8 夏休み、向こう側の都市、ギョーザ屋、プール上がりの記憶
確かにニケが居た。
エントランスの高い天井を見上げて、ワタシは一瞬くらりと眩暈がする。
言われた通りの赤いラインのバス、言われた通りの道順で、ワタシは夏休みのある日、そこに来て居た。
近くには医大。この街には結構大学が多い。
数年前に改築された駅はまだ小綺麗だった。そこからやや混み合った道をバスに乗った。途中で、電話で聞いた繁華街を抜けていく。坂を上り下りして、もう夕暮れも近い時間、逆光でずいぶんと古めかしい建物が見えた。
大きいが、軽いバッグを一つしか持っていないのに、妙に足が重い。
バス停の近くの公衆電話で、彼のケイタイに掛けると、このエントランスまでの道を説明された。そして少し待っていてくれ、と言われた。作業をきりにするからと。
ワタシはニケにほど近いあたりの壁にもたれて、辺りをぐるりと見渡した。そこには幾つかの出入り口があり、その何処から彼が出てくるのかはワタシには予想がつかなかった。
だけどとりあえず大きく息をつく。とにかくここまで来てしまったのだ。
十分くらい待っただろうか。明るいオレンジ色の髪が揺れるのが見えた。タンクトップに大きめのシャツを羽織って、下ときたら、ジーンズを半分に裂いたような五分丈のズボンもどきになっている。それでもってサンダル。一体ここは何処だ、と一瞬ワタシは疑った。
だがナオキ先輩は、やはりナオキ先輩だった。
「お久しぶりヤナセ。あれ、何か、痩せた?」
「別に痩せてませんよ」
「ふうん? 気のせい?」
「気のせいですってば」
まあいいさ、と彼は幾つもシミのついた手で、短いワタシの髪をかき回した。
何するんですか、と言っても、なかなかそれは止まない。そしてようやく手を伸ばすと、彼はそれを止めた。
「どうせかき回しても大して変わらないだろうに」
「そういう問題じゃあないですよ。何かずいぶん凄いことなってますね。何やってんですか?今」
ワタシは取った手を見ながら訊ねる。
「ん? 授業ではまだ大したことやってないよ。平面構成の課題が結構たくさん出たけどさ。これは写真に今はまってるから」
「写真?」
「同じ科の先輩が一式いきなりくれたんだよ。一眼レフのカメラから、現像の道具まで」
「それは太っ腹ですね」
「や、結構そういう奴居るよ。この学校にも。…ところでヤナセ、腹減ってない?」
え、とワタシは問い返す。
そういえば、減っていた。時計はもう六時近かったし、ワタシは途中の駅の連絡待ちの時にファースフードの店に飛び込んだきりだ。
「減ってる」
「じゃメシ食わない? 近くのギョーザ屋が安いのよ」
先輩がずんずんと先に立って連れて行ってくれたのは、入った途端、ぐるりと大きなカウンターだけがある店だった。
正方形のカウンターの真ん中が厨房になっていて、そこに数人の調理人が居て、ぐるりと座る客に次々とギョーザを焼いて出している。
そういう作りだし、どうも辺りにべたべたと貼られたメニューは、ギョーザとごはん、その程度しかないらしい。
焼きギョーザと水ギョーザとかそういう製法の違いや、中に入れる具の違いはあっても、ものそのものは皆ギョーザだった。
先輩は空いてるとこにさっさと座ると、ワタシを手招きする。そして近くのセルフサービスの水をざっと汲むと、ワタシの前に置いた。
「ホワイトギョーザ定食を二人前ね」
カウンターの中で返事の声が飛び交う。油を引いて熱した鍋に水が入る時のじゃっ、という音。水蒸気。特有の匂い。客の立った後の、コップを片づける音。
次第に学生達がやってくる。ぐるりと大きなカウンターは、だんだん人で埋められていく。確かに夕食時だったのだ。
「ここのギョーザ、美味いんだ」
「先輩のおすすめ?」
「そ」
そう言うと彼は、水に口をつける。クーラーは店内にきいていない。開け放した窓と、扇風機だけだ。黙っていても、じっとりと汗が吹き出してくる。
「けど先輩、普通の女の子をいきなり連れてくるとこじゃないですよ」
「あれお前、普通の女の子だっけ」
ワタシは何も言わずに、眉だけ上げてみせる。
「ま、いいけどさ。あーそうそう。家には何って言ってきたの?」
「別に。…市に行くって言ったら、泊まるとこくらいは教えてって言うから、先輩の名を出したら、ふうん判った何かあったらここに連絡すればいいのね、とそれだけ」
「俺の名前出したの?」
「名字だけですけどね」
そうこう言っているうちに、目の前にとん、とごはんとみそ汁が置かれた。どちらかというとワタシの方が手が届く位置にあったから、彼の分も取ってやる。
「お前ずいぶん信用されてんのね」
「別にそういう訳じゃないですよ。うちの常識はちょっとずれてんです」
「―――ああ」
彼はうなづいた。一応このひとは、ワタシの母親の職業を知っている。別に言ったことはないが、知っていた。だがそれでどうだということはない。
やがて、とん、とカウンターの一段高いところにギョーザの皿が置かれた。
「あ、可愛い」
やや普通のギョーザより丸っこい、という印象があった。できたてで、ひどく熱いので、ふうふうと冷ましながら口に入れると、思わず美味し、と声が出た。
「だろ?」
「うん。初めて」
「奴もそう言ったよ」
口に一つを放り込みながら、彼は名前を出さない人の事を口にした。
「よく来るんですか? イクノ先輩と」
「よく、じゃないな。向こうは向こうで、授業やサークルや…彼女やら忙しいし。俺は俺で、課題に追われてる状況だし。あれはなー、いい時はちゃっちゃと行くけど、いざいい構図とか浮かばない時には、地獄を見るぞ」
ワタシは肩をすくめる。皿の上のギョーザは半分無くなっていた。ごはんと交互に食べながらでも。
「忙しすぎたなら、ワタシ来てはまずかったですかね」
「お前はいいの」
「いいんですか」
「俺もお前には会いたかったし。電話は遠いし」
「ふうん。ワタシも先輩にすごく会いたかったんですよ」
「だろうな」
「ええ」
そう、嘘ではない。
*
夏休みも近くなると、体育実技で水泳があることも多い。体育実技の時間は、そう多い訳ではないが、一週間のうちにそれでも確実に数時間はある。
さすがに午後の授業にそれがあった時には、放課後はたまったものじゃない。ワタシは美術準備室の窓辺に陣取っては、吹き込んでくる風に、思わず眠りこけてしまいそうな自分に気付くのだ。
子供の頃は、こうではなかった。今よりもっともっと小さな子供の頃は、午前中プールではしゃいでも、午後また、近くの公園で走り回ることができた。
なのに今ときたら。
心地よい、熱くも涼しすぎもしない風が、首すじを通っていく。まぶたが重い。思わず鉛筆を取り落としそうになって、ワタシは自分のほっぺたを何度かぺちぺちと叩く。
別に眠っても、誰も止める人が居る訳ではないのだが。
いかんな、と思いながら一度、大きくのびをする。腕を頭の上で組んで、目の前に描かれた、まだ途中の自分の絵を眺めた。
最初はサエナを描いているつもりだったのだ。なのに、目の前の彼女の背には、翼が生えている。天使を描くつもりはなかった。だが描いているうちに、それがついてしまった。
そしてその翼は、折れている。傷ついている。飛べなくなった――― 墜ちた天使。
眉をひそめて、それを少し離して眺める。
眠っているサエナの姿を、時々スケッチしていた。それを元に、だんだんと鉛筆で描き込んで行ったのだが、次第にその作業をしている時は、何も考えなくなっていく自分に気付いた。
考えずに、ただ次はどうすればいいのか、を目の前の彼女と、記憶の彼女と、重ね合わせて、それを紙の上に置き換える。そこには付くはずの、影を置き、光を加える。
そんな作業をしていただけのはずなのだ。サエナを描いていたはずなのだ。目の前にあった、綺麗な姿を、そのまま、写し取って紙の上に載せたかっただけなのに。
何で、こんなものがつく?
墜ちた天使の翼は、折れ曲がり、幾枚もの羽根が、その周りに落ちている。その曲がった翼を、毛布のように身体の上に乗せ、それでも安らかな顔で眠る、黒い長い髪の、綺麗な天使。
墜ちた天使。
何でこんなものに、なってしまうのだろう?
がたん。
ワタシは音に慌てて、スケッチブックを閉じた。
「ヤナセ~」
明らかにだるそうな声で、サエナはふらふらした足取りで部屋の中に入ってきた。
そしてふらふらとしたまま、椅子を引きずり出すと、もう限界とばかりにそのまま机の上に倒れ込んだ。
何も言わずにそのまま眠ってしまう。どうやら時計も何も合わせるだけの余裕がなかったらしい。
どうしたのやら、と思っていたら、髪が何となくしっとりしているのに気付いた。
そういえば向こうのクラスも体育実技があったな、とワタシは気付く。そして髪が傷むから、となるべく天然乾燥にするくせが彼女にはあった。無論濡れていることが露骨に判る程濡れている訳ではない。だがいつもより黒っぽく、しっとりと濡れているように見える。大人しく髪はまとまっている。
「…サエナいいの? 時間は…」
声をかけてみる。だが答えはない。普段でもよく疲れたと言ってはここで眠っている彼女だ。水泳でも張り切りすぎたのだろう。反動が出ることくらい判っているだろうに。
「…サエナぁ… 起こさないよぉ…」
囁いてみる。だが彼女はひどく心地よさげに寝息を立て続ける。
ワタシは何だかな、とつぶやくと、まあいいかとばかりに、一度閉じたスケッチブックを開いた。
そうだこのアングルだ。
ワタシは彼女と絵を交互に見ながら、そこに現れる僅かな色の違いを紙の上に落としていく。頬の赤み、少しばかり固まって落ちる長い髪。閉じたまぶたの深いくぼみ、少しばかり開いた唇。
影を置いては消し、その上にまた影を落とし、光のようにゴムをかける。次第に陰影はその度合を大きくしていく。
目と手を直結される感覚。
閉じた目と、眉のバランスが上手くいかない。何度そこに陰影を置いても、何か、目の前にある彼女のそれとは違う。よく見ろ。それは何処に、どのように。
軽く持つ鉛筆の、芯の片方は、だんだんすり減って、もう片方を鋭く尖らせていく。面を変えて、それで細かい部分を描き込んでいく。だが描き込めば描き込むだけ、それは違うものになっていく気がする。
違う。
練りゴムで、一気にそのあたりを消す。ぼんやりとした陰影が紙の上に残るから、そこにまた、今の自分の目に見えるままの彼女の姿を、乗せていく。
通った鼻すじ、その下の、やや薄い唇、少しばかり赤みのさした頬。少しでも違うように影を入れたら、全く別のものになってしまう。
でもこの線が、どうしても判らない。
頬から首筋につながる線。曖昧で、柔らかそうで、それでいてしなやかな。制服の襟元から、うっすらと日焼けの線が見える。赤く染まった線。その下の白さが、それを際だたせる。きっと今触ったら、痛いというだろうか?
触れたら…
触れたい。
思わず自分の腕を、強くかきむしっていた。
鉛筆を持ったままだというのに、強く、右の手は、左の腕に爪を立てていた。