南下と西進
少しだけ、取り巻く状況をまとめておきます。
「この文書は三国干渉の前に露・独・仏の外交・軍事関係者間で行われた会議の議事録のようです。会議に参加したドイツ軍人が、議事内容をドイツ参謀本部向けに報告した文書と思われます。」
着任から1週間、僕は今日まで翻訳してきたドイツ語の文書について、目の前に座る川上参謀総長と山縣少佐に報告している。この時代、コピー機などという便利なOA機器はない。1部しかないオリジナル文書を参謀総長の机に広げ、席に座る参謀総長と、横からのぞき込む山縣少佐に見せながらの報告だ。参謀総長はさっそく笑顔で食いついてくる。
「議事録をそのまま送ってきたのかい?消されているところはなかった?」
「はい。消されたような場所は見当たりませんでした。」
「私があの国の参謀本部に信用されているのか、あるいはよほど我々に頑張ってロシアを痛めつけて欲しいのか。これが我々の手の内にあることを知ったら、ロシアは怒るだろうね。」
確かに。結局、この3国(露・独・仏)の中で、最も意味不明なのがドイツなんだよな。フランスにとってロシアは敵の敵なので、分るけど。
「深い意味はないよ。単に、ロシアに東を向いていてほしいだけさ。さあ、続きを頼むよ。議事でロシアは何を語っている?」
「最初の議題は、我が国に対する分析です。我が国が資源や商業圏として満州を重要視していることを示し、仮に思惑通りに実質的統治領域を西方に拡大した場合の経済的な分析について、ロシアが説明しています。観点は欧州に及ぼす経済的な影響で、結論として、日本の実質的統治領域の西方への拡大は、東アジア域内での経済効果しかなく、欧州には何ら利益をもたらすものではない、というものです。」
「・・・・続けて。」
この後、僕の報告は30分ほどに渡った。意外にも報告の間、二人の上司は特に駄目だしをすることもなく、静かに報告を聞き入ってくれた。
*****
報告後、参謀総長が感想を述べてくれる。
「なるほどね。結局、ロシアが南下することが欧州にとっても利益があるのだから、賛成しろというのが彼らの主張か。私は清の欧州列強による分割統治など、もっと直接的な領土拡大の議論がなされているかと思っていたけど、意外にも冷静な議論がされているね?」
「はい。他の会議は分かりませんが、少なくともこの会議ではもっぱらロシアの南下政策について、経済的な利点を前面に打ち出した議論がなされています。特に具体的だったのは、遼東半島を清に返還させた後、シベリア鉄道を奉天もしくは遼東半島の旅順港まで延伸し、それによるヨーロッパとアジアの東西交易の拡大とその経済効果について、金額まで算定して説明しています。」
僕の報告に聞き入っていた山縣少佐が最新の情報で補足してくれる。
「現時点でそのような鉄道延伸の動きは報告されてはいません。しかし、もしそれが実現してしまうと、旅順港とウラジオストクという二つの軍港を結ぶ兵站線が完成してしまいます。すでに遼東半島はロシアに租借されていますので、非常に危険な話だと思います。」
ずっとドイツ語の文書を睨みながら僕の話を聞いていた参謀総長が、突然、文書のとある一文を指さし、僕に尋ねてくる。
「明石君、この文章の意味は分かったかい?」
さすがだな。まさにその文章が、意味が良く分からなかったところだ。正直に白状するしかない。
「申し訳ありません。実はその文章なんですが、よく分かりませんでした。先ほど説明したシベリア鉄道による東西交易の活性化の話の中で、突然、ロマノフ王朝の紋章の話が出てくるのですが、前後との脈絡がなくて、理解できませんでした。」
参謀総長はにやりと笑っている。僕が分からなかったことが楽しいようだ。
「山縣君は分かるかい?」
「申し訳ありません。私も何を言っているのかよく分かりません。Wappenというのは確かドイツ語の”紋章”ですよね?なぜここで突然その話が出てくるのでしょうか?」
参謀総長は、机から1冊の本を取り出し、ページをめくり始める。目的のページを見つけると、僕と少佐にそのページを見せてくれる。そこには頭が二つある黒い鷲の紋章が描かれている。
「これがロマノフ家の紋章、双頭の鷲だよ。どうだい、どこかで見たことがあるような紋章だろう?」
確かに、なんだか欧州の王家によくありがちな気がする。
「双頭の鷲を紋章にする王家や国家は多い。ハプスブルグ家もそうさ。実はね、この紋章はもともとローマ帝国のもので、その流れをくむ王家や国家がこの紋章を使うのだよ。ロマノフ王朝も自分たちが正当なローマ帝国の継承者だと言っているんだ。」
ああ、だからこの紋章はよく見るのか。
「問題はロマノフ王朝にとっての双頭の鷲の意味だよ。この二つの頭はそれぞれ東のアジアと、西の欧州のことを表しており、その統治権がアジア大陸の全域に及んでいることを表しているそうだ。それを具現化したものがまさにシベリア鉄道ということになる。おそらくその場に同席した関係者は、今説明した紋章とロシア統治の関係を言わずもがなで理解したんだろう。ロシアは、欧州からアジアまでを統治する正当なローマ帝国の末裔であり、その統治がもたらす利得は、ロシア含めた欧州各国にもたらされます、と言っているのさ。」
そういうことか。そんな紋章のことを言われても、僕たち日本人にはわからないよ。
「いいかい、明石君。欧州では民主化が進んでいるが、一方で王家というのはいまだ大きな権威だ。こういう紋章も一定の教育を受けた人間はある程度把握している。それは、我々にとっての家紋のようなものだ。欧州で活動するなら、知っておいて損はないよ。この本をあげるから、暇なときに眺めてみるといい。」
参謀総長は僕に紋章の本を渡した。ちょっと面白そうだからうれしい。宿舎に戻ったら早速、読んでみたい。こういう細かいことを知っていた方が、仕事だけでなくプライベートにも役立ちそうだ。せっかく欧州に行くなら、事前に知識があったほうが楽しめるだろう。
そろそろ僕の報告もお終いのようだ。参謀総長が報告内容について最後の感想でまとめてくれる。
「今日の報告は我々にも大いに役立ったよ。つまるところ、我々の満州に向かう西進と、ロシアの旅順に向かう南下は、必ず交差する。外務省が目指す妥協の余地は非常に難しいということが良く分かったよ。明石君、よく頑張ったね。」
良かった。一週間頑張ったかいがあったよ。安心して笑顔になると、参謀総長も笑顔で紙の束を持ち出し僕に渡してくれる。これは・・・ドイツ語で書かれた現地の新聞だ。
「さて、次の課題はこれだよ。ドイツの大使館から送られてきた現地の新聞だ。これを読んでその内容を報告してほしい。今回は時間を決めよう。3日で一部を目安に報告してくれ。新聞はその国の世論を形成し国の動向をも左右する重要な情報源だよ。しっかり頼むよ!明石君!」
・・・・ああ・・・・これが続くとすると、大変だなあ。
その日の夜、僕は布団の中で山縣さんにほんの少しだけ愚痴をこぼしてしまった。
読んで退屈したかもしれませんね。すいません。ロマノフ王朝の紋章は、この先にも登場するので、一度ここで明石君に認識してもらいました。
次は来週後半、参謀総長の過去に絡んだ話です。参謀総長と山縣さんが神戸に向かいます。




