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蝦夷錦剣豪異聞~序~  作者: 渡部ひのり
えぞにしき・けんごう・いぶん
10/11

9. 蝦夷錦、行方知れず

「これは?」

見覚えのある数々の書物に、三保之助の顔がわずかにほころんだ。

それを合図に、綾は呪縛から解き放たれたかのようにするりと三保之助の腕をすり抜けた。

散らばった書物をかき集め、綾は高鳴る胸を抑えるのに精一杯である。


「精一郎様が、平山塾の教本をお貸しくださったの」

 書物の表紙は『孫子解』と書かれていた。三保之介はかがんで手に取り、ところどころが擦り切れ始めている表紙を優しく指でなぞった。

「あやつらは誰よりも熱意に溢れ……自慢のおとうと弟子だ」

 自然と笑みがこぼれ、三保之介の纏う空気が徐々に柔らかいものに変わっていく。


「何が書いてあるのかわからないことも多いけど、でも、私だって、ほんのわずかでも」

 理解できるはず、と最後まで言うのはためらわれた。

 自分を真っ直ぐに見つめる三保之介に圧倒され、綾は息苦しさにごくりと喉を鳴らしていた。

 三保之介とは平山行蔵が他の塾生の誰よりも認め、信頼し、自分の片腕として一目置いている男なのだ。

 そのような男と、自分のような小娘が対等であるはずもないのである。

 急激にこみ上げてくる気恥かしさに襲われ、綾はうつむくほかなかった。


 けれど、三保之介の声はよく通る声ながらも優しく穏やかであった。

「何ゆえ、そこまでして平山先生の弟子になりたいと願う?」

 平山道場では稽古の苛烈さに度肝を抜き、一日経たずに辞めていく者ばかりである。百人が門を叩いたとしても、一年後に残って修行を続けている者は片手で足りる程度であった。

 この娘は、確かに未熟ではあるが根性だけは人一倍あるようだ。おなごでなければ、と三保之介もうっすら思うほど、綾は時々男子もたじろぐような力強い目をしていた。


 中山様は卑怯だ。

 ご自身のことは何一つ語らないくせに、どうして自分の心の中を暴こうとするのだろう。

 自分のことなど何とも思っていないくせに、どうしていつも助けてくれるのだろう。

 私はあなたのことが、知りたかった。同じ時を過ごしたいと思った。三保之介を引き付けるものが何であるのかその目で確かめたかったのだ。


「では、中山様は何故?」

 綾は思い切って尋ねてみた。

 むう、と三保之介はうなり声を上げると綾をはったと見据えた。綾も反射的に負けじと顔をあげ、もはや何かの我慢比べのようになっている。

 

 ややあって、三保之介が先に口を開いた。

「精一郎の教え方は生ぬるい。あやつは優しすぎるのだ。俺ならそうはいかぬ」

 綾が反論する前に、三保之介は続けた。

「明日から俺が教える」


 綾の心臓が一瞬止まったような気がした。

 ついこの前は何もかも駄目の一点張りだったが、綾は三保之介の変わりように驚いていた。

 少しは自分を気にかけているということだろうか、と綾は胸の疼きを抑えることなどできなかった。

 綾の表情から敵意が薄れ、三保之介はそこで初めてこの場に二人きりであると気付いた。

 戸惑いながらも自分を真っ直ぐに見上げる綾の澄んだ瞳にうろたえる。

 そして、三保之介は自分でも思いもよらぬことを口走っていた。


「嫁に行きたいのなら他をあたってくれぬか。精一郎を待っていたら、そなたもあっという間に姥桜(うばざくら)……」


 一瞬でもときめいてしまった自分が愚かだった。

 綾は気がつけば、手にした書物を三保之介めがけて力任せに投げつけていた。

「大切な書物を何と心得る!これはそこいらの書物とは違う、神聖な平山道場の」

 三保之介は自分の失言を棚に上げたまま説教するが、綾の憤怒の形相にたじろいでしまう。


「あなたの力は借りません!こっちがお断りよ!」

 結局のところ、三保之介は綾の思いなど何もわかっていないのだ。言うに事欠き自分を姥桜呼ばわりし、無礼にもほどがある。

 許すまじ、中山三保之介。

 綾は手当たり次第に教本を投げつけながら「出て行って!」とわめき散らす。中には平山の講義を精一郎が自分でまとめた貴重な物もあった。

 やめぬか、と綾をなだめる三保之介と書物の取り合いになるが、綾はますます激昂し手がつけられない。ついに手の中で嫌な音がして、そこで二人は同時に顔を見合わせる。

 綾は自分の手に残った書物と、三保之介の手にある書物をいつまでも見比べていた。

 明日精一郎に何と申し開けばよいのか、綾は気が遠くなりそうになった。

  

***


 朝餉の香のものが、気のせいか自分だけ少ないような気がする。香のものだけではない。汁も飯もいつもより少ない。全てが明らかに少ない。

 なんという大人げないことを。

 もそもそと膳から顔を上げた三保之介からぷいと顔を逸らし、綾は廊下に姿を消した。


 物陰から二人の様子を伺うのは、奥方の楽しい日課であった。

 早速三保之助を呼びつけると「もしや余計なことを口走ったんじゃないでしょうね?例えば、男谷様のこととか」と問い詰める。

 三保之介は、昨日奥方が部屋の前で聞き耳を立てていたのではないかと疑わずにはいられなかった。

「何かお聞きになっておられますか」

「何かって、何がです?」


 三保之介はにこにこしている奥方の目の前で、ため息をつかずにいられなかった。

 今度こそ余計なことを口走ってはならぬ、と三保之介は固く心に誓う。

 そもそも昨日は好意を持って綾に接したはずが、どうしてあのように……、いや、それもおそらく自分の失言のせいだ。

 深い所では理解できてはいないが、何かが綾の気に障ったのは確かである。

 折角この自分が。平原草蘆の師範代たる自分が、難儀している綾を哀れに思い、わざわざ手を差し伸べてやったのにもかかわらず、あの態度はいただけない。

 はねつけるのみならず罵声まで浴びせられ、三保之介なりに不快であった。


「精一郎に綾殿を娶らせるわけにはいきませぬ。向こう三、四年は縁談などもってのほかにございます。あれほど有望な若者もなかなかおりますまい」

「それならあなたが代わりに貰ってくれるの?」

「……できませぬ!」

 巧みに切り返してくる奥方に言葉をつまらせながらも、三保之介は力強く首を振る。


 なんやかやと言いながらも、綾を充分気にかけているような口ぶりである。

 奥方は三保之介の以前とは違う反応を見逃さなかった。

 即答しなかったところをみると、何か思うところがあるのかしら。

 奥方の期待は膨らみ、一時は失いかけた希望を再び取り戻していた。


***


 幸運なことに、精一郎は夏目邸に現れなかった。

 男谷家より使いがやってきて「喉を痛めてしまい声が出ない」とのことであった。

 どんよりとした綾とはうらはらに、からりと晴れた春の日であった。

 どんよりしたまま、綾は頼まれていた着物の寒干しを手伝い、一息つくと道場の縁側に腰かけて風に揺れる着物を眺めていた。

 蝦夷錦がはためく様を見て、綾の心は千々に乱れる。

 三保之介を思い出させるものなど、何も見たくなかった。なのに、いやおうなしにも綾の瞳は自然と艶やかな蝦夷錦に向けられている。


 どうして三保之介が自分には意地悪ばかりなのか、知りたくもなかった。

 殿方という生き物は何故か殿方同士集まって、くだらない結束を固めて悦に入っているものなのだと、奥方がいつだか言っていたことを思い出した。

 おなごの自分が受け入れてもらえないのは、きっと、そういうことなのだ。

 だから負けたくなかったのに。


 綾は懐から鉄毬を取り出すと、道場の的に向かって投げつけた。ごとりと落ちた鉄毬を見つめ、綾はぽつりと言った。 

「今度こそ本当にやめる。好きなのを、やめる」


声に出してみたが、自信はなかった。

はじめは、三保之助と自分を結び付けるものが欲しかった。それが他ならぬ四ッ谷のお師匠であったけれど、今では平山行蔵という唯一無二な存在に心から惹かれているのもまた事実であった。

平山のことを考えれば、どうしても平山行蔵の背後に三保之助がちらちらと影の如くつきまとう。若い綾には、割り切れないものが多すぎた。


 奥方に呼ばれ、綾は鉄毬を拾うと再び懐にしまい込む。

 なにげなく振り返る庭では、変わりなく蝦夷錦がひらひらと舞って……いない。

「え」

 愚かな綾をあざ笑うかのように、憎らしいほど美しく舞っていたはずの蝦夷錦は、跡形もなく消えていた。 


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