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10/12

10 欲しかったのは過去の

「何か」


 彼女は頬杖をついて、ため息をついた。そのため息をついた様子はなかなか悩ましげでよろしい。不埒な考えが頭の中をよぎる。


「疲れちゃった」


 何を今更、とワタシは思う。



 新学期が始まり、秋風が吹くようになると、サエナの生徒会の仕事はクライマックスに近づいた。

 学園祭があるのだ。

 とりあえずこの学校はお祭り騒ぎは嫌いではないので、それなりに事前準備も当日もにぎわう。

 ただ、それは伝統であって、それ以上のものではない。講堂がその日ばかりはライヴハウスのようになろうが、劇場になろうが、それはあくまで伝統であって、それ以上でもそれ以下でもない。

 先輩がそうしてきた。それを先輩から聞いてきた。だから自分達もそれをやろう。それだけのことだ。

 ところが、サエナはどうもその状態を「もっと」活発にさせたいと思ったらしい。

 ワタシはそれを彼女の口から聞いた時、不安は走ったが、あえて口にはしなかった。


「生徒会主催で人気投票をしようと思うの」


 なんて楽しそうに言う彼女の前で、それは失敗するよ、なんて言える訳がないではないか。



 実際、それは失敗だった。

 いや、一応投票も行った。それを発表する準備もあった。

 どちらかと言うと、その発表の方に彼女は心が向いていたらしい。

 そこには彼女の思い描く、何やらの明るい光景があったはずだ。想像はつく。とても正しい彼女だから。

 だが。

 文字通り、ふたを開けてみると、そこにあったのは、白紙の投票ばかりだった。

 ちらほらと「一番良かったもの」を書き込む票が無かった訳ではなかったが、講堂を出る生徒の手から離れた投票用紙には、何も書かれていないものが大半だったのだ。

 そして時々、妙に文字が書き連ねてあるな、と思えば、「学園祭は皆が楽しむ場であって、決して競う場ではないでしょう?」という意味の感想とも忠告ともとれる文章があったともいう。

 ワタシは、と言えば、彼女の好きな一つ下の「カナイ君」がその友達と組んだバンドが奇妙に記憶に残っていた。記憶に残っていたことに、自分でもなかなかびっくりしたのだが。

 彼には特徴が無いと思っていたが、どうも声には特徴がありまくっていたらしい。あの声は、異質だ。

 そしてまた、意外なことに、あの「マキノ君」がベースを持ってステージに上がっていたことだ。それもかなり上手い。

 他のメンバーが、カナイ君を含めて、おそらくはこの学園祭のために組まれた、急こしらえのバンドであるのが丸わかりなのに、彼だけは、ずいぶん上手かった。

 そのことをサエナに言ったら、彼女はこう答えた。


「ああ、あの子ピアノやってるから、他の楽器もやっていたんじゃない?」


 それは初耳だった。

 そういえば、時々ピアノ室方面から、放課後に音が聞こえることがある。彼とは限らないが、彼かもしれない。

 彼女はカナイ君がバンド出演することに妙に気を揉んでいた。


「何で?」


 追いかけて、捕まらなかったという日に訊ねてみた。


「教師ウケが悪くなるって冗談はヌキにしようよ」

「ヤナセは最近どうしてそう勘がいいのよ。そうよ、私あの子が、声いいの知ってるし、舞台映えいいの、知ってるのよ」

「そうだったの?」

「近所の子供会とかで、劇とか歌とかやった時。別にこれと言って、熱心に練習とかする訳じゃないのよ?なのに、本番になると強いの。妙に、度胸が座るらしいわ」


 はん。ワタシはその時ぴんと来た。


「もしかして、サエナあんた、そういう時の彼を見て、好きになった?」

「…そうよ」


 そう言って彼女は眉を寄せ、顔を伏せる。照れているらしい。頬が染まっている。


「だけど、それはこの学校の連中は大して知らないはずなのよ。だってあの子は学校ではそういう活動していないはずだもの。動きの一つ一つが目を引くの。それにあの子、ちょっと変わった、妙に響く声してるのよ。音楽の授業とか向きじゃないけど、何かそういうとこ出ると、すごく映えるの」

「それであんたは、それを、他の女子に見せたくないんだ」

「ヤナセは意地悪だわ」

「だってそういう時のあんたは実に可愛い。そういうあんたを見せればいいのに。彼にも」


 実際そう思うのだ。本当に好かれたかったら、彼女は姉さん顔でもなく、生徒会長でもなく、この姿をも見せればいいのだ。


「ホントにヤナセって、いい性格。夏休み終わってからあなた絶対そうよ。何かあった?」


「―――市に行ってきたけど」

「―――市って」

「先輩のとこ」


 うめくように言っていた彼女は、伏せていた顔を上げた。


「先輩のとこって…… 例の?」

「そ。んでもって、泊まってきました。聞きたい?」

「言ってくれるの?」


 顔全体が笑みにあふれる。ああ全く、何て。ワタシはうなづく。


「行ってきて、泊まって、彼としました」


 どぉ? という視線をワタシは彼女に向ける。それは彼女の期待するものだ。ワタシに彼氏の一人も居た方がいい、という。


「良かった! それでずいぶんヤナセ、夏休みのあの後、変わった感じがしたんだ」

「変わったかな?」

「うん。だってあなた、何かしばらく夏休み前、元気なかったから」

「…ああ」

「でも好きな人と会うってのはいいわね。やっぱり」

「サエナは?」

「何? 好きな人にはどうにもならないの、ヤナセだって知ってるじゃない」

「そうじゃなくて、サエナは、彼としたいと思う?」

「え」


 彼女は問い返す。こんな質問が来るとは思わなかった、という顔だ。


「…したいって…」

「だから、彼とやりたいかって。セックス」

「ヤナセ…」


 困ったように、目を細める。だが今度ばかりは、はぐらかさない。


「駄目だよ、サエナ。だって、好きってのは、そういうことだよ。結局」


 これは、本当だ。結局、そういうことなのだ。


「時間と、生身の身体がいつもそばにありたいってことだよ。距離を縮めたいってことだよ」

「ヤナセ!」


 そんな泣きたいような顔をされても。



「何でお前じゃないんだろうな」


 あの時、先輩は言った。

 それはワタシも同じだった。彼を抱きしめながら、彼に抱きしめられながら、それでも頭の中では、ここにはいない彼女を思っているのだ。それは彼も同じだ。


「同じだよ。どうして、先輩を、一番にできないんだろ」


 ワタシ達は、長い間、そんな繰り言を言っていた。ワタシが帰る日まで、同じことを繰り返していた。

 昼間は彼につき合って、将来の参考もあって、学校の中を見に行ったりもした。市内の見物もした。全国的に有名な庭園はやはりなかなかのものだったし、暑い盛りにはしっとりと緑が影を落として、気持ちよかった。

 喫茶店もやっている陶器の店で、宇治金時のかき氷を食べたりもした。

 途中のバスから見た、煉瓦づくりの資料館も見に行った。

 ずいぶん昔に作られたという擬洋式のステンドグラスの入った寺も見た。

 入り口の吹き抜けに大きな時計のあるデパートや、市場や、果てには何となく行く機会がなかったからという口実で忍者寺まで出かけて――― まるでデートだ。

 ぜいたくはできない学生だから、近場のスーパーで買い出しをして、簡単なものを作ったりした。物が雑多に置かれた室内で、危なげなバランスを取りながら食事を取り、夜になると抱き合った。

 まるで本当の恋人どうしのように、ワタシ達は数日を過ごした。

 違っているのは、お互いにそれが本当ではないことを知っていることだけだ。

 その時間がひどく楽しかったのに。



「わからないわ」


 サエナは大きく首を横に振って言った。


「そういうことを、考えたことが無いのよ、私は」

「そういうことは、無い?誰かに触れたいとか、誰かに抱きしめられたいとか」

「無いわ」


 彼女は小さく、でもはっきりと言った。机の上に、握りしめられた手の、指先が白い。


「私には、そんなこと、無かったのよ。言っては、いけなかったんですもの」


 言ってはいけない?


「全くそうしたくない訳じゃないわ。そんな感じ、はするわ。だけど、私の中で、何かが止めるのよ、しちゃいけないって」

「何を」

「誰にも触れるなって」

「どういう意味…」

「もちろん今だったら、その時そうするべきだった、と思うわ、だけど、子供の時の私は、そんなこと判らなかった。だから」


 何を言いたいのだろう。ワタシの言った何かが、サエナの中で最も弱い部分を刺したらしい。

 そう言えば。絵を描きたいと言った時に、彼女は何って言った?自分の顔は好きじゃない?


「誰かが、何か言ったの?」

「私の親よ」


 ひどくその単語は、いつも彼女の口から漏れる家族の姿からは遠く感じる。そして彼女は堰を切ったように喋りだした。


「忙しいのは判るのよ。だからそうそう家に居られないのは判るのよ。疲れている時に、まとわりつかれると、鬱陶しいって思うのは、判るのよ。私には、判ってしまうのよ。だからそうしなかったわ、いつも大人しく、いい子をやってきたのよ。学校のセンセイの娘さんが、下手なことやったら、あのひと達が、嫌な思いするじゃない、ねえそうでしょヤナセ?」

「…」

「私はやってきたわ。あいにくあのひと達の娘だから私結構そういうのは得意だったのよ。私も楽だったわ。そうしていれば、誰もが誉めたわ。いい成績取って、ちゃんと身なりも整えて、危険なことなんて何もしない、男の子も話す程度、それで、楽だったのよ、私は」

「楽?」

「楽だったわ。私には合っていたわ。だけど、私はそんな私は嫌いよ。だって、そんなこと幾ら繰り返したって、あのひと達は、それを当たり前だと思ってるんだもの。私努力してるのよ、これでも。たぶん人よりしてるのよ。そりゃ勉強とかそういうの好きなほうだから、嫌いな人よりは楽だけど、でも、私やってるのよ、努力してない訳じゃない。でも知ってるわ、私が、こうだから、彼のお母さんは、私を嫌いなのよ」

「え」

「知ってるもの。近所だったんだから」


 くっ、と彼女の喉の奥から、笑いのようなものが漏れた。


「時々嫌になるのよ。私は私をやってることが」

「だけどあんたを好きな人も居るだろ…」


 ワタシのように。どうしようもなく、彼女に惹かれてしまっている者がいないとは思えない。

 だが彼女は首を横に振る。


「どれだけの人がどうかしらね。空回りしていることは、知ってたのよ」


 そうだろう。彼女は聡いから。


「でも、今更、私は私以外のものにはなれないわ。そんなことは判ってるのよ。やり直せったってやり直したくはないわ。ここまでしてきた自分が可哀相だもの。ここまでした自分は嫌いじゃないもの。でも時々空しくなる」

「どうして」

「私は判らないんだもの。もう。あのひと達に甘える方法が判らないんだもの。あの時それをしなかったから、それが正しいと思ってしまったから、私はそれができなくなってしまったのよ。手が止まるの。触れようとすると。あのひと達は元々そういうことを私にあまりしない人達だったわ。だから忘れてしまっているのよ、あのひと達も」


 ふと自分の家を思い出す。

 うちの母親は、基本的に娘のことも忘れているような人だけど、時々思い出したように大きく抱きついたりする。

 こっちが抱きしめられているのか、向こうが抱きつきたいだけなのか、さっぱり判らないけれど、訳の判らないながらにくすぐったいスキンシップは存在する。

 うちの父親は、滅多に会わないけれど、会った時には、寒かったら上着の中に入れてくれることもあった。肩を組むのは日常茶飯事だ。それに同じ視点、同じ感覚、じゃれあうことも珍しくはない。

 なのに。


「別に、そうしても、何も起こらないのかもしれない。だけど、もう私、六つか七つの頃くらいから、あのひと達に触れた記憶が無いのよ。判らなくなってるのよ。自分が誰かに触れていいのか、触れられようとしていいのか、さっぱり」


 このひとは。


「…疲れちゃった」


 そう言って、サエナは机の上に突っ伏した。


 ―――ああそうか。

 最初から、そうだった。彼女の周りには、いつも何か、不穏な空気が漂っていた。

 あの森で、人目を避けるようにして、彼女は眠っていた。

 表向きは活発で忙しく走り回る才色兼備な彼女なのに。

 何がそんなに、彼女を忙しく駆り立てるのだろう、とワタシはいつも思っていた。

 だけど判った。駆り立てていたのは、彼女自身だ。どうすれば、誰かから嫌われないですむか、と考えてしまう彼女自身なのだ。

 でも、そうやって一生懸命すればするほど、その行動は次第に浮きあがってくる。決して自然なものではないから。

 悪循環だ。

 泣いているのだろうか、とワタシはおそるおそる、彼女の方へと近づく。じっとしている。身動き一つしない。いつもの、あの眠っているときと同じ姿だ。だが、その時のような心地よい背中の上下がない。


「サエナ」


 ワタシは声をかける。頭が左右に揺れた。


「大丈夫よヤナセ、私は」


 ぎゅっと、胸の奥が締め付けられる。


「私は、大丈夫よ。いつもこうしてきたんだから」


 そうやって、一人で、じっと、うずくまって?


 妙に、腹が立つ自分にワタシは気付いた。


「それじゃ、駄目だよ」

「ヤナセ?」


 ちら、と顔がこちらを向く。

 ワタシはそのすきを捉えて、彼女の上半身を掴むと、こちらを向かせ、腕を掴んだ。

 それまで触れてはいけない、と呪文のように自分につぶやいていたというのに、それは何処へ行ったのだろう?


「ワタシはここに、居るんだよ?」

「…」


 目を大きく見開いて、彼女は言葉を探している。だけど言わせない。今は、ワタシが言わなくてはならないのだ。


「ワタシの前ではあんたは眠れたんだろ? なのに、そうやってしんどいことを、自分自身で抱え込んでしまうのか?」


 目が細められる。やめて、というように彼女は掴まれている手を離そうともがく。

 離す訳にはいかない。そのまま、その腕を強く掴み直し、引き寄せた。だけどそれは、あの時感じた、情欲にも近いそれではない。

 背中に腕を、強く回す。

 現実の、相手の感触。指先に、髪の毛が落ちる。


「…ヤナセ痛い…」


 耳元で、声が響く。


「痛いんだろ?」

「…」

「あんたは、誰かに触れてもいいんだよ」


 返事はない。


「優等生のあんたなんか、どっちでもいい。ワタシはここに来ていたあんたがとても好きだよ。優等生であろうとするあんたが、そうゆうことを必死でやってるあんたが、とても」

「…嘘」

「嘘じゃないよ」


 背中がぴく、と動いた。どうしたの、と訊ねたら、見ないでよ、と彼女は答えた。喉の奥から、しゃくりあげる声があふれるらしい。あふれて、あふれて止まらないらしい。

 ワタシは背中に回す手に力を込め、天井を見上げた。

 でも。

 安心しきっているのは、彼氏が居るという張り紙のせい。ワタシのよこしまな感情など、彼女にはきっと理解できないだろう。

 だけどそれでもよかった。

 ここは、特別席だ。その席がいつまで続くのかなど判らないが、ワタシはその席を、とりあえずは手に入れたのだ。



 彼女がいなくなった準備室の中で、ワタシは墜ちた天使の上に、花を降らせた。



 それから、彼女は「マキノ君」とも話し合ったらしい。

 どうも彼は、一つ下の「男子」には感じないのだという。


「何か、クラスや、彼くらいの歳の子の、あの何っていうか、妙な熱気みたいなのが無いのよ。どっちかというと、そうね、うちの書記や会計の子? と喋っている時の感じとちょっと似てる」


 それはね、とワタシはサエナに言いたい衝動があったのだが、そこはかろうじて止めた。

 この頭でっかちの小さな女の子には、刺激の強いことだろう。

 そして彼女の生徒会も、終わりを迎えた。次期の選挙の季節だった。そしてワタシはやや驚かされた。


 会長に立候補したのは、「コノエ君」だったのだ。

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