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蝦夷錦剣豪異聞~序~  作者: 渡部ひのり
えぞにしき・けんごう・いぶん
4/11

3. 三保之介、窮地

「昨夜は手間をかけさせてすまなかった。おぬしが気づかねば、綾も助かってはいまい。礼を言う」

 三保之介は翌日、早速夏目夫妻に呼び出されていた。

「もったいないお言葉にございます」

 そう返しながら、三保之介は長右衛門の後ろに座る奥方の気配がどうにも居心地悪くてしかたがない。

 奥方の恨みがましい視線を浴び、三保之介はいつものように平伏する。


 お女中が自分のせいで井戸に落ちたのは、三保之介もわかっていた。

 暗闇の中突然あらわれて、さぞかしあのお女中も肝を潰したことだろうと、三保之介はおのれの配慮の無さに後悔しきりだった。

 けれどひとつだけ、腑に落ちないことがあった。

 何故に彼女は許しをこうていたのだろう。


 それまで一切口を挟むことのなかった奥方であるが、張りと艶のある声は満を持してと高らかに、積り積もった欝憤をはらうかのごとき声色で、三保之介を珍しく動揺させた。

「中山殿のせいですよ」

「は……」

 三保之介は顔を伏せたまま目の前にある畳の目を数えながら、あからさまに穏やかでない奥方の気配をうかがっている。

  

「中山殿がはっきりしないからです。地獄道場の免許皆伝ともあろうお方が情けない。たかが小娘一人に逃げ回るなど、平山道場の名が傷つきます!」

 奥方の刺々しい物言いに、三保之介は面食らうばかりである。


「何のことでございましょう」

 叱責される理由はあるにせよ、奥方の言葉が今一つ現状に結びつかなかった。

 奥方は思わず面をあげた三保之介をはったと見据え、見えない糸でその顔を身動き出来ぬよう、がっちりとからめ取る。 

 その光景は長右衛門にしてみれば、「蜘蛛の巣に蝶」以外の何物でもなかった。


「綾から文を貰ったのでしょう。なのにあなたにすげなくされて……綾は覚悟の身投げをしたに違いありません!」

 しばらく考えたのち、三保之介は落雷に打たれたかのように目を見開く。

 亀田翁の弟子がどうとか萱次郎が言っていたかもしれない。いや、言っていた。

 あの文の送り主は、昨晩井戸に落ちたお女中であったか。

 と、ようやく合点のいった三保之介であった。


 しかしながら、奥方と自分の認識には大きな隔たりがある。

 お女中は自ら井戸に飛び込んだわけではなく、うっかり落ちてしまっただけなのだ。

 ひどい濡れ衣だ、と三保之介は二人に聞こえないよう嘆息しながら、次の手を模索していた。


『他流試合勝手次第』の看板を掲げる平山道場では、しばしば道場破りのような輩がやってきた。

 師範代として、その都度最後を収める三保之介である。

 が、今までにやってきた有象無象どもよりも、今日の奥方ほど手強い者はいない。

 三保之介は助けを求め、その地獄道場の先輩である長右衛門に意味ありげな視線を送るが、虚しくも反応は一切無い。

 一方の長右衛門も広間の壁に掛けられた女面のような顔をしながら、それなりに知恵を絞っていたのである。


 困ったことになった。

 愛弟子の窮地を見過ごせるほど、長右衛門は情のない男ではない。

 言いかえれば寝食共にすればその日から一連托生、周囲があきれるほど面倒見のよい人間でもあった。


 遡れば八年程前、徐々に南下してきたロシヤを打ち払う為に択捉(えとろふ)に派遣された時は、それは例えようもないほど過酷な日々であった。

 厳しい気候と栄養失調で命を落とす者が続出する極寒の地である。

 その辛苦を振り返れば今日の三保之介の窮地を救うなど、朝飯前ではないか。

 と、長右衛門は奥方の視線をあまつことなく背中で受け止め、心を定める。

 

「三保を責めてもいたしかたないこと。母上、姉上以外の女性に文を送らぬのはお前も知っておろうに。そもそも三保は多忙じゃ。おなごにかまけている暇など無い」

 だが、長右衛門の言葉を予期していたのか、奥方の態度は相変わらず数段上からである。

「多忙なればこそ。思い切って身を固めてはいかがです」


 長右衛門は「ほう」と形だけの相づちを打ってみせた。

 けれど次に繰り出された奥方の言葉に、長右衛門は完全に押し黙ってしまった。

「綾と」

  

「綾は確かにそそっかしいところもあるけれど、明るくて良い娘ごです。武芸も旦那様から手ほどきを受けておりますゆえ、武門の嫁に相応しい」

 それまで沈黙を保っていた三保之介が、決死の覚悟でうめくような声をもらした。

「ご勘弁を」

 畳に額をこすり付ける三保之介の声は、押しの強い奥方さえも押し返す重みが感じられた。

「私には大義があります。大義をなす前に妻だの子だのと、考える余裕がありません」

 うーむ、と長右衛門はきれいに結いあげられた三保之介のまげを見つめていた。


 三保之介の言い分はもっともだ。

 己を極めるため、あるいは見聞を広めるために三保之介がはるばる江戸まで身一つでやってきたのは、十八歳になるかならぬかの頃であった。

 北国出身である三保之介は、江戸のおなごに負けず劣らずの美しい白皙の青年であった。

 それが今ではすっかり日に焼け、細かった体も一回りどころか二回りも、いやそれ以上に武士としての風格を兼ね備るまでに成長している。 

 三保之介の心情を鑑みれば、縁談など迷惑な話に違いない。

 

 無用の長物かもしれぬが、ここはひとつと、武人ながらも穏やかな人となりである長右衛門が猫を呼ぶような優しい声で助け舟を出した。

「まさかとは思うが、平山先生に義理立てしているのではあるまいな」

「……いえ、そのようなことは」


 またしても奥方の次の、そのまた次の手が矢継ぎ早に二人の足元を貫いた。

「その平山先生もですよ。奥様もなしに長いことやもめ暮らしで地獄道場と聞こえはよけれども、実際は女手もなく、今や本物の鬼の棲み家ではありませんか」

 奥方の容赦ない物言いに、長右衛門と三保之介はたじたじだった。


「確かに先生をあのままにしてはおけません。だからこそ今は……御免!」

 三保之介は無礼を承知で、奥方から逃げるように部屋を後にした。

 奥方の恨みがましい声が聞こえるが、三保之介はひたすらに廊下をすり足で駆け抜ける。


 奥方の不満は、当然残された長右衛門にぶつけられるのであろう。

「中山殿らしいといえばらしいですが、修行僧じゃあるまいし、もう少し周りに目を向けてくださればよろしいのに」

 とぶつぶつ言っている。

 自分も三保と一緒に逃げだせばよかった、と長右衛門はむくれている奥方を目の前にしている。

「肝心なことを忘れていました。この文、中山殿にお渡しするはずだったのに、まんまと逃げられてしまいました」


「いや、むしろそれでよかったかもしれん。『井戸に飛び込む』のくだりを読めば、綾を心底恐れ、まとまるものもまとまらなくなってしまう」

「では、まとめる気がお有りなの」

 長右衛門は奥方にくるりと背を向け、硯をすり始めた。


 全く殿方はそろいもそろって役に立たない。

 見ていなさい。

 可愛い綾の想いに報いる為にも必ずやこの話、私が見事にまとめてみせましょう。

 声を出さずに笑みを浮かべ、奥方はすっくと立ち上がった。

 

***


 よくよく考えれば、綾は三保之介のことを何も知らないも同然であった。

 お国はどこだとか、どのような家でお育ちなのかだとか、三保之介の生い立ちは風の噂で聞く程度であったからである。 

 でもいいの。

 何も知らないけれど、いいえだからこそ、中山様の真っすぐな人となりが愛おしく思えるのだから。

 たとえ罪人の子であろうとも、私は中山様をお慕いするの。


 枕元にたたまれた三保之介の羽織にそうっと手を伸ばし、綾は昨夜の出来事を思い出していた。

 昨晩のこともあり、奥方から念のため一日休んでいるようにと言われ、綾は悶々としたり、時には興奮しながら布団の中で過ごしている。

 幸いにも風邪をひくこともなく、体調では何の問題もなかった。

 それにしてもこの羽織、いつお返ししたらよいのかしら。

 再び悶々とする綾の部屋の前に、人の気配があった。

 

「綾。入りますよ」

「は、はい」

 奥方の凛とした声に、綾はとっさに半身を起こし精一杯背筋を伸ばした。

 

 顔色のよい綾を見つめ、奥方は安心したように笑みを浮かべた。

「熱はないようね?」

「は、はい。何も。皆様にはご迷惑をおかけして、大変申し訳なく」

 いいのよ、と言いながら奥方は目ざとく三保之介の羽織に視線を移した。

 梅鼠(うめねず)の羽織は昨晩水を吸い、所々で不吉な赤みを際立たせていたが、今ではすっかり元の小豆のようなほんのりとした色を取り戻している。


 かしこまる綾に膝をずいと詰め、奥方は労わるように布団の上で固く握られた少女の手に自分の手を重ねた。

「元気になったらね、あなたにお願いがあるのよ」

「何でございましょう?」

 いつになく声音の穏やかな奥方に、綾は違和感を覚えていた。

 そもそも奥方の声もお顔もきつくなりがちなのは、ああ見えても意外に殿がよそでお盛んなせいで……。

 

 だが奥方の次の言葉に、そんな綾の下世話な考えもたちどころに吹き飛んだ。

「四谷の、地獄道場へ行ってはくれませぬか」



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