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剣客伝  作者: 支援BIS
2/7

女剣士

 1


 ここはルマノ街区からパンデル街区に向かう道である。

 朝と夕にはそれなりの人が通るのだが、ちょうど昼時の今はほとんど通る人もない。

 初夏の日差しを浴びながら、その道を歩いている若者がいる。

 遠目には青年剣士かともみえるが、近寄ってみれば女性であることがわかる。

 それもすこぶるつきの美人である。

 男物だが色の柔らかい上下の服に身を包み、腰には革のベルトを巻いて剣を吊っている。

 珍しくもこの若者は、女でありながら剣士であるのだ。

 ということは、騎士身分の嫡流もしくは傍流であり、かつ父親が士分である、ということだ。

 この女剣士は、アリアシア・コンクルドという。

 父親はキスト鎮台で交武番頭の要職にある上級騎士である。

 その彼女は今悩んでおり、相談相手に選んだ人物のもとへと、今、歩を進めているのだ。

——このままガイナルン道場にいても意味がない。

——だが、この地方にはほかにこれといった道場がない。

——やはり州都に帰ることになるか。

——だがそうしたら、またあの母御殿と顔を付き合わせることになる。そうなったら、今度こそ有無を言わせず嫁に出されてしまうであろうな。

 アリアシアはもう十九歳であって、士分の娘としての普通の適齢期の上限に達しつつある。

 だが今は剣に打ち込みたいのだ。

 やっと剣の本当のおもしろさが分かりかけてきたところなのだ。

 もともとアリアシアの生みの母は、州都でもそれと知られた女剣士であったが、アリアシアの父がこれを射止めた。

 母は娘が六歳のころから剣を仕込んだ。

 やがてアリアシアが十歳のとき母は死んでしまったのだが、かたくなに剣の修行を続けたがるアリアシアに根負けした父親は、剣名の高かった部下のイウェド・ガイナルンに個人教授を頼んだ。

 イウェドのもとでアリアシアはみるみる剣才を開花させたのであるが、アリアシアが十六歳のとき、イウェド・ガイナルンが職を辞して実家のあるパンデル街区に帰り、剣術道場を開くことになると、自分もパンデル街区に住んで師の道場に通うと言い出す。

 最初は頑としてこれをはねつけた父親ワジシンであるが、後妻スウェリとアリアシアの仲がひどくこじれてきたことから、一度距離を置くのもよいかと考えるようになる。ちょうどパンデル街区にほど近いルマノ街区にワジシンの叔父夫婦が住んでいたことから、叔父のつてを頼ってその住まいの近くに家を買い、下男と下女をつけてアリアシアを住まわせたのである。

 こうしてアリアシアは自由を得、ますます剣の道にのめり込んだ。

 ところがイウェド・ガイナルンが死んでしまった。道場の跡を継いだのは師範代のゴープス・オイラーである。この男、確かに腕はよいのだが、正直イウェド・ガイナルンを見慣れた目には見劣りがする。それに、ゴープスがアリアシアの体を見る視線はまことにねっとりとしていやらしいのである。

 ガイナルン道場をやめてしまいたいのだが、やめてしまえばこの街区にいる理由もなくなってしまう。

 こんな田舎には、ほかにこれといった道場もみあたらない。

 どうしたものかと思案に暮れる毎日なのである。





 2


「む?」

 アリアシアは、前方に視線を送った。

 何か、いさかいの声のようなものが聞こえたのである。

 今、アリアシアから見て右は川、左は森である。

 蛇行しながら左の森陰に消える道の向こうから、何者かが駆けて来る。

 駆けて来る者たちの姿が明らかになると、アリアシアはその美しい眉宇をしかめた。

 若い平民の娘が衣服を乱しながら必死で逃げてくる。

 その後ろを、二人の平民の男が追ってくる。目つきの悪い男たちだ。

 平民の娘はアリアシアの姿を見て一瞬たじろいだが、構わず駆け寄ってくる。

 そしてアリアシアの横を駆け抜けていった。

 すれ違う瞬間、ちらとすがるような目つきをアリアシアに送って。

 服は乱れ、一部が破れている。

 走る女の顔は汗と埃にまみれて汚れている。

 アリアシアの胸中に怒りの炎が吹き上がった。

 女が駆け抜けたすぐあと、二人の男がアリアシアの横を走りすぎようとした。

 その刹那。

 アリアシアは抜剣して剣を二度振った。

 その剣は男たちそれぞれの右のふくらはぎを浅く斬り裂いた。

「いてえっ」

「うわっ! 何だこいつぁあ」

 二人は叫びながら転んだ。

 アリアシアは小物入れから布を出すと剣をぬぐって鞘に収めた。切られた二人はアリアシアの様子を見て、ようやく自分たちがこの女剣士に足を斬られたのだと気付いたようである。

「て、てめえっ」

「何しやがるんでえっ」

 すごむ二人を冷たい目で見下ろしながらアリアシアは、

「昼ひなか、まなこを血走らせて(おみな)を追いかけ回す不逞の輩に足止めをくらわせたまで。言い分があれば衛視詰め所で聞こう。ちょうどこれから行くところなのだ」

 と言い放った。二人の男たちは急に黙り込んでしまう。

「私はコンクルド家のアリアシア。逃げも隠れもせぬ。いつでも来るがよい」

 そう言い置くなり(せびら)をそびやかして立ち去るアリアシアを、二人の男は見守るだけだった。

 みるみる遠ざかるアリアシアの背で、束ねた栗色の髪がゆらゆらと揺れていた。




 3


 二人の不審な男に告げたように、アリアシアが今日パンデル街区に来たのは、道場に来たのではなく、衛視詰め所に来たのだ。

 パンデル街区の衛視詰め所には衛視ダルジャン・コプーがいる。

 アリアシアが衛視ダルジャンの剣技に接したのは二年前である。たまたま実家に帰っていたアリアシアは、鎮台参与ワンダブレンの屋敷で開かれた剣術試合を見学に行った。その試合で見事に五人抜きをやってのけたのが衛視ダルジャンである。

 師の死後、代わりの師を求めるアリアシアは、パンデル街区に衛視ダルジャンがいることを思いだし、数日前、思いきって尋ねてみた。

 衛視ダルジャンは、突然のこの訪問を迷惑がりもせず丁寧に応対してくれたが、衛視の職が忙しくもあり、また未熟のゆえもあってという理由で、アリアシアの弟子入りは断った。

 しかしアリアシアは衛視ダルジャンの人柄に感銘を受けるところがあったので、

「困ったことがあれば、いつなりと相談にお越しくだされ」

 という衛視ダルジャンの言葉に甘えて、今日再び相談に来たのである。

 衛視ダルジャンは、折よく詰め所に帰って来ていた。

「やあ、アリアシア殿。よくお越しくださった」

 無骨な顔に悪気のない笑顔を浮かべるダルジャンを見て、アリアシアは心がほっとするのを感じた。

「アリアシア殿。よいところに来られた。いまだ師と仰ぐかたは見つかりませんか」

「はい。どうにもこれはというかたがなく、困っております」

「実は、素晴らしいかたが近くにおられたのです。私の師です」

「えっ? ダルジャン殿はたしか王府のバーカリエド道場で剣を学ばれたのでは?」

 本当はアリアシアも王府の道場に学びたかったのだ。やはり王府の剣士も道場もキスト州のそれとは質も量も比較にならない。本当に剣を磨こうと思う者は王府に行くといってもよい。だがアリアシアが王府に行くなどということは絶対に許されない。

「ええ。私が入門したときにはすでに道場主のコルパー・バーカリエド師はご高齢で、実際の稽古は筆頭弟子のリー=ウェン・クエスト先生がみてくださいました」

「そ、そのリー=ウェン・クエスト先生が、こちらのほうにいらっしゃるのですか?」

「オルド街区におられたのです。二年ほど前かららしいのですが、最近まで知りませんでした」

 オルド街区なら、このパンデル街区のすぐ西である。アリアシアの住むルマノ街区からは南西にあたる。いずれにしてもごく近い。

「道場を開いておられるのですか?」

 オルド街区のようなひなびた街で剣術道場を開いても、商売として成り立つようには思えない。

「いえ。何かわけあって、隠遁に近い生活をなさっておられます」

「隠遁……。では、弟子入りは難しいのでは」

「私に、お前の稽古ぐらいはみてやる、とおっしゃいました。熱意を持ってお願いすれば、アリアシア殿の弟子入りも認めてくださるかもしれません」

 願ってもない話である。バーカリエド道場で筆頭弟子であったほどの剣客なら、腕にまったく心配はない。また、衛視ダルジャンが心服している様子からも、その人物は信じられる。となれば、ぜひにも入門を乞いたい。駄目だったら駄目だったときのことだ。そうアリアシアは思った。

「ぜひ。ぜひご紹介ください」

 幸い、ダルジャンはこれからオルド街区に巡視に行くという。アリアシアはダルジャンについて行った。





 4


「お断りする」

 オルド街区にこんな場所があったのかと思わせる、川と森に囲まれた隠れ家のような一軒家にリー=ウェンを尋ね、紹介を受けて入門を願い出たのだが、リー=ウェンの答えはにべもなかった。

「リー=ウェン先生。私を教えてくださる時間の半分を、アリアシア殿に割いていただくわけにはまいりませんか」

 と、衛視ダルジャンが口添えをしてくれたけれども、

「お前はコルパー先生の弟子だ。その剣筋に乱れがないかをみるのは兄弟子として当然だ。だがアリアシア殿は他流を学ばれたご仁。その指導を引き受けるような無責任なまねはできん。第一俺は道場を開いているわけではない。入門を申し込まれるいわれはない」

 とりつく島もないような返答なのだが、不思議とこのリー=ウェンという剣客からは、冷たい人格はただよってこない。

 むしろ、風のようなさわやかさとこだわりのなさを、アリアシアは感じていた。

 風体からいえば、髪も整えておらず、顔には無精ひげが伸び放題で、衣服も実にざっくりとした着こなしなのだが、いやみがない。

 それにしても、若い。アリアシアの目にはリー=ウェンは二十代半ばからせいぜい三十歳までと映っていた。もちろんそんなことはなく、今リー=ウェンは三十八歳なのだが、この勘違いを訂正する者はいなかった。

「残念ですが、今日のところはこれで失礼します。また日を改めてお願いにあがります」

「いや。もう来ないでいただきたい」

 リー=ウェンはけんもほろろに断ったが、やっとのことで光明を得たアリアシアは、簡単には諦めなかった。

 翌朝早く、アリアシアは日持ちのする珍味と銘酒を下男に持たせてリー=ウェンの居宅を訪ねた。

 この日も朝寝坊を決め込むつもりだったリー=ウェンはいささか不機嫌な顔で客を迎えたのだが、アリアシアは悪びれず、腰を低くして入門を乞う。

 初めは、贈り物を受け取るのも拒否したリー=ウェンに対し、アリアシアは、

「これを持って帰るのは老いた下男には気の毒とおぼしめして」

 受け取ってくれと懇願したのである。

「これきりにしていただきたい」

 と断ってリー=ウェンは品を納めた。実のところ珍味も銘酒もリー=ウェンの心を動かしていたのだ。

 そして、どんな形にせよ贈り物を受け取らせたのだから、この駆け引きはアリアシアの勝ちである。むろん贈り物の選択は衛視ダルジャンの入れ知恵である。

 二、三日のうちに、アリアシアはリー=ウェンの一日の過ごし方をおおむねつかんだ。

 朝は寝坊をして遅い朝食をハルバスの店で取り、帰って片付け物などをしてから少し昼寝する。

 目を覚ましたらしばらく風景を見て過ごし、剣の鍛錬をして、夕刻はハルバスの店でゆっくりと酒を飲む。

 家に帰ってから飲み直すこともある。

 これをつかんだということは、アリアシアはずっとリー=ウェンに張り付いていたということである。

 ただし、着替えや洗濯のときには、

「裸になるゆえ」

 と追い出され、剣の鍛錬の時間には、

「人に見せるものではない」

 と追い払われた。

 掃除や洗濯の手伝いをしようとしたが、許されなかった。

 それでも根気よくつきまとったので、五日目にはリー=ウェンのほうが音を上げ、

「朝は来るな。朝寝の邪魔だ。鍛錬を見るのを許すから、午後から来い」

 と言った。アリアシアは大喜びで、

「はい! ありがとうございます、先生」

 と、実によい笑顔を浮かべた。

 アリアシアは少しきつめの顔をしているのだが、こういう笑顔を浮かべるときの表情は柔らかい。透き通るような白い肌とあいまって、リー=ウェンもどきりとするような色香を放つ。

——やれやれ。

 と嘆息したリー=ウェンだが、実のところアリアシアの邪気のないひたむきさにほだされたところもあり、それほど悪い気はしていない。

 もっともこの人物評は、多分に贈り物に影響されている。

 最初にアリアシアが持って来た珍味の中に、ムウ貝の貝柱の干物があった。

「このまま食べても酒のつまみには絶好なのですが、朝起きてけだるいとき、お湯を沸かしてこの貝柱を入れて煮るだけで、適度な塩気の実においしいスープが出来上がります」

 と説明を受け、実際に試したところ、その通りだった。

 特に飲みすぎた翌日の朝の貝柱のスープは何ともいえない美味だ。

 五臓六腑にしみわたる、とはこのことだろう。

 深みがあるけれどくどくないだしがでている。

 ほのかな潮の香りが遠い海を思わせる。

 そんなこんなで、リー=ウェンは、取りあえずアリアシアの訪問を受け入れていた。

 ところがここに、治まらない人がいる。

 ハルバスの娘のサーシアである。

 誘拐犯の一味に山小屋に監禁されたのを救われてから、サーシアはリー=ウェンに強い恋慕の情を抱くようになった。

 もともとリー=ウェンは男ぶりがよいし、サーシアの狭い生活範囲には年の合う男がいなかったこともあり、リー=ウェンはサーシアにとって気になる存在だった。

 それが命の救い手となったのだから、心引かれたとしても無理はない。

 今ごろは最初のうちほどべたべたしなくなったものの、やはりリー=ウェンが店にいるあいだ、サーシアの視線はリー=ウェンに向かうのである。

 そのリー=ウェンの隣に座る女がいる。しかもリー=ウェンと同じ士分であり、非常に美人である。

「なによ。あの男女(おとこおんな)

 サーシアの視線には殺気が込められているといってもよい。

 それを店主のハルバスや常連客たちは、いささか複雑な思いで見ている。

 とまあそんな具合に平穏無事な日が続いていたのだが、変事はアリアシアがリー=ウェンにつきまとうようになって七日目に起きた。





 5


 アリアシアは、リー=ウェンの居宅に向かっていた。

 昨日初めてリー=ウェンが剣を振って鍛錬するのを見たのであるが、それを思い出せばアリアシアの頬は紅潮し、胸は高鳴る。それほどに素晴らしいものだった。

 今アリアシアは銘酒と珍味を携えている。最初に持っていった銘酒がもう残り少ないのを知ったからだ。

 たぷんたぷんと壺の中で跳ねる酒が邪魔をしたのか、それとも心の高揚が平静な探知を妨げたか、いずれにしても、アリアシアはくせ者の気配に気付くことなく橋を渡った。

 リー=ウェンは、すでに剣を持ち出して、目立つ位置に立って静かに森を見ていた。

「遅れましたでしょうか。申しわけないことです」

 わびながら近づいたアリアシアに、リー=ウェンは、

「土産か。家の中に入れよ」

 と命じた。

 アリアシアが家の中に足を一歩踏み入れたとき、リー=ウェンは橋に向かって歩き始めた。

 そのとき家を囲む川の向こうの森陰から、にわかに殺気が立ちのぼったかと思うと、何かがリー=ウェンめがけて飛来してきた。

 剣が空を斬り裂く音がして、リー=ウェンの足元に何かが落ちた。

 それは二つに切られた矢ではないか。

 リー=ウェンは何事もなかったかのように橋の上に足を運んだ。

 そのとき、先ほどとは別の位置から何かが飛んで来た。

 矢であったが、これもリー=ウェンが打ち落とす。

 橋を渡り終えるとリー=ウェンは突如疾走した。

「うぬっ」

 と声を上げながら森から八人の刺客が飛び出してリー=ウェンに襲い掛かった。

 だがリー=ウェンは見事な歩法をみせて八人の足に手に傷をつけ、あっという間に敵の戦闘力を奪ってしまったのである。

 リー=ウェンの動きは力まず気負わず、まるで風のようであり、その一陣の風が吹き去ったとき、敵はすべて倒れ伏していたのである。

 アリアシアは、リー=ウェンの剣の境地が今まで自分の知っているそれとは隔絶していることをまざまざと見せつけられた思いがした。

 敵を無力化したあとリー=ウェンは橋を渡って帰って来て、アリアシアに言った。

「すまぬが衛視詰め所に行き、暴漢に襲われたから倒したと説明し、衛視を連れてきてくれ」

 アリアシアが衛視と先手者を連れて帰ってきたとき、八人の暴漢のうち三人は逃げ去っていた。

 あとの五人は動かぬ足を引きずって逃げ去ろうとしているところだった。





 6


 話は七日前にさかのぼる。

 パンデル街区にケネロワの店という穀物問屋がある。

 ここで下働きをしているマチューという娘がいて、その日も出来たての食事を人夫たちに配っていた。

 配る途中、普段は入らないことになっている穀物倉庫にも足を踏み入れた。中にいる人夫に食事を渡すためである。

 そのときたまたま、積み上げた袋が崩れ落ちて破れ、中から白い粉が出て来た。

 よせばいいのにマチューはその粉は何かと思い、なめてみた。

「あらっ。塩でねえだか」

 その言葉を聞いてぎょっとしたのは、台帳をつけていた主計係である。

 塩は王国政府の専売品であり、鑑札のない商人は売り買いできない。

 また、余剰の塩は市場に流されるが、今年はまだその時期ではない。

 つまり、この塩はあってはいけない塩なのである。

 とはいえ、ここで泰然としていればよかったのだが、気の小さい主計係の男は、あわてて、

「おい! その娘を捕まえろ!」

 と店の者たちに命じてしまった。

 するとマチューのほうでも見てはいけないものを見てしまったのだと気付き、逃げだした。

「おい! おい! おい! その娘を捕まえろというんだ!」

 この店には、いささかがらが悪い店員がそろっているのだが、その店員たちがあわててマチューを追いかけた。

 それでも手をかわしたマチューは店の外に飛び出し、衛視詰め所に向かおうとしたが、そちらは先回りしてふさがれている。

 マチューは身をひるがえした。そこには二人の人相の悪い店員がいて、その一人がマチューの着物の肩口をつかんだ。

 その男はマチューの着物をつかんだまま、マチューの胸元に目をやった。

 健康的な胸元がはだけ、上気して色づいているさまを目にして、男のまなこに情欲の火がともった。

 実のところこのときまで、マチューはそれほど本気で逃げたわけではなかった。

 だが、このとき、

——逃げなければ、とんでもない目に遭わされる。

 という思いが浮かんだ。

 つかまれた着物が引き裂けるのも構わず、マチューは身をかわして街の外に向かう方向に逃げた。

「あ、このあまっ。待ちやがれ!」

 か弱い女が思わず振り絞った力にふりほどかれた男は、マチューを追った。

 マチューは必死で走り、すぐに街区の外れに来た。足は止まらない。ルマノ街区に続く道を走り始めた。

 二人の店員がマチューを追いかけた。あと少しで追いつくというとき、剣士の姿をした女が通りかかって、通りすがりに店員二人の足に傷を負わせた、というわけである。

 そもそも何のために娘を追っていたのかさえ知らない二人の店員は、痛む足を引きずりながら店に取って返した。

 話を聞いた店主は、まずいことになったとは思ったが、少々の塩の横流しはどこでもやっていることであり、〈先手者〉たちにもそれなりの賄賂を渡していることでもあるから、そう心配することもあるまいと考えた。

 さて、ルマノ街区に着いた娘は衛視詰め所に飛び込んだ。

 話を聞いた衛視は上司に相談した。

 上司は考えた。訴えがあった以上、まったく調べないわけにもいかない。まして、ここ数年塩の横流しが多すぎるということで取締を強化するよう通達があったばかりである。

 上司は、衛視二人と〈先手者〉四人をケネロワの店に派遣し、自分も同道した。

 調べたところ、とても見逃し難い量の塩が倉庫にあった。店の主人も一時塩を隠すぐらいの対処をすればよかったのだが、慣れというものは恐ろしい。これぐらいなら大丈夫と思い込んでしまったのである。

 店主と店の幹部は取り調べを受け、数日後、審判所から裁定がくだった。

 罰金は驚くほどの高額で、しかも一か月間の取引禁止という重い処罰だった。

 憤慨した店主は、店員四人の首を切り、酒を食らってくつろいでいた用心棒の浪人四人を放り出した。

 その四人の中には娘を追って足を斬られた二人も含まれている。

 浪人というのは、士分でありながら主君を持たない者をいう。

 つまりリー=ウェンも今は浪人である。

 放り出された店員四人と遊士四人の怒りの矛先はどこに向いたかというと、あと少しのところで娘を捕まえられるはずだったのに、その邪魔をした女剣士である。

「あの女剣士。オルド街区の外れにある浪人の家に毎日通い詰めているらしいぜ」

 こんな噂を聞いて、リー=ウェンの居宅の様子をこっそりうかがったところ、確かにあの女剣士が浪人の稽古の様子をながめている。

 この場所で二人を殺害することに決めた。

 というのは、ここは人のまったく通りかからない場所だから、邪魔の入る心配なしに二人を殺せるし、殺しても発見まで相当かかるため、安全に遠くに逃げられるからだ。

 もちろんこの一味は、アリアシアの父がキスト鎮守府で交武番頭の要職にあるなどとは露知らない。






 7


 襲撃事件以来、アリアシアはなお熱心にリー=ウェンのもとに通うことになった。ただし、リー=ウェンを煩わせる時間は減った。

 朝の間は今までの道場修行で習い覚えた練習に費やし、午後にはリー=ウェンのもとに赴いてその鍛錬を凝視する。鍛錬が終われば礼を述べてただちに走って家に帰り、リー=ウェンの動きをまねて剣を振るのである。

 まさに剣三昧の生活を、アリアシアは存分に楽しんでいる。

 リー=ウェンはアリアシアにかき乱される時間が少なくなったことを喜んだ。

 これがより厄介な事態への前触れだとは少しも気付かずに。






(「女剣士」完)

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