辻斬り
1
「ゴープス先生。酒屋がたまった支払いを請求に来ましたので払おうとしたのですが、手文庫が見当たりません。どこかに移されましたか」
「ん? ああ。ユスル屋に練習剣の注文に行ってな。その支払いに持ち出した。酒屋にはあとでわしが支払いに行って来る」
「ああ、そうでしたか。よろしくお願いします」
こんな会話にどぎまぎしなければならない自分を、ゴープスは心の中で笑った。炭屋と魚屋には足を運んで、支払いがしばらく延びるが道場には請求に来ないでほしい、と頼み込んだ。しかし、酒屋には行きそびれていたのである。
道場の金をさらえてユスル屋への最初の支払いに充てた。わずか五百ガスパーの金を工面するのに苦労しなくてはならないとは、実にお笑いぐさであるが、それが実情なのだからどうしようもない。
ガイナルン道場では田舎道場には珍しく月謝制を採っている。月々の謝礼金は十ガスパーである。そのほか入門時には百ガスパーか二百ガスパーほどを納めることになっているし、これは強制ではないが、年に二度ほどは〈季節うかがい〉として百ガスパー前後もしくは季節見舞いの品を道場に持参するのが習慣となっている。これがきちんと払える弟子が多いということは、ちゃんとした家門の弟子が多いということである。
ガイナルン道場の門下生は八十名を超えるほどに膨れ上がっていたのだから、月に五百ガスパーをユスル屋に返すという計画は、つつましやかに生活すれば不可能なものではなかったはずだ。
だが現実にはそうではなかった。それにはいくつか理由がある。
ひとつには、師の死後のやりくりである。
初代道場主であるイウェド・ガイナルンが死んだあと、筆頭弟子であるゴープスが跡を継ぐことは不自然なことではなかった。それでも異論を唱える者もいたので、そうした者は酒食をもってもてなし、心を和らげたのである。
また、葬儀の際には門下生が一丸となって協力してくれたので、葬儀が終わったあとには慰労の食事会を催した。これが存外大きな出費となった。
さらに幹部たちとはたびたび晩餐をともにし、大いに気勢を上げた。
こうしたことの一つ一つが積み重なって、気が付けば手元の金は消え、未払いのつけが残ってしまったのである。
葬儀のときには相当の金も集まったのだから、手堅くやり繰りをしていれば困ることはなかったはずなのだが、気が大きくなっていささか分不相応な返礼をした。その結果集まった金では足りなくなり、逆に持ち出しになってしまったというのも大きい。
そして、師の死から葬儀、そして次期道場主を決める会議を開き、その後引き継ぎと新体制固めをしていた時期、各種の店への支払いを一時棚上げにしたことも、地味に響いている。
何よりの痛手は、門下生が減ったことである。
リー=ウェン・クエストとの決闘のあと、三十人ほどの弟子が道場を去った。つまり門下生は五十人ほどになってしまった。これが実に痛い。
また、門下生のうち二人は師範代の座に就けたので、この二人からは月謝は取れず、逆に月ごとになにがしかの手当を払わなくてはならない。
ユスル屋から借りた儀式剣を壊してしまった弁償の金が五十ガスリン。この大金を十年かけて返していかねばならない。その月額が五百ガスパーなのである。
現状では、ゴープスの生活と道場の経営を成り立たせながらこの借金を返し続けるのは不可能である。返済の月額を減額してほしいという頼みは、けんもほろろに断られた。借金のことを公にするわけにいかないゴープスとしては、これ以上の交渉はできない。
とすれば窮地を打開するには、門下生の数を増やすか、月謝を上げるかである。
——どうしてこんなことになってしまったのかのう。
ため息をつきかけて、あわててその動作を止めた。今は稽古中である。道場主が辛気くさい顔をみせるわけにはいかなかった。そのぶん、ゴープスの鬱憤は日一日と蓄積されてゆくのである。
2
「そういえば、あのご仁はどうしておられるかな」
「はい。どなたですか」
「アリアシアやお前が通っていた道場の、今の道場主だ」
「ゴープス・オイラー殿ですね。お元気なようです。最近では、非常にあいそよく門下生の指導をしておられると聞きます。新規門下生の獲得に熱心なご様子で、弟子たちに命じて近所の士分の若者に声をかけさせておられるようです」
「そうか」
リー=ウェンと話をしているのは、バンクロス・ティラーエという十七歳の若者である。ガイナルン道場をやめてリー=ウェンに弟子入りを志望した五人の若者の一人だ。今日はキーリンもアリアシアも来ておらず、ただバンクロスだけがリー=ウェンの練習を見学している。今はその練習が終わったところで、バンクロスの淹れた茶を二人で飲んでいるところである。
入門希望者たちは、リー=ウェンのあまりにつれない態度に、一人また一人と減っていった。ところがどういうわけか、このバンクロスだけが残った。懲りもせず毎日のようにリー=ウェンのもとに足を運んでいるのである。
しかも、この若者は、ここへの行き帰りを走って鍛錬している。そのほか、素振りか何か分からないが、自分で修行を続けている。リー=ウェンの練習を見ているときも、きちんと自分の練習剣を体の右側に置き、片膝を立てた姿勢で見学している。まだまだ姿勢は安定していないし、ずっと同じ姿勢でいるのが苦しいようで、時々足を組み替えたりしている。しかし徐々にではあるが確かに体のバランスが安定してきているし、気息も鋭さを増してきている。
——こいつは、ものになるな。
そもそも、ほかの若者たちは、ただリー=ウェンの練習を見るだけでは退屈だと考えた。そこが間違っている。リー=ウェンの練習風景をまともに見られるというのは、得難い修行の機会なのだ。練習風景にこそ、剣の神髄は表れる。動作の手順、理想的な姿勢。その見本が目の前で何度も何度も繰り返されるのだ。そこそこの腕前を持った剣士なら、金貨を積んでも見たいと思うほどのものであるのだ。
今のリー=ウェンは、何かの中で一番になりたいとか、誰かを倒して勝利をつかみたいとか考えて剣の修行をしているわけではない。ただもうそれがしみついてしまったのだ。正しく剣を振ることに没頭し、ただ無我夢中の時間を過ごすことに。しいていえば今のリー=ウェンの目的は理想の剣が振れるようになることだ。適度に体を鍛えて汗をかき、うまい酒を飲むことだと言い換えてもよい。二つは別のことのようであるが、リー=ウェンにとってはまったく同じことなのだ。
そんなリー=ウェンが、最近時々思い出す場面がある。あのゴープス・オイラーとかいう師範との決闘だ。
決闘そのものはゴープスの剣が砕け散ることによって茶番で終わった。しかし、剣と剣が触れ合うまでのわずかな時間、リー=ウェンは久々に背筋がぞくぞくするような緊張感を味わったのである。
——あの男の剣は本物だった。
あらかじめアリアシアからひどい噂を聞いていたので、たいした剣士でもあるまいという先入観を持っていたのだが、剣を取って向かい合ったゴープスは、本物の剣士だけが放つ殺気、というより闘気のようなものを放っていた。
その後の左右の袈裟懸けの連続攻撃も素晴らしく威力の乗った攻撃だった。速度も申し分ない。リー=ウェンが本気でかわさなければかわしきれないほどのものだった。
だから思わず裂帛の一撃を放った。まさかその一撃で相手の剣が粉々に砕けてしまうなどとは思いもせずに。その一瞬、リー=ウェンの剣客としての血は高い熱を帯びたのだ。
だから相手の剣が砕けるという妙ちきりんな結末を迎えた対戦は、リー=ウェンの胸にひどく消化不良の思いを残した。相手に礼をして引き返しながら、
——もうほんの少しでいいから、この戦いを続けたかった。
と考えていたのである。
あのときの、あのゴープスの驚き方。あれは自分の剣がまがい物だなどとは露ほども思っていなかった顔だ。その点ではゴープスのうかつさは責められてよい。あれは決闘の場に持ち出すような剣ではなかった。だがゴープスは、決して決闘をけがそうとしたわけでもなく、リー=ウェンを侮ったわけでもない。いや、決闘を始める寸前まではどうだったか分からないが、最初の一撃を振り下ろしたとき、あの男の気配は強敵と戦える喜びと緊張感に満ちていた、とリー=ウェンは感じている。
さらにいうなら、わずかなあいだ剣を交えただけではあるが、その剣には濁りがない、と感じた。アリアシアは、ゴープスの一面だけをみて、剣士としてのゴープスを正しく評価していない。いや、人格の基底には癖があるかもしれない。女好きであるかもしれないし、いやらしい物言いをする面もあるかもしれない。
——それでもあの剣には濁りがなかった。
ゴープスの人格の底にいやらしいものがあるとしても、死んだイウェド・ガイナルンの指導は、その人格のゆがみを抑え、正しき剣の道を目指させるほどのものだったのだ。
——イウェド・ガイナルンという男と剣を交えてみたかったなあ。
リー=ウェンは茶をすすりながら、亡き剣士との今はかなわぬ戦いを、心の中で思い描いた。
3
何もかもが裏目に出た。今やゴープス・オイラーは完全に行き詰まっていた。
まず道場生たちに発破をかけて、新規入門者を誘わせた。これが道場生たちには不人気だった。じわじわとした募集ならともかく、急に目に見える形で道場生を増やそうと焦りすぎた。毎日毎日、
「新しい道場生を連れてくるのだ」
と呼びかけたのだが、これが道場生たちの負担となり、道場から足を遠のかせることになった。
慌てたゴープスは、道場生たちに優しく接するようになり、手取り足取り剣の伝授をし始めた。これが第二の失敗だった。道場の中には序列があり、先輩から後輩への指導関係がある。それを無視してゴープスがやたらに指導を始めたものだから、門弟間の秩序が乱れていったのだ。それが続くうちに、門人たちのあいだに不満がたまっていった。だが、はっきりとした形でそれが爆発するまで、ゴープスは気付かなかった。
諸方面の支払いに窮したゴープスは、ついに月謝の金額を上げた。しかしその上げ方が大きすぎた。月額十ガスリンの月謝をいきなり十五ガスリンに上げたのである。そうでなくても不満のたまっていた門人たちは、この月謝値上げをきっかけに、次々と道場をやめていった。熱心に通っていた若い層の人々が特に多くやめた。その結果月謝の全体額は下がってしまったのである。しかも月謝値上げの理由に、
「師範代たちの待遇をよくするため」
ということを掲げたのであるから、収入が減ったにも関わらず支出は増えた。増やさざるを得なかった。
それでもユスル屋への月々の借金返済は待ってくれない。
もともと道場にはたいして金目の調度品などはなかったが、売れる物は片っ端から売った。借金できる所からは金も借りた。けれども、そもそもつけ払いをため込んだ状態での努力であるから、集めてきた金はそのまま右から左へと支払いに充てられ、手元には残らない。
今日も酒屋に足を運んで、またも支払いを延ばしてくれるよう頼んだが、
「いくらなんでも全然お支払いがないままこれ以上つけをため込んでいただくのは困ります。明日道場におうかがいしますから、いくぶんかでもお支払いくださいませ」
と言われ、気の弱いところのあるゴープスは、
「うむ。では明日取りに参れ」
と虚勢を張ってしまったのである。
金をどうしたものかと悩みながら、ゴープスは道場に帰った。なぜか表玄関から入る気にならず裏口から道場に近づくと、午後も残って練習をしていた古参の弟子二人が井戸端で汗を流しながら、ゴープスの噂話をしていた。
「道場には全然金がないそうだな」
「そうらしい。イウェド先生はそれなりの財産を残しておられたはずなのにな」
「葬儀のときにも相当の金子が集まっただろう」
「それよ」
「いったいどうして金がなくなったのだ」
「うむ。やはりゴープス先生だろうな」
「使い込みか。金遣いが荒い人にはみえないがな」
「分からんぞ。どこかに女でも囲っているのではないかという噂だ」
「そんな馬鹿な。だが、そうでも考えないとつじつまが合わないか」
「もしかすると、イウェド先生がご存命のうちから使い込んでいたのかもしれん」
「まさか」
「いやいや。だからこそあんなに必死に道場を継ぎたがったのではないか、と言う者もある」
「邪推だな」
「邪推かもしれんが、とにかく今の道場の空気では、まともな修行などできん」
「そうだなあ。ほかの道場に移るか?」
「そのことよ。実はよい先生がおられてな」
煮えくりかえるはらわたをなだめながら、ゴープスは表口に回った。
——何を勝手なことを。お前たちが何を知っているというのだ。わしは不正なことなど何もしておらん。道場のために、門下生のために、こんなにもしんどい思いをしておるというのに!
イウェド師が財産を残したなどというのは、まったくの誤解である。誤解に基づいてその財産をゴープスはどこにやったのかなどと邪推を重ねて人をあしざまに言う。それが武人のすることか。
だが、しかし。
思えばイウェド師は偉かった。
金がなくてもないようにはみせなかった。いつも泰然として必要なときには金を惜しまなかった。門弟の家族に祝い事や不幸があったときにはきちんと祝儀や弔意を贈ったし、諸方の払いを遅らせたことなどなかった。その信用があるからこそ、どの商人もつけの払いを催促しなかったのだ。
——わしはイウェド師の剣は学んだが、生き方は学んでいなかったのか。
道場には師範代の一人が残っていた。
「ああ、ゴープス先生。ずいぶん悩んだのですが、この道場をやめさせてもらおうかと思うのです」
「い、いや。貴殿に抜けられては困る。なんとかわしを支えてくれぬか」
「しかし、今は私が抜けたほうが、道場の経営は楽なのではありませんか」
「そんなことはない。イウェド師のあとを、皆で大いに盛り立てていこうではないか」
とにかくしばらくのあいだは思いとどまってくれるよう頼み込んだ。師範代が帰ったあとの道場で、明かりもともさずゴープスは思案に暮れた。
——あんなことを言っていたが、たぶん他の道場から引き抜きがあったのだ。イウェド・ガイナルン師の直弟子というだけでも、たいていの道場なら拾ってくれる。ましてうちの師範代たちの腕は本物だ。州府の道場に出てもすぐに師範代が務まるほどだ。
だが今は困る。今師範代の一人にやめられたら、ガイナルン道場は落ち目だという風聞が立ってしまう。あるいは、師範と師範代のあいだがうまくいってないと世間に思われてしまう。今そんなことになったら、本当に道場が維持できなくなってしまう。
ゴープスは、無性に酒が飲みたくなった。だが道場には一滴の酒も残っていない。手文庫からありったけの金をさらえると、夜の街に出て行った。
4
浴びるように酒を飲んで一文無しになったゴープスは、店から追い出された。
ここはガルツ街区である。ガイナルン道場のあるパンデル街区は商業地区ではあるが、歓楽施設は少ない。少ない飲み屋の中で、ゴープスが通えるような店など限られている。つまり、パンデル街区の飲み屋で醜態をさらせば、それは道場の評判に直結してしまう恐れがある。
というより、誰も知り合いなどいない場所で飲みたかった。だから歓楽施設の多いガルツ街区に足を運んだ。パンデル街区からガルツ街区までは十八トリルほどあるが、ゴープスの健脚なら三ザンタールほどの距離だ。
もうろうとしながら歩いてゆくと、やたらまぶしい場所に出た。ふと見れば、ポール=ボーンの店の前だった。かすかなざわめきしか聞こえない。ここはガルツ街区でも別格の料亭である。ゴープスが一年で稼ぐ金額を一晩で使うような金持ちが通う店だ。そいつらとゴープスの何が違うというのか。
ゴープスは重い足取りでパンデル街区への道を歩き始めた。道場に着くころには夜が明けるだろう。
夜が明ければいまいましい一日が始まる。
酒屋はたまったつけを受け取りに来るだろう。どういって追い返したものか。
またも道場をやめたいという者が出るかもしれない。どう説得したものか。
道場の暗い空気はどうしたら吹き払えるのか。
考えれば考えるほど、答えのなさを突きつけられる。
夜中の道であるが、二つの月が出ているのでランタンなしでも不自由なく歩ける。
と、道端に男が二人立っている。いかにも裕福そうな商人と、その護衛とおぼしき騎士だ。
何をしているのかと思ったが、商人は月を見ながら煙草をふかしている。たぶんガルツ街区の高級店で酒を飲み、酔い覚ましがわりに散歩としゃれこんだのだ。この夜中に月見をするゆとりが憎たらしい。
ゴープスが歩くほどに、商人と護衛と、ゴープスとの距離は縮まる。この商人のようなやつがポール=ボーンの店で大枚を使ったりするのだろう。
そのとき何が起きたのか、あとになってみても、ゴープス自身はっきりしない。
どちらが先だったのだろう。
ゴープスの心に殺気に似た思いが吹き上がるのと。
その護衛の男が剣を抜くのと。
剣客の殺意は、それ自体が攻撃に等しい。まして相手も剣客であるなら、それが攻撃に等しいものであるとただちに見抜く。
とにかく、護衛の男は剣を抜き、ゴープスは剣を抜き合わせた。
長年の厳しい修練は伊達ではない。しかもその修練はイウェド・ガイナルンという希代の名剣士の指導を受けてのものなのだ。
ゴープスの剛剣は、護衛の騎士の左肩口から入り、心の臓を切り裂いて、深々と右脇近くまで食い込んだ。
血が吹き出る前に、ゴープスはすでに命のない護衛の男を蹴り倒す。
裕福な商人が事態に気付いて振り返ったとき、すでにその首は胴体を離れていた。
ゴープスは商人の懐をまさぐって財布を抜き取ると、妹の月に追われながらパンデル街区への道を走った。
(「辻斬り」完)