8. 江戸は雪解け、花は
「……故に将に五危あり。必死は殺さるべきなり、必生は虜にさるべきなり、忿速は侮らるべきなり、廉潔は辱めらるべきなり、愛民は煩さるべきなり……」
書見台から顔を挙げ、精一郎は向いに座る綾に向かって咳払いをした。
わずかに瞼がぴくぴくと動くが、目を覚ます気配はない。
もう一度、今度は大きめに咳き込んでみせるが、気持ち良さそうな鼻息だけが、狭い部屋を満たしていた。
精一郎は数日前から喉の痛みを覚えていた。これ以上は本当に喉に良くないと思い、精一郎は身支度を整え始めた。
「ではこれにて本日も終いといたします」と寝入ったままの綾に向かい、丁寧に頭を下げた。
いったいどの口が平山行蔵の弟子になると申しているのか。精一郎は半開きの口からすうすうと心地よい寝息をたてている綾の寝顔を見つめる。
前途多難、と精一郎は痛む喉を押さえながらも口に出さずにはいられなかった。
奥方に挨拶を済ませ、夏目邸を引き取ろうとする精一郎の姿が三保之介の視界に入る。
声をかけるべきか迷っているうちに、精一郎はにこりと微笑み、軽く頭を下げると悠々と立ち去って行った。
気の置けない精一郎に、声をかけるのをためらったのには理由があった。
すぐさま奥方の元を訪ね、三保之介は二、三の用件を済ませると本題に入った。
しかし、奥方は全てお見通しである。三保之介が涼しい顔をして精一郎の名を口にした途端、くるりと向きを変えてどうにか笑いをこらえている。
「精一郎を見かけましたが」
「ええ、最近、お通いのようね」
含みのある言い方で奥方はやんわりと返した。三保之介に背を向け、精一郎にもらった梅の枝を活けながら奥方は続ける。
「あの子たち、幼なじみなの。綾の方が年上だけど」
「はあ」
「でも、それも有りかもしれませんね」
「何がでございましょう」
「縁組に決まっているでしょう。そうこうしているうちに綾も薹が立って、あっという間に『年増』よ」
奥方の声は穏やかなものであったが、多くを含みすぎる言葉の数々に、三保之助は身の置き場がない。
とっさに鬼道場の師範代の顔を作り、三保之助は重々しく言った。
「おそれながら、精一郎ではまだ若すぎるような」
「そうよね、わたくしもそれが気がかりなの。どなたかがいらないとおっしゃるものだから、代わりに引き受けてくださる方を見つけないと」
はさみがぱちん、と音を立てるたび、三保之介は何故か己の首に刃をあてられているような気がして居心地が悪かった。こと、綾の件に関しては明らかに奥方が物言いたげであるからである。
精一郎と縁組だと。
冗談じゃない、と三保之介は憤りを感じる。
江戸のおなごは気が強すぎる。精一郎のような穏やかな青年に、あのような小娘など論外である。
ちょっとでも口喧嘩になろうものなら、あの小娘は夫に鉄毬を投げつけてくるに違いない。
そもそも、あのおなごは俺に惚れていたのではなかったのか?
三保之介が一番気に入らないのは、その点に他ならなかった。
追われれば煩わしさに悩まされ、かといって突然の潮が引くが如くの変わりように戸惑っていた。
おかしなことに、三保之助は己の矛盾に気付かずにいた。
自分のことはきれいさっぱり忘れたかのように、連日堂々と違う男と逢引きとは、何たる面の皮の厚いおなごか。
それもこれも四谷の道場生活が長かったせいで、異性に不慣れな精一郎がまともな判断を下せずにいるに決まっている。
綾と口論になってから四六時中、払いきれない蜘蛛の巣のように心の奥底で何かがまとわりついている。その感情が何なのか、三保之介は自分でも理解していなかった。
「失礼します」
ふすまの向こうで綾のうわずった声がした。
三保之介は何食わぬ顔で床の間の掛け軸に目線を移す。
「新ちゃ、精一郎様は」
三保之介の姿に、わずかに表情が険しくなる綾である。あれ以来、二人はまともに口を聞くことはなかった。
「先ほどお帰りになりました。井上道場へ行かれるとか」
「申し訳ありません!」
「大丈夫よ、男谷様はお優しいから。また明日、とおっしゃってました」
三保之介は押し黙ったまま、掛け軸を眺めていた。二人の会話を聞いていないふりをしていたが、精一郎と綾の間に何が起こっているのか気にならないといえば嘘になる。
***
綾が自室のふすまに手をかけるやいなや、三保之助の威圧的な声がその背に投げかけられた。
「少しよろしいか。精一郎のことで、話がある」
「何でございましょう」
綾は相変わらず素っ気なかった。
「差し障りがなければ、おぬしの部屋で」
「人に見られて困るのは、中山様ではありませんか?」
表情を変えず淡々とした態度をとってみせる綾に、三保之介は笑顔を見せた。ただし、目は全く笑っていない。
「嫁入り前の娘が、精一郎と連日二人きりで部屋に籠りきりではないか。今更何を気にする?」
驚きと怒りが、綾の瞳にありありと浮かんでいる。
「お入りください」
遠慮なく音を立て、あまつさえ後ろ手でふすまを閉める三保之介を、綾は今度こそ敵意を持って睨み返した。
立ったまま綾を見下ろし、間髪おかず三保之介はきつい口調で詰めよった。
「精一郎はまだ若い。惑わすようなことはやめてくれぬか」
「惑わすって」
精一郎の件であれこれ難癖を付けられるような気はしていたが、三保之介の言葉は予測していたものと大いに隔たりがあった。
己の未熟を咎められるものとばかり思っていたが、三保之介は綾と精一郎が恋仲であると決め付けた前提で会話を進めている。
綾は呆然とするしかなかった。
「奥方はすっかり乗り気のご様子。そなたの嫁ぎ先に精一郎をなどと口走っているが、あり得ぬ」
「それでしたらご心配なく。精一郎様とでは家禄が釣り合いませぬ。中山様の杞憂というものにございます。それに……」
綾は傷付きながらも、当たり障りのない返答でその場を凌ごうとあがいていた。けれど三保之介の、弱者を追い詰めるような笑顔に思わず言葉を詰まらせる。
「それに?」
意地の悪い笑みを浮かべ、三保之助は綾の言葉を癖のある口調で繰り返した。
「あり得ぬとは何ですか。あなたが私の何を知っているんですか?勝手なことばかり言わないで!」
少々つついただけで簡単に感情を爆発させる綾の姿は、三保之助が待ち望んでいたものに他ならなかった。
「そなたは突拍子もないことを次から次へとしでかし、我らを乱す」
堰を切ったように、三保之助はここ数日の鬱憤と思いの丈をぶつけていた。しかし、当人はそれが半ば八つ当たりだと自覚するまでには至っていない。
「精一郎は優れた若者だ。今は修行に専念してもらいたい。それは俺だけでなく、平山先生の望みでもある」
確かに、三保之介の言い分はもっともであった。精一郎は平山道場が閉鎖されて早々に新しい道場に通い始めていた。竹刀を振るっている間だけは余計なことは何も考えずにいられるのです、と精一郎は恥ずかしそうに笑っていた。
「わかりました。精一郎様にご迷惑はかけません。ただ」
自分のわがままに付き合ってくれている精一郎の優しさに付け込むことがあってはならないと、綾は諭されたような気がして思わずしんみりしてしまう。
けれど同時に、例えようのない胸の疼きと痛みが合わさった感覚に、三保之介を目の前にして綾は胸の内を吐露せずにはいられなかった。
「私達は決して、中山様が思うような間柄ではありません。縁談のことも、本当に初耳でございました。きっと奥方様は御冗談をおっしゃっただけです」
綾は、何故三保之介に言い訳をしなければならないのか歯がゆかった。何を言っても聞き入れてくれないに決まっていると諦めているのに、自分の未練がましさが恨めしかった。
涙がこぼれそうになるのを必死でこらえ、綾は静かに言った。
「ご用はお済みでしょう。お帰りください」
精一杯の虚勢を張ったつもりが、無造作に積み上げられた足元の書物につまずき、綾は意図せず後ろに転倒しそうになった。
すんでのところで三保之助に抱き止められ、綾は訳もわからずに三保之助の腕の中で凍りついている。
またしても、ぶざまな体をさらしてしまった。いつもいつも、絶妙な間の悪さで三保之助には粗忽者の印象を植え付けてしまっている。
そんな綾の揺れる感情を知ってか知らずか、三保之助は「大事ないか」といつになく優しい声色で気遣いを見せる。