3 夏空の下、彼女達はそれぞれの家庭を思う
夏休みがやってきた。
「それにしても」
ワタシはつぶやいた。
何、とサエナは箸を動かす手を止めて、ワタシのほうを向いた。
「案外すっきりした弁当だね」
「悪い?」
「別に悪いなんて言ってないよ。ただあんたにしては豪快だなあと」
確かにそうだった。赤白のチェックの柄の包みから出てきたのは、よく女の子が使うプラスチックの可愛らしいお弁当ケースではなく、四角い、アルミだかアルマイトだかの「弁当箱」だったのだ。
そしてその中に、ごはんが無造作に詰められ、別になっているおかず入れからは、カラフルとは縁遠い、だが美味しそうな煮っ転がしや煮付け、それに豆が入っていた。全体的に茶色い。その中で、一つざっと仕切のように入っているサニーレタスがひどく目につく。
「しょうがないじゃない。私が作ったんだから」
「あんたが?」
「昨日の残り。あんまり冷蔵庫に入れておいたところで、今の時期じゃ駄目になっちゃうじゃない。だから入れてきたの」
「へえ」
ワタシは素直に感心した。
「てっきりお母さんの趣味かと思った」
「うちのママさんだったら、も少し可愛げのあるものにするわよ」
「そういうもの?」
「そういうものよ。そういうあなたこそどうよ。毎日買ってきたパンやお弁当じゃ身体によくないわよ」
「や、だってワタシは料理は得意じゃないし」
「ヤナセのママさんは? 作ってくれないの?」
「あのひとは仕事があるから」
ああ、とサエナは声を落とした。
「ヤナセのママも働いてるんだ」
「も?」
「うん。私の生まれる前からずっと同じとこに勤めてるらしいの。だからもういいポストにあるみたい」
「じゃあんたの頭の良いのは、お母さん譲りなんだ」
「どうかな。うちのパパもそういうのは上手いひとだから」
それだったらこういう娘になっても当然か、とワタシは思った。
実際サエナは中間試験だけでなく、期末でもダントツで首席だった。
外部生の一度、なら結構皆納得するものだが、二度となると、途端にそれは脅威に変わるらしい。彼女を見る目が変わってきたのも事実だ。
「お昼に食堂行くとね、結構妙な視線を感じるのよ」
彼女はくすくすと笑う。
「無論そんなこと、クラスの子には言わないけどね」
そしてワタシは苦笑する。
ワタシは夏休みに入って、よく彼女とここでお昼を一緒に食べていた。
授業のある時には食堂へ行ってクラスメートと一緒に食べていたらしいが、休みとなるとそういう訳にもいかないらしい。
「だってメニューが減るもの」
というのが彼女の言だった。確かにそれは一理ある。
運動系の部活が夏休み中も練習したり、補習や補講があったりするので、結構な数の生徒は学校に出てきている。だがその数は毎日毎日決まったものではない。食堂のほうも、そうすると、一日しか保たない定食や、卵やサラダの入ったサンドイッチなどは出さなくなる。
メニューウインドウに並ぶのは、カレーやラーメン、うどんといったものばかりになるのだ。
もっともここのうどんは美味いので、時々食べたくなることはある。ただ基本的に「冷やし」はしないので、夏の暑い日にそうそう食べようという気にはならない。
そんな訳でワタシは休みに入ってからというもの、専らお弁当やパンを準備室に持ち込んでいた。
相変わらずここには人がいなかった。
部活そのものに出てくる者も滅多にいないのだ。いや絵を描かないという訳ではない。ただ、美大芸大を受ける上級生達は、それ相応の予備校の夏期講習に出ているのが普通だ。
おそらくそれは、来年再来年の自分の姿だろう。
ああいうところに入るには、ただ絵を描いていればいいのではなく、やっぱり傾向と対策というものがあるのだ。
それに美大芸大と言っても、その中で何を選択するかによっても変わってくる。ワタシはまだそれすらも決めていない。
まあ、だがまだ一年なのだ。
夏空の青が、大きく開け放した窓越しに目に飛び込む。
熱気と爽やかさを半々に含んだ風が首すじを通り過ぎていく。こんな時期に、うだうだ考えているのは性に合わないのだ。
「でもあんたが晩御飯作るのってのは凄いね」
ワタシは話を戻す。
「すごいかな?」
すると彼女は少しばかり苦笑する。すごいよ、とワタシは繰り返した。
「別にすごくはないわよ」
「や、すごいよ。ワタシなんか調理実習の時間は回りに任せっぱなしだし」
「必要があったから。そうしなくちゃいけないから、ただ覚えてしまっただけよ」
「と言うと?」
「あたしが中学くらいの時から、ママさんの仕事のポストが上がったらしくって、帰りが遅くなるようになっちゃったの。パパはいつも通りなんだけど」
「夕方に帰ってくる?」
「まさか。そんな訳ないじゃないの。ただ一応遅くはならないわね。八時か九時には帰ってきてくれた。でもママはも少し遅くて、私が寝てからってことも度々あったから」
「へえ…」
「でハウスキーパーさんを入れようって話も出たんだけど、ママさんそういうこと、あまり好きじゃないの。別にきちんきちんとしてる訳じゃないんだけど、あまりそういうのは好きじゃないって。じゃあしょうがないから、って私は私のできることをしようってことになったんだけど」
「お母さん、何のお仕事?」
「教師。私が中学の時から学年主任になったのね。でもまあ私の学校とは違ったから良かったな。同じだったら疲れるし」
「疲れる」
「疲れるわよ。そうでなくても、中学の先生達って、横のつながりって結構あってね、フクハラ先生の娘さんか、とかひどく無遠慮に言うのよ。私そういうの嫌い。同じ区域の先生達って、結構研究会とかで知り合いだったりするのよ」
それは初耳だった。サエナは箸を止めて、ひじをついた左手の指にまっすぐな髪を絡める。
「パパも一応教師なんだけど、―――職場結婚だったからね。結構多いのよ。そういう結婚したひとって。あの世界って」
「らしいね」
「パパは頭はともかく、ママ程に要領は良くないから――― うん、ちゃんと夜私の起きてるうちには帰ってくるんだけど。でもその時間まで、そうそう私もごはん待っていられないじゃない。お腹空くし。何か頼むにしても、何処かに食べに行くにしても。それにそんなこと毎日続けられやしないじゃない」
「そりゃそうだ」
「ね。だから覚えたの。私そういうのは結構いい勘持ってたみたいね。だいたい本見たら一発で作れたわ。パパはママさんのより美味しいって言ってくれるし」
「なるほどねえ」
必要に迫られて、か。そして自分のことをずいぶん長く喋ったと感じたのか、今度は彼女の方から攻撃してきた。
「ヤナセのママも働いてるんでしょ?」
「まあね」
「料理しないの?」
「しない」
ワタシは短く答えた。だがその短さがどうもサエナの表情に微妙な影を落としたから、ワタシは慌ててフォローを入れた。
「って言うか、うちのお母さんは、サエナのとこのお母さんと違って、ハウスキーパー入れても平気な人なんだよ」
「そうなの?」
「まあね。必要なら、あまり手段は選ばない人だから」
へえ、とサエナは大きく目を広げてうなづく。
「ただし、ワタシに関しては何するにせよ勝手にしろ、って人だから、昼代はくれるけど、料理しろとは言ったことがないね」
「キャリアウーマン、っていう感じ?」
「まあそんな感じだね」
「パパは?」
「ずーっと海の向こう」
*
扉を開けた時、「ただいま」と最後に言ったのは、いつのことだったろう?
サエナがうちの母親のことを「キャリアウーマン」と言ったのはそう間違いではない。
ばりばりと自分の好きな仕事に立ち向かう女性、という意味ではそれは当たっている。
ただ、彼女のその単語から一般的に想像させられるビジネス分野でのばりばりとはやや異なる。
うちの母親は、物書きだった。
それも恐ろしくオールマイティな物書きだった。
おそらくサエナに名前を言えば、博識な彼女はそれを知っているだろう。文芸だけでなく、ルポルタージュやエッセイでも結構名の知られた作家だ。
別にTV化や映画化されるといったベストセラーを出すという訳ではないが、その世界で結構なキャリアをずっともっているのだから、やっぱり相当なものなのだろう。
ワタシがそれでもこの学校で美術しかキョーミが無いくせに何とか留年もせずに成績を維持できているのは、この人譲りの頭のせいだとは思っている。
だがどうもそれ以外の部分は父親のほうを受け継いだらしい。
父親は写真家だ。
母親とは仕事の上で知り合ったという。海の向こうの仕事で一緒になり、そのまま無茶苦茶な速さでくっついて、これまた無茶苦茶な速さで別れたのだという。
ワタシは二人が別れて、母親が帰国してから生まれたらしいが、この二人は今でも友達だ。いや下手すると、それ以上の関係でもあるかもしれない。時々仕事も一緒にするらしい。ワタシも時々会う。
別れた理由を聞いても、二人とも首をひねるだけだ。そもそも何でくっついたのかにしても首をひねるのだから、仕方ないと言えば仕方ない。
ワタシは彼との間に、あまり親子だという実感は湧かないが、それでもああ血がつながっているんだな、という瞬間はある。
例えば海を渡って久しぶりに会って、散歩する公園の緑が木漏れ日に輝く瞬間。例えば飛び立つ鳩が真っ青な空を一気に埋め尽くす瞬間。建物の壁が、強い太陽の光に強烈なコントラストをつける瞬間。
そう言った一瞬のものに惹かれて目が釘付けになる、そんな動作にお互い気付いて苦笑する。
そんなところがひどくワタシ達は親子なんだなあ、と思ってしまう。
一方の母親には、そういう意味で似た所はあまり見あたらない。
似ていないから、彼女は時々ワタシの反応を面白がる。
ごくたまに、土曜の朝とかに朝御飯を一緒にしたりすると、あんた何、バタの上にチーズのせるの、なんて目を大きく広げたりする。
美味いんだよ、どぉ? と勧めると、彼女は一応試すのだが、結局はそのまた上に、はちみつを垂らしてほおばったりしている。ある意味、いつまで経っても子供のような人だ。
このひとは別に料理とか家事とかが嫌いな訳ではない。ただ、時々そういった現実的なものがどっかに行ってしまうのだ。
それでもまだ物書きで食えるようになるまでは良かったらしいが、それが本業になり、それで稼ぐ必要が出てきてしまったら、歯止めが効かなくなったらしい。
パンの上のはちみつは、気がつくとお皿の上にたらたらと流れていたりする。
もっともワタシはそういう母親は嫌いではない。そういう時の彼女はひどく綺麗なのだ。美人という訳ではない。だが、時々奇妙に綺麗に見えるのだ。
とはいえ、そういう彼女に文句をつける人は無論居る。
例えば親戚。
母親の姉にあたる叔母は、ひどく常識のかたまりの様な人だったから、家事一切をハウスキーパーに任せ、ワタシには食費や雑費だけを渡し、放ったらかしにしている状態を見ると、そのたびに嘆息する。
そうだ思い出した。
小学校も半分くらいから、ワタシはただいまを言った記憶はない。
でも叔母が情けないと嘆く程、ワタシは自分が可哀相だとは思ったことはない。
母親も父親も、ワタシのことを思っていない訳じゃないのだ。それは別に口に出す訳じゃあないが、何か肌で判る。
彼等は何か、自分の中でもどうにもならない何か、に心の大半を占められ、支配され、そのために生きている類の人間だから、彼等をつき動かすその部分に居座ることは、肉親だろうが何だろうが無理なのだ。
だけどそれ以外の、僅かに残された部分。
それがワタシという血を分けた娘に対して注がれているのは判るから、ワタシはそれでいいと思ってしまうのだ。
無論全くそれで悩んだことが無いとは言わない。
悩まなかったら嘘だ。どうしようもなく自分がおざなりにされているような気分になったことも少なくはない。
だが、ワタシ自身、自分の中に彼等と同じく、どうしようもなく止めどもない何かを見付けてしまった以上、彼等をどうこう言うことはできない。
そして二人とも、ワタシがそれを見付けたことには何も言わない。
結局そういう家庭なのだ。