2. 本所皿屋敷事件
とある日、三保之介は硯箱の蓋を開けたまま、その中を不思議そうに見つめていた。
書状らしきものが硯の上に乗っている。
おそらく玉章のたぐいであろう、と三保之介はすぐさま火鉢に放りこもうとするが、すんでのところで手を止めた。
どこかで見たような、躍動感を持ちながらも品性を保った美しい字で、自分の名がしたためられていた。
見事な手蹟である、と感心しながら読み終わると、軽く首をかしげて最後の歌らしきものをもう一度読んでみる。
「まさか、な」
突然、少年の瑞々しい声が廊下に響く。
「三保之介様、お迎えに参りました」
うかつだった。いつもの三保之介であれば気配を感じとるのも当たり前であるのに、声をかけられるまで気付けぬとは、自分もまだまだである。
年の頃は十四か十五の少年の名は、細井萱次郎といった。
少女を思わせるような繊細な顔立ちからは到底想像もつかないが、若輩ながら平山道場の門弟の中でも突出した才を持つ少年であった。
年は十ほど離れていたが、萱次郎は三保之介を兄のように慕い、三保之介もまた聡明な萱次郎に目をかけていた。
三保之介は急いで火鉢に文を入れ、何食わぬ顔で墨をすり始めた。
萱次郎は部屋に入るなり火鉢の中に放り込まれた文に目をやった。
三保之介は無言だった。
「あれ?」
「何か」
何気ないふりを装い、三保之介は墨をすり続ける。
萱次郎は火鉢の前に座り込み、燃え広がっていく文をじいっと眺めながら「鵬斎先生のお手に似ていますね」と言った。
萱次郎の曽祖父である細井広沢は高名な儒学者であったが、同時に優れた書家であり、細井家は代々文人一家であった。
同じく儒学者である亀田鵬斎も、細井家の面々に劣らず巧みな書で知られている。
鵬斎は人好きのする人物で、侍のみならず町人の弟子も大勢いた。
乞われれば偉ぶるふうもなく、「ほいほい」と何にでも筆を走らせ、市井の人々を喜ばせた。
「僕は、嫌いじゃないですね。女の人にしては思い切りのよい感じが」
萱次郎は言い終えてからしばらくすると「まあ、僕の方がうまいですけど」と付け加えた。
あの鵬斎先生のお弟子と思われる女人からの文とはこれいかに、と萱次郎はあれこれ推察してみるが、三保之介の表情からは、心情を読み取るのは難しそうだった。
まさかではあるが、三保之介様もまんざらでもないなどと思っているのでは。
萱次郎の瞳に物言いたげな気配を感じ、三保之介は「ああ、そうだな」とうなずいてみせる。
何食わぬ顔をして三保之介は墨をすり続けた。
「それにしても鵬斎先生を見習って、平山先生にも早く道場を再開していただかねば。そろそろ三保之介様からも先生に言ってください」
そこでようやく手を止め、三保之介は「時期尚早ではないのか。先生のお心が静まるまで、我らは見守るより他ない」と空を見つめて言った。
吐息をつきながら頭を振り、萱次郎は苛立ったように言った。
「じゃあ、いつになったら立ち直るんですか」
「俺が知るわけないだろう」
亀田鵬斎は不運な男であった。人からは愛されたが、権威に対する反骨心を隠すことなく幕府から睨まれ、結果として大勢の門弟を失った。失意の中数年諸国を放浪し、帰郷してまもなく妻を失い、またもや流浪の旅に出た。
今の平山先生を見ていると、かつての鵬斎先生のように、自分たちを置いてどこかに消えてしまうのではないかという不吉な思いが、萱次郎の胸をよぎった。
平山行蔵は、自発的ながらも蟄居中の身であった。
大勢いた門下生の姿は消え、行蔵は酒びたりの日々であった。
心配した三保之介達が代わる代わる道場に行蔵の様子をうかがいに行くのが幾月も続いていた。
それもまた、行蔵の行き過ぎた思想が幕府の懸念材料となってしまったからである。
険しい表情になる萱次郎が何を考えているかなど、三保之介には手に取るようにわかる。
重々しくなる空気を変えるように、三保之介はつとめて明るい声を発する。
「奥方から先生への手土産をご用意していただいた。佃煮か何かだと思うが、取りに行ってくれぬか。おぬしが行けば喜んで菓子などくれるだろう」
子ども扱いされて機嫌を悪くしただろうか、と三保之介はあわてて振り返るが、萱次郎は「では行ってきます」とにこにこしながら退室した。
三保之介の喜びであり同時に誇りでもある萱次郎の賢しさが、今日はなぜか好ましいものに思えなかった。
俺は何もうしろめたくない。はずだ。
火鉢に目をやると、文は燃え尽きて跡形もなくなっていた。
「嘆きあまり知らせ初めつる言の葉も、とは。たかが皿一枚だ」
***
待てども待てども、お返事など来やしない。そういう方なのだとわかっていたけれど、無視されるのは辛い。
もう一度書いてみようかしら。でも、しつこいと思われたらどうしよう。
中山様のお部屋に忍び込むのも勇気がいった。あれをもう一度やる勇気は、どこにあるかしら。
綾が連日、何度も大きなため息をつくのを、奥方は見逃さなかった。綾が何かに思い悩み、落胆しているのは傍目にもあからさまであったからである。
かと思えば、屋敷内にある道場で奇声をあげながら槍を繰り出すようになった。
綾は長右衛門の部下の娘であり、奥方も長右衛門も我が子のように可愛がっていた。
そそっかしいところがあるにせよ、綾は見目麗しく武芸にも優れ、よくできた娘であった。
ある日奥方はとうとう長右衛門に言った。
「今年は花や琴の稽古に励みたいと言っていたのに、今日の稽古は鎖鎌でした。綾も、もう十七です。そろそろ縁談をと思っていたのに、あの子ときたら」
「つくづく女子にしておくには惜しい」
と長右衛門は言い、いつものように筆を走らせている。
「年頃の娘にあんなものを振り回されては恐ろしくて、殿方も近づけやしません。あなた、何かご存じありませんか」
「お前が知らぬのなら俺も知らぬ」
長右衛門は筆を止め、掛け軸に視線を移した。
女中の奇行よりも、遥かに重要な案件を抱える身である。奥のことは奥に任せようと思うが、ややもして強引な態度を取ることもある妻であった。
夏目家の安寧の為、長右衛門はひとつ釘をさすことにした。
「問い詰めてはいけない。暖かく見守ってやりなさい。それに本当に困っていれば、おのずと綾の口から聞けるというもの。いいね」
奥方は不満そうであったが、結局長右衛門の意見に従うことにした。
暖かく見守れと殿がおっしゃったのだから、見守ればよいだけのこと。
と、奥方は以前にも増して綾に鋭い視線を向け続けた。
今のところ、変わった様子は見られない。お勤めの合間に何かを振っているだけである。
退屈だわ、と奥方が思い始めた睦月も終わる頃、事件は起きた。
綾が廊下を曲がったところで、誰かと言葉を交わしている。いつものように綾を追い、奥方は忍びのごとき足取りで近づいていく。
角を曲がると綾が庭に降り、使用人と土蔵に向かって行くのが目に入った。
奥方は、庭先に落ちた何かに目を奪われていた。足袋のまま庭に降り、誰かの落し物を拾いに行く。
文であった。
ふいに人の話し声が近づいてきた。
奥方は再び忍びのような身のこなしで文を拾い上げると、土のついた足袋のままするりと廊下に戻った。
誰かに見咎められていないかと、素早く辺りを確認する。
奥方はいそいそと部屋に戻ると胸元から文を取り出し、あらためて文をまじまじと眺める。
そして「あっ」と声をあげ、思わず自分の口元を押さえた。
文は、三保之介に宛てられたものだったのである。
床に就こうと横たわったばかりの長右衛門の枕もとに座り、奥方はじいっと夫を見下ろしていた。
「殿、よろしゅうございますか」
「今度は何だ」
「綾の件にございます」
長右衛門は無言だった。
正直あまり関わりたくないと思っていたが、奥方の声色に恐れをなし、しぶしぶ起き上がる。
「何ぞ、変わったことでも」
「お読みください」
奥方から差し出された文を前に、長右衛門も驚きを隠せなかった。
「なんとまあ、そういうことであったか」
「中山殿らしいご立派な振る舞いにございますが、綾は私共が思う以上に思いつめている様子」
「返事がなければ井戸に飛びこむとは穏やかではないな。もはや脅しではないか。三保之介も気の毒になあ」
「仕方のないことではございますが、あの鬼道場では女子のあしらい方など学べるはずもありませんしねえ」
奥方は落胆のため息をもらし、夫に同意を求めた。
男子のみの集団生活だったせいか、三保之介が女性と話す時は石ころに向かって話しかけるような素っ気なさである。
むしろ若輩の萱次郎の方が、よほど返しが巧みではなかろうかと思う時すらある奥方であった。
その頃綾は、暗い井戸の前で立ち尽くしていた。
とうとう三保之介宛ての文を失くした。そそっかしいにもほどがある。おまけにどこで落としたのか皆目見当もつかない。
邸内をくまなく探したのだが、文はどこにも見つからなかった。
とっくに誰かに拾われて、屋敷中に知れ渡っているかもしれない。
自分だけでなく中山様まで皆の笑い物にしてしまった、と綾は奥方が拾ったなどと夢にも思わず、涙ぐんだまま井戸を見つめている。
「どうかされたか。灯りもなしにこのような場所で」
綾はびくりと肩を震わせ、その声の主が三保之介だと気がついた。
「お許しください。お許しください」
綾はすすり泣きながら三保之介からあとずさる。このようなご立派な方を辱め、私は取り返しのつかないことをしてしまった。今日を限りにお暇をいただこう。
泣きじゃくる女中に困惑しながらも、三保之介はなだめるような声を出す。
「事情は知らぬが、後ろに」
どん、と綾の草履が井筒にぶつかり、二人の目が一瞬合った。
「危ない!」
三保之介の鋭い声が庭中に響き渡る。
そしてばしゃんと、井戸に何かが落ちる大きな水音がした。
「つるべにおつかまりなさい!」
暗闇で懸命にもがく綾は、何がなんだかわからずに、手に当たった縄をつかむ。図らずも井戸に落ちてしまった我が身がつくづく情けなかった。
水は氷のように冷たく、縄を掴む手からみるみるうちに力が抜けていく。
いっそこのまま手を離して、死んでお詫びしようか。
「手を離してはいけませんよ!」
必死で綱を引き上げ、三保之介は叫んだ。
なんだなんだと人が庭に集まってくる。
騒ぎを聞きつけた夏目夫妻も庭へと走る。
髪は崩れ、着物からぼたぼたと水を滴らせる綾の姿に、奥方は「ひいっ」と悲鳴をあげた。
後から駆けつけた重吉は「うわあああ」と叫び、腰を抜かしていた。
何と勘違いしたのか、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と両手をこすり合わせている。
奥方はへなへなと廊下にへたり込み、気を失いそうになりながらも「もしや……綾なのですか」と、かすれる声でたずねた。
三保之介は自分の着ていた羽織を脱ぎ、震えている綾の肩にかけてやった。
女中達に抱えられ、紫に染まった唇を震わせながら綾は放心したまま奥に消えていった。
庭から廊下に延々と続く水の跡は、井戸の底から這い上がってきた妖怪の足跡さながらである。
綾の後ろ姿を見送りながら、重吉は「妖怪じゃなくてよかった」とつぶやいた。
「綾は何故このような場所に。風邪を引かねばよいのだが」
奥方を支えつつ、長右衛門はやっとのことで口を開いたが、血走った眼の三保之介のただならぬ様子に気押され、その続きは封印するほかなかった。
誰もが寝静まった後にも、綾は布団の中で亀のように丸くなり、がたがたと震え続けていた。
そそっかしいにもほどがある。井戸に飛び込む勇気もないのに、いざ落ちたら必死で井戸から這いあがった。
三保之介がいなかったら、本当に死んでいたかもしれない。
これからどうやってここで暮らしていけばいいのだろう。
やはりお暇をいただいて、ひっそり生きていくしかないのかしら。
いや。
やっぱり、側にいたい。好きになったから、離れるなんて、出来ない。
綾はむくりと起き上がると丁寧にたたまれた三保之介の羽織を手に取り、いとおしむように抱きしめた。