7. 百人の味方を得たり綾之介
寒風吹きすさぶ大川のほとりに、釣り竿を肩に担いだままぼんやりと向こう岸を見つめる少年がいた。その隣には、手当たり次第に小石を川面に投げ込んでいる子どもの姿がある。
葦が生い茂り、流れが途切れた池のようなよどみに向かって、子どもは大声をあげた。
「今日は風が強すぎていけねえや」
満足のいく回転が小石にかからず、少年はし損じるたびに舌打ちをした。
「なあ、新ちゃん。そろそろ帰らねいかィ?どうせ今日も釣る気なんざねぇんだろ?」
「大きい網ならよかったかな」
「そういうことじゃねぇんだよ」
四つほど年下の少年が、凛とした佇まいの連れ合いをじいっと見上げる。
細井萱次郎は彼の姿を見つけ、その後ろ姿を観察していた。
隙だらけの一言に尽きる。
今なら、一度たりとも勝ったことのない相手に気迫のみで勝てそうな気はしたが、背後からの強襲は己の主義に反した。
一瞬でも背後をとろうとした自分を恥じ、萱次郎は何事もなかったかのように飄々と歩を進める。
年かさの少年は近付いてくる萱次郎には気づかず、遠い今戸のあたりから空に伸びていく煙を延々と眺めていた。
「男谷様」
竿を担いだ少年が、首だけを動かし声の主を探そうとようやく視線を白い煙から外した。
肩で息をしている萱次郎の姿を見つけ、少年は「やあ」とのんびりした調子で返した。
「お宅にうかがったのですが、こちらではないかと聞いて。お元気そうですね」
「風邪だけは引かずにいますよ」
萱次郎に負けず劣らず整った顔を不器用にくしゃりとさせて男谷精一郎は笑っていたが、それすらもぬぐいきれない寂しさを感じさせる。
萱次郎の一つ上である精一郎は、平山道場での兄弟子だった。その道場が突然閉鎖され、なすすべもなく気落ちしているのは精一郎も同じであるらしかった。
「それにしても、わざわざこんなところまで出向いてくるとは、いかがされたのです」
やんわりとした口調の精一郎とは対照的に、萱次郎は矢継ぎ早に問いかける。
「ちょっとお尋ねしたいことがありまして。夏目様のお屋敷に綾之介という子がいるでしょう。僕らよりふたつみっつほど下のような、未だ元服前の」
「あやのすけ」
ぼうっとした調子で返す精一郎を気にも留めず、萱次郎は続けた。
「お父上は確か……松川殿でしたっけ?夏目の奥方様は松川の方の縁戚だとか。男谷様は夏目様の御親戚だから、ご存じでしょう」
それなら、と年下の少年が言いかけるのと同時に、萱次郎の「最近、平山先生が綾之介殿にたいそうご執心で気持ち悪いくらいです」の声に嫌な予感と寒気が男谷少年の背中をかけめぐっていった。
「平山先生がですか?」
それまで暖かな昼下がりの牛のようだった精一郎の瞳に鋭い光がよみがえったのを少年は見逃さなかった。
精一郎は肩に担いだ竿を下ろし、使ってもいない浮きの損傷を調べ始めた。
「一度お使いで道場に参られたのですが、おなごのように頬のふっくらした可愛らしい少年で、先生も子犬を愛でるのごとくのありさまでした」
精一郎は慎重に言葉を選びながら、何度かうなずいてみせた。
「先生がお元気そうで安堵いたしました」
声だけは裏返らないように、精一郎ののらくらした返事が続く。
またしてもあのじゃじゃ馬が、とんでもない事件を起こしているようだ。
「だけど妙なんです。三保之介様はそれがお気に召さないらしく、綾之介殿の話題になると困ったようなお顔をされるし、あの子はいったいどういう素性なんでしょう」
賢しいのは前々からわかっているが、今日ほど萱次郎がうっとおしいと思う日は後にも先にもなかった。
今はただ、この少年から一刻も早う離れたい、という一心である。
「私も存じております。身元は確かです。ただ、お父上が遠方にいらっしゃるわけで、夏目様も奥様も大事な預かりものだと気を遣われておられる、のでは」
歯切れの悪くなる精一郎を不審にも思わず、萱次郎は嫉妬を小出しにした言葉を口にする。
「そうなんですか。元服もまだみたいだし、妙な感じはしましたが」
元服もまだ、と強調する萱次郎に、精一郎はようやく気付いた。おなごとばれる心配はなさそうだが、萱次郎は明らかに「綾之介」に対して競争意識を抱いている。
これはこれで、非常にやっかいだった。
萱次郎の背後で、少年がにやにやしながらこちらをうかがっている。
精一郎は心の内を悟られないよう曖昧な笑みを浮かべた。
「すみません、用事を思い出しました。また何かありましたらお尋ねください」
たった一つとはいえ年下の萱次郎にも偉ぶった態度を見せない精一郎に、萱次郎は敬意を込めて別れの挨拶を交わした。
「小吉さん。ついてきなさい」
最後の小石を大川に投げ込むと、石は踊るように川面を何度も飛び跳ねながら渡って行く。満足げに片頬をあげ、勝小吉は年上の甥の背中を追いかけた。
***
「綾殿!」
「精一郎様に小吉様。お久しゅうございます」
日暮れ前の夏目道場は茜色に染まり、振り向いた綾の顔全体が眩しく輝いている。
遠縁ではあるが綾も精一郎も夏目家の親類筋であり、精一郎が新太郎と呼ばれていた頃から見知った仲である。新太郎の後ろについてちょろちょろしていた小吉も大きくなり、十二になった。
「それはもしや」
的に向かって鉄毬を投げつける綾の姿を、小吉は興味津々眺めている。
「平山様からいただいたの。随分と上手になったのよ!」
「馬鹿みてえに棘だらけじゃねえか!おいらにも教えてくれよ」
「いいわよ」
成人したとはいえ、幼馴染同士でたちまち和気あいあいとした雰囲気になるが、精一郎は一人厳しい顔つきで二人を見つめている。
こめかみを押さえる精一郎が、大きな手のひらの下からうめくような声をもらした。
「何をされてるんですか!というか、いくら綾殿とはいえ、平山道場にですって?何ゆえそのような暴挙に」
「やるじゃねえか。鬼の住処だかなんだかって言われてるところだろ?今度はおいらも連れてってくれよ」
「小吉さんは静かにしていてください」
今度は手のひらから、大きな吐息がもれた。
「奥方様のお使いでうかがっただけよ。男の子の格好だったけれど」
「それがまずいんです」
「あなたまでお説教する気?」
じろりと精一郎を睨みつけ、綾は不機嫌な声を返した。
「細井君があなたのことを尋ねに来ました。ぼろが出たら終わりです。このような真似は二度となさらないでください」
勇ましかった語調が段々と弱まり、精一郎は苦々しく思っていた。
綾より二つ年下の精一郎は、子どものころにさんざん振り回され、苦い思い出を刷り込まれたせいか、綾に強く出られないのである。
それを知ってか知らずか、綾は今でも精一郎に対して遠慮がなかった。
「やっぱりお説教」
「心配しているんですよ?」
「でも平山様は、また遊びに来いって」
「駄目に決まってるじゃないですか!」
ぴしゃりと釘を刺され、綾は一瞬口を閉ざすが、再びらんらんと瞳を輝かせる。
「あんな素晴しい方が蟄居だなんておかしいわ。新ちゃんもそう思わない?私、平山様の力になりたいの。また道場を開くの。そうしたら新ちゃんだって戻ってこれるのよ?」
「それは私も同じ思いです。ですが、それ以前にあなたは道場に入ってはいけないんです。そもそも中山様がいながら、どうしてそのようなことに」
「中山様なんか、先生が生きてるか死んでるか確かめに行ってるだけじゃない!それより私が側にいた方が、よっぽど平山様の為になるわよ」
綾の三保之介に対する評価が酷い、と精一郎は尊敬する師範代が気の毒になる。
「それは単なる思いあがりっていうものです。先生は子どもが大好きですから、私も細井君も随分とお世話になりました。それと一緒です」
三保之介と同じように精一郎に真っ向から否定されながらも、免疫がついたのか綾はどこ吹く風である。
「私この前見たんだから。奥方様に言いつけてもいいのよ?」
ふいに綾が声色を変え、じっとりとした視線で二人を睨みつけた。
「何が…でございますか」
「軒先に吊るした柿、あんた達が盗んだんでしょ。新ちゃんが小吉っつぁん肩車して、ごっそり懐に入れるの見たんだから」
無言になる精一郎に舌打ちし、小吉は声を荒げた。
「今更、そらねえよ。だったらそん時声かけてくれりゃあよかったじゃねえか!」
抗議する小吉の声は、綾の有無を言わせぬ力強い声にかき消された。
「これ以上私に指図するなら、本当に言いつけてやるんだから!新ちゃんは猫かぶりの大うそつきだって!すました顔して、裏じゃ小吉っつぁんと一緒になって悪さばっかりしてるって!」
「よっちゃん……」
素に戻り、思わず綾の幼名である「芳」の愛称を口にする精一郎である。
困り果てた顔になる精一郎に向かって、綾は勝ち誇ったように顔を突き出した。
「わかりましたからもうそれ以上は勘弁してくれませんか」
精一郎が根をあげるのは思ったより早かった。やはり、新太郎は新太郎のままであった。
皆すっかり成長したとはいえ、小さな頃から親分風を吹かしていた綾に勝てる訳がない。
背中に蛙を入れられ半泣きになる精一郎を指差し、小吉と綾がげらげら笑っていた嫌な思い出が精一郎の脳裏にまざまざとよみがえってくる。
「奥方に告げ口しない代わりに、用だてて欲しいものがあるの」
無言であきらめたように首を振る精一郎に、綾は悪い顔をして笑いかけた。
「おう。よっちゃんの為なら片肌、もろ肌脱ぐ覚悟だよ?」
調子よく返す小吉を、精一郎は不安そうに見下ろしていた。
もとより悪事に長けた小吉である。やっかいごとがもう一つ増えそうだ、と精一郎は思った。
「その前に」
綾の冷たい声が鉄毬のごとく小吉に突き刺さる。
「小吉っつぁん。今懐に入れた鉄毬返しなさい」