廊下と夕暮れとすりガラス
日が暮れだして空が真っ赤になった頃、僕は忘れ物をしたことを思い出した。
期日を一週間過ぎて、明日までに必ずやって出すと、教師に約束させられた世界史の問題集。教室の机に入っているはずだ。
野球部の声がこだまするグラウンドとは異なって、校舎は不気味なほど静かで不気味だった。入るのを一瞬ためらったが、まだ陽は出ていて、真っ暗なわけでもない。職員室で鍵を受け取り、足早に階段を上って三階を目指した。
生徒にも先生も、すれ違わない。静まり返った中に、僕の足音だけが響く。
やっと階段を上りきって、廊下を進む。階段とは反対側にある一番奥の教室が僕の教室なんだけど、いつもと違う雰囲気に、階数を間違えたんじゃないかと思ってしまう。
廊下の右側にある窓の外では、野球部の人達が片づけをして帰ろうとしている様子が見える。確実に空はさっきよりも暗さを増している。
左側には教室が五つ並んでいて、すりガラスの窓はすべて閉まっている。もちろん、廊下では誰ともすれ違わない。
ようやくたどり着いた教室のドアを、鍵を使って開けた。ガラガラという音が、静寂を破る。
もうすぐ夏休みを迎える教室内は蒸し暑く、窓の外から強い光が差し込んでいた。だれもいない教室で、少し時間をかけて自分の机を探し出し、中を覗き込む。
あった。
ほっとしてその冊子を鞄にしまった。
これでもう用はない。さっさと出ようと、少し開いたままのドアへ視線を向けたとき、さっと何かがそこを横切った。えっ?と思わず声が漏れた。
ドアの外を覗き込む。が、長く伸びた廊下にはだれもいない。
気のせいだろう。急いで教室を出て、ドアを閉めて鍵をかける。
廊下を早足で歩きながら今度は左側にあるグラウンドを眺めると、もう野球部の人は全員帰ってしまった後で、だれもいない。ふと、視線を反対側の右へと向けた。整然と並ぶ白いすりガラス。
その中の一枚だけ、様子が違った。
ガラスの向こうに誰かがいるみたいで、黒い影がぼんやりと映っている。はっきりとは見えないが、髪の長い、女子のようだ。
さっきはいなかったのにという恐ろしさより驚きが勝って、少しの間、僕はそれを眺めていた。その影は、教室の中の椅子に座っているみたいで、正面の黒板の方を向いたまま、身じろぎもしない。
やがて、じわじわと気味悪さが体の奥から這い上がってきた。僕が自分の教室に居る間にここに入ったみたいだが、特に忘れ物をしたわけでもなさそうだ。机の中を覗くこともしない。勉強しているのだとしても、動く腕が見えるはずだし、顔は下の机の方を向くはずだ。
何もせずに、ただじっと前を向いて動かない。
何故、こんなだれもいない教室で、こんな時間に。いったい何をしているんだ。
走って逃げたかったが、そんなことをしたらこの影に気付かれると思った。そうなることが一番恐ろしい事のような気がした。
だから、音を立てないように一歩踏み出した。
その途端、ドサッという鈍い音が後ろの方から聞こえて、反射的に僕は振り返ってしまった。
廊下の端。壁に背を向け、さっきまで僕がいた教室の前にいるだれかが、こっちを向いて立っている。窓から見える影にそっくりな、髪の長い、女子生徒。そして今気付いたのだが、その首は、奇妙に縦へ伸びている。
ありえない。
あそこの教室にだれもいないということは、僕自身がよく知っている。それに、あっちの方には階段もない。そんなものがあれば、僕も廊下を端から端まで通ることなんてしない。
ありえない。
突然、女の子特有の高い笑い声を響かせ、彼女は一歩進んだ。すすっとすべるようにその身体がこちらへ近付く。
思い切り叫んで、僕は反対方向へ走り出した。最初に自分が上ってきた階段の方へ。
しかし、異常な速さで後ろの笑い声は近付いてくる。すぐそこに彼女がいる。逃げられない。
咄嗟に、近くの教室のドアへ手をかけた。鍵がかかっているはずのそれは、するりといとも簡単に開き、僕は中へ転がり込んだ。起き上がるのよりも速く、床に膝を着いたままドアを閉めて鍵をかけた。息を吐いて気が付いた、ここは、さっきの影がいた教室。
しかし、振り返っても、そこにはだれもいない。女子生徒が座っていたはずの席を見ると、人一人分だけ椅子が引いてあった。
座り込んだままドアにもたれて呼吸を落ち着ける。大丈夫だ、鍵はかかってるし、さっきの影は外に出たじゃないか。
息が止まった。はっと気が付いた。
教室の中から廊下の端まで一瞬で移動できるものが、どうしてこんな薄いドアと窓を通り抜けられないはずがあるだろう。
笑い声が聞こえた。
視界の端で、閉まっているはずの窓から、長い髪の女子生徒が伸びた首を突き出して笑っていた。




