4. 綾之介、鬼と対面す
季節はずれのすすきが、その一帯をぐるりと取り囲んでいた。他にも名前のわからない枯草が綾の背丈ほどに伸び、故意なのかそうではないのか不明ではあるが、道場内の気配を完全に覆い隠していた。
綾の想像を遙かに凌駕し、四谷の兵原草廬はまさに鬼の住処であった。
なにより、どこが入り口なのかもわからなかった。しばらくしてから、人が枯草を踏み固めたような跡を見つける。
おそらくここから三保之介を含む数名が出入りしているものと思われ、綾はおそるおそる奥へと歩を進めた。
冷たい風が、すすきの穂をなで払いながら通り過ぎる。綾は奥方から借りた羽織の上から両肩をさする。
緊張のせいで、気がつけば背中にじわりと汗をかいていた。そのくせ、まだまだ身を刺すような風が吹くこともある季節のせいで、風が吹くたび綾はぶるぶると身を震わせ、急速に体を冷やす己の汗を忌々しく思った。
うなじにかかる髪も、どことなく綾の落ち着きを失わせた。肩より下に垂れ下がった髪は、耳の上でひとつに束ねられていた。
どこから見ても少年剣士でしょう、と着付けを終え、最後に脇差を手渡す奥方は満面の笑みを浮かべていた。
これも全て、平山道場は女人禁制であるゆえの策である。
***
「幸いにも平山先生は子どもがお好きだとか。まさかおなごが道場にやってくるなど、夢にも思わないはず。心配は無用です」
綾の着替えを手伝う奥方は、新しい遊びに夢中になっていた。煤竹色の羽織に藍の袴姿の綾は、ちょっとした武家の子息のような出で立ちである。
あまり身綺麗過ぎても不審がられるのでは、と綾は不安であったが「これも一緒にお渡ししてね」と書状を渡され、綾は観念するほかなかった。
混乱する綾の耳元で、奥方は含みのある声でささやいた。
「中山殿を、平山先生から引き離すのです。ある程度、隠居された方には見切りをつけていただかねば、こちらとしてもいろいろとあるのですよ」
「引き離すなど……中山様は平山先生に心酔しておられるのにそのようなことをしては、中山様のお心を痛めるのだけなのではと」
当然、綾は困惑を隠せなかった。
「いつまで経っても殿方達はうじうじぐたぐだする生き物なのです。誰かがきっかけを作るほか、ありませんでしょう」
一呼吸おいてから、奥方は綾の耳元で含みのある声でささやいた。
「あの老人をどうにかしなければ、中山殿はあなたの方を向いてくれませんよ」
綾はにんまりとする奥方に、ただただ口をぱくぱくさせるだけである。
「わたくしもね、いいと思いますよ。中山殿は」
みるみる頬を赤く染める綾に追い打ちをかけるように、奥方は優しい声で続けるのであった。
「わたくしも早う、長崎のお父上に良い知らせをお届けしたいの」
***
カサカサと草履が寂しい音を立て、綾は心細げに歩き続けた。
やがて、開け放れた道場が目の前に飛び込んできた。道場だけは毎日きれいに磨かれているらしく大きな板の間がつやつやとした黒光りを放ち、丁寧に掃除されていることを物語っていた。
夏目邸の道場も広いが、ここはそれ以上の規模であった。
なんて大きいの、と綾はしばらく縁側の下で文字通り言葉を失っていた。
こんなところで思い切り端から端まで打ち込むことが出来たら、さぞかし気持ちがいいだろう。と綾は風呂敷を胸に抱え、踊るような瞳で道場を眺めている。
ここで中山様が毎日修行されていたのだ、と思うとその気持ちもますます相まって、綾は満ち足りた気分になった。
「何奴!」
ふわふわとひとりごちていた綾の頭上に、突如雷鳴のような声が浴びせられた。
綾は咄嗟に胸の風呂敷を強く抱きしめ、数歩後ずさる。
「なんじゃ、おぬしは」
縁側で仁王立ちする声の主を見上げ、綾はまばたきも忘れて見入っていた。
小柄な老人であった。
そして、かなり恰幅がよかった。
どんぐりが爪楊枝を差したと、ここの道場主が例えられるのを何度か耳にしたことがあった。
本当にどんぐりだ、と綾は思った。
すなわち四谷の地獄道場の主、平山行蔵その人の姿に、綾は不思議と引き込まれるような感覚に身を委ねていた。
「もしやおぬし」
うなるような声を漏らし、行蔵はずい、と裸足の足を一歩踏み出した。
その声を聞き、綾は途端に我に返る。行蔵の赤みがかった鋭い眼光にすっかり縮みあがってしまった。
「いえ、あの」
もう、おなごとばれてしまったの?
今ならまだ走って逃げれば、どうにかなるかしら?
その場の空気を一新するような、若々しい声がまたもや頭上から降り注いできた。
「先生、どうなさいました。……これはずいぶんと可愛らしい道場破りでございますね」
あの方はお見かけしたことがあるわ。そう、中山様の弟分だとか。
たしか細井廣沢様の曽孫だとかいう、お若い方。
色白の少年が値踏みするかの如く、綾を上から下までじっくりと観察している。
少女と見まごうような柔和な面立ちではあるが、鋭さも同時に兼ね備えた萱次郎に、綾はなぜか身震いがした。
怖い、と綾は再び後ずさりそうになるが、胸に抱いた風呂敷を思い出した。これを渡さずに、帰れるはずもない。
「違います!わ、僕は、夏目家の使いで、これを奥方様より」
勇気を振り絞り、綾は一気にまくしたてた。
ほう、とつぶやくと、行蔵は綾の手からひょいと風呂敷を取り上げた。
「ありがたくいただこう。おぬしもあがるとよい」
風呂敷を萱次郎に手渡し、行蔵は上機嫌で奥へ戻っていった。
「奥方様も考えましたね。餅なら、さすがに先生も生では食せないと思われたのでしょう」
包みをほどいて中身を確かめると、萱次郎は相変わらず鋭い視線で綾に話しかけた。
綾は恐怖のあまり、顔を伏せたままである。平山様より、この方のほうが遙かに凄味があるような気がするのは、私の気のせいかしら?
帰りたい、と綾は何度も心の中でつぶやいたが、萱次郎は「どうぞ、おあがりください」と勧めてくる。
さて、風呂敷の中身は餅であった。
以前どこからか届いた鰯を、道場で酒の肴にした時のことである。
行蔵はわたも抜かずに嬉々として生のまま噛り付いた。
師匠が生で食しているのに、弟子が焼いた鰯をいただくなどもってのほかである。
門弟達はそれに倣い、しぶしぶわた付きの生臭い鰯に噛り付き、強引に酒で胃の奥深くに流し込んだ。幸いにも三保之介や萱次郎は何ともなかったが、運のない者が数名腹をくだしたようである。
聞く者にとってそれはもはや、平山子龍という男は、豪の者というより奇人の域に達していた。
当然行蔵の非常識ぶりは夏目の奥方の耳にも入り、奥方は焼くまで時間も稼げる固い餅を綾に持たせたのである。
綾はとうとう観念し、萱次郎に案内されるがままに長い廊下を歩く。
演武場と講義の為の教場を繋ぐ廊下から見渡す庭は、枯草が稲穂のようにさざめいている。
これで本当によかったのだろうか、と自問自答する綾に向かって、突然萱次郎はくるりと振り返るとやや詰問口調になりながらも、出来る限り穏やかなふりを装って話しかけた。
「それにしても、君みたいなお若い人が夏目先生の所にいらっしゃったとは存じませんでした。お会いしたこと、ありましたっけ?」
「いえ、あの」
萱次郎の鋭い眼光にたじろぎ、うろたえる綾に向かって、奥の間から平山行蔵のだみ声が投げかけられた。
「長右衛門の。早うせんか。ええと。おぬし、名はなんと」
そうだ、思い出した。今日の私は。
「綾之介にございます!」
ここまでくれば自棄である。
高らかに声をあげた綾の目の前にいた男が、手にした炭をぽろりと火ばさみから取り落とした。
あのお女中が、何故ここに。
呆然とする三保之介の耳には、「三保様、炭が!危のうございます!」とあわてふためく萱次郎の声も届いていなかった。