第八話:桜の初体験!~鉄道と田舎編
>>薫
2042年12月29日朝。
僕は朝食の後片付けを手早く済まし、夫を急かして自分もよそ行きの服に着替えて出掛ける準備をしながら、桜にも新しく買ってきたばかりの洋服を着せる。
「はい、桜。万歳して!」
「うん!バンザーイ!」
娘の両手を持って天井にリビングの向かって高く上げさせる。そこに小さな女児用の黄色い長袖のワンピースを上から被せるように着せ、片腕ずつ袖を通させ、さらに上から濃い桃色の小さなダッフルコートを羽織らせた。
「桜、おしっこは大丈夫?あと出掛ける用意は出来ている?持って行く物ちゃんと用意した?」
「うん、大丈夫!」
そう言うと、お気に入りの毛糸の白い帽子を被って桜は僕の周りをちょこまかと歩き出した。
僕はリビングの真中に置いた自分の銀色のスーツケースとエルメスのハンドバッグの所に行き、スーツケースに自分と桜の着替えや桜のおむつパンツやおもちゃ等が、バッグに自分の化粧品等の小物類や財布といった貴重品がきちんと入っているかどうか確かめた。すると、クリスマスプレゼントとして桜に上げたテディベアの縫いぐるみが荷物の中に入っていない事に気が付いた。
「あら、桜。アーちゃんはどうしたの?」
「ママ――。アーちゃんなら、ここいるよ。」
僕の問いかけに答えるように、桜はソファーの所へ駆け寄ると、ソファーの上から薄茶色の大きめのテディベアの縫いぐるみを引っ張り出し、縫いぐるみを後ろから抱き着くように胸に抱き寄せた。
「そう、でもアーちゃんもトランクに入れてママが持って行って上げるけれど……、どうする?」
桜が一人で縫いぐるみを持って行くのは大変だろう。そう思って提案したのだが、桜はブンブンと首を横に振り、まるでテディベアを庇うように半歩後退った。
「アーちゃんだけ、一人ぼっちなんて、可哀想。」
「そう、わかったわ。それじゃあ、落とさない様にしっかりとアーちゃんを抱っこしておいてあげるのよ。」
「うん!」
恐らく、縫いぐるみをスーツケースに突っ込まれるのが嫌なのだろう。そう解釈した僕は桜に道中気を付けるように言い含めた。
その時、薄い空色のワイシャツにベージュのチノパンを穿き、茶色の革のベルトを締めてキャメル色のバーバリのジャケットを羽織った和樹が彼の黒いスーツケースを押しながら書斎から現れた。
「あなた、荷物の忘れ物はない?一応必要な物はトランクの中に積めておいたけれど……。」
と、夫に声を掛けると、
「大丈夫だ。問題ない。」
と、和樹は答えた。そして、
「薫。お前こそ、列車の切符と飛行機のチケット、ちゃんと持っているか?」
と、彼は逆に訊き返した。
僕は自分のハンドバッグの中を漁って、切符や特急乗車券を仕舞った財布や航空機の予約チケットが3人分ある事を今一度確かめた。
「大丈夫。ちゃんとありますわ。」
「そうか。それじゃ時間も差し迫って来たし、そろそろ出掛けるか。」
「ええ……。ねえ、あなた。」
「何だ?」
「先に桜を連れて下に降りて待っていて下さいません?わたし、家の戸締りとかを確認してから最後に家を出ますから。」
「そうか。じゃあ、俺は先に出ているから。……おい、桜、行くぞ!」
そう和樹が呼び掛けると、縫いぐるみを抱っこしてこちらに背を向けていた桜が振り返った。
「ママ――、パパ――。行くの――?」
「ああ、出掛けるぞ。用意はいいな?」
「うん!!」
元気の良い声を上げると、桜は右腕に熊のアーちゃんを抱き、左手を和樹に引かれながら廊下を玄関の方へ歩き出した。が、すぐにまだリビングに居た僕の方へ振り向き、
「ねえ、パパ――……。ママは――――?」
と尋ねてきたので、
「ママはお家の戸締りを確かめてから出るから、先にパパと一緒に外に出て待っていて頂戴。」
と返事をすると、
「うん……。わかった……。」
と、何処か不満気な物を滲ませながらも、桜は素直に頷くと夫と共に玄関から外へ出て行った。
各部屋の窓が閉てられて施錠してある事を確認してからカーテンを閉め、各部屋の電気を消していき、最後にガス給湯器の元栓を閉じて水道の栓を確認してから僕はコートを羽織り、ハンドバッグを肩に掛けてスーツケースを持ち上げると玄関へ向かった。
玄関から協同廊下に出て来ると、目の前で和樹と桜が並んで待っていた。
「あら……。こんな所で待って居なくても、下のロビーで待っていてくれて良かったのに。」
玄関の扉を閉じて施錠し、ロックがきちんとされているかを確認しつつ僕は2人に声を掛けた。
すると、和樹がやれやれとでも言うように肩を竦めながら、
「桜がママと一緒に行く!と言って動こうとしなくてさ。」
と答えて彼の足元に顔を向けた。
釣られて僕もその方向へ視線を落とすと、縫いぐるみを両手に抱いてうんこ座りでしゃがみ込み、プクーっと愛くるしく頬を膨らませて顰め面をし、
「ママ!遅い――!」
と不満を口にしつつ僕の顔を見上げる桜の姿がそこにあった。
「ごめんね。待たせてしまって。さあ、行きましょうか……。」
そう言って歩き出そうとした途端、桜が僕のスカートの裾をむんずと掴んだ。
「ママ!抱っこ!抱っこ――!」
「はいはい。ちょっと待っていてね。」
「早く!早く!抱っこ!抱っこ!」
僕はスーツケースを置いてその場にしゃがみ込むと、縫いぐるみごと桜を右腕で抱き上げて立ち上がり、左手でスーツケースの把手を手に取ろうとした。その刹那、和樹の腕が伸びてきて僅差で僕のスーツケースの把手を掴んだ。
咄嗟の事に驚いて彼の方を見つめると、
「トランク持ちながら桜を抱くのは流石に無茶だろ。」
と言って、彼はスタスタとエレベーターホールに向かって片手に1つずつ、計2つのスーツケースを引きながら歩き出し、僕は桜を抱きながらその後に続いた。
エレベーターを降りてエントランスホールへ出ると、やや白っぽい濃灰色のスウェットとパーカーとパンツを着て黒色の野球帽を被り、首にタオルを巻いたランニングの帰りと思しき田宮さんの御主人と擦れ違った。
田宮さんが此方に向かって、
「あ!お早う御座います。」
と声を掛けてきたので、
「お早う御座います。」
と、僕と和樹は声を揃えて挨拶を返した。
「珍しいですね。ご家族揃って御旅行ですか?」
「旅行というか……、わたしの方の親戚の所に年末年始を過ごしに行くんです。」
僕が田山さんに向かってそう答えると、胸に抱いた桜が大人同士の会話に口を挟んできた。
「あのね!あのね!桜ね!初めてね、曾お祖父ちゃん、曾お祖母ちゃんの家に、行くんだよ。」
そんな桜の様子を見て、
「あっはっはっ……。」
と快活に笑うと、田山さんはそっと彼女の頭に手を載せて優しく撫でつつこう言った。
「そうか、そうか!それは良かったねえ……。楽しんでくるんだよ。」
「うん!」
僕は桜を抱き直すと、改めて田山さんに話し掛けた。
「それでは、わたし達はこれで……。」
「じゃあ、私もこれで……、道中恙無い事をお祈りします。良いお年を。」
「田山さんこそ良いお年を。奥様達にも宜しくお伝え下さい。……それでは。」
「行ってらっしゃい。」
「行ってきます!」
田山さんの御主人に見送られ、別れ際に元気よく挨拶した桜を連れながら、僕達はマンションを後にした。
マンションの正面口を出ると、左側に普段桜を遊ばせているマンションの敷地内の児童公園が、直ぐ右に伸びる道を進めば駐輪場と駐車場棟の通用口がある。真っ直ぐ行くとすぐそこにマンションの敷地に沿って正面と右側方向にL字型に伸びる住宅地の路地が見えている。
マンションの敷地からアスファルトの舗装路に出ると、僕等はマンションの塀に沿って道路を右側に進み、更に直ぐに突き当たる十字路をそのまま敷地に沿って右折して表通りに出た。するとそこに、たまたま此方に向かって東京無線のクラウンコンフォートのタクシーが走って来るのが見えたので、和樹はスーツケースから手を離して右手を上げ、そのタクシーを止めた。
タクシーの左後席の扉が独りでに開き、運転席から後部座席へ半身を乗り出しながら黒いスーツ姿の年配の男性運転手が僕等に向かってこう呼び掛けた。
「御利用有難うございます。荷物の方どうしましょうか?」
「トランクの方にお願いします。」
和樹がそう応答すると、
「畏まりました。」
と言って、運転手はシートベルトを外して降車すると、車の後部に回り込み、プロパンガスのボンベが奥に収まったトランクを開いた。
僕と和樹は奥に収められた灰色のタンクにぶつけないように気を付けながら、2台のスーツケースを車のラゲッジルームに収納した。そして運転手がトランクリッドを閉めると、僕等は後席右側に和樹、左側に僕と桜という順番でタクシーの中に乗り込んだ。
「どちらまで?」
「JRの吉祥寺駅まで。」
和樹が行き先を告げると、タクシーは静かに走りだした。
対して時間も掛からずに着ける程度の移動の筈だが、普段僕が運転する車以外の車に乗る事が滅多にない上に、普段は買い物に行く時に助手席に乗せて移動する事が多いので、こうして僕の膝の上であやされながら車に乗ったり、車内の至る所にベタベタと広告やステッカーが貼られていたりする光景が珍しいのか、瞳をクリクリさせながらキャビン中に興味深げに視線を走らせていた。
タクシーが駅前に到着して和樹が会計をし、スーツケースを地面に下ろすと、僕等は電車にのる為に改札に向かって歩き出した。
桜を一旦地面の上に立たせてバッグから財布を取り出し、『吉祥寺→松江』と書かれた切符を3枚出し、内大人用の1枚を和樹に渡し、残りの子供用と大人用の切符を手に取ると、最初に黒いスーツケースを持った和樹を自動改札の向こう側に通してから、自分も銀色のスーツケース持って桜を抱き、改札口の端に設けられている駅員が常駐している有人改札の方に向かい、そこに詰めていた壮年で中肉中背の駅員に声を掛けた。
「すみません。」
「は?はい……、何でしょう。」
「すみません。この乗車券……この娘の分なのですけれど……。この娘、まだ一人で改札を潜って切符を取り出す、という事が出来ないので、この娘の分の切符だけ此方で通して頂けないでしょうか?」
「はあ、別に構いませんが……。お嬢さん位のお子様なら、態々切符を買わなくても、保護者との同伴という形で、無料でお乗せする事が出来ますよ?」
駅員は怪訝そうに僕の顔を窺っていた。
「いえ、その……。おむつを替える時とか、一人分余分に席を取っておいた方が都合が良い事が多いので……。」
「ああ、そういう事ですか!」
駅員は納得したようにそう言うと、
「ならついでにお客様の分も一緒にお通ししましょう。乗車券を見せてください。」
と、僕と桜の分の切符を一緒に改札して向こう側に通してくれた。
エスカレーターで高架の上に設けられたホームに上がると、さすがに年末年始で殆どの企業や役所が仕事納めを終えた所為か、ホームの上にはあまり通勤や通学の途中と見られる人は疎らで少なかった。が、その代り帰省や旅行へ行く途上と思われる、カジュアルな格好をしてスーツケース等を持った行楽客の団体やウチみたいな家族連れがホームの上を賑わしていた。
「わあ!凄い!人がいっぱい!」
広い島式ホームを埋め尽くす程の人波を初めて目の当たりにした桜は、そう言って目を丸くしながら興奮してはしゃいでいた。
やがて、ホーム全体に電車がやって来る事を知らせる電子チャイムが鳴り響いた。
『皆様、間もなく上り方向の電車が到着いたします。危険ですから黄色い線の内側で……。』
僕は咄嗟に胸に抱いている桜に話し掛けた。
「桜、見ていてご覧。電車が来るよ!」
「え?本当!電車!電車!」
僕の血を色濃く引いたのか、桜は女の子の癖に乗り物が大好きな一風変わった子供だった。車こそ、僕の助手席に座る機会が多いので乗り慣れていたが、電車に関して言えば、夫を見送る時に道路から高架の上を行き来する電車を見上げるか、テレビ等で観賞する位のものだったので、実際に電車を見て乗車するのは、彼女にとって初めての体験だった。
接近メロディーがホームに響き渡ると、ビ――――……ファアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン……とクラクションとVVVFインバータの音を響かせながらガタンゴトンと銀色の車体に緑とオレンジが重なった帯が真っ直ぐに水平に引かれた10両編成の東京行きの快速電車が勢い良く入線してきた。
「ほ―――――う!わあ!ママ!電車、電車!あれ、乗るの?」
「そうだよ。あれに乗るのよ。」
「わあい!電車!電車!」
「こら!気持ちはわかるけれど、あまり騒ぐと他のお客さんの迷惑になるから静かにしなさい。」
「シュン……。」
急に大人しくなった桜の背中をポンポンと優しく叩くと、僕はスーツケースを持ち直して和樹と共に人波に続いて列車の中に乗り込んだ。
電車の中はそれなりに混んでいたものの、僕らは運よく入って来たドアの近くに立つことが出来、さらにその付近、進行方向右側の前から3番目の扉の前方のシートのこちら側の端に空いているスペースを見つけたので、僕はそこに桜をちょこんと座らせ、彼女が履いていた薄ピンク色のスニーカーを脱がすと、それを片手に持った。
僕が靴を脱がすのを待っていたのか、早速桜は座席に膝をついて窓の方へ体を向け、縫いぐるみを抱いて窓枠に手を掛けながら、縫いぐるみと一緒に左から右へ流れて行く車窓の景色を一心に眺め始めた。
普段から見慣れている日常の景色を、娘が夢中になって見ている様が不思議なのか、
「何が面白いんだろうな……?」
と、隣に立っていた和樹が不思議そうにポツリと呟いた。
「仕方が無いですわ。わたし達にとっては見慣れた風景でも、この娘にとっては生まれて初めて見る物なのだもの……。」
そう言って愛おしく見下ろしつつ、僕は気付かれないように桜の頭の上にそっと手を置いて優しく撫でた。
山手線の内回りに入り、間もなく東京駅に着くとう云う車掌の車内アナウンスが聞こえ、電車が徐々に速度を落とし始めたので、
「さあ桜、そろそろ降りるから準備しなさい。」
と言って、僕は娘を促した。
「え――――!もう?」
不満なのか、桜は口を尖らせて膨れっ面をした。
「そんな顔をしないの。すぐに新幹線に乗るから。ほら、お靴を履きましょうね。」
僕は娘を宥めながら彼女の両足に靴を履かせると、
「よいしょ!」
と、縫いぐるみと一緒に彼女を胸に抱き上げた。
在来線から新幹線に乗り換え、ABCと3席並んだ指定席に僕達は腰掛けて一路西の方へ向かって移動していた。
一番通路側に和樹、真ん中に僕、そして窓際に桜という配置で座っていた。1両だけしかないファミリー専用の車両の為か、全ての座席が小さな子供を連れた家族連れである為、子供の鳴き声や騒ぐ声、親の怒鳴り声など喧しくて仕方がないが、此方も2歳にもならない娘を連れているので、ある意味ではお互い様だと、御機嫌斜めになっている和樹を諭しながら僕等は我慢していた。はっきり言って、普通車に乗って肩身の狭い思いをするよりは自分達がある程度迷惑を被っている方が何倍にもマシに思えたのだ。
途中、東京駅で新幹線に乗り換える途上の売店で購入した駅弁を食べていると、車内メロディーが聞こえてきた。
『まもなく、京都、京都です。JR東海道線、山陰本線、奈良線、近鉄京都線、京都市営地下鉄烏丸線へはこちらでお乗換え下さい。本日も新幹線を御利用頂きまして誠に有難う御座いました。まもなく、京都です。』
そんな車内アナウンスを聞きながら、桜が僕に尋ねてきた。
「ねえ、ママ。京都って、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、住んでいる所?」
「そう、桜のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが住んでいる所よ。」
そして、僕自身の故郷でもある。
「今日は、行かないんだよね?」
「ええ。今日は素通り。」
「行ってみたいな。」
窓枠に手を掛け、右から左へ流れて行く古都の景色を眺めながら桜はそんな無邪気な声を出している。そんな娘を愛おしく見つめつつ、
「そうね。いつか行ければいいわね。」
と、僕は独り言の如く呟いた。
京都を出て新大阪を越え、兵庫県に突入すると、一気に山の方へ向かっていくので車窓の中に灰色の建物の陰よりも緑の割合がグッと多くなって来る。そしてその内、窓ガラスに自分の顔が克明に映る程視界一面が真っ暗闇になる長いトンネルが続く区間に入る。
「ママ――!お耳、キ――――ンってする――――!気持ち悪いよ――。え――――ん、え――――ん。」
トンネルに高速で進入した時に起こる、内耳の空気圧と外からの空気圧の差によって生じるあの耳鳴りを初めて経験した所為か、桜は僕にしがみついてわんわんと泣き始めた。
「大丈夫よ、桜。トンネルを抜ければ自然に収まるから。これでも舐めていなさい。」
と、桜をあやしながらハンドバッグの中を弄って鼈甲飴を1つ取り出すと、僕は娘の口にそれを放り込んだ。
「ほむほむ……。美味しい!」
泣き顔から急に満足気な笑顔に変わった小さな気まぐれ屋さんを、やはり可愛らしいな、と思いながら僕はそっと彼女を抱き寄せた。
減速をしながらトンネルから出ると、もうそこは新神戸駅のホームである。よく見ると山の中に位置するだけあって、遠くの方に神戸市内と瀬戸内海の景色を一望する事が出来る。
そんな長閑な駅舎の風景をポケ――っと見入っていた桜がポツリと呟いた。
「何か変。この駅。」
確かに言われてみれば妙な駅である。トンネルに挟まれた山間にある新幹線の駅という事もあるが、他の駅と違ってホームが頑丈な鉄柵によって完全に二分され、電車が入線した時だけ柵の何箇所かに設けられた引き戸が一斉に開き、まるで放牧場にやって来た家畜の如く人がホームの上を移動する様は異様であるとしか言いようがない。
そんな事を考えていると、列車はまた静かに動き出し、暗いトンネルの中へ再び入って行った。
岡山駅に着くと、次の列車の乗り換えまで10分程しか無いので、僕等は急いで階段を下りると、新幹線と在来線とのホームを出てすぐ右側へ入った所にある伯備線のホームへ降りて行った。
そしてホームに停車していた特急やくもに乗車すると、指定席としてとっていた3席がある、進行方向右側にある2つの2列座席のウチの前の方にあるシートを回転させて向かい合わせると、僕等はやっと腰を落ち着かせた。
予想通り然程人が乗り込まないまま、列車はゆっくりと走り出し、徐々に速度を上げ始めた。
山陽本線を快走する倉敷まではもとより、伯備線に入っても備中高梁までは桜もウキウキで特急電車による鉄道の旅を満喫していたが、山越え区間に入って振り子式電車がその本領を発揮し始めた辺りから、徐々にどんよりと元気を失っていった。
確かに最近は381系統の改造工事も進んで電子制御機構付きの自然振子が一般化したとはいえ、過剰に振り戻るお釣りが完全に解消された訳ではない。自分達大人のように慣れている人間なら兎も角、感性が多感で敏感な、それも生まれて初めて振り子式電車に乗った小さな子供なら気持ち悪くもなるだろう。実際僕も車酔いはほとんどしない性質なのに、小学生の頃まではこの列車に乗る度に気分が優れなくなったものである。
「ママ――!気持ち悪いよ――!」
と言ってぐったりとした桜の背中を摩りながら、
「いいから、寝ていなさい。着いたら起こして上げるから。」
と、僕は彼女を寝かし付けようとしたが、
「窓の外、見られなくなるから、いやだ――――!」
と喚いて、彼女は中々眠りに就こうとはしなかった。
それでも振り子式電車独特の気持ち悪さには耐え切れなかったのか、とうとう桜はギブアップして僕の膝の上に頭を乗っけて寝息を立て始めた。
そんな娘の寝顔を優しく愛撫しつつ、
「全く、一体誰に似たのかしら。」
と誰に言うでもなく独り言ちると、
「お前だろ。」
と、向かいの席の窓際に腰掛けている和樹から間髪を容れずに突っ込まれ、僕は少々気分を害されてムッとしたので、キリッと彼を睨みつけた。
根雨を越えて麓に降り、平野部を疾走する平坦な区間に入ると、また桜が元気を取り戻した。
やがて真っ青に透き通る快晴の空の下、進行方向右側に頂きに真っ白な雪を被った青く輝く大きな山、中国地方が一の名山である伯耆大山がその雄姿を現したので、
「桜、見てごらん。大山が見えるよ。」
と、僕は桜を促した。
「あれ?」
と、桜が大山を指差したので、
「そうだよ。立派な山でしょう?」
と答えると、
「富士山みたい。でも富士山の方が立派だね。」
と、それを言っては元も子もない言葉を掛けられて、僕は思わず沈黙した。
伯備線から山陰本線へ合流して米子を過ぎ、松江を通過して宍道という駅に着いたので、僕らは荷物を纏めて列車から下車し、改札口へ向けて歩き出した。
無人駅の駅舎の入り口に設けられた切符回収口に使用済みの乗車券を投入してホームから建物の中に入ると、目の前に葵姉ちゃんと誠さんが並んで立って僕等の到着を待っている姿が見えたので、僕は彼等に声を掛けた。
「葵お姉ちゃん!誠さん!」
「あ!クーちゃん、オーちゃん!こっち、こっち!」
「和樹君も薫ちゃんもお久しぶり。迎えに来たよ!」
僕の声に気が付いたのか、彼等も此方を向いて手を振った。
すぐに僕等は彼等と落ち合い、手始めに互いに挨拶を交わした。
「葵さんも、誠さんもお久しぶりです。」
「伯母ちゃん、伯父ちゃん、こんにちは!」
「お姉ちゃんも誠さんもごめんなさいね。態々迎えに来て頂いて。」
「いいのよ、クーちゃん。わたし達だって昨日来たばかりだし……。それよりクーちゃん達だって大変だったでしょ?オーちゃんを連れて……。」
それを言うなら、4歳児の棗と桜とほぼ同い年の1歳10ヶ月の翔を連れて横浜から遠路遥々車でやって来た葵姉ちゃんと誠さんの方が大変だったような気もしなくはないが、僕は黙って苦笑するしかなかった。
「さ、こんな所で立ち話もなんだから、車を停めているから向かおう。」
と、誠さんに促されるまま、僕達は駅の出口へ向かって歩き出した。
そうは言っても、小さな駅の事である。駅員室と券売機が傍に併設されている待合室のホームと反対側にある扉を開けて一歩でも足を踏み出すと、そこはもう駅の外である。十台位しか車が止められない小さな駐車場と、住宅街を抜けてメインストリートの片道1車線のR9号線へ続く細い2車線道路しかない、如何にも田舎のローカルな駅らしい、風情のある小さなロータリーが眼前に広がっている。
その駐車場の一角に、客待ちをしているサニーやコンフォートのタクシーに混じって誠さんのシルバーメタリックのエルグランドが駐車されていた。
エルグランドの近くまで寄ると、誠さんは車を解錠して背面に付いているラゲッジルームのハッチバック扉を上に向かって引き開けた。
「さ、荷物は後ろに積めて、どうぞ乗って、乗って。」
誠さんに勧められるまま持っていたスーツケースを広いトランクスペースに収納すると、運転席に誠さん、助手席に和樹、後ろの二列目シートの右側に僕、真ん中に桜、そして最後に葵姉ちゃんが乗り込むと、誠さんはエンジンを掛けて車を発進させた。
車が動き出すや否や前の方で男達が男同士の会話で興じ始めた。
「そう言えば、棗ちゃんと翔くんはどうしたんですか?」
「棗と翔ね。今は家の方でお義父さんとお義母さんに、預かって貰っているんだよ。」
「ああ、そうなんですか。」
「棗も翔もね、桜ちゃんが来ると聞いて楽しみにしているんだよ。……ところで、和樹君達は何時まで此方にいる予定なの?」
「2日までですね。」
「そりゃあ、えらく急だね……。」
「俺の仕事の都合でどうしても3日までには向こうへ帰らないと行けなかったので……。」
「ああ、そりゃ仕方ないね。……おっと、青に変わったな。……ところで、和樹君ってこれ、いける口だよね?」
「え、ええ……。いけますが。」
「実はさ、お義父さんとお爺さんが、大吟醸のいい奴貰って来たらしいんだよ。今夜一緒に飲まないか、って言われているんだけど、和樹君も一緒にどう?」
「へ――、それは、それは……。」
後ろのほうでは後ろの方で僕等も女同士で話に花を咲かせていた。
「叔母さんと叔父さんやコーちゃんが来る事が出来ないというのは残念だったけど、クーちゃん達が来てくれて良かったわ。ウチのソーちゃんやショーちゃんも、オーちゃんが来ると聞いて凄く楽しみにしていてね……。」
ソーちゃんというのは、葵姉ちゃんの長女である棗の事。ショーちゃんとは同じく彼女の長男である翔の事である。二人とも本来は『なつめ』と『かける』というのが正しい呼び方なのだが、母親の葵姉ちゃんが『ソーちゃん』と『ショーちゃん』と呼ぶ所為で、親戚の間ではすっかりそっちの方のあだ名で呼ぶ事が定着していた。ちなみにオーちゃんというのは僕の娘の事である。
子供の頭の上を言葉が飛び交う形で、母親同士で盛り上がっていると、不意に葵姉ちゃんが縫いぐるみのアーちゃんを指さして桜に話し掛けた。
「ねえ、オーちゃん。さっきから気になっていたんだけど。そのクマさん、どうしたの?」
「サンタさんに、貰ったの。アーちゃんって、云うの!」
「そう、クリスマスプレゼントに貰ったのね。アーちゃんって云うんだ。よろしくね、アーちゃん。」
そうにっこりと微笑みながら言うと、葵姉ちゃんは急に真顔になって僕の方へ振り向き、僕の耳元に口を近付けつつ桜に聞こえないように囁いた。
「クーちゃん、こう云うのもあれなんだけど。あのテディベア、此方にいる間はあまりオーちゃんに持たせずに、子供の目の届かない所に置いておいた方が良いわよ。」
「え?どうして?!」
驚きながらそう訊き返すと、葵姉ちゃんはこんな返事をした。
「だって、ウチのショーちゃんが最近やんちゃ盛りになって、ちょっと洒落にならない悪戯をするようになって手を焼いているのよ。わたし達も出来る限り目を離さないように気を付けるけども、何かの拍子に壊さないとも限らないから、悪いけれどクーちゃんの方でも気を付けてくれないかしら。」
葵姉ちゃんの様子を見る限り、本当に手を煩わされて困っているように感じたので、
「分かった。わたしの方でも気を付けるわ。」
と、僕は彼女に了承した。
R9号線から農道に逸れて暫く走った後、松江市の外れ、出雲市の市境に程近い所にある、周りを田畑で囲まれた長閑な田舎町の、家の周りに築地松と呼ばれる防風木が一列に植えられた、出雲地方では一般的な形態の大きな日本家屋、綾小路家の本家の前に車は到着した。
家の両側と裏側に築地松が植えられ、家の前に車が2台程止められる白砂が敷き詰められたスペースと趣のある日本庭園があり、家の敷地の両側には畑が、家の裏側と、向かって右側の畑の傍を走る道路を挟んで向かい側にも、この家の持ち物であるという大きくて立派な水田が広がっている。
目の前にそびえる二階建ての木造の日本家屋は、半世紀以上前に増改築した時、家の南側、家を正面から見て右半分を一部洋風に改築したので、中央の玄関を挟んで左側は純和風、右側は若干近代風になっており、2つの建物を土間で繋いだような格好になっている。
玄関の引き戸を開けて敷居を跨いで家の中の土間に入る。左側には和風の方の70cm程高くなった上がり框があり、右側には靴置棚と壁を挟んで、玄関の隣の通用口へ出る為の通路がある。
さらに敷居を跨いで奥へ行くと、右隣にある、通用口と裏庭への出口と右側の建物の60cm位の高さの上り框を結ぶ小さな土間と共に、木で組んだ細長い簀子が敷かれた、左側にある先程と同じような左の建物へ入る為の上り框がある薄暗い三和土がある。
僕はL字を描くように敷居を2つ越えて右側の建物の方の渡し木の傍で靴を脱ぐと、娘の靴も脱がせて自分の靴の傍に置き、右側の建物の上がり框の上に立ち、さらに40cm程の段差を越えて明るい色調のフローリングの廊下に上がり込んだ。何時も思うが、この家の床は無駄に高い所にあって苦労する。
廊下の右側には祖父の仕事部屋と2階へ続く急な階段があり、左側には庭を見渡せる雨戸も兼ねた窓がある。そしてその窓の足元に都合良く古新聞紙と広告の切れ端が敷かれていたので、僕達はその上にスーツケースを置かせて貰った。見るとすぐ隣にも、同様にして葵姉ちゃん達の物らしい荷物が置かれていた。
廊下を真っ直ぐ進むと、右手に階段下の物置と左手に3枚組ずつの硝子障子と普通の紙障子で仕切られた6畳の和室、突き当たりにトイレ、そのまま廊下を左に曲がると縁側を兼ねた廊下となっており、突き当たった所に10畳位のダイニングキッチンと洗面所と脱衣所と風呂場がある部屋があり、トイレの角を右に行くと、15畳程度のグレーの絨毯が敷き詰められ、黒い本革張りのソファーなどの応接セットやシャンデリアが備え付けられた立派な応接間がある。
洗面所に行って桜と一緒に手を洗って廊下の角まで戻って来ると、応接間の曇りガラスが何枚か埋め込まれた緋色の木製の重厚な引き戸が少しだけ開き、中から青い服を来た誠さんに雰囲気が良く似た小さな男の子と、小さい頃の葵姉ちゃんにそっくりの右側にサイドテールを作った幼稚園の年少さん位の可愛らしい女の子が仲良く顔を覗かせていた。葵姉ちゃんの息子の翔と娘の棗である。
子供達はすぐ互いの存在に気が付いたのか、声を掛け合い始めた。
「あ!オーちゃんとクー叔母ちゃんだ!」
「あ!ソーお姉ちゃんとショーちゃんだ!」
「オーちゃん、遊ぼ!」
「お姉ちゃんと一緒に遊ぼう!」
「うん、遊ぶ――!」
桜は僕の腕を解こうとモゾモゾ動き出したが、僕は敢えてそれを阻止した。そして申し訳なく思いつつ応接間にいる2人の子供達の方へ顔を向けると、
「ごめんね。叔母ちゃんと桜、御爺ちゃん達にまだ御挨拶を済ませていないから……。終わったら遊んであげてね。」
「うん、わかった!」
「じゃあ、また後でね。」
という言葉を残して、僕は娘を連れて祖父母に会う為にもう一つの建物の方へ向かった。
新館から土間の2枚の簀子の上を渡って古い方の家に上がり込む、上り框から更に30cm程の段差を越えて畳の上に立つ。
この古い家は非常に大きい癖に、今自分の右側にある台所と洗濯機が置いてある部屋の前と縁側を除けば板張りの廊下と云うものが存在しない。2階も含めて殆どの部屋が襖と障子で仕切られた和室のみで構成されており、殆どの部屋は家具こそ置いてあれ、他の部屋へ向かう為の通路か物置のようになっている。しかも電気を点けていない事が多いから、昼間でも暗くてかなり不気味だ。実際の所、新館の方を専ら使っているので、少なくとも20部屋近くある事は分かっているが、この家に一体何部屋あるのか僕自身は把握出来ていない。入って直ぐの6畳間を進み、目の前の4枚組の紙障子を開けて次の部屋へ行くと、目の前に外枠に黒い漆が施された4枚組の襖、右側に壁と台所の前の廊下に続く1枚の硝子障子、左側の8畳間の今へ続く3枚組の、他の襖と同じ様に外枠に漆が塗られ、上半分が細かい木枠を組んだ紙障子になっている源氏襖に囲まれた6畳間が現れた。
僕は桜を抱いたまま、左側の源氏襖に手を掛けて開けると、和樹と共に部屋の中に足を踏み入れた。
部屋の正面奥には敷居にある4枚の障子で仕切られた縁側があり、左右にはそれぞれ同じ様に外枠が漆塗りの白い4枚組の襖で仕切られた和室である。左側には先程入ってきた時に見た玄関の側の上がり框に続く部屋が、右側には普通の家なら仏間に当たるような、欄間等に漆や黒檀を多用した立派な部屋が続いている。そして後ろを振り返れば、此方から見て源氏襖の左側に、御霊様と呼ばれる大社教特有の、出雲神話の神々を祭った神棚が安置されている。
部屋の真ん中には高価だと思われる細長い黒檀の机が置かれており、その机を取り囲むように縁側に誠さん、向かって右側に伯父夫婦と祖父と祖母が座布団の上に座って寛いでいた。
僕等が部屋に入った途端、部屋の中に居た5人全員が此方の方に顔を向けた。そして、
「おお、薫。久しぶりじゃねえ。元気にしとったかい?」
と、祖父が口を開いた。
「お久しぶりです。お祖父ちゃん。ごめんね、中々こっちに顔を出す事が出来なくて。」
と、僕も答えた。
「まあ、仕方ないわな。お前達ももう子供ではないのだから。……ところで、それが……?」
「ええ、ここに居るのが夫の和樹です。」
「え――っと、その……、皆様お久しぶりです。」
和樹が挨拶をした途端、僕は祖父の表情が微妙に固まった気がした。
「うむ……。和樹君、君には孫が大分世話になっとるみたいだね。」
気のせいか、些か機嫌が悪くなっているようである。
「え……?……ええ、まあ……。きょ……恐縮です。」
一目見るだけで相当緊張していると判る程多量の冷や汗を額に掻きながら和樹は固まっていた。同時に場の空気が急速に冷えていくのが感じられて此方まで居心地が悪くなった。
そんな空気を和ませるように机の上の茶菓子を勧めて座布団を2枚渡し、にこやかに微笑みながら祖母がこう言った。
「まあまあ、済んでしまった事を兎や角言っても仕方が無いでしょう。ほら!2人ともそんな所に何時までも突っ立っていないで早く座りなさい。」
土間の方の襖を背にし、和樹と並んで座布団の上に座ると、僕等は祖母が急須で注いだ煎茶が入ったお猪口のように小さな茶碗を受け取った。僕の膝に座った桜は、物珍しいのかその黒っぽい焦げ茶色の器をじっと見つめていたが、やがて興味が失せたのか、机の真ん中の方に置かれた菓子皿に載せられている袋詰めにされた御饅頭を取ろうと小さな腕を精一杯伸ばし始めた。
「う~~~~ん……。取れないよ――――。ママ――、取って!取って!お菓子取って!」
「はいはい、ちょっと待っていてね。」
腕を伸ばして饅頭を取り、食べ易いように袋の口を切ってから渡してやると、桜は歓声を上げた。
「わ――――い!ママ、ありがとう!」
その遣り取りで気が付いたのだろう。僕は祖母と祖父が身を乗り出すようにして桜の顔を覗き込んでいる事に気が付いた。
「ほう……。これが……。ああ、そうかそうか。」
「ええ、この子が娘の桜です。」
僕はそう言うと、桜の両脇を持ち上げて立ち上がって机の向こう側に移動し、祖父と祖母の間に挟むように彼女を座らせた。
「いい?桜。この人達がママのお祖父ちゃんとお祖母ちゃん、つまりあなたの曾お祖父ちゃんと曾お祖母ちゃんよ。」
「…………?」
今一実感が湧かないのか、両手で御饅頭を持ったまま、桜は祖父と祖母の、そして僕の顔を交互に眺めながら愛らしく小首を傾げていた。その可憐な仕草が心を鷲掴んだのか、祖父と祖母は凄く上機嫌になった。
「ほーら、曾お祖父ちゃんだよ。お――よしよし。」
「エヘヘ……。」
「あら、もう御饅頭取ったのね?美味しい?」
「うん、曾お祖母ちゃん。美味しい!」
「そうか――。美味しいか……。じゃあ、もう一つ食べるか?」
「うん、食べる――――。」
良かった……。産まれて初めて顔を合わせたから、上手く馴染めるかどうか内心凄く不安だったのだが、杞憂に終わったようである。
桜が祖父母と楽しく会話をしている間、隙を見て御霊様に挨拶しようと神棚の前に正座し、僕は二拝四拍一拝して7年近くぶりに出雲大社教のお祈りをし、長い間挨拶に訪れる事が叶わなかった事を心の中で詫びた。
桜を祖父から受け取ってまた元の場所に座り直し、祖父母や伯父伯母夫婦との積もる話に夢中になっていると、突然ベリッという嫌な音が傍らから聞こえてきた。
驚いて右の方を振り返ると、なんと桜が、3枚組の内の向かって一番右、先程部屋に入る時に開けた源氏襖の紙障子の部分に張られた紙の右下隅の箇所を人差し指で突いて目立つ程度に大きな穴を空けてしまっていた。僕は和樹と共に立ち上がって桜に飛び付くと、急いで彼女と襖を引き離した。
「ああ、ああ、嗚呼!駄目じゃない、桜。こんなオイタをしちゃ……。ああ、もうこんなに大きな穴を空けちゃって……。」
「うわあ、こりゃあ、ちょっと酷いな……。」
もうすぐ正月だから障子の紙も真新しい綺麗な物に張り替えたのだろう。その分桜の開けた穴だけが異様に目立っているように感じ、祖父母にどう詫びれば良いのか判らず僕は狼狽した。肝心の桜は、どうして怒られているのか分かっていないのか、不思議そうな表情をして僕等の顔を見上げている。
そうこうしている内に、祖父と祖母も立ち上がって源氏襖の所にやって来た。桜の空けた大穴を眼鏡のレンズが接触する位顔を近付けて観察しながら、祖父がポツリと呟いた。
「ああ、こりゃあ。穴が大きくなってしまったなあ……。」
「…………?」
大きくなったって云う事は、元々穴が空いていたのか?と疑問に思いながら僕は祖父の顔を窺った。
「昨日は来て早々翔が穴を空けたけえ、紙を貼ろうか、と思ってそのまま忘れてたんが……。紙を貼らないで良かったみたいだなあ。」
と、真顔で祖父はそう言った。どうやら、元々空いてあった穴に桜が気が付き、好奇心からその穴に指を突っ込んでしまっただけらしい。良かった、良かった。いや、全然良くない。結果的に被害を拡大させてしまっている。
そんな僕の葛藤を知っているのか知らないのか、祖父は感慨深くこう続けた。
「しっかし、まあ。この襖も難儀物だなあ。今日は桜に突かれ、昨日は翔に穴を空けられ、去年の盆には棗が襖の部分を蹴破って建具屋に修理に出したし、お前達も子供の頃に一度は紙を破ったり壊したりしたし……。全く、ウチの子供等は必ずこれに危害を加えるのは何でかねえ?」
そう言われて、僕も小さい頃にこの襖の障子紙の、丁度桜が突いた所と同じ所を、指を立てて破った事があったのをぼんやりと回想しながら、僕は久々に祖父の小言を聞いていた。