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第九話:桜、初めての夜

>>薫

 入り口と反対方向、窓際の所に置かれて座面に羊の毛皮が敷かれた応接セットの二人掛けの黒革のソファーの後ろ、窓との間に開いた広いスペースに、豪奢な応接間にはとてもそぐわない、ブロック等の小さな子供向けの知育玩具やリバーシとか人生ゲームといったボードゲームがカーペットの上に散らばっている。極めつけには、トイレットペーパーの芯位の太さの強化プラスチックの赤いバーを黒いプラスチックの固定具で留めて組み立てだけの、1.5m程度の高さのある幼児用のジャングルジムまで置いてある。

 そして今、葵姉ちゃんと輪番で子供達を見守るという名目で、僕はその傍らで座りつつ、ハラハラしながらそのジャングルジム上の方を見つめていた。

 というのも、今まさにジャングルジムの頂上に、勿論両手を離した状態で、

「えっへん!」

と胸を張りつつ翔が仁王立ちをしていたからである。


 事の起こりは祖父母との挨拶を終え、居間に和樹だけ残して桜を抱いて新館の方へ移動し、応接間に入って夕飯が出来るまでの間との取り決めで葵姉ちゃんとバトンタッチしてから暫く経った頃だった。唐突に翔と桜の間でまたもや『どっちが凄い!対決』が勃発した。


 経った39日間という僅差でこの世に生を受けた所為かどうかは定かではないが、まだ母乳しか飲めなかった乳児の頃から、既に二人は悪い意味で好敵手のような関係にあった。

 ハイハイをしたり歩けるようになったりした時期がどれだけ早かったとか、離乳食の訓練期には何をどれだけ食べられるようになったかとか(お陰で二人とも好き嫌いをしない子に育って僕等母親としては非常に助かったが……。)、最近言葉をしゃべるようになってからは、どちらがどれだけ言葉を話せる事が出来るようになったか、どちらの母親がどれだけ自分達にやさしいか等、多岐に渡って張り合っては、自分の方が凄いと自慢合戦を繰り広げていた。


 そして今回は、どちらがジャングルジムで上手く遊ぶ事が出来るのか?という物凄く下らない事で対立していた。

 初め、ジャングルジムに手を掛けてするすると登り、上の方へ上がってから後ろを振り返ってバーの上に腰を下ろし、得意気に下の方を見下ろしている翔を見上げた桜が、自分もそこへ辿り着こうと、ジャングルジムに向かった。

 ところが哀しいかな、我が家の立地上の制約と安全性の疑問視という親の僕等の勝手な判断の所為でこの手の据え置き型の簡易ジャングルジムというもので遊んだ事が無かった桜は、上の方まで行っては見たものの、動く度にグラグラと揺れて傾き、横転しそうになるジャングルジムの挙動に恐怖し、ジャングルジムの中腹でバーにしがみついたまま顔を歪めて泣きそうになってしまった。


 桜を助けに行こうか、と僕が立ち上がろうとした途端、翔が囃し立て始めた。

「オーちゃん、弱虫!」

 そして、桜も止せばいいのに目尻に涙を溜めながら翔をキリっと睨んで反論した。

「弱虫じゃ、ないもん!」

「弱虫!弱虫!」

「違うもん!」

「ショーちゃんもう止めてよ。オーちゃんが可哀想だよ。オーちゃんもほら、ジャングルジムから下りてお姉ちゃんと遊ぼう!」

と、見かねた棗が口論する二人の間に割って入ろうとしてジャングルジムの足元から声を掛けたが、二人は言い合いを止める気などさらさら無いようだった。


 そうこうする内に調子に乗ったのか、翔はジャングルジムの、真ん中だけ一段高くなった所へ更に登ると、両手を離して立ち上がり、先述した通りジャングルジムの一番高い所で仁王立ちになった。

「ほら、見て!凄いだろ!」

 本人はそう豪語して天狗になってジャングルジムをグラグラと揺らしているが、見ている此方は堪ったものではない。桜の顔も恐怖で引き攣っているし、僕も肝を冷やしつつジャングルジムの所へ駆けつけた。

「ショーちゃん、お願いだからそんな危ない事は今すぐ止めなさい!怪我をするわよ!」


 その時、グラっとジャングルジムが翔の後ろ、僕から見て奥の方向へ向かって大きく傾いた。

「うわ――――――っ!!!!」

「キャ――――――!!!!」

 大声で喚いて手足をばたつかせ、ただ只管ジャングルジムにしがみつきながら、僕の眼前でジャングルジムと共に二人の子供達がゆっくりとスローモーションで倒れ込んで行く。

 僕は必死でジャングルジムに飛び付くと、左手でジャングルジムのバーを掴み、右腕を伸ばして翔の左腕を引っ掴むと、グッと体を屈めて重心を後ろに移動させてギリギリの所で最悪な事態を回避した。


 一先ず翔を抱き上げて床の上に下ろし、次に桜を捕まえてジャングルジムから引き離すと、僕は娘をギュッと抱き締めた。怖かったのだろう。桜は僕の腕の中でガクガクと震えつつさめざめと泣いていた。僕はそんな彼女の頭を優しく撫でながら、

「よしよし……。怖かったね、怖かったね……。もう大丈夫だから……ね。」

と囁いてギュッと強く抱き締めた。


 その時、ガタンッともの凄い勢いで応接間の重たい引き戸が開き、肩で息をした誠さんと、その後に続いて涙で顔が真っ赤に腫れた棗ちゃんが応接間の中へ入って来た。

 誠さんは血眼になって部屋の中を見回し、僕等の姿を見つけると、

「翔!桜ちゃん!大丈夫か?!」

と、叫びながら駆け寄って来た。

 そして、エンエンと泣き声を上げつつ床の上に尻餅を着いてへたり込んでいる翔と、僕の胸の中で嗚咽を漏らしている桜の姿を認めると、安堵したのか、誠さんは紐が切れた操り人形の様にその場で座り込んで深く溜息を吐いた。

「よかった……。向こうの部屋でお義父さん達と話していたら、いきなり大泣きしながら棗が飛び込んで来て、ジャングルジムが倒れて翔と桜ちゃんが怪我をした、って聞いて……。本当、寿命が縮むかと思ったよ。」

「倒れかけたのですけれど、あわやという所で何とか二人を抱き寄せて……、幸い二人とも怪我なんかせずに済んで本当に良かったですわ。」

と、僕も改めて人心地が付いた。


 突然、誠さんが徐ろに居住まいを正して翔と正面から向かい合った。目付きを鋭く尖らせてまるで鬼のような形相で彼の息子を睨みつけている。その雰囲気は、蛇に睨まれた蛙の如く萎縮している翔は固より、傍にいた他の子供達だけでなく大人の僕まで怖気づく程強烈な物だった。

「なあ……、翔。」

 地の底から轟くように低く静かに怒りに震えた声で、泣きっ面で助けを請うように此方の方に視線を向けながらガクブルと震えている翔に誠さんは語り掛けた。

「昨日お父さんと約束したばかりだよな?危ないからもう二度と手放しでジャングルジムの一番上に立たないって……。」

「ご……ごめんなさい……。」

「ごめんなさいで済むか!翔……。お前なあ、下手をすれば桜ちゃんにまで大怪我をする所だったんだぞ!」

 そう怒鳴ると、誠さんはゆっくりと右腕を顔の所まで上げ、バシッ!と小気味好い音を立てながら翔の左の頬をビンタした。

 あまりの誠さんの気迫にその場に居た全員が圧倒されて言葉を失う中、みるみるうちに翔の頬が赤く腫れていき、

「うぇ――――――ん!うぇ――――――ん!」

と痛さに耐えられずに阿鼻叫喚する翔の声だけが部屋中に響いていた。


 ふと気付くと、誠さんがまた右手を口元に持って来て、

「はぁ……。」

と暖かい息を吹き掛けるのが見えたので、僕は慌てて誠さんに縋り付いた。

「誠さん、いいです!もういいです!止めましょう!こんな事は!」

「しかし……、とてもじゃないが今回の事は洒落で済みませんよ。今ここできつく言いつけて置かないと……。」

 誠さんは渋る様に僕と桜の様子を見つめていたが、僕は構わず噛みついた。

「もう宜しいじゃありませんか。幸いにも桜も翔君も怪我をせずに済んだのですから……。これ以上手を上げたら虐待にもなりかねませんわ!」


 誠さんは悩むように目を瞑って両腕を組んでいたが、やがて頷いて瞼を上げると、じっと翔の顔を見据えてこう言った。

「わかった。……翔、お前も今回の事でああ云う遊びが危ないという事がよく身に染みただろう。だから、もうああ云う事をするんじゃないぞ。」

 そうして、そのままその場を立ち上がると、

「じゃあ、お父さん、向こうに戻るから、二人とも薫叔母さん云う事をよく聞いて良い子にしているんだぞ。それと、夕御飯になったらちゃんと来る事。わかったな。」

と言い残して応接間から出て行った。


 小一時間後、

「子供達――!御飯だよ――!もうこっちに来なさい!」

と威勢良く叫びながら葵姉ちゃんの声が応接間の中まで聞こえて来た。

 その途端、

「わーい!すき焼きだ――――!」

「すき焼き!すき焼き!」

と叫びながら棗と翔が盆踊りの様に小さな円を描きながら踊り始めた。何故か桜まで、

「すきやき?すきやき?」

と小首を傾げながらその輪に参加していたが……。


 踊り続ける二人に僕はこう尋ねた。

「ねえ、ソーちゃん、ショーちゃん。どうして今夜の晩御飯がすき焼きだって判るの?」

 すると棗は、僕の顔を見上げて満面の笑みを浮かべると、こう言った。

「あのね……。お祖母ちゃんや曾お祖母ちゃんがね。みんなが揃ったら日には夕御飯にすき焼きにしようってね、言っていたの!」

 成程ね……。と、僕は納得した。確かに祖母や伯母がやりそうな事ではある。甘たらしい味付けになってしまうのであまり作る機会が無い所為か、ここ数年すき焼きと云う物を食べていないし、最後に祖母が作るすき焼きを食べたのは10年近く前の事なので、久しぶりだなあ、と童心に返ったように内心わくわくと期待しつつ、呼びに来た葵姉さんと共にそれぞれのオチビ達を抱き上げると、スタスタと走りだした棗を先頭に僕等は離れから母屋の方へ移動した。


 母屋の方、台所の前の廊下を突き当たった所、洗濯機の傍にある洗面所で子供達に嗽と手洗いをさせると、僕達は居間の源氏襖を開けて中を覗き込んだ。

「あれ?!すき焼きじゃない!」

「すき焼き違う――――!」

「違う――――――!」

 部屋の中に入るや否や、べそをかいた子供達の悲痛な叫び声が部屋中に虚しく轟いた。

 机の上をよく見ると、確かにそこには携帯用のガスコンロもカセットボンベもすき焼きが入った黒光りした鉄鍋の姿など影も形もなく、代わりに50cm位の大きさの白木造りの舟形の器に盛り付けられた色とりどりの海鮮刺身の舟盛りが、御飯茶碗や取皿に囲まれながら机の中央に鎮座していた。

 まあ、すき焼きでは無いのは少しだけ残念だったが、これだって今日の為に馴染みの寿司屋とか魚屋に頼んで1万以上掛けて造らせて持って来させたのだろう。豪勢な事には変りない。そう思う僕の足元で、棗と翔はまだぶつぶつ文句を口にしていた。

「あ――――ん!お祖母ちゃん達の嘘つき――!みんなが揃ったらすき焼きだって言っていたのに――――!」

「言っていたのに――――!」

「確かにそう言ったけれど、まだみんなが揃っていないから、すき焼きは明日の晩御飯にね。……それに、このお魚もそこの海で取れたばかりの、新鮮で美味しい魚なんだよ。」

 そう言った祖母の言葉がふと引っ掛かった僕は、机の玄関側の一番襖に近い場所、葵姉ちゃんの右側に腰を下ろしつつ思わず聞き返してしまった。

「あら、お祖母ちゃん。まだ他に誰か来るの?」

 僕の記憶が確かなら、祖父の兄妹やその子供達はこの家に寄る予定等無かった筈だし、ウチの両親と弟は元より、従妹の蘭ちゃんは大学の友人たちと海外旅行へ行ったらしいし、菫ちゃんが帰って来るとも聞いてはいない。今回は今この場に居る者達で全員だろう、僕もそう考えていたから、祖母の言葉を聞いて不思議に思ったのだ。

 祖母の代わりに祖母の右隣りにいた祖父が代わりに答えた。

「菫が明日こっちに来る予定じゃけん。菫達が来たら、全員集合じゃなあ。」

「へー、菫ちゃんもこっちに来るの?久しぶりよね……。この前会った時がこの娘が産まれた時だから1年9ヶ月ぶりになるのかしら。……って、達?」

 祖父のいう意味が理解できず、またしても僕は尋ね返した。

「一緒になりたい男が居るから一緒に連れて帰るんだと。」

「へー、菫ちゃんに彼氏がねえ……。ふ――ん。」


 何処と無く苦虫を潰したような歯切れの悪い祖父の喋り方が少しだけ気になったものの、それ以上に生まれた頃から知っている小さな従妹が、結婚を決めた彼氏を持つまでになった事に、僕は少し年寄り臭い感慨に耽ってしまった。

 だが良く考えてみれば、菫ちゃんは僕の弟の孝と同い年の25歳である。その年頃に既に僕は和樹と、葵姉ちゃんは誠さんと結婚生活を初めて数年を経過していた事を考えると、特にたいした事でもない事に思えてきた。寧ろ後2年もしない内に自分が三十路に突入する事実に気付いてしまった事の方が地味にショックだった。


 そんな事を考えていると、今度は祖父が僕に質問を投げ掛けてきた。

「そう言えば、薫。孝君には……、こういう浮いた話は無いのかねえ?」

「さあ……。わたしもあの子とはもう随分長く連絡も取っていないし、会ってもいないから判りませんわ。お父さんとお母さんからも孝にそういう人がいる、という話を聞かないし……。多分、あの子の性格からして、まだ結婚とかそう云うのは考えてはいないのではないかしら……。」

「そうか……。菫にこんな話が持ち上がったから孝君にもこういう話があったらなあ、と思ったんじゃが……、流石に都合良くそういう訳には行かないかのう。」


 その時、新館の方の上がり框の付近、丁度祖父の部屋の前に置かれた電話台の上にある白い複合式電話機が、着信が来た事を告げる電子ベルをプルルルルル、プルルルルル…と鳴らし続ける音が此方まで響いて来た。

 祖父は立ち上がると、電話に出る為に居間から出て行った。やがて、電話の着信音が途絶え、祖父の話し声だけが向こうから淡々と聞こえてくるだけになった。

「はい、もしもし綾小路です。……おや?菫ちゃん。………………うん。……うん。…………………………そうか、そうか。…………うん、わかった。気を付けて帰って来るんだよ……。」

 どうやら電話の相手は菫ちゃんのようだな。そんな推測をしながら、膝の上にそっと座らせた桜に食べさせながら刺身を箸で突いていると、葵姉ちゃんの左隣にいる和樹の真向かいに座った伯父が、硝子が曇った一升瓶を手で翳しつつ、葵姉ちゃんを飛ばして僕に話し掛けてきた。

「薫ちゃん、お父さんもお酒が好きな人だから、多分いけるでしょう?どう?一杯。」

「はあ……。」

 僕自身は他の女性陣とは違って一応飲める口ではあるものの、殆ど酒を嗜まない上に、桜という小さな子供が居る手前、出来れば遠慮したかった。しかしながら久々に互いに顔を見合わせて盛り上がっているのに、伯父達の酌を断る事で場の雰囲気を白けさせるというのも気が引けた。

「じゃあ、それなら1杯だけ……。」

 僕は箸を置いて机の上空へ両腕を伸ばして伯父の方へ手を差し出すと、彼から水のように透明な清酒がなみなみと注がれた硝子のコップを恭しく受け取った。

 特級品の美味い酒だと誠さんが言っていたのを思い出し、どんな物だろうか、と思いながら僕はそれに一口だけ口を付けた。その瞬間口腔内にピリピリとした辛味ともジワッとくる渋い苦味とも、何とも言えない酒独特の味と香りが充満していくのを感じて、不覚にも僕はグラスを机の上に置いて源氏襖の方へ顔を背けると、他の人に判らないように少しだけしかめ面をした。

 確かに良い酒だ。酒米特有の風味をしっかりと閉じ込めた辛味が芳ばしい上等な清酒である。酒好きには堪らない一品に違いない。

 そうだけれども、やはり自分には合わないように僕には感じた。大学に通っていた時、何かのイベントの健康診断で受けたアルコールパッチテストの結果によると、体質的には『飲み過ぎによるアルコール依存症や他の生活習慣病を発症する可能性が高い』と指摘される位アルコール分解酵素の活性が高いALDH2活性型であると診断されたが、飲める口だと生物学的にお墨付きを貰っても、どうしても清酒やワインのような発酵酒の味を好きになれない。ただ、ウイスキーやブランデーのようなより芳香の強い軽めの蒸留酒ならストレートで相当量を一気飲みする事が出来るから、やはりあの色々と中途半端な所が嫌いなのだと思う。

 電話を終えて戻ってきた祖父も交えて盛んに交わされる身内同士の喧騒に耳を澄ましつつ明後日の方を向いてこんな事を考えていると、視界の端で小さな手がふっと酒の入ったコップへ伸びて行くのを捕えたので、僕は急に現実に引き戻された。

 手元を見ると、何と桜が興味津々に見つめながらグラスを両手で抱えているではないか!

「あっ!桜!何しているの?!止めなさい!」

 慌てて桜の手からお酒を引き剥がそうと手を伸ばしたが、僅差で桜が文字通りコップに口を付ける方が早かった。

「はむっ!…………?……あれっ、苦い?!苦いよ――――。ママ、ママ――――!え――――――ん、え――――――ん!」

「だから止めなさい、って言ったでしょう……。ほうら、よしよし……。」

 涙目になって胸に抱き着いて来た我が子の背中を摩って落ち着かせていると、祖父が中腰で立ち上がり、慌てたような調子で僕に声を掛けた。

「おやおや、桜ちゃん。急に泣き出してどうしたね?」

「ちょっと目を離した隙にわたしのお酒を飲んでしまって……。」

「あらそりゃあ薫。お前さんが悪いがね。母親なら子供から目を離さんようにせんといかんが……。それで、どの位飲んでしまったかね?」

「ほんのちょびっとだけ……。軽く舌に触れた程度だから大丈夫だとは思うのだけれど……。」

「お前さんに取ってほんのちょっとでも、こんな2つに満たない娘がアルコールを摂ったというだけで大事じゃけんね……。母さん、ちょっと水を桜ちゃんに持って来てくれんかね?」


 僕はいくら小さな子供とは云え、この程度の量なら然程問題にする必要もないだろうと考えたのだが、祖父は祖母に頼んでコップ1個と2L入りのミネラルウォーターのペットボトルを持って来させると、体内のアルコール濃度を少しでも薄める為に何杯も桜の口に含ませた。

 その様子を何も出来ずに手を拱きながら、ここ最近やっと一人の子供の母親として板に付いてきたと思い始めていただけに、まだまだ至らない事が多々あった事を思い知らされて僕は少なからずショックを受けた。

 まだまだ勉強しなければいけないな。しみじみそう思った。


 食事を終え、祖母と伯母を手伝う形で葵姉ちゃんと二人で運ばれて来る食器を洗って片付けている時、葵姉ちゃんが僕にこう言った。

「オーちゃん、落ち着いた?」

「ええ、もう大丈夫だと思うわ。ごめんね、お姉ちゃん。何か場を白けさせてしまって……。」

「気にしなくていいわよ。それよりわたしの方こそごめんね。お父さんがクーちゃんにお酒を勧めちゃって……。後で注意しておくから……。」

 思いの外、お姉ちゃんの表情が思いつめているように苦しいそうな物に感じたので、僕は慌てて首を振った。

「そんな事ないわ、お姉ちゃん!わたしだって桜がこう云う事をするかもしれないって思いもせずにお酌を受けたのだもの……。お姉ちゃんが気に病む必要は全然ないわ!」


 その時、突然左手にある廊下の出入口から、

「お母さん!」

と呼ぶ小さな女の子の声が聞こえて来たので、僕とお姉ちゃんは揃って洗い物の手を止めて声がした方へ振り返った。

 そこには、子供用の小さな皿とお茶碗とピンク色のプラスチックのキャラクター物の箸を重ねて両手で抱えた棗ちゃんが、台所の床より30cm程高い所にある廊下に立ち、僕等の方を急かすような瞳をして見つめていた。

「お母さん、お皿!」

「はいはい、ちょっと待ってね!」

 そう言ってエプロンの裾で手を拭いつつ、僕の背後を通り抜けながら出入口まで行って、彼女の娘の手から食器を受け取ると、葵姉ちゃんはシンクの傍、丁度僕の後ろの方にあるダイニングテーブルの上に、他の食器類と共に棗ちゃんが使っていた物を置いた。

 その様子を見て感嘆したあまり、僕は葵姉ちゃんに声を掛けた。

「あら、棗ちゃん偉いわね。ちゃんと自分の使ったお皿を片付けに持って来るなんて。」

「そうかしら?別にそんな事はないと思うけれど……。」

 そう口にしつつも、葵姉ちゃんは何処か誇らしげに見えた。

「そうかもしれないけれど、やっぱり自分に出来る事は自分から進んで手伝おうとする事が出来るのは立派だと思うわ。」

と、将来桜もああいう良い子に育ってくれたらいいなあ、と願いながら僕も相槌を打った。


 片付けを終え、最初の祖父から順番に親族が入れ替り立ち替りする中、僕も桜と一緒に離れにある風呂に入った。

 自分の身体や髪も洗いつつ桜のそれも綺麗に洗い流してやり、桜を膝元に引き寄せて湯船にどっかりと浸かる。

 ふと、目の前を見上げると、液晶パネルが付いた風呂のコントローラーの上に設けられた棚の上に、スポンジやブラシと並んで、小型ボートの形をした黄色い水温計や水色の幼児用の拳銃型の水鉄砲が置いてあるのに目が付いた。


 小さい頃にそれで遊んだ憶えもある、懐かしい水遊び用の玩具だったが、何処か違和感を覚えた。妙に綺麗なのだ。少なくとも僕の記憶の範疇では、10年以上前の時点で何方も黴や錆や埃に塗れて灰色に変色し、この棚の上で放置されていた筈である。誰かが掃除をしたのだろうか?今や両方共、まるで新品同様であるかのように光を反射してピカピカに煌めいていた。

 ふと目線を下げると、胸に抱いた桜も同じ様に棚の上を魅入られるようにじっと見つめていた。

 そして、急に僕の方へ振り向くと開口一番こうせがんだ。

「ねえ、ママ。あのお船、取って!取って!」

「はいはい。」

 僕は左の腕で押さえ付けるように桜を抱いて立ち上がると、棚に右手を伸ばして温度計を彼女に手渡し、再び腰を落ち着けた。

 桜は黄色の船を受け取ると、

「出発しま――す。ブ――――――ン……。」

と口遊みながら、バシャバシャと水飛沫を上げて船を航行させ始めた。


 暫くそうして遊ばせた後、湯だってきたのと後の人が待っているだろうと思ったのとで、僕は娘の両脇に手を掛けるとすくっと持ち上げた。

 すると、桜はブンブンッと頭を横に振ってささやかな抵抗をした。

「やーよ!やーよ!まだ遊ぶ――――!」

「我侭を言わないの。パパや誠伯父さんとか、まだ入らずにお風呂を待っている人もいるし、明日もここのお風呂に入ってお船で遊べるのだから、今日は我慢しなさい。ほら、上がるわよ。」

「む――――――!」

 不満そうに口を尖らせる桜から水温計を取り上げて元の位置に戻すと、湯船の蓋を閉め、彼女の手を引くように僕は風呂場から脱衣所の方へ出て行った。


 新館の方のダイニングキッチンのすぐ隣にある、トイレの角の所にある6畳間に、寝間着に着替えた僕と桜は、同じ様に寝る準備をしていた祖父母、伯母、葵姉ちゃんとその二人の子供達と共に、テレビとエアコンが点いた部屋で、部屋の真中に鎮座した遠赤外線ランプが掛布団の中で赤く輝く電気炬燵に包まれていた。

 障子と炬燵の間の空間に、膝の上に頭を乗せる様に桜を仰向きに寝かせ、手に持った可愛らしいピンク色の小さな歯ブラシの穂先を彼女の口元へ近付けた。

「はい、桜。あーん!」

「あ――――ん!」

 これでもかと大きく口を開けた桜の口内に歯ブラシのヘッドを突っ込み、歯肉を傷つけない様に注意しつつ、細かく擦るようにシャカシャカと娘の歯を磨いていく。何気なく顔を上げて向こう側、硝子障子とその傍にある掛軸が掛かった床の間の近くに目を向けると、葵姉ちゃんも棗を膝枕しながら歯磨きをさせているのが見えた。


 一足先に歯磨きを終えると、僕は桜を連れて部屋を出て隣の台所にある洗面所の方へ向かった。

「はい、桜。ブクブクして。」

 桜が口の中を漱いで水を吐き出すと、傍にあった洗顔用のタオルで軽く口元を拭ってやり、トイレに行かせて用を足させ、また洗面所で手を洗わせる。そして、また炬燵の部屋に戻る前に、

「ねえ、ママ。寝る前に、絵本、読んで!読んで!」

と、娘に強請られるまま、トイレの傍の廊下の角の近く、応接間の反対側に置いてある本棚の中から適当に絵本を1冊選んで部屋の中に戻った。


 絵本を読み始めた頃は辛うじて目が覚めていたみたいだが、生まれて初めて電車や新幹線、特急電車に乗って長距離を移動したり、田舎の家に来て目一杯遊んだりして流石に疲れが溜まって来ていたのだろう。読み進める度にだんだんと瞼が閉じるタイミングが狭まって行き、読み聞かせを終える頃には、

「すぴ――――。」

と寝息を立て、コテッと倒れ込むと僕の乳房に頭を擦り付ける様に船を漕ぎ始めた。

「あら、桜ちゃん。もう眠ってしまったかね?」

「ええ、だから上の部屋へ桜を寝かし付けてくるわ。」


 その祖母と僕の遣り取りが契機になったのだろうか、それとも葵姉ちゃんも、

「はい、今日のお話はここまで。ほら、もう夜も遅いからあなた達も寝なさい。」

「え――――!」

「まだ眠くない――――!」

「寝なさい!」

と、子供達を床に就くように促し始めたからだろうか、

「じゃあ、もうそろそろ寝ましょうか……。」

その場にいた全員がそれぞれの寝間に向かう為に腰を上げ、テレビとエアコンと炬燵の電源を切り、部屋の蛍光灯の紐を引っ張って真っ暗闇にすると、三三五五に散じて行った。


 離れの玄関付近で母屋の方へ引き上げて行く祖父母と伯母と別れた後、桜をお姫様抱っこするように抱き抱えた僕は葵姉ちゃん達と共に回れ右をすると、廊下の右側、祖父の部屋の前から真っ直ぐ上方へ伸びている真っ暗な階段を離れの2階に向かって上り始めた。

 2階へ上がるとそのまま階段から続く廊下が5m程行った所で行き止まりになっており、その両側にそれぞれ2枚組の紙障子で仕切られた8畳間と6畳間の和室があり、事前の取り決めでは、広い方の左側の部屋を葵姉ちゃんの一家が、もう片方の6畳間を僕の家族が使う事になっていた。

「それじゃあ、クーちゃんもオーちゃんもお休みなさい。」

「お姉ちゃんも、ソーちゃんとショーちゃんもお休みなさい。また明日。」

「おやすみなさ――――い!」

 夜中なのに未だに元気な声を上げる二人の子供の背中に手を当てながら障子の向こうへ去って行った葵姉ちゃんの背中を見送ると、僕も障子を開けて6畳間の中に入った。


 電気を点けて部屋を明るく照らすと、部屋の真ん中に風呂に入る前に用意した、薄水色のカバーが付いた枕と青い掛布団がある布団と、それと対になるように薄桃色のカバーの枕と赤い掛布団の布団という、まるで夫婦のように横に並んだ2組の布団が、障子に平行になるように敷かれているのが見える。僕は手前の方にある赤い方の布団の傍にしゃがみ込むと、掛け布団を捲って桜を仰向けになるように寝かした。

 そして、電灯を消してから自分もその布団に潜り込み、部屋に入ってくる何かから桜を守るように部屋の入り口から背を向け、南側に頭を向けて横になった。

 暗闇の中、幽かではあるが万歳をするように枕に向かって両腕を伸ばし、口元に薄っすらと涎を光らせている、桜の無防備な寝顔が僕の視界いっぱいに入ってくる。

 僕は自分のパジャマの裾で娘の口元に付着した唾液を拭い、彼女の頭を優しくそっと撫でると、

「おやすみ、桜。」

と我が子に向かって呟きながら目を閉じた。

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