2 雨の季節、彼女たちは語らう
ワタシ達は時々そこで顔を会わせるようになっていた。
もっとも校内ではそうそう顔を会わせることはなかった。
隣とは言え、彼女のクラスとは家庭科や体育の時間に組になることはない。芸術科目でも、ワタシは言うまでもなく美術を取っていたし、彼女は書道を取っていた。
一年生のうちは選択科目も少なかったから、普段の生活の中で彼女と会うことはまずなかった訳である。休み時間に、廊下に置かれたロッカーの前で見かけることはあったが、だいたい誰か他のクラスメートが近くに居たから、ワタシも格別声を掛けようという気にはならなかった。
だから、たびたび顔を会わせると言っても、そこには名前が格別必要ではなかったのだ。
名前が必要なのは、三人目が入る時なのだ。自分と誰かの二人きりなら、そこに必要はない。
名前を呼んだのは彼女のほうが先だった。ワタシのスケッチブックの裏に、ローマ字で書いてあったからだ。
太いマジックでYanase.Jと書かれたそれに、名字?名前?と彼女は訊ねた。さあどっちでしょう、とワタシは答えた。Jで始まる名字はあまり無い。だけど名前としては珍しいヤナセ。
ワタシはサエナという彼女の名を、彼女の口から直接聞いたことはない。結局最初の中間テストの時に、貼り出される順位の首席に書いてあるものと、それを見て騒ぐ彼女のクラスメートの姿を見て、ようやく彼女と彼女の名が結びついたくらいである。
もうその頃には六月も近かった。
雨の降り出す頃だった。梅雨という奴だ。
さすがにそういう時期になると、「森」で会うという訳にはいかない。
もっとも会ったところで何かするという訳ではないのだ。話すこともさほどある訳ではない。だいたい大してそんな時間も無いのだ。
彼女はそこにやって来る時には何かいつも疲れた顔をしていた。そしてベンチに脚を組んでスケッチブックに何か書き付けているワタシの横に座ると、ぴっぴっと時計を合わせ、鳴ったら起こしてね、と言ってすぐに寝息を立てる。
何なんだこの女は、とさすがにワタシも最初は思ったのだ。
実に寝付きがいい。そして寝起きもいい。十分か十五分かそこらだろうか。そのくらいに時計のタイマーを合わせると、かっきりそれだけ眠って、すっと起きる。それだけで、やってきた時に見せた疲れた顔が、多少の元気を取り戻す。
何がそんなに疲れるのだろうか、と思わなかった訳ではない。疲れるなら家にでもさっさと帰って寝ればいいのだ。だがこの眠り姫はそういう気配はない。
そしてその日も、初めはそうするつもりだったのだ。
昼間は結構いい天気だったのに、夕方になるに連れて、だんだん空が暗くなってきていた。灰色の雲はどんよりと重く、手を伸ばせば届きそうだった。
嫌な予感はした。そしてその予感は的中するのだ。傘を持っていないのに、雨が降ってきた。
ワタシはその日は美術準備室に居た。本体の美術室のほうは、その日、何やら美大を受ける二年三年の先輩達のためのガイダンスとかで、一年生は追い出される形になっていた。
別に帰ってもよかったのだが、何となく雨足を見計らっていたら、何やらそれどころではない様子になってきた。雨は音をさせだし、そんな音の中、ぼんやりと外を眺めていると、だんだん時間の感覚も無くしてきそうだった。
そんな時に、扉が開いた。
「ああやっぱりここに居た」
よく通る声が、耳に届いた。さすがにワタシはその時は驚いた。
「あなたのクラスの子に聞いたら、こっちじゃないかって言うから」
「どうしたの一体」
ワタシはそれしか聞けなかった。すると彼女は窓の外を指した。
「雨が降ってるから」
実に判りやすい答えだった。
「あなたが近くに居ると、よく眠れるんだもの。そこ貸してね」
彼女はそう言うと、すたすたと隅に置かれた机に近づき、椅子のほこりを払うと、さっさとそこに座った。そして時計を合わせようとする。
「いいけど、何で家で寝ないのさ?」
「邪魔?」
「いやそういうことを聞いているのじゃなくて…」
「いいじゃない。邪魔じゃないんなら…」
邪魔じゃあない。邪魔じゃあないけど。
彼女は薄い赤のハンカチを机の上に広げると、その上に腕と頭を置いた。そして見事な程な素早さで、彼女は眠りについていた。
仕方ないな、とワタシは別の椅子を引っぱり出して来て座った。雨の音はまだ続いていた。その音を耳にしながら、眠る彼女の姿を眺めていると、時間の感覚が無くなっていく。時々そのさらりとした真っ直ぐな髪の毛が、緩やかな呼吸のはずみに肩や指に落ちる。
雨の音は続いている。
だがそれを止めたのもまた、彼女の時計だった。心臓が飛び上がった。時計を止め、ワタシはいつもの様にぽんぽん、と彼女の背を叩いた。
傘はあるの? と目覚めた彼女はワタシに訊ね、無い、と短く答えると、じゃあ少し待ってて、と彼女は言った。
「待つ?」
「担任から頼まれてることがあるの。すぐにそれを済ませるから、駅まで一緒に帰らない?」
「頼まれていること?」
「明日一番に配布するプリントの印刷を手伝って欲しいって」
「馬鹿か?」
ワタシは思わず眉を寄せた。
「誰だよその担任って。…ああ四組ならアリガか」
記憶を引っぱり出す。確かまだ二十代も前半の女だ。
「よく知ってるじゃない」
「ありゃあんたが外部生だから使いやすいと思ってるんだよ。放っておけばいいのに」
内部持ち上がり生は、教師のそういう私用にも近いことは、絶対に聞かない、という習慣がある。それは上級生から伝統的に伝えられることである。
教師は教師を仕事でやっているんだから、生徒は生徒でそれ相応に対する。授業は真面目に聞く。これは礼儀と、生徒という「仕事」をやっていることとして。その代わりとして、教師はこちらに干渉しないし、こちらも向こうの私用を聞く義理はない。
それは別に何かに書かれている訳じゃあない。だが一種の伝統のようなものだ。教師のあずかり知らぬ、生徒達だけの持つ伝統。それを守らない者は、別段言葉で責められる訳ではないが、ひどく静かで、何気ない視線が贈られる羽目となるのだ。
ただそれは、外部生には時々当てはまらない。特に高等部から入ってくる者は、曖昧な人間関係を背負った外の慣習をそのまま持ち込むから、シビアな内部生に疲れた若い教師がそのあたりに付け込むのだ。
するとサエナは言った。
「別に親切って訳じゃあないから、安心して」
「ふん?」
ワタシは首を傾げた。
「別に敵を作ることはないと思うだけよ。私決して味方は多くないし」
ふうん、とワタシは腕を組み、片眉を上げた。
「あんたはそういう方でも頭のいい奴のようだな、サエナ」
「あら、私の名前、知ってたの? ヤナセ」
「学年首席の名くらい聞くだろう?」
すると彼女は困ったような顔でこちらをやや上目づかいににらむ。やや頬が染まっているように見えるのは光線の加減だろうか。
「こんなに簡単に取れるとは思っていなかったから、つい本気出してしまっただけよ」
「言うねえ」
「期待していたのよ? もう少し。この学校の程度」
「まあ確かに悪くはないけどね」
「だけど何? うちのクラスで別にこっちはそんなに難しいこと喋ってる訳じゃないのに」
「例えば?」
「だから、例えば映画の話しているじゃない。…こないだ、『スワロウテイルバタフライ』レンタルで借りてきたから、その話していたのよ」
「ああ、あれはワタシも見た。結構評判になったね。歌とか」
「うん。ワタシもいいなあ、と思ったから、ちょっとそのあたりひととおり調べてみたのね。でこないだ、最近見たビデオがどーとかという話になったから、切り出して、監督の話とか、他の作品とか、そっちの方へどんどん話広げようとか思うじゃない。そうするともう駄目」
「駄目」
彼女は手を広げる。
「そんなややこしいこと知らないって顔で笑うだけ」
「ふうん」
「私はだから、も少し、突っ込んだ話をしたいのだけど…」
なるほどね、とワタシは苦笑した。それはそうだ、とワタシは思った。普通は、いちいち調べない。
ワタシは調べる側の人間だった。もっとも勉強とは縁はない。興味のあるものはそうするが、後はどうでもいい。興味のあるものだったら、映画だろうが絵画だろうが小説だろうが雑誌だろうが、とことん調べる。それが面白い。ただそれをクラスメートに話すことはしない。長年彼等とつき合っていれば判る。もしも一歩学校を離れた場所で、そんな活動をしていたとしても、この学校に長年居る連中は、それを口にはあまり出さないのだ。
長年居続けるための、それは無意識の行動だったのかもしれない。
そこがワタシの、この学校の連中の好かないところであり…所詮は自分にも当てはまるところなのだ。
「そりゃあサエナ、あんたは話す相手を間違ってる」
嫌気がさす。
「そんな気がしてきた。じゃああなたならいいの?」
「試してみたらどう?」
それもいいわね、と彼女は笑った。ワタシは自分の中で何かが痛むのを感じていた。
雨はまだ降り続いていた。




