誘拐
1
リー=ウェンは目を覚ました。
のどが渇いていたので壁際の水壺から水をくもうとしたが、中身がない。そういえば夜中に目が覚めて飲み干したのだった。
寝室を出て、居間と食堂を通り過ぎ、玄関の扉を開けて外に出る。
もう日は高い。春の柔らかな日差しが降り注いでいる。シュリーフラの白い花が咲き誇り、川辺の緑に映えて美しい。
そのまま庭に回り、井戸の水をくんだ。
浮かんでいるほこりを手ですくって捨て、直接水桶に口を付けてごくごくと飲む。冷たい水がのどをうるおし、乾いた体にしみていく心地よさを、ゆっくりと味わった。
桶を降ろしてもう一杯水をくむ。腰巻き布をはずして素っ裸になると、ざばり、と水を頭からかぶった。さらにもう一杯水をくんで、今度は体をこすりながら水を掛けた。
人目を気にする必要もない。ここは、ほんの少しだけ街から離れていて、しかも川と森に囲まれているから、誰かが偶然通りかかるなどということはないのだ。
腰巻き布でぬれた体を拭くと、平樽に水をそそいで腰巻き布をごしごしと洗い、立木の枝に干す。大きくあくびをする。
腹が減ったので食事に出ることにする。
寝室に戻り、ゆったりした上着とたけの短いズボンをはき、革ベルトを着け、愛剣を手に取った。
べつに剣を必要とするようなことになると思っているわけではないが、万が一留守のあいだに物盗りに入られたとして、この剣だけは失いたくない。
ヴァンプーサ工房で作られたモルダイト鋼製剣、刃渡り七十一イサン。柄木を外せば銘の代わりの連なる星形が刻まれている。
初代アムエル・ヴァンプーサの手になる業物である。
剣を左手に持ち、金袋をベルトにつけて、外に出る。
リー=ウェンの借りているこの家は、街から川で隔てられていて、ただ一つの橋を渡らなければ入ることも出ることもできない。この借家が気に入った理由の一つだ。
森の脇の川沿いの道を歩く。わずか五タールほどで、ハルバスの店が見えた。
どうしてこんな街の外れに店を構えたのかは謎だが、この店の存在が、あの借家を気に入ったもう一つの理由だ。
「お、旦那。いらっしゃいやし」
店主のハルバスが、カウンターの向こうで何か仕事をしながらやせぎすの顔を上げ、リーを迎えた。店の中には焼きたてのパンの香りがただよっている。
リーは、
「ああ」
と低い声であいさつを返すと、一番奥の席に向かい、剣を立て掛けて、どさりと椅子に座った。
「めしを頼む」
「あいよ! おい、サーシア。リーの旦那にお食事だ」
「はーい」
びっくりするほど短い時間で、パンとスープと水がテーブルに運ばれてきた。
「ど、どうぞ」
店主の一人娘であるサーシアが食事を運んできた。
「しばらくぶりですね。お仕事だったんですか」
「ああ。護衛の仕事でね。ファルスタまで行ってきた」
「そうですか。お仕事あって、よかったですね」
それだけ言うと、サーシアは奥に帰った。少し頬が赤い。
「へへっ。サーシアのやつ、旦那のことがお気に入りだからね。この一か月、さびしそうにしてやがった」
「はは。こんな年寄りを気に入ってくれるとは奇特なことだ。サーシアは十五歳だったかな」
「十六でさ。ほんとに亡くなった女房に似てきやがった」
リーは三十八歳である。まさか娘といってよい年齢のサーシアが本気で好意を寄せているとは考えもしない。
温かい湯気のたつスープを口に運んだ。うまい。ざっくり切った丸ネギが調子よく煮えている。丸ネギは火の通し方をあやまると、からくなったりネギ臭さが出る。この丸ネギは甘く柔らかく煮えており、しかもスープの味をしっかり吸ってしみじみとうまい。
ほかにも赤ゴナやソリスなどの野菜が入っているが、どれもほどよい煮え方をしている。かすかに浮かんだ塩漬け肉もよい。
パンをちぎって口に運ぶ。柔らかなパンが口いっぱいに広がるのをしっかりかみしめて、じゅうぶん甘みが出たところで、一口のスープでのどに流し込む。こたえられない充実感だ。
護衛の旅をしていた往復一月のあいだは、ほとんど堅焼きパンばかりだったのだ。旅のあいだ、しょっちゅうこの店のパンの味を思い出してはため息をついたものである。
この街に住むようになって二年少々だが、すっかりハルバスの店に体が慣らされてしまったようだ。
リー=ウェンは剣客である。
王府サマルカでも名の通ったバーカリエド道場に住み込み弟子として入門したのは十歳のときだった。以来、師のコルパー・バーカリエドに仕え、技を学んで日月を過ごし、いつしか筆頭弟子とか〈四柱〉の一人などといわれるようになっていた。
その師が高齢のため世を去ったのは三年前のことである。師はリー=ウェンを後継者に指名したが、いざ師が亡くなると高弟のあいだで跡継ぎをめぐる争いが起きた。リー=ウェンは、ほかの事情も手伝って、サマルカでの暮らしに見切りをつけ、ここ王国第二の州キストに移って来たのである。
来てみると、ここはリー=ウェンの気質に合った。
士分の者が、つまり騎士身分の者がサマルカほど威張っていない。というより、農民や商人や職人の元気がよい。キスト州では商業と生産業と食品加工業の盛んだと聞いていたが、この地の商人のたくましさは実際に目にしなければ信じられないほどである。
リー=ウェンは、あまりにぎやかではない街区の外れに貸家を借りた。その街区に知り合いの商人がいて、その男が万事取りはからってくれたのである。
キスト州に来て、リー=ウェンは変わった。
ひと言でいえば、張り詰めた生き方をするのが馬鹿らしくなってしまったのだ。
あくせくせずに、何をするでもなくぼうっと草木をながめ、気が向けば剣を振り、あまり人と付き合いもせず、夜になれば少しのうまい物を食べ酒を飲んで寝る。
そんな暮らしに、はまってしまったのだ。
実のところリー=ウェンは、働く必要がないといえばない。サマルカを離れることになった〈ほかの事情〉がらみで大金を得たからである。大金はその知り合いの商人に預けていて、少しずつ引き出している。
だが、決して裕福にはみえない暮らしぶりのリーを見て、周りが何かと仕事を世話してくれる。むげにするのも悪いので、時々は引き受けるようにしている。隊商の護衛という仕事もそうして引き受けたものだ。安い報酬だったし、拘束時間も長いしで、もう同じような仕事はこりごりだが、古州ファルスタを見物できたのはよかったと思っている。
朝食を済ませたリー=ウェンは家に帰り、一度昼寝をした。午後に剣の練習をして、夕方再びハルバスの店に行って、ちびりちびりと酒を飲みながら料理をつまんだ。
2
翌日の朝、ハルバスの店に行くと、店が閉まっていた。しかたがないので、家に帰り、堅パンと塩漬け肉を食べた。
昼にもハルバスの店に行ったのだが、やはり閉まっていた。朝と同じく家で堅パンと塩漬け肉を食べた。これで保存食は打ち止めである。
夕方にハルバスの店に行ったが、まだ閉まっている。丸一日休むようなときは、常連客には前もって教えてくれるのだから、これは少しおかしい。
街の中心部のほうに行って別の店で軽い夕食を取り、ハルバスの店に寄った。
明かりがついている。
戸を開けようとしたが、閉まっている。
リーは戸をたたいた。
「おやじ殿! おやじ殿! いるのだろう、おやじ殿! リー=ウェンだ。開けてくれ」
「こ、こりゃ、旦那。へい。ちょ、ちょっとお待ちを」
すぐに戸が開けられ、リー=ウェンは中に入った。店主のハルバスは目を赤くしている。みるからに心配事がありそうな様子だ。
「何があった?」
「そ、それが、サーシアのやつが帰って来ねえんで」
「なにっ?」
サーシアは昨日昼、ケジャ村に住んでいるハルバスの妹の所に行ったのだという。ハルバスの作った料理を持っていき、代わりにハルバスの妹が作った野菜をもらってくる。これはしょっちゅうしていることで、時には一晩泊まってくることもあるという。
「けどね、旦那。向こうに泊まったときにゃ、朝一番で帰って来るんでさあ。それこそお日さんが上るとすぐあっちを出てね」
ケジャ村までは十トリル弱である。少し早めに歩けば二ザンタールほどで着く。夜明けとともに出れば朝食の準備に間に合う時間に着くはずなのである。
心配になったハルバスは、妹の所まで行ってみた。すると今朝日の出とともにサーシアは野菜を持って出発したという。
ケジャ村からこのオルド街区までは、ほぼ一本道である。オルド街区に入ってからどこかの店にでも寄り道していないかぎり、とうに帰り着いていなければならない。
ハルバスは不安と恐怖でひどくあわてた勢いのまま、大声でサーシアの名を呼びながら街区に帰って来た。通り道の店や家で聞いて回ったが、今朝サーシアの姿を見た者はいない。
「衛視詰め所には届けたのか」
「も、もちろん届けました。でもいないんで」
「いない?」
「なんでもパンデル街区で大きな事件が起きたらしくって、そっちに出払ってるんだそうで。衛視様だけじゃなくて、〈先手者〉もみんな」
〈先手者〉というのは、平民の中から衛視に任命されてその手伝いをする者たちで、一定の捜査権と逮捕権を与えられている。平民ながら革ベルトをすることを許され、紫の房の付いた短剣を所持しているので、〈房持ち〉などとも呼ばれる。多少とも裕福で顔の利く人間がなるのが普通だ。
このオルド街区には二人の〈先手者〉がいて、それぞれ東半分と西半分を縄張りにしている。〈先手者〉はそれぞれ自分の手下を持っており、彼らは〈使い犬〉などと呼ばれている。〈使い犬〉は〈先手者〉が私的に雇用する平民であって、公的には捜査権も逮捕権もないが、そのぶん裏に回ってさまざまな手管で〈先手者〉の仕事を助けるのだ。
「よし分かった、ハルバス。万一サーシアが帰って来たときのため、おぬしはここに残れ。俺は人手を集めてケジャ村までの道をもう一度探してみる」
そう言い残して店を出たリー=ウェンは、急ぎ足で樽屋に向かった。鍛え抜いたリー=ウェンの足は、いざという場合にはすばらしく速い。
しばらく名を呼びながら戸をたたくと、樽屋の親方ボルドーが出て来た。身長百八十イサンを超えるリー=ウェンよりもなお背が高く、しかもでっぷりと太っているので、戸をくぐるのも一仕事だ。
「先生。こんな時間にどうなさったんで」
この男は初対面のときからリー=ウェンに反感をあらわにしていたが、あるとき素手でたたきのめしたところ、以来ひどく懐くようになった。
リー=ウェンが事情を手短に説明すると、
「そりゃあ、ハルバスのやつも心配なこって。ようがす。お手伝いさせていただきやすぜ」
と、協力を申し出てくれた。
「すまぬな。あと二人ばかり人手を集めてくれぬか。俺はカンテラを買って、ケジャ村に行く小道の前で待っている」
そう言い置いてリー=ウェンは雑貨屋に行き、戸をたたいて主人を起こすと、ろうそくを八本とカンテラを四個、それに水筒を四本買い、水筒には水を詰めてもらった。
それから約束の場所に行くと、樽屋のボルドーが船頭のカラフと膠職人のボークを連れてやって来た。カラフはひどく痩せて色黒で一見年寄りのようにみえるが、実はボルドーより若い。ボークは小柄だが引き締まった体つきをしている。いずれもハルバスの店の常連である。
四人は、カンテラを掲げながらケジャ村への道に足を踏み出した。
夜ではあるが二つの月は満月に近く、視界は悪くない。何か手がかりを探すのなら早いほうがよい。
男たちは、サーシアの名前を呼びながら、四方に目を配りつつ、道を進んでいった。
3
衛視ダルジャンは、岩陰にじっと身を伏せていた。
この状態をもう半日以上保っているのだから、その忍耐力と集中力はなかなかのものである。
一緒に見張りをしている〈先手者〉のモルツなど、がまんしきれず、しょっちゅう道を下った物陰で足を伸ばしたり体を伸ばしたりしている。
ダルジャンはといえば、目線ははずさず、ちびりちびりと水筒の水を飲むばかりだ。
二人が見張っているのは岩場の突端にある祀堂である。突端の向こう側には音を立てて下る滝があり、祀堂は水の神アファエーラを祭ったものである。
二人はじっとこの祀堂を見ている。というより祀堂に続く道を見ている。
今この祀堂には、八十ガスリンという大金が置かれている。それを取りに来る者を二人は待ち構え、森の出口を見張っているのである。
ことの起こりは、パンデル街区の酒屋タルカヌの店の主人ネスクの孫がさらわれたことにある。白昼堂々、付き添い二人が棍棒のような物で殴り倒され、八歳の孫がさらわれたのだ。すぐにネスクは衛視隊に届け出た。タルカヌの店はパンデル街区でも指折りの大店であったから、隣のオルド街区の衛視や〈先手者〉までが動員されたのである。
翌日になって、なんと犯人から手紙が着いた。フィファーレの一の月の三日、つまり今日、パンデル街区の西の森にある滝の前のアファエーラを祭る祀堂の中に、小金貨で八十ガスリンを入れておけというのである。
八十ガスリンを受け取ったら子どもは無事に帰すとあった。また、八十ガスリンを祀堂に置いたらすぐ立ち去ること、待ち伏せをしないこと、と条件を付けており、これを破ったら子どもは殺すとあった。
八十ガスリンは大金だが、ネスクにとっては身代が傾くというほどの金額ではない。金で孫が帰って来るならと、ネスクは八十ガスリンの小金貨を用意した。
そして金貨を祀堂に置いたはいいが、衛視たちが隠れて見張れる場所がない。なにしろ祀堂の周りは岩場が続いていて、遠くからでもよく見渡せるのである。
しかたがないので、かろうじて身を隠せる岩場にダルジャンとモルツが待機し、あとの衛視や〈先手者〉はずっと麓のほうで待つことになった。
見晴らしがよいというのはこちらにとっても同じで、犯人が金貨を取りに現れれば、必ず姿が見える。何しろ八十ガスリンといえば小金貨で八百枚になり、大人一人分の重さがある。犯人は複数で来るか、あるいは馬で来るかだろう。目立たないわけがない。
金貨を手にした犯人を捕まえるのがダルジャンとモルツの役目なのだ。
ただし、この計画に対しタルカヌ屋のネスクから強硬な反対があった。
自分は孫のためなら八十ガスリンは惜しくないと思っている。この犯人はひどく手際がよく大胆だ。そもそも大金貨にすれば数も少なく重さも軽くなったのにそうしなかったのは、大金貨の刻印には一枚一枚目印を付けてあることを知っているからであり、犯人は素人ではない。みすみす主犯が八十ガスリンを取りに来るようなことはしないだろう。金貨を取りに来た者を捕らえて孫が殺されたらどうしてくれるのか。祀堂の見張りはしないでほしい。犯人が約束を破ったら、そのときこそ捜査を進めてほしい、というのである。
街区の事業にも何かと支援をしてくれている商人のことであるから、衛視隊上層部としてもその意見を無視できないし、万一金貨を取りに来た者を捕らえたことで子どもが殺されでもしたら、責任の所在が問題になる。
そこで、衛視隊上層部は、衛視ダルジャンに対し、
「金貨を取りに来た者を捕縛せよ。ただし子どもには絶対危害が及ばないようにせよ」
という、まことに無理な注文を付けて見張り役を命じたのである。
剣の腕がたち、若手の出世頭でねたみも買っているダルジャンが、貧乏くじを引かされた格好である。
さて。
すでに二つの月は中天で交差した。
流れ落ちる滝を背景に、普段人の寄りつかない祀堂がぼうっと浮かび上がっている。
静かだ。
あまりに静かだ。
下のほうの森から何者かが近づく気配はまったくない。
(本当にこのまま待っていていいのだろうか)
(俺たちは、何かとんでもない勘違いをしているのではないか)
衛視ダルジャンの心の中で、疑念が膨れ上がっていく。
ダルジャンは、頭をめぐらせて祀堂を見た。じっとにらみつけていると、滝を背景に黒い祀堂の一部が、きらりと光った。
反対側の光が透けてみえたのだ。
ということは。
ダルジャンははっとして、隠れ場所を走り出た。
祀堂にたどり着くと、両開きの扉を開いた。
そこには、水神アファエーラの小さな石像が鎮座していて、金貨はなかった。
祀堂の後ろ側の壁板はすっかりはずされている。
「やられた」
「だ、旦那っ。
こ、こりゃあ、いってえ」
「後ろだよ。賊は後ろから金貨を持っていったのだ。背板は外れやすいよう細工してあったのだろうな。よく調べれば分かったのだろうがなあ。そういえば、祀堂の中は奇麗に掃除されていたっけ」
「う、後ろって、後ろは崖じゃありませんか」
「そう高い崖じゃない。登るのも降りるのもできるだろうさ」
「いや、そんな。だって下に降りたら滝つぼで、滝つぼはそのまま川につながってるんですぜえ。あっしらが見張ってた川に」
「川のほうを注意して見ていたわけではあるまい。お前も俺も」
「そんなこたあありませんぜ。いくらなんでも川面を泳いでたら見えますって。こんだけ見晴らしがいいんですから」
「潜っていたら、どうだ」
「へっ?」
「ずっと潜ったまま滝つぼまで泳いで来て、滝つぼからはいあがって金貨をせしめ、そのまま滝つぼに降りて、また潜ったまま逃げていけば、見つからないのじゃあないか?」
「い、いや。旦那。この距離を潜ったまま泳いだってんで? しかも帰りは重てえ金貨をおっかついで。そりゃあ」
「水練の達者な者ならできるかもしれんな。というより、帰りは金貨を体に巻き付けて、水の底をあるいたのか。そうか。なんで八十ガスリンなどという半端な金額なのか不思議だったのだが、もしや賊が抱えて水の中を歩ける最大限の金額だったのかもしれぬな」
「う。しかし、音がしやすでしょう。なんたって金貨八十ガスリンなんですぜ」
「滝の音というのは、存外ほかの音を包み込む。それにしてもそんなものをかついで、われらに気取られず崖を下ったのは見事なものだ。さて、これからが大騒動だぞ」
「へい」
「衛視たちを呼び集めねばならん。そして川を下る」
「へいっ。しかし、川に沿って道があるわけじゃあねえから、川を下るといっても、てえへんでやすねえ」
「むろん賊は舟を用意して、舟に乗って下っただろうがな。いかん。夜が明けてきた。急がねば」
4
リー=ウェンたちはサーシアを探したが見つからず、ついにケジャ村に着いてしまった。もう深夜であるが、明かりのついている家がある。
尋ねてみれば、果たしてハルバスの妹の家だった。心配で家族総出で辺りを探し、疲れ果てて帰って来たところらしい。
リー=ウェンたち四人はねぎらわれ、夜食までふるまわれた。
一服したあと、再び四人は捜索に戻った。
「旦那。やっぱり橋のところじゃねえですかねえ」
樽屋のボルドーはそう言うが、低い橋だし落ちて流れてしまうような川でもない。
「いや、旦那。あの川は結構深いですだよ。川にどぼんと落ち込んだら分からねえですだ」
と、船頭のカラフも言う。
とにかく四人は橋の場所に急いだ。
実のところ、リーは、最初獣か人間のしわざを疑った。
だが獣に襲われたのであれば、なにがしかの跡が残りそうなものだ。
もしも人間がサーシアをさらったとすれば、身代金目当てとは考えられない。体が目当てと考えてよい。
その場合、サーシアをさらったうえ、持っていた荷物もきれいに隠してしまうようなことをするだろうか。
正直リー=ウェンは途方に暮れていたのだ。
さて、橋の所に着いて河原に降り、下流の側を見ていると、膠職人のボークが上流のほうを指して言った。
「旦那、あそこに舟がありやすねえ」
本当だ。舟がある。
「カラフ」
「へえ」
「この上流はどこにつながっているのだ」
「この川は滝つぼまでつながっていて、舟で行けるだよ。ほら、アファエーラ様の御堂があるとこだ」
橋の下には、ぎりぎり舟が通れるほどの隙間がある。
ずっと下流のほうから運んできた舟なのだろう。
リーはいったん道に上がってから上流側の川辺に降りた。
残りの三人がついて来ようとしたが、
「いや、お前たちは橋の上で待て。そのかわり、カンテラで上流を照らしてくれ」
と言い置いて、自分のカンテラもボルドーに渡した。
三人が驚いたことに、リー=ウェンは腰の剣を抜いた。
そして暗闇の中に照らし出される川面に沿って、石ころで埋め尽くされた川辺を歩き進んで行った。
もうすぐ舟にたどり着くというところで、突然木の陰の暗がりから飛び出してきた者がある。
その者は短刀を鋭く突き込んできた。
忍んでいる気配から相当の手練れとは思っていたが、その突き込みはリーの予測を超えていた。
それでも体をひねってかわし、斬り上げた初代ヴァンプーサで相手の右腕に斬りつけた。
それは右腕を斬り落とすほどの斬撃だったのだが、敵は驚くべきしなやかさをみせて右手を右に逃がした。
そのため、リー=ウェンが振り上げた長剣は、相手の右の二の腕を浅く斬り裂くにとどまった。
相手はひるみもせず、そのままリーの胸板をめがけて短剣を振り下ろした。それは、この場面で最も正しい反撃だったといえる。
しかしリー=ウェンが振り上げたその剣の先は、空中でくるりと向きを変えると、相手の首筋を斬り裂いた。
リー=ウェンは後ろに飛びすさった。
相手の振り下ろした短剣が空を斬る。
次の瞬間、相手の首筋から血潮が吹き出した。
血を吹き出しながら、相手はじっとリー=ウェンの目をにらみつけている。
月明かりがその顔を照らしている。
年老いてはいるが、骨張った顔だ。
長年、修行に修行を積んだ者だけが持つするどさを、その顔は持っている。
その顔がわずかにゆるんだようにみえた。
そして相手はくずおれた。
5
舟の中には革袋があり、たくさんの小金貨が詰まっていた。大変な金額である。
リー=ウェンは、樽屋のボルドーと膠職人のボークに、この革袋をハルバスの妹の家に持って行かせた。
そしてカンテラの明かりも消し、その場でじっと待った。
やがて草むらの中を何者かが近づいて来る気配がした。
こんな山の中をこんな時間に明かりもともさずやってくるなど、まともな相手ではない。
賊の一味とみてよい。
二人だ。
リー=ウェンは待ち伏せて二人に襲い掛かって気絶させた。
そして船頭のカラフの腰紐を借りて一人を縛り上げ、もう一人を目覚めさせて尋問した。
舟と一緒にいた男の死体を見せると、簡単に白状した。
山の中に彼らの隠れ家があり、そこに男の子と少女が捕らえられているという。
男の子は隣の街区の大金持ちの息子で、少女は昨日の早朝、折り悪くこの場所で舟と一味を見てしまったので、捕らえたのだという。
隠れ家にはもう一人仲間がいて、男の子と少女を見張っているらしい。
リー=ウェンは気絶させた賊を船頭のカラフに見張らせ、自分はもう一人の賊に案内させて隠れ家に赴いた。
案内させた賊は気絶させておいて隠れ家の中をうかがうと、見張りの男が居眠りをしている。
中に飛び込んで男を気絶させた。
男の子はいましめを解いてもすやすや眠っていたが、サーシアは目を覚ましていて、リー=ウェンの胸に飛び込んだ。
男の子を縛っていたロープで賊を縛って転がした。
案内させた賊は、サーシアを縛っていたロープで縛った。
舟の所に戻り、船頭のカラフと合流して、ハルバスの妹の家に向かった。
男の子はリー=ウェンが背負い、舟の所に残しておいた賊はカラフにかつがせた。サーシアは自分で歩いた。
もう夜が明けようとしていた。
6
それから一か月と少し後のことである。
リー=ウェンの家を衛視ダルジャンが訪ねていた。
「いやあ、あのときは本当にびっくりしました。
賊を一人で片付けた豪傑がいると聞き、お会いしてみれば先生なのですから」
ダルジャンは、サマルカでコルパー・バーカリエドの道場に通っていた。老齢の師に代わっておもにリー=ウェンが稽古をつけていたから、先生と呼ぶのは当然なのである。
「先生のおかげで、私の首もつながりました。衛視隊の面目も立ちました。それに何より、罪のない少年がけがもなく救われ、その親も祖父母も安心しました。あらためてお礼申し上げます」
「家からはすでに礼を言われた。お前の分の礼は受け取っておく」
そうなのだ。
男の子は衛視隊によって朝のうちに家に帰されたのだが、なんとその翌日、ネスク老自身がリー=ウェンの家を訪れ、きっかり八十ガスリンの礼金を差し出したのだ。
リー=ウェンは、そのうち十ガスリンを受け取り、残りの七十ガスリンをネスク老に返して、
「これは世のために使われれば、子孫のために徳を積むこととなるのではないか」
と諭した。
この言葉に感じ入ったネスク老は、
「まことにその通りでございます。おっしゃる通りにいたします。先生には今後ともご交誼のほどたまわりとう存じます」
と、深々と頭を下げた。
リー=ウェンは、受け取った十ガスリンのうち二ガスリンずつを、樽屋のボルドー、膠職人のボーク、船頭のカラフ、そしてハルバスに分け与え、残りの二ガスリンを自分の懐に収めた。
ボルドーとボークとカラフは大金を受け取って目を白黒させた。
それはそうだろう。二ガスリンといえば人一人が一年間暮らせる金だ。
ハルバスは、
「大事な娘を助けてもらったんですぜ。こっちが金をもらうなんてできませんや」
と辞退したが、
「怖い思いをさせられた迷惑料だ。お前の妹やその家族も一晩心配したのだから、何かうまい物でも作ってやるといい」
と言って、強いて取らせた。
「あの賊は何者だったのだ」
と、リー=ウェンはダルジャンに訊いた。
捕らえた賊はともかく、リーと斬り合ったあの男は、尋常の剣士ではない。
「それを今日はお伝えしに来たのです。ただしこれは内密に願います」
そう断ってダルジャンは話を始めた。
なんとあの賊の男は、もと王軍の水練師範だったというのだ。
戦乱が治まって久しく、王軍の騎士たちはまともに調練に参加しはしない。
水練師範などといっても、年に一度王の前で型の披露を行うだけの閑職である。
あの男はそれに不満を持ち、たびたび上申書を出して重臣たちを怒らせ、職を解かれて野に降りたのだという。
今回の事件では、水練達者の力をみせつけるという意図があったのではないか、と上のほうではにらんでいるという。
だが、それも妙な話なのである。
王軍での扱いに不満があって水練達者の力をみせつけるというなら、サマルカで事を起こせばよかった。
王のおわすお膝元なのだから、そのほうが衝撃が強い。
それに裕福な商人を狙い、その孫を誘拐して身代金を奪い取るというのも、どうもうまくつながらない話だ。
しかし衛視ダルジャンは、その点にはふれなかった。ということは、ふれてはいけないわけがあるのだろう。リー=ウェンもあえてそれ以上は訊かなかった。
「それにしても、先生がこんな所におられたとは。これからは稽古もつけていただけるし、いろいろ相談にも乗っていただけますね」
「いや。今は引退して隠棲しているのだから、邪魔するな。時々稽古ぐらいはみてやる」
衛視ダルジャンが土産にと料理と酒を持って来てくれたので、二人は杯を傾けた。これはリー=ウェンには、ひどくありがたいことだった。
今、リー=ウェンはある問題で悩んでいるのだ。
その問題というのは、ハルバスの店だ。リー=ウェンが行くとサーシアが飛び出してきて世話をしてくれるのはいいのだが、リー=ウェンの注文した品だけ、異様に盛りが多い。そして用事もないのにリーの座る席の横でもじもじしているのだ。そしてそれをにらむハルバスの視線は冬のウルルギ山より冷たい。
あの店は生活になくてはならない店だから、早くもとに戻ってほしいのだが。
上等の酒を口の中で味わった。スコルラオ州から大河シタガウを通って運ばれてきた澄ましプラン酒だ。
踊るような柔らかさと品のある香気は例えようもない。
こうしたうまいものがいろいろ味わえるのも、この州のよいところだ。
窓の外を見た。
早咲きの赤いソリエスピの花が風にゆれ、ひと足早く夏の訪れを告げていた。
(「誘拐」完)