9 欲しかったのは現実の
「はいお客さん入って。ちらかってるけど」
先輩は扉を開けた。
いつもは原付で学校へ行くらしいが、ワタシが来るということで、珍しくバスで行ったのだという。そのバスに揺られ、学校より更に街の中心からは離れた所に、先輩のマンションはあった。
階段を昇って、三階。郵便受けを見てから、彼は鍵を開けた。
入るとやはり、自分の家とは違う匂いがする。
何だろう、と灯りをつけた室内をぐるりと見渡す。ワンルームだ。入ってすぐにトイレと一緒なバスルーム、そしてキッチンが作りつけられた部屋が、広がっていた。
だが先輩の言う「ちらかっている」は間違ってはいなかった。
作業中の床面はなかなか笑いを誘うものがある。
ベージュのじゅうたんには、新聞紙があちこち敷かれていて、その上には、作業中の作品が幾つも置かれていた。乾燥中という訳ではないのだろうが、ケント紙を水張りしたボードが、同じ形を、違う色彩構成をされて、何枚か置かれていた。
部屋の隅には、以前に作ったのだろう、立体カラーチャートが置かれている。そしてその向こう側に、服を掛ける場所があった。
「とりあえずそのへん、開拓して落ち着いて」
開拓ね。なるほど、とワタシは荷物を入り口に近いほうの空いた場所に置くと、なるべくものを踏まないように、忍び足で奥へと進んだ。
ワンルームは、だいたい六畳と四畳半をつないだくらいらしい。キッチンがあるほうが四畳半で、ベッドやTV、それにテーブルが置かれているほうが六畳らしい。
とりあえずTVやテーブルのある方へ行こう、とワタシはそろそろと動いた。
「何か呑む? あ、ウーロン茶くらいしかないか」
「何でもいいですよ」
じゃはい、と彼はペットボトルをワタシに手渡す。そして自分は、冷蔵庫からビールを取り出して、コップを二つ手にする。
「あ、ずるい。ビールあるじゃないですか」
「お前呑めるの?」
「呑んだことはないですけど」
「じゃ半分やる」
彼はとぽとぽとコップの一つにそれを注いだ。ワタシは一度その中身を見てから、それに口をつけた。
「苦ーい」
「そらそうだろ。だから呑んだことないならよせって言うのに」
そう言って、胡座を組んで座り込むと、彼は美味そうに自分の分に口をつけた。
何となくしゃくにさわる。しゃくにさわるから、苦いと一度置いたコップの中身を、ワタシは一度に飲み干した。そして勢いよく喉を刺激する炭酸に、むせかえる。
「あーあ、そんな一度に」
ぽんぽん、と彼はワタシの背中を叩いた。数回深呼吸をすると、せきはおさまった。だが喉がややこそばゆいままだった。そのせいなのかどうなのか、彼の手はなかなかワタシの背からは離れなかった。
「それでヤナセ、今更の様に俺、聞いてもいい訳?」
「今更の様ですが、どうぞ」
「お前どうして、いきなり来たの?」
いきなり。そういきなりだった。
確かに家には……市の美大に通っている先輩のところへ行ってくるとは言ってきた。だがそれを当の本人に告げたのは、その前日だった。
電話の向こうの声は、一瞬止まったが、案外穏やかだった。
来たいなら、おいでよ、と言った。
泊めてくれますか? と訊ねたら、いいよと答えた。驚かなかった。
「前に先輩は、言いましたよね」
「うん?」
「必要になったら呼べって」
「うん」
卒業式の日。わざわざワタシにレッテルを貼っていったこの人は、そう言ったのだ。
「どういう意味か、考えていたんですけど」
「判った?」
「判りました」
コップをテーブルに置く。とん、と音が部屋の中に響く。空いた手で、何度か頬を撫でる。変な熱さが、湧いてくる。
「…彼女を…」
目を軽く閉じる。まぶたの裏側に、絵の中のサエナの姿が浮かび上がる。
あの日から、ワタシはあのスケッチブックを閉じていた。端の紐で、くっと本結びにしていた。そう簡単には解けない。開けようと思ったら、切った方が速い。
どうしたの最近、とサエナは訊ねる。
訊ねられるから、代わりの作業に手をつけている。例えばボードに紙を張ったり、そのボードに幾何学模様を描いてポスターカラーで塗りつぶしたり。
だけどそんなことばかりをしていられない。
「夏休みが来てしまったんですよ」
「うん」
「お昼を一緒に食べるんですよ。風が心地よくて、彼女はついまた、昼寝を決め込んでしまうんですよ。…ひどく無防備に」
「うん」
「それもワタシの前だけって、判っているから」
なのに。
「だけど、彼女は、どうしようもないくらい」
そして話をする。今度の期末ではあの子は何番だった、ここの夏服は似合う、最近は何かライヴハウスに入り浸っているようだ云々。
笑顔が凍り付くのが判る。こんなに、部屋の中は、暑いのに。
「触れたくなった?」
ワタシはうなづく。
「絵を… 彼女の絵を描いているから視点が、だんだん妙になっていくんだ、て思って、いたんですよ。だけど違う。スケッチブックを閉じてもそうだった。頭の中が、だんだん混乱してく。どうして自分がこんなこと考えているのか、判らなくなってく。なのに、考えることを止められない。止められないんです。彼女が、あの一つ年下の子のことを話すたびに、ワタシは、胸の中がざわつくのが判る。判るんです」
「…俺も」
「先輩も、そうでした?」
「今でもそう。奴が彼女と一緒に居る。彼女は奴の腕に触れる。奴は彼女の腰に手を回す。その手に力が籠もる。それでいて俺も一緒に呑みにいかないかって誘う。悪気が無いから、俺は余計に」
悪気はない。そう、悪気は、絶対に、無いのだ。
ただ、「違う」のだ。サエナも、イクノ先輩も、それを見ているワタシやナオキ先輩とは。「違う」だけなのだ。
そしてその「違い」は、それだけのことなのに、ひどく圧倒的で。
「時々、何で、そんな奴を好きになってしまったんだろう、って思う。だって、長いつきあいだから、色んなとこを見てきてる。いい所もあるし悪い所もある。どうしようもなく許せない部分もあるんだ。だけど、それでも、奴がそこに、そうしていると、その全てが、どうでもよくなってしまうんだ。そう思う自分が時々、嫌になるのに、それなのに、俺はどうすることもできない」
ワタシはうなづく。
「言ったら、終わり」
「そう言ったら終わりだ。奴は、俺がそんなこと考えてるなんて、夢にも思わない。いや、世間にそういう奴が居るってことも、自分とは絶対的に別世界だと思ってるんだよ。永久に出会わないって」
「サエナもそう。気持ち悪いって言っていた。頭がどう判っても、気持ちが、って」
なのに。
「なのにワタシはそういう彼女に、どうしようもなく、惹かれるんですよ。…ワタシには、絶対に無い部分だから」
「それはあるよ。俺にも… 俺は、どう転んでも、奴のようにはなれない。なりたくもない。絶対なれない。だけど、絶対に無いものだから、どうしようもなく、それが時々欲しくなるんだ。無い物ねだりだ。判ってる。判ってるけど…」
「だから」
ワタシは背中に当てられたままの、彼の手を取った。
「先輩には、触れてもいいんでしょう?」
「ああ。俺も、お前には、触れてもいいんだろう? お前はここに来たんだから」
誰かに、触れたかった。どうしようもなく、触れたかった。彼女に対する気持ちが、脹らめば脹らむほど、彼女に触れられないことが、ひどく辛くなった。
身体は、それを求めている。だけど、頭が、それをいけない、と止める。彼女が好きなら、一緒に居たいなら、絶対に、触れるな。
床に座っていたワタシ達は、そのまま床に、転がった。
「どうしたのこの腕」
何度もかきむしられた左手を取ると、彼は、つぶやいた。
何でもない、とワタシは彼の背と首に手を回した。窓を開けはなっても、真夏の夜は暑い。なのに、この、じっとりと汗ばむ程の、熱さが、手に、腕に、胸に触れる質量が、ひどく心地よい。
欲しかったのだ。
現実の、重さを持った、それが、どうしても。