5. 綾之介、鬼と戯れる
綾を凝視したまま、三保之介はごくりと喉を鳴らした。筋張った喉元に浮かぶごつごつとした骨が、心を持った生き物のように、かすかにではあったが何かを主張するかのごとく動いている。
平山道場におなごなど、亡くなった行蔵の母親くらいのものだ。それも遠い昔の話である。
不測の事態に備え、平山道場ではいかなる時も……。しばらく考えてから、三保之介はある事実に気づいた。
おなごが来た場合はどうすればよいのか、誰も教えてくれていない!
行蔵から教授された数々の兵法も、今日の三保之介に役立つものなど何一つなかった。
いずれにせよ、この状況を、行蔵に悟られてしまうわけにはいかない。
それだけは絶対に阻止しなければならなかった。
三保之介は頭の中が真っ白になるが、なにせ前例のないこと、明白な答えを見いだせるはずもない。道場の危機になすすべもなく火ばさみを握りしめるだけである。
一方の綾も、ぴくりぴくりと三保之介が眉を動かすたびに縮み上がっていたが、正面から自分を見据える三保之介の視線に動きを封じられてしまっていた。
あれは間違いなく、私が誰なのかをわかっていらっしゃるのだろう。
やはり無理なはかりごとだったのだ。
中山様が鬼のようにお怒りになられても無理はない。
すぐにお暇しなければ、と綾が震える拳を握りしめ「あの」と勇気を振り絞ってか細い声を出した時である。
「ご苦労でした。……綾之介」
驚いて三保之介の顔を見返すと、見たこともないほどに青ざめきっていた。
怒っているのとも、少し違う。
綾の驚いたような顔と、それを困ったように見つめ返す三保之介の様子に、萱次郎はもやもやとしていた。
二人の間に漂う妙な緊張感に萱次郎は早くも気付いていたが、何が互いにさぐるような、怯えたようなぎこちなさを醸し出させているのかまでは見当がつかなかった。
「三保様、夏目先生のお土産を焼きましょう」
萱次郎の声に我に返り、三保之介は「ああ」と言った。
それすらも、空返事のようであり、ますます萱次郎の猜疑心を煽り立てることとなる。
「ちょうどようございましたね。何も食べずにお酒ばかりでは体に毒でございますから」
萱次郎は、先ほどから「ああ」としか言わない三保之介を慎重に観察していた。そして、いきなり現われた少年のことも。
夏目邸に、このような見習い少年がいた記憶はない。
何よりいつの頃から二人同じ屋根の下で暮らすようになったのか、一度たりとも三保之介から紹介された覚えもない。
萱次郎はそれが大いに不満であった。
「いつまでも突っ立っておらんで、そこに座れ。おぬしも一杯やらんか」
何も知らない行蔵は、上機嫌でばんばんと自分の隣を叩いて綾を招くが、そこも板の間であった。
綾は口元に笑みを浮かべつつ、さりげなく辺りを見回した。
十畳ほどの板の間は行蔵の居室らしく、ぼろぼろの机の上には書物が山のように積み上げられている。そしてその周辺も書物で垣根を作り上げていた。
居間の壁は、なぜか無数の髑髏の絵で埋め尽くされていた。
そして長押にかけきれない槍や大小の刀、見たこともない武器が所狭しと無造作に転がっていた。
ますます綾の笑みが引きつったものになり、萱次郎はおかしそうに綾を観察している。
無理もない。詳しくは知らないが、おそらくどこかの御家人か旗本の子息が夏目邸に預けられているのだろう。
年は自分と同じくらいのようだったが、元服もまだのようだ。刀も満足にふるえなさそうな貧弱な腕だ、と萱次郎は意地の悪い優越感を覚えた。
すると、先ほどまで頭のてっぺんからつま先まで緊張をみなぎらせていた綾が、壁の絵に視線を定めると「これは」と相好を崩す。髑髏の隙間にところどころ、絶句が書き連ねてあった。
「もしや、鵬斎先生がお書きになったのですか?」
「おお、遊びに来た折、ちょいと落書きして帰りおったわ。相変わらずへたくそじゃがの」
「僕も、僕の兄も鵬斎先生にお手を習っておりました。しばらくお目にかかっておりませんが、懐かしゅうございます」
よくよく見れば、おどろおどろしい髑髏達も、どことなく愛嬌があるではないかと綾は思いはじめていた。
綾の笑顔につられて、行蔵の表情が緩やかになった。
「ほう、鵬斎の弟子であったか」
奥方の文は、遠縁の松下文左衛門の子息、綾之介の紹介と行蔵の体を労わる内容で埋め尽くされていた。そして遠まわしに、三保之介の身を案じる内容で締めくくられている。
おそらく自分がふさぎがちと伝え聞き、綾之介のような少年を話相手に寄越したのかもしれぬ、と行蔵は都合よく解釈した。
奥方からの文を読み終え、ふむふむとうなずくと「ここに早う座れ」と綾を招いた。
おそるおそるであったが、見よう見まねであぐらをかいてみる。意外と上手にできた。と綾は嬉しくなって無意識に行蔵に微笑んでいた。
「して、綾之介は夏目邸はいかがかな」
「殿も奥方様もよくしてくださいます。もともと、奥方様と母が遠縁でございまして」
「お父上は長崎におられるとか」
「はい、僕も一緒に参りたかったのですが、母が夏目様の元で奉公せよと」
萱次郎は餅を焼きながら、黙って二人の会話に耳をかたむけている。
行蔵は、目の前でなぜか固まっている三保之介に「酒じゃ」と空の徳利を差し出した。
居間の隣には米俵と酒樽が山と積まれており、三保之介は酒を徳利に移し替えつつ、二人の会話に神経をとがらせていた。
酔っているせいなのか、今日の三保之介の不審な様子には目もくれず、行蔵は濁った眼をしばたたかせている。
「あの酒はのう、楽翁より賜ったもので味も格別じゃ。ぜひとも賞味して帰るとよい」
楽翁とは、幕府老中を務めた松平定信のことである。今は隠居して楽翁と名乗っていた。定信は変わり者好みであり、江戸でも評判の奇人である行蔵をいたくお気に召し、何かと心配りをして酒を毎月届けさせていた。
だが、ありがたいことではあるがそのせいで、道場を閉めて何もすることのない今、行蔵が朝から酒浸りになる原因を作っているようにも思える。
来月からお酒はいりませぬと、おそれながらも楽翁公に申し上げるべきなのでは、と三保之介も萱次郎も思っていた。
行蔵は三保之介から徳利を受け取ると、のろのろと欠けた飯茶碗になみなみと酒を注ぎ、「ほれ」と綾に手渡す。どれだけ飲めばいいのだろう、と綾は困った顔でゆらゆらと揺れる酒の水面に白い顔を映し出していた。
ふと顔を上げると、明らかに顔色の悪い三保之介の瞳と自分の瞳が交差した。あの訴えるような眼差しは、間違いなく事情を知っていると物語っている。
すぐさま叩き出されても文句は言えないのに、奥方と私の嘘に付き合ってくださっているのかしら。
三保之介様はやっぱり、お優しい方。
と綾も自分の都合のいいように解釈し、それを合図にするかのように勢いづけて茶碗を傾け、ぐびりと喉を湿らせた。
それに、男の子になるって、とっても楽しい。
手の甲で口元を拭うと、綾は「とても美味しゅうございます。さすがは楽翁公です」と知ったような口をきく。
綾を見つめる三保之介の眉が、神経質にぴくぴくとうごめいていた。
そんな綾を見て、「そうじゃろうそうじゃろう」とますますご機嫌になる行蔵である。
「このような弟分がいるなど知らなんだ、もったいぶらずに連れてくればよかったものを。なかなかによい面構えをしておる」
「わざと僕に教えてくれなかったんですか」
萱次郎の冗談が、冗談に聞こえない。少年の目の奥が底光りしているような気がして、三保之介はもごもごと頼りない声を出した。
「いえ、彼は、その、体が弱く、とても兵原草蘆の修行についていけるとは思えませんので」
「何の問題もないわ。萱次郎もここへ来た頃は風邪をこじらせてばかりで、しょっちゅう寝込んでいたではないか」
昔話を嫌う萱次郎はむっとした表情を隠さず「おっしゃるとおりです。生半可な心持ちではここの修行は無理にございます。僕は別ですけど」と生来の負けず嫌いの気性もあって、すぐさま言い返した。
「これは何でございましょう?」
突然、居間に転がっていた何かを見つけ、綾は嬉しそうな声をあげた。
勝手に触ってはならぬ、と言いかけた三保之介の声に、行蔵の野太い声がかぶさった。
「鉄毬じゃ。見るのは初めてか?」
手裏剣を立体的にかみ合わせたような球状のものに、綾はすっかり心を奪われていた。
「兄を真似て嗜んだ程度でございますが、このようなものは初めてです。不思議な形をしておりますね。ですが、これだけ刃があるのでしたら刺さりやすさが格段に増しますね!」
「そこに的がある。試してみるとよい」
「本当ですか!」
「むしゃくしゃした時は、わしもそこに向かって投げつけておる」
嬉々として的に向かう綾を、三保之介は呆然と眺めていた。
いつおなごとばれてしまうかと気が気ではないのに、当の綾は酒の勢いもあってか実に無邪気に振る舞い、それが無自覚に行蔵の心を掴んでいる。
三保之介は隙をみて綾を夏目邸に追い返すつもりが、彼女は行蔵と完全に意気投合していた。二人の間に入り込む隙が全く見当たらなかった。
楽しそうに綾の手ほどきをする行蔵を眺め、萱次郎はぼそりと言った。
「孫の相手をするおじいちゃんみたいですね」
「お前がここに来た頃の先生が、まさにあれだ」
うめくような声をもらし、知らず知らずに胃の辺りを押さえる三保之介である。
「おぬし、筋がよいではないか。土産にいくつか持って帰るといい。夏目の道場にも的はあるじゃろう」
「ありがとうございます!」
大きな瞳をくるくると動かす綾の愛らしさがますます行蔵の心を捉えて離さないのは誰の目にも明白であった。