天地晴れ
1
「ああ、いたいた。リー=ウェン先生。こんばんは」
「うむ」
「すっかり遅くなってしまいました。でも、まだおられると思いましたよ。ハルバス、私にエールと煮込みをくれ」
「まいど」
「リー=ウェン先生。いやもう、すごい勢いですよ」
「ああ」
「区域の衛視を総動員する勢いです」
「そうか」
「なにしろ衛視殺しですからね」
「うむ」
「絶対に下手人を挙げてやるんだと、みな勢い込んでいます」
「ああ」
「でも見つかるかどうか、あやしいと私はにらんでいます」
「そうか」
「ところでガイナルン道場のゴープス・オイラーが昨日死んでいた話はご存じですね」
「うむ」
「殺人事件になるかと思ったんですが、なりませんでした」
「ああ」
「書き置きがあったんですよ。これから決闘に出るので、死んだらあとの始末を頼むと」
「そうか」
「決闘相手は誰だか分かりませんが、この書き置きがある以上、これは決闘だということになりましてね」
「うむ」
「一通りのお調べが済んだら、この件は終わりです」
「ああ」
「ご存じですか。ガイナルン道場には、ずいぶん借金があったようです」
「そうか」
「借金返却の覚書が残ってましてね。借金の相手は剣商のユスル屋です」
「うむ」
「借金の原因は、リー=ウェン先生でした」
「ああ」
「先生が決闘で壊した儀式剣の代金を、なんと十年月賦で返していたんです」
「そうか」
「月額五百ガスパー。田舎の道場にとってはなかなかの金額でしょうね」
「うむ」
「むこう三か月分の返済金が遺されてましてね」
「ああ」
「それを受け取って、ゴープスの死んだことを聞いたユスル屋は、借金は帳消しにすると言ったそうです」
「そうか」
「それ、わざとですか」
気のない返事を返していたリー=ウェンは、きょとんとした表情で衛視ダルジャンを見返した。
「何がだ?」
「その、うむ、ああ、そうかですよ。まあ、いいです。ところでリー=ウェン先生」
「うん」
「ガイナルン道場は金に困っていたはずなんです。その金に困っていたはずのガイナルン道場に、どうして千五百ガスパーもの金があったんでしょうかね。それだけじゃない。今後の道場の運営資金にと八百ガスパーの金が遺してあったそうですがね」
「知らんな」
「それからですね。一か月前に、ゴープスは酒屋や炭屋や魚屋やそのほかの店に、たまったつけを突然全額支払っているんです。どう思います」
「分からんな」
ここで衛視ダルジャンは、顔をリー=ウェンに近づけ、声を潜めた。
「魚屋に支払いをした日は、あの街道の商人殺しの次の日なんですよ。商人の財布がなくなっていた話はしましたかね」
「それは聞いたな」
「先生はゴープスと立ち会ったことがあるんですね」
「ああ」
「ゴープスは、マルコン先輩を一刀のもとに斬り捨てられるほどの腕でしたか」
「知らん。そのマルコン先輩とやらの腕を知らんのだから、答えようがない」
ダルジャンは、疑わしそうな目でリー=ウェンを見て、諦めたような表情でため息をついた。
「ひと月前の街道の商人殺しからこっち、私は近隣の剣客のことを調べてたんです」
「ほう」
「その中で候補の一人だったのがゴープス・オイラーです」
「そうか」
「ゴープス得意の太刀筋が、死体の傷と一致しますし、何より相当の剛剣だったということで」
「なるほど」
「しかしイウェド・ガイナルンの一番弟子ともあろう剣客が、まさか辻斬りをするとは思いませんでした」
「うん」
「まして隆々とやってる道場のあるじなんですからね」
「そうだな」
「でもマルコン先輩が同じ手口で斬られたとき、私は確信したんです」
「そうか」
「こんなことができる剣客は、この辺りにはゴープスか」
「うん?」
「リー=ウェン先生しかいないってね」
「隠れた剣客は多いものだぞ」
「それはそうですね。私の知っている範囲ではということです」
「離れた場所からやって来たやつかもしれんしな」
「ええ、ええ。そうですとも。でもね」
「うん?」
「私は思うんですよ。もうこのヤマの下手人は挙がらないだろうって」
下手人が確定し犯罪が立証されるには、その下手人の自白が不可欠である。衛視たちは容疑者を取り調べて自白を迫る技術を持っているが、その容疑者が死んでいたのでは手の下しようがない。衛視隊が全力を挙げているというこの事件で下手人が挙がらないということは、つまり下手人がもう死んでいるということである。
リー=ウェンがゴープスに決闘を挑んで殺した理由も、まさにそこにある。
魔が差したとはいえ、あれほどの剣客が殺人強盗罪で、衆目にさらされて処刑されるのはあわれに過ぎた。また、道場主がそのような罪を犯したとなると、ガイナルン道場も不名誉を負って消え去らねばならない。
誰とも分からぬ剣客と戦って道場主が殺されたというのも充分不名誉なことではあるが、堂々の戦いで死んだとなれば騎士の一分は立つ。リー=ウェンはゴープスに、戦いの中で死ねるという喜びと、断罪を免れるという名誉を与えるために斬ったのである。
犯した罪はつぐなうべきではあるが、剣には罪を清める力がある、とリー=ウェンは信じた。命と金を奪われた者たちには、心の中で手を合わせ、「お前たちに代わって俺がやつを斬るから、どうか溜飲を下げてくれ」と祈願していたのである。
物思いに沈むリー=ウェンに、ダルジャンがぽそりと言った。
「ところで誰なんでしょうね。ゴープスほどの剣客を、一刀のもとに倒して立ち去った剣客は」
ダルジャンの目は、まっすぐリー=ウェンの目を見つめていた。
「知らん」
「へえー。それ、刀傷ですか?」
厚着をする季節ではまだないので、首もとからのぞき込めば、リー=ウェンが肩口に薬草を貼り付けてあるのがみえる。そのことを言っているのである。
リー=ウェンは黙り込んで返事をしなかった。
ダルジャンもそれ以上は訊かず、エールをあおった。
2
「ガイナルン道場は、近頃どうなっているんだろうなあ」
リー=ウェンは、ぽつりとバンクロスに訊いた。訊きながら、今ごろはつぶれているか、その寸前だろうと思っていた。だからバンクロスの返事はリー=ウェンには意外だった。
「亡くなったゴープス先生のご意志を継いで大いに道場を盛り立てようと、みな一生懸命になっているそうです」
「なに? そうなのか」
「ええ。やめる者などほとんどいなかったそうです。それどころか、ゴープス先生が亡くなられて、実はいろいろ苦労なさっていたんだということが知れて、皆感激しています。それなのに、優しく丁寧に教えて下さったなあと」
「ほう」
「その思いにお応えするため、若い者同士励まし合って頑張ろう、ということになったようです」
「道場主はどうなった」
「師範代が一人おられたので、その方が継がれました。タキ・エンザという方です」
「どんな剣客なのだ」
「ゴープス師範とは正反対で、おとなしく控えめな方で、剣も威圧感のないものです。しかし身のこなしは実に鮮やかで、いざとなればゴープス師範にも容易に打ち込ませませんでした」
「それはなかなかの剣客だな」
「ええ。ただ私ごときが言うのは何ですが、気の弱いところがおありです」
剣の流儀というのは一定の特徴的な攻撃のしかたがあるものなのだが、イウェド師の弟子たちは多彩だ。アリアシアの剣もゴープスとはかなり違う。イウェド師は相手に合わせて特徴を引き出すような指導をしたのだろう。
それから一週間ほどして、アリアシアがこんな知らせを持って来た。
「ガイナルン道場が、ミルト道場に吸収合併されるようです」
ガイナルン道場が奮闘しているらしいと聞いていたリー=ウェンは驚いた。
ミルト道場はガイナルン道場と同じパンデル街区にある。街区ではまず一番といってよい規模の道場で、建物も立派である。
だが評判は必ずしもよくない。道場主のガルタン・ミルトは、家柄のよいのを鼻にかけて、あちこちでいさかいを起こしているという。金持ちには丁寧だが貧乏人には冷たい道場だとも聞く。リー=ウェンはちらと道場をのぞいたことがあるが、鋭気に満ちた練習風景とはとてもいえなかった。
「それは経営が苦しいからかな」
「さあ。よく分かりません」
首をかしげるアリアシアに代わって、バンクロスが答えた。
「そうではありません」
「なに? どういうことだ」
「ガイナルン道場の門人たちには、ちゃんとした士分の子弟が多いのです。月謝の支払いも滞るようなこともありませんし、その父兄たちにはそれなりの地位の人がいます。その人脈が、ミルト道場には魅力なのでしょう」
十七歳の少年にしてはうがった見方だ。だがリー=ウェンが今まで見聞きしてきたことと、その推測は符合する。
「ふむ。ガイナルン道場のほうでは、合併を望んでいるわけではないのだな」
「ミルト道場の申し入れは、ガイナルン道場をたたんで、門人はみなミルト道場に通う、というものです。亡きイウェド師、ゴープス師の跡を受けて道場を盛り立てようとしている門人たちが、そんなことを望むわけがありません。それに今ではゴープス師が亡くなられた時点より門人が増えているほどなのです。合併を望む理由などありません」
「では合併話など断ればよいではないか」
「それが……。タキ先生は気の弱いところがおありで」
「気が弱くても、合併の申し出ぐらい断れるだろう」
「合併の申し出ではなく、試合の申し出なのです」
「なに?」
「ガイナルン道場の代表とミルト道場の代表が試合をして、勝ったほうが負けたほうを吸収するという約定なのです」
「そんな約定を、なぜ結んだ」
「さあ。タキ先生は気の弱いところがおありで。それにしばらく胃病で療養しておられたのを、道場主がいないと困るということで、無理に道場に出ておられるのです」
「なんということだ。その試合はいつだ」
「三日後です」
「アリアシア!」
「は、はいっ」
「ガイナルン道場に行く。案内せよ」
「はい?」
3
「いかがでござろう、タキ先生」
「む、む、む」
「唐突な申し出で驚いておられましょう。しかし拙者としては、この道場がつぶれるのは見たくないのです。以前、ゴープス殿とは剣を交えました。素晴らしい技前でいらした。その絆にかけて、ここはお力になりたいのです」
口無精のリー=ウェンにしては精いっぱいの熱弁である。
「しかし……当道場と無縁の貴殿を代表にするわけには」
「ですから、私を師範代にしてくだされ。手当は、そうですな、年額百ガスパーで結構です」
「い、いや。貴殿のような高名な剣客を、一年百ガスパーとは」
高名なわけはない。このキスト州ではリー=ウェンの剣名はまったく知られていない。アリアシアがリー=ウェンのことを持ち上げるのを、このタキ・エンザが真に受けているだけのことである。
「構いません。その代わり、たぶん試合が終わったら全然道場には出て来ません」
「む、む。いや、しかし」
結局、気の弱いところのあるタキ・エンザは、リー=ウェンの申し出を受けた。
「では、それがしが代表で出るということを、先方に伝えておいてくだされ。あとで悶着が起きぬように」
そう言い置いて、リー=ウェンは帰宅した。
翌日、ミルト道場の使いが、リー=ウェンを訪ねてきた。寝坊したい時間に起こされて不機嫌なリー=ウェンに、その使いは金貨のたっぷりつまった袋を差し出した。
「どうか、当日の試合はよしなに」
「ほう。当日、ミルト道場ではどなたが出場なさるのかな」
「道場主のガルタン・ミルトでございます」
「ほう。ご自身がお出ましか。それは、それは」
「では、勝ちはお譲りいただけますな」
「ははは。このようなことをしていただかなくても、ガルタン殿のお役に立てるとあらば」
「ではどうぞ、この袋をお納めくだされ」
「いやいや。勝ち負けも明らかでないうちに受け取るわけにはいきません」
「はあ?」
「どうか試合のあとでもう一度お越しくださいませ」
「おお! それでは確かに勝ちをお譲りくださるのですな。分かりました。試合後にまたお訪ねします」
「いやあ、よく来てくだされた。本当によく来てくだされた」
リー=ウェンは満面の笑みで使いを帰した。
本当によく来てくれた、とリー=ウェンは心の中で繰り返した。
剣術を商売にしたからといって、それ自体が悪いことであるとはいえない。自分のすることは、自分勝手な感傷からガルタン・ミルトの営業努力を妨害することになるのではないかと、少し気にかけていたのだ。
しかし、仮にも剣客が、試合の勝敗を金で買おうとするとは。
そんな相手だと分かったからには、遠慮なくたたきのめしてやれる。
本当によく来てくれた。
4
試合の当日となった。
要らないと言ったのだが、アリアシアとバンクロスが迎えに来た。なぜかキーリンもいる。
「お前は道場に入れないぞ」
「ええ、父上。外からのぞきますよ」
あの道場に外からのぞけるような場所があったかなと思いながら、
「そうか」
とリー=ウェンは返した。
「何も先生がお出ましにならなくても」
アリアシアはなぜか不満顔である。ガイナルン道場のもめごとにリー=ウェンが巻き込まれるのを心配してくれているのだろう。だが、アリアシア自身ガイナルン道場の門下生だったのだから、その言い方は少し他人行儀ではある。
「ゴープスなどの不始末の始末を先生がおつけになるなんて。おかしいです」
このアリアシアの言葉を聞いて、突然怒りが吹き上がった。
「馬鹿者!」
いきなりの大声に、アリアシアもバンクロスも驚いて身を引いている。
ひと息吸って心を静め、頭の中を整理してから、リー=ウェンは言葉を発した。
「アリアシア」
「は、はい」
「ゴープス殿はおぬしにとって旧師であろう。そうでなくとも大先輩であり、師匠代わりとして面倒をみてくださったかたに違いあるまい」
「は、はい。それは、まあ」
「その方を敬称も付けずに呼び捨てとは何事か」
アリアシアは、さすがにはっ、と顔色を改めた。
「そもそもおぬしが一個の人間として、女として、ゴープス殿を嫌おうが好こうが、おぬしの勝手だ」
「は、はい」
「だが、ゴープス殿がおぬしに対し、ガイナルン道場の門下生に対し、何か不正で卑劣なことをしたことがあるか」
「そ、それは……ありません」
「であろう。では、おぬしとゴープス殿のどちらが、イウェド・ガイナルン師に対して恩義をまっとうしているといえるか」
「え」
「おぬしはイウェド師がご帰幽になられるや、ただちにガイナルン道場から身を引いた。それが悪いとはいわぬ。だがいっぽう、ゴープス殿はイウェド師の遺志を継ぎ、残された門弟たちの指導を引き受け、道場を盛り立てようと必死に努められた。そうではないか」
「うっ、うっ」
「ゴープス殿は、イウェド師から教わった剣をさらに後世に伝えんとしたのだ。ゴープス殿にどのような癖があり欠点があったとしても、そこを見落として、どこを見る!」
「あ、あ。私、わたくし。そんな、そんなことは」
「考えてもいなかったであろう。おぬしがどのような人生を生きようとも、おぬしの自由だ。だが、少なくともイウェド師に恩義を感じるならば、必死でイウェド師の遺したものを守ろうとする者に、応援の気持ちぐらいは持ってよいのではないか」
「は、はい。その通りです。でも先生。ゴープスは、ゴープス殿はガイナルン道場を自らのものにしようとしたのです。自分の生活のために弟子を増やそうとしたのです。結局あの男が、あの人がしたことは、自分自身の欲に発しているのではありませんか」
「うむ。よく見た。その見方も大事だ。だが、あれほどの腕なら、いくらでも稼ぎ口はあった。また、同じ道場をやるにしても、どこかの道場の師範代をしたほうがはるかに収入はよい。道場主などというものはもうからないものだぞ。よほど商売上手にやるのでなくてはな。そこはどう思うのだ」
「わ、分かりません」
「それは分かろうとしていないのだ。よいか。ゴープス殿には欲もあったかもしれん。思い込みや独りよがりなところもあったかもしれん。だがそれは誰しもそうなのだ。だが道場を繁盛させようという欲は、それ自体が悪いはいえぬ。その中で剣士の志をみようと思えば、剣を交えてみるしかない。おぬしはゴープス殿と本当に剣を交えたことがあるのか」
「そ、それが。いつも剣を会わせると、鼻息が荒く、息が臭いので……」
これを聞いてリー=ウェンは大笑いをした。
「だからまともに向き合ったことがないと? 愉快なやつだったのだな、ゴープス殿は」
「少しも愉快ではありません」
「そうか。もはやゴープス殿と剣を交えることはできぬ。だが代わりに、道場の空気を吸い、残された門下生たちの言葉を肌で感じるとよい。そうすれば、すこしは見えるものもあるだろう」
リー=ウェンたちは、ガイナルン道場のあるパンデル街区に向かって歩き始めた。
空は晴れ渡っている。世界は光に満ちて輝いている。
「天地晴れだな」
きょとんとしているアリアシアとバンクロスに説明した。
「わが恩師コルパー・バーカリエドの口癖だよ。こういう天気を天地晴れというのだ」
5
ガイナルン道場に着いた。試合の刻限までにはずいぶん時間がある。
リー=ウェンは師範たるタキ・エンザにあいさつをした。そのあと道場生たちがリー=ウェンを取り囲んでいろいろに声をかけてくる。
「リー=ウェン先生。このたびは、アリアシア殿からの願いを受け、ご出馬くださり、まことにありがとうございます」
「どうか欲ぼけのガルタン・ミルト師など、たたきのめしてください」
どうも門下生たちは、イウェド・ガイナルンを師と仰ぐアリアシアが、ガイナルン道場を守るために現師匠であるリー=ウェンに出馬を頼み込んだ、と思い込んでいるようである。
なるほど。客観的にはそのようにみるのが自然ではある。
アリアシア自身も、ひどく親しげに声をかけられ、礼を言われ、とまどっている。
それにしてもずいぶん門人が多い。六十人以上は集まっているだろう。
そのうちに試合相手のガルタン・ミルトが、門人十人ばかりを連れてやって来た。
それから見届け役の騎士が来た。今回見届け役を務めるのは、トルド・ヴルルカという老騎士で、この地方の剣術の世界では重鎮の一人なのだという。
やがて呼び出しがあり、リー=ウェンは道場に進み出た。
まずは見届け役に一礼をする。なかなか厳しい面構えの老人である。
それから試合相手に向き直り、互いに礼をする。
礼をしながら、リー=ウェンはあきれていた。
——なんという派手な格好だ。
どこでこんな衣装を買うのだろう。たぶん特注品なのだろう。きらきらと光る糸ばかりで織られた道着である。竜と悪魔が戦い合う図柄のようだが、糸がまぶしくてはっきり見えない。
——こちらの目をくらまそうという作戦なのか? それなら成功しているといわねばならん。
合図があって、試合が始まった。
ガルタン・ミルトは大柄な騎士である。この体格で甲冑をまとえば、さぞかし見応えがあるだろう。相対的に剣が小さくみえる。
構えも大きい。相手を威圧するような構えである。その表情もふてぶてしく自信にあふれている。
——ほう。これはこれは。まるきり商売だけの剣客というわけでもないようだ。
しばらく二人はにらみ合い、微妙に足を動かして間合いを探った。
ガルタン・ミルトが大上段から剣を振り下ろしてきた。鋭気のこもったよい斬撃である。
リー=ウェンは必要なだけ後ろに下がってこれをかわした。
ガルタン・ミルトの剣はただちに振り上げられ、さらに大きく踏み込んで強撃を振り下ろした。
リー=ウェンは右に回り込んで相手との距離を詰めた。ガルタンがそれに合わせて回転し、防御の構えを取った。取ったのだが。
——なんだ、その足の動きは。
足の動きが明らかににぶい。上半身の力強さと剣速の速さに対し、下半身はまるで反応が悪い。つまり鍛錬不足だ。
リー=ウェンは素早く一歩踏み込んだ。ガルタンはそれに合わせて体を引く。引いて止まるか止まらないかのタイミングで、リー=ウェンはさらに半歩追撃した。動作が終わる前にガルタンはさらに体を引こうとして足をもつれさせ、すってんころりんとこけた。
ぶざまに尻もちをついたガルタンを見て、やがてくすくすと笑い声が聞こえた。ガルタンは顔を真っ赤にして立ち上がり、
「いざっ、いざっ」
と大きく構えて格好を調えた。
——今さらいざいざもあるものか。
戦場ならもうガルタンは死んでいる。リー=ウェンが一撃を放っていたら、試合は終わっていたはずだ。
だがこの試合はただ勝てばよいという試合ではない。偶然やなりゆきで勝ちを拾ったのではなく、明らかな実力の差で勝ったと、誰もが認めるような勝ち方でなければならない。
そのためには、相手の最高の一撃を引き出しつつ、それを打ち破るにしくはない。
ためている。ためている。
ガルタンが息を吸い、心気を練っている。必殺の強撃を放つ準備だ。
そしてガルタンは上半身をぐいと倒すと大上段に振りかぶった剣を前に突き出すような形で突き込んできた。
上から来るとばかり思っていた攻撃が前から来るわけだ。しかもガルタンのリーチは長いため、相手の急所をこちらがとらえることは難しい。かといってよけようとした方向にこの剣は伸びてくるだろう。
よい攻撃だ。
リー=ウェンは相手の動きをぎりぎりまで見極め、最後の一瞬に、わずかなしかし素早い動きで相手の剣を払った。その結果リー=ウェンの顔面を捉えるはずの剣先は顔の左を突いた。そして無防備に飛び込んでくる相手の脳天を、リー=ウェンの剣が打ち据えた。
リー=ウェンは、そのまま体を右にかわした。その横をガルタンが通り過ぎて行く。四歩ほど進んで足をもつれさせ、ガルタンは激しい音を立てて床に倒れ伏した。そのまま起き上がろうとしない。
起き上がったとしても、もう剣は持てない。相手の剣を払うとき、リー=ウェンは剣身ではなく試合剣を握り込んでいる指を払ったのだ。当分は剣など握れるものではない。
「それまで! ガイナルン道場の勝ちであるっ」
見届け人の判定が響く。
リー=ウェンは見届け人の前に進み出て一礼し、そのまま立ち去ろうとした。
「そなた。どこの門人じゃ」
そのリー=ウェンに見届け人のトルド・ヴルルカが声をかける。
しかたがないのでもう一度見届け人のほうに向き直り、
「は。コルパー・バーカリエド師の門下の末席をけがしました」
と返答をした。
それで帰ろうとしたのだが、見届け人の言葉は続いた。
「キャスパー・ウォールを知っておるか」
知っているも何も。師コルパーの門人の中で、唯一無条件に信頼できる先輩がキャスパーだった。
キャスパーがずっと道場にいてくれたら、後継問題がこじれることなどなかったのだ。
「は。よく存じ上げております」
「そうか。キャスパーは、わしのせがれじゃ」
「はっ?」
まぬけな声を上げながら、思わず顔を起こして相手の顔を見た。
——待てよ。トルド・ヴルルカ。トルド……あっ。
「む、むっつり」
と口にしかけてあわてて口をつぐんだ。
「はっはっはっはっはっ。そうじゃ。むっつりトルドじゃ。その名を知っておるということは、噂に聞くリー=ウェン・クエスト殿本人に間違いなかろう。いや、手並みを見たのじゃから疑うまでもないがの」
いかめしい顔を崩してさも愉快そうにトルドが笑う。
「コルパー・バーカリエドの筆頭弟子、リー=ウェン・クエストに、こんな所で会えるとはのう。長生きはするものじゃて。わっはっはっはっは」
師コルパーの弟弟子にして、道場を開いた当初は師範代としてコルパーを支えたという〈むっつりトルド〉の話は、ずいぶん師や先輩たちから聞かされたものだった。だが、キャスパーの父親だというような話は聞いたこともない。だいいち名字が違うではないか。
道場内は、ざわざわしている。むろんこんな田舎にも、王府のバーカリエド道場の威名は轟いている。その筆頭弟子だなどと公言されてしまっては、目立つことこの上ない。
静かに暮らしたい、というリー=ウェンのもくろみは、今日もまた少し破綻しつつある。
(「天地晴れ」完)