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蝦夷錦剣豪異聞~序~  作者: 渡部ひのり
えぞにしき・けんごう・いぶん
7/11

6. 禍(わざわい)の門(かど)

 その夜、三保之介はただならぬ疲労感に襲われ、夏目邸にもどるやいなや床に就いてしまった。

 明くる日奥方に呼び出され、重い足を引きながら廊下をとぼとぼと歩く。

 まるで処刑場に向かう罪人のような悲壮感を漂わせた三保之介は、誰が見ても異様であった。

 重吉は三保之介の背中を見つめ、鬼のかく乱、と思わず口にしてしまいそうになる。

 変わり者のお師匠のせいで、さすがの中山様も心労が絶えないのだろうと同情を禁じ得なかった。

 

「あらあら、なんて顔をしてらっしゃるの。さぞかし楽しい一日だったのでしょうね?」

 疲労の抜けきらない三保之介とは対照的に、実に晴れ晴れとした奥方であった。

「これが楽しんだ顔とでも」

 奥方は三保之介の恨みごとめいた台詞に動じるふうもなく、口元に含みのある笑みをたたえていた。


 収拾がつかなくなる前に、一度奥方にはきっちりと釘をささねばならない。言うべきことは言っておかねば、自分はいつか腹を切るはめになってしまう。

 三保之介は奥方を見すえ、軽く息を整えた。

「何ゆえ、あのようなはかりごとを?」


 あれで睨んでいるおつもりかしら。

 奥方は、動揺を懸命に隠そうとする三保之介が滑稽でならない。 

「平山先生にもお伝えしました。あなたを気づこうてのこと。それで、先生はいつになったら道場を再開されるのでしょう?殿も私も、いつまでもあなたに世捨て人の世話をさせるわけにはいきませんよ」

 奥方の言い分はもっともである。だがいくら奥方といえども、平山道場の件に口を出すのは言語道断であった。

「殿や奥方にご心配をおかけして申し訳なく思っています。ですが」


「あなたが先生に恩義を感じているのは当然のこと。けれど平山塾筆頭のあなたが師を甘やかしては、他の方々もそれに倣うしかありませんでしょう?細井様だって、何もしようとしない先生に忸怩たる思いでいらっしゃるのではありませんか?」

「萱次郎が何か」

 奥方にあのような悪戯を仕掛けられ、三保之介はすっかり疑心暗鬼になっていた。そればかりか、まさか萱次郎まで加担しているのでは、と疑わずにいられない三保之介である。

 そういえば、昨日の萱次郎はどことなく刺々しかった。こと、綾之介に関しては過剰に反応していた。

 突然現れた綾之介に美味しい所をさらわれてしまい、いたく自尊心を傷つけられていたのだろう。

 あの少年は、何事も自分が一番でなければ気が済まないのだから。

 

「事あるごとにおっしゃってますよ。あの道場に新風を吹き込むような出来事がなければ、平山先生を動かすことはできないのかもしれない、と。そしてその春風が思いもよらぬ所から吹いてきたらしい、と。綾之介には複雑な思いを抱いてらっしゃるようね」

 萱次郎は稀に見る聡明な少年ではあるが、唯一子どもらしい部分といえば、己の感情を包み隠さないところである。

 自分の容姿を好んでいないせいか、時折他人に対して必要以上に攻撃的であることをよしとしているのは、若さゆえなのだろう。


「もうご存じでしたか」

「先ほど細井様が、先生からの御礼状を届けにいらっしゃいました。たいそう綾之介をお気に召したようで、己の本分が何だったかをおぼろげながら思い出したそうですわ」

 何もかもお見通しと言わんばかりの奥方の笑顔に、三保之介などが立ち向かうすべなどあるはずもない。

「全ては奥方様の狙いどおりということでしょうか」

 ふふ、と笑ったきり奥方は答えなかった。

 答えられるはずもない。

 そもそも自分の暇つぶしの行き当たりばったりの無謀な計画である。そして幕はまだ上がったばかりに等しかった。

 奥方は一向に手を緩めるつもりはなく、綾にはもっともっとかきまわしてもらう予定だった。


「今後あなたが道場に行かれる時は、綾之介を伴うようにとのお墨付きをいただきました」

「それはなりませぬ!」

 三保之介は思わず膝立ちになり、前のめりになる。ややあってから座り直すと「ご無礼を」と謝罪した。


「お願いでございます。いつ先生がお気づきになるかと思うと、私は生きた心地がしませぬ」

 不本意ながらも、三保之介は心の叫びを吐露してみせるが、奥方は相変わらずにこにこしているだけである。

「ですから、あなたがそばについていればよろしいのではなくて?」

 とうとう三保之介の口からため息がこぼれた。

 駄目だ。完全にらちがあかない。奥方と話していても暖簾に腕押し、糠に釘である。

 かくなるうえは、あのお女中と直接話すほかない。 


「綾之介殿はどちらに」

「蔵の片付けをしてますよ。心配なので見に行ってくれませぬか。また何かを壊したら大変ですもの」

 三保之介はこれ以上、奥方の含み笑いと訴えかけるような眼差しに耐えられそうもなかった。

 あいさつもそこそこに立ち去った三保之介のうろたえようといったら。

 奥方は笑いをかみ殺しながら、今日のところは勝負あった、と力強くうなずいていた。


***


 昨日は夢のような一日だった。

 中山様とお話ができるなんて、これも全て奥方様のおかげ。

 それに平山様も噂とは大違いで実際お会いしてみたら、とても優しいお方だった。少しばかり変わり者なだけで、世間で言われる鬼などではなかった。

 帰り際にはまた遊びに来いとおっしゃってくれた。中山様とご一緒できるのはもちろん嬉しいけれど、平山様にお会いできるのも同じくらい嬉しい。

 そうだ、後で鉄毬の稽古をしよう。次にお会いする時にはもっと上手になって、そうしたら平山様は喜んでくださるかしら。


 綾は緩みがちな頬を引き締め、火照る頬を時折押さえては昨日の出来事を思い出していた。

 ふいに人の気配を感じ、綾は何気なく振り返った。綾の瞳に再び笑みが宿る。

「中山様」

 三保之介は何のためらいもなく綾に近づき、綾も釣られるように駆け寄った。 


「昨日はありがとうございました」

 三保之介は自分の薄い唇に人さし指を当て、素早く周りを確認する。いつもどおりの怜悧な表情であったが、声は明らかにうわずっていた。

「声が大きいです。あなたに話があります」

 言い終えるのももどかしく、三保之介は素早く土蔵の扉を閉める。

 三保之介は怒りと焦りに支配され、自ら綾の手を引いて土蔵の奥に足を進めていることにも気づいていなかった。


 食えないおなごだ。

 と、三保之介は威圧的に綾を見下ろしていた。


 あの奥方に仕込まれているだけのことはある。

 皿を割ったり井戸に落ちたり、ぼんやりとした娘だと思っていたが、昨日の振る舞い方は単なる粗忽者でもない。

 ここはひとつ慎重にいかねばならない。

 奥方が駄目なら、このお女中を懐柔するしかないのだ。

 

 綾は顔を伏せたまま、「あの」と言った。

 昨日はやりたい放題、傍若無人に振る舞っていたのに、今日は打って変って恥じらうような声を出している。

 ますます不機嫌になり、三保之介は「何か」と言った。

「手を」

 

 弾かれたように身を引くと、綾の白い手首に指の跡がうっすらとついている。

「これは失礼した」

 あれこれと頭の中でこねくりまわしていたはずの文言が、瞬時に吹き飛んでしまった。

 よくよく考えてみれば土蔵で二人きりなど、誰かに見とがめられたら厄介事が増えるだけではないか。

 場所を変えて例えば自分の部屋……いや、それもまずい。だからといってお女中の部屋も、もっとまずい。

 自ら墓穴を掘るような真似をしてしまった。愚かにもほどがある。

 いったい俺は、どうしてしまったのだろう。

 それも全て、このお女中のせいだ。


「お話があるとおっしゃっていましたよね?」

 すっかり黙り込んでしまった三保之介に助け舟を出したのは、綾のほうだった。

「……先生はあなたをいたくお気に召したようだ」

「はい、昨日は楽しゅうございました」


「それがどういうことなのか、あなたはわかっておられるか」

 綾はこくりとうなずき、黙って三保之介の続きを聞いていた。

「兵原草蘆は女人禁制だ。それなのに、あなたは奥方の口車にまんまと乗せられてあのような芝居を打つなど、なんという恐ろしいことを」


「確かに、先生を騙すようなことをしたのは軽率だったと思います。けれど平山先生は、とても優しくしてくださいました。私、とても嬉しかったです。それに中山様だって、私達の嘘に乗ってきたではありませんか」

 じいっと自分を見つめかえすまっすぐな瞳に、三保之介はたじろいでしまった。

 反省するどころか、自分を脅すような言葉さえ返してきたではないか。

 恐るべし、奥方の懐刀ふところがたな


「平山道場の掟は絶対だ。あなたの身勝手で道場を壊すおつもりか」

 ぼんやりとした説明をしてもこの娘にはたして通じるかどうか、と三保之介は不安に駆り立てられる。そして、その不安はあっさりと的中した。

「平山先生は道場を再開することに前向きでいらっしゃいます。私のような、若い者を育てるのが生きがいだとおっしゃっていました。そのお手伝いができるなら、私は喜んで何度でも参ります」


「思いあがるのもいい加減にされよ。少しばかり先生に気に入られたからといっても、あなたは所詮おなごではないか」

 それまで穏やかな笑みを浮かべていた綾の表情が一変した。

 言いすぎた、と三保之介が気づいた時には、後の祭りであった。


 綾の怒声に、三保之介はまたもや頭の中が真っ白になった。

「おなごおなごって、馬鹿にしないで!」

 昨日は仏の化身かとみまごう優しい笑顔を終始浮かべていたのに、今日はなんという阿修羅の顔……。

「……馬鹿にしているつもりは……」

 やっとのことでくり出した言葉も、綾を静めるには何の効力ももたらさなかった。

 懐柔させるどころか、怒らせてしまっては元も子もない。


 怒りがおさまらないのか、綾の口からぽんぽんと威勢のよい言葉が飛び出てくる。 

「私、思い違いをしていたようです。中山様はご立派な方だと思っていました。けれど、頭の固い朴念仁だとようやく気づきました。あなたのような方が先生の足を引っ張っているのだとおわかりにならないのは、かさねがさね残念です」

 

「今、何と?」

 いくらなんでも、こんな小娘に侮辱されるいわれはない。とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、三保之介までもが心のままに声を荒げていた。

 

「あなたなんて、ただの見かけ倒しです!私自身が先生に弟子入りしたい気持ちに変わりはありません。それは中山様とは、関係のないことです」

 三保之介は綾の数々の暴言に、鉄毬で内側をえぐられるような痛みを感じていた。

「さんざん人を振りまわしておきながら、言うに事欠いて、私とは関係がないだと?」

 三保之介の大声に怯むことなく、綾はきっぱりと言いのけた。

「振り回した覚えなど、ございません!」

 荒い息を吐く二人は、互いに一歩も譲らぬと睨み合いを続けていた。


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