行ったらどうだい?気分が晴れるだろう。」
彼女が手渡してくれた下着は見たことがない。僕は下着一つ着ることができないらしい。情けない。
「・・・・着方が分からないのかい?・・・・そうか。それは困ったね。・・・・私は一応知ってはいるけど・・・・その・・・・やっぱり着方が分からないと困るだろうね?」
下着無しはちょっと・・・・知ってるなら教えてもらえると助かるんだけど。
「もちろん、君の頼みなら、なんでも教えてあげたいよ。だけど・・・・こればっかりは・・・・」
そっか。ごめん。とりあえず、いいよ。ところで、お風呂屋さんって、どこにあるのかな?
「え?それも分からないのかい?・・・・分かったよ。行く途中に私の宿舎もあるから、そこで着替えをもって一緒に行こうか。」
僕たちは一緒に風呂屋に行くことにした。その場所は、僕の知る昔風の銭湯を、さらに50年ぐらい古風にした感じではあったけど、基本的に僕の想像の範囲内のものだった。
*****
入浴後の銭湯の前、夜空に煌めく満天の星空の美しさに息を飲む。彼女の言うとおり、お風呂に入ってすっきりしたら、だいぶ気分も晴れてきた。
入浴時、自分の外見を見て驚く。今の僕は年齢は二十歳そこそこに見える。彼女によると僕は陸軍士官学校卒業後、任官前にそのまま大学校に入学したらしく、1期生では最年少らしい。山縣さんから見ると10歳ぐらい年下だ。おかげで同窓生の多くは僕の事を気にかけてくれるとのこと。
風呂屋の外で待ち合わせると、彼女は僕を宿舎まで送ると言い出す。
「風呂上がりの君が一人で歩いて宿舎に帰るなんて、危険極まりないよ。以前の君は凛として、隙などさらさら感じさせないところがあったけど、今の君はまるっきり隙しかないよ。どうぞ、襲ってくださいって看板立てて歩いているようなもんだ。とても一人では君を返せないよ。」
なんだかおかしなことを言うようだけど、彼女の価値観ではそういうことなのだろう。
僕なんかより、風呂上がりの髪を纏めた君の方がずっと魅惑的に見えるけど。
「・・・・」
恥ずかしそうに頬を染めて俯く彼女。今までずいぶんお世話になった僕は、気になったことを聞いてみる。
ちなみに山縣さんはどんな部屋に住んでいるの? 来るときに寄った建物は、僕のものより随分きれいだったね?
「確かに、君が泊まっているところはかなり安い宿だね。部屋も君の部屋よりは多少は快適かもしれないね。」
そうか・・・・いいな・・・・ちょっと、お邪魔したいなあ・・・・なんて。
「君、本気で言っているのかい?冗談ならよしてくれよ。」
実はさ、以前の僕について、いろいろ教えてほしいことがあるんだ。あと、なんかあの宿、全然なじめなくてさ。あまり帰りたいと思わないっていうか・・・・出来れば泊めてもらえると助かるなーなんて。なんかさ、一人だといろいろ分からないことが多すぎて、ちょっと不安なんだ。
「・・・・・」
ごめん。迷惑だったよね?いいよ。僕は帰るから。
「分かったよ。他でもない君の願いだ。泊めてあげるよ。でも、私たちは若い女子と男子だ。悪いけど、<君に手は出さない>なんて約束はできないよ?」
ありがとう!助かるよ。そう感謝すると、彼女は再び顔を真っ赤にして俯いてしまった。
僕は少しずつ分かってきた。どうやらここは、僕の性別を活用すれば、かなりのことができる世界のようだ。今のところ僕のステータスは、ほぼLevel1状態で、右も左も分からない。頼りになるのは彼女しかいない。僕は、当面、この女性の助けを借りて何とかこの局面を乗り越えることを考える。僕は彼女のことが好きになっていたし、幸い彼女も僕に頼られてまんざらでもなさそうだ。Win-winの関係ってやつかな?
僕はその日、山縣さんの部屋で、以前の僕がどんな感じなのか教えてもらった。彼女の話によると、以前の僕はかなりのツンデレっぽいところがあったらしい。弱気を見せるとすぐ、男には軍人など向かない、やめてしまえと、と言われるせいで、随分と虚勢を張っていたらしい。今後、場合によってはそういう態度を演じることも必要だろう。僕は、彼女から以前の僕の話し方も教わり、今のLevel1状態を隠す演技も身に着ける。僕の不自然さに気付く人が現れることは避けたい。これ以上の厄介毎はごめんだ。なんとか、現状維持で今を乗り越えたいと思う。
少しだけ、この世界で生きる為の方針が見えてきた気がする。
ちなみに、この日も房楊枝を借りて歯を磨いたうえ、最終的には下着の着方も教えてもらった。教えてもらっているうちに、彼女とは良い雰囲気になり、結局、体の関係になってしまった。でも、互いにWin-winの関係であることは間違いなかったようだ。