第七話:桜も1歳9ヶ月~初めての帰省とクリスマス
>>薫
2042年、冬。
桜が産まれて早くも1年半以上が経過しようとしていた。
大人の自分達にとっては一瞬で過ぎ去って行く年月も、子供にとってみればそうでもないようで、ついこの間まで日がな一日寝てばかりいた桜が、もう喋るどころか家中をちょこまかと走り回るようになっているのだから、考えて見れば不思議な事であり、感慨深くも思う。
感慨深いと言えば、NHKの『おかあさんといっしょ』や『アンパンマン』や『ドラえもん』等、自分どころか両親や、ヘタをするとその前の世代が子供の時分から脈々と見続けられてきた子供番組が、未だに手を替え品を替えて放送し続けている事に吃驚した。特に『アンパンマン』や『ドラえもん』等は、作者がとうの昔に鬼籍に名を連ねているのにも関わらず、大人の事情で後世の人によって『新作』なる物が創られているのだから、どうなのだろうか?と個人的には疑問に感じ得なかったりする。
でもそんな大人達の思惑など関係ないとでもいうように、今も桜はリビングのソファーの上にちょこんと座りながら一心不乱にテレビ画面を見つめ、夕刻にやっている子供向け番組を夢中になって視聴していた。
普段はちょっとした事で大泣きしたり、
「ママ――、ママ――。どこ――?」
と呼びながら僕の姿を探し回ったりして纏わり着くから、嬉しい半面家事が捗らなくて少し困っていたのだが、テレビを点けている間は画面を食い入るように見つめているので、その合間に家事等を手早く済ます事が出来て正直助かっていた。本当、テレビは最高で最悪の子守りマシンとはよく言ったものだ。
そんな感じで今日もテレビに背を向けてアイロン台で夫のハンカチやワイシャツにアイロンを掛けていると、リビングの電話が鳴りだしたので、僕はアイロンのスイッチを切ってケースにセットし、電話に出る為に立ち上がった。
カウンターの上に置かれた子機を手に取ると、ディスプレイには僕の実家の電話番号が表示されていた。
「もしもし……。」
と電話を手に取ると、
「もしもし、薫?」
と、母の声が受話器から聞こえてきた。だが、普段から日常的に電話をしている仲でもなかったので、急に何だろう?と不思議に思いながら僕は母親と会話を始めた。
「ええ、そうだけれど……。どうしたの?お母さん。何かあったの?」
「いえね、特に急ぎの用がある訳じゃないんだけれど……。」
そう言って一呼吸置くと、本題を切り出すように母は話し始めた。
「薫。あなた、今度の年末と正月はどうするの?」
「え?まだ決めてはいないけれど……。」
実際、もう年末まで1ヶ月を切っていたが、僕はまだ年末年始の予定を一切立てられていなかった。
今年の正月こそお姉様から有栖川邸に家族と共に招待されて、杏子様の家族とお姉様の家族と共に楽しいお正月を過ごしたが、来年は杏子様達の方では圭一君の小学校入学に向けてなんやかんや忙しいらしいし、お姉様の方でも2人目の御懐妊が発覚したとかで色々とてんやわんやしているらしいので、恐らく今年みたいに一緒にゆっくりと過ごす事は出来そうにないようだった。
義理の実家で過ごすという手もあるにはあるが、はっきり言ってあまり乗り気がしなかった。あの義父と義母と、たとえ数日間といえども、一日中顔を合わせる羽目になるのかと考えると想像するだけで気が滅入る。
それよりも気に掛かるのは、綺羅羅と雅樹という、義兄と義姉の2人の子供の事である。
姪の綺羅羅は9歳の小学3年生、甥の雅樹は来年幼稚園へ入園する事がほぼ決まっている3歳児。甥子の方は好奇心旺盛のやんちゃ坊主の上に、両親祖父母からこれでもかと甘やかされて育てられてきた所為か傍若無人な振る舞いが際立つ糞餓鬼だし、姪子の方は姪子の方で、弟とは対照的に家族から疎まれて孤立し、綺羅羅という名前にそぐわず、いつも俯いて過ごしているような暗くて陰湿な少女だった。今年の盆に仕方なく義実家に夫と娘と共に2泊する事になる羽目になった時、度々いたずらをしようと手を伸ばしてくる雅樹の所為で、桜から一瞬足りとも目が離せなくて非常に疲れたし、綺羅羅の方からは何とも言えない不気味なオーラを感じたので、少なくとも娘を連れて義実家へ挨拶しに行きたくはなかった。
京都の実家や松江の祖父母の家等、こっちの親戚達と一緒に過ごすのも悪くないし、出来ればそうしたいのも山々だったが、何故か和樹がなんだかんだと理由を付けては行きたがらなかったので、今度の年末年始は自宅にて家族3人で過ごす事になるのだろうな、とぼんやりとそんな事を考えていた。
だから、
「多分こっちで、家族3人で過ごす事になると思うわ。」
と、僕が母親に向かって答えると、
「あら、そうなの?……ちょっと困ったわね……。」
と、母は口を濁した。
「どうしたの?」
と尋ねると、
「実はね。お父さんが今度の年末年始の京大医学部の飲み会や会合にどうしても出席しなきゃいけない事になっちゃって……。孝の方も研究が忙しくて行けないっていうし、あなたに島根の方に行って貰おうか、ってお父さんと話していたんだけれど……。ほら、桜も1歳9ヶ月になったでしょう?お祖父ちゃんとお祖母ちゃんも会いたいって言っているし……。駄目かしら?」
と、母は困ったような調子で訊いてきた。
「出来ればわたしも行きたいし、お祖父ちゃん達に桜を会わせてあげたいけれど……。和樹さんが中々首を縦に振ってくれなくて……。」
と、僕は困惑しながら母に言った。すると母は大した問題では無いと考えているのか、
「何言っているのよ。あなた一人でも桜を連れて帰ればいいじゃない。散々学生時代に車を運転して帰郷していたじゃないの。電車やバスや飛行機を使うって手もあるわよ。そっちなら方法は選り取り見取りでしょう?」
と笑いながら言った。
「それはそうなのだけれど、和樹さんを一人で家に置いていく訳にはいかないでしょう?」
和樹を独りきりで家の中に放置していればどうなるか、4年前にその惨状を散々に経験して懲りた身としては、是が非でも和樹一人を家に残すという事態は回避したかった。
しかし、そんな僕の気持ちを知っているのか知らないのか、母は呆れながら僕に向かってこう言った。
「馬鹿ねえ。和樹さんだって、もう子供じゃないでしょう?自分の事は自分でキチンと始末出来るでしょう?」
それが出来ないから苦労しているのだよ、安心して留守番を任せられるなら今直ぐにでも桜を連れて帰っているわ!と僕は心の中で愚痴をこぼした。が、
「それか、和樹さんの実家の方で彼を預かって貰えば良いじゃない。彼に一人で彼の実家の方へ挨拶に行って貰うっていう名目で。それであなたの方はあなたの方で、桜を連れて向こうへ行けば何の問題も無いでしょう?」
と母に言われて初めて、その手があったか!と僕は目から鱗が落ちるような、そんな気分になった。それなら僕も気兼ねなく家を空けられるし、和樹のプライドだって保たれる。全くもって名案だとしか思えなかった。
「確かにそうだわ。それじゃあ、あの人にそう言って相談してみるわ。向こうに行く日取りが決まったら、また電話しますから。」
そう言うと、僕は母との電話を終えてカウンターの上のスタンドに子機を置いた。
アイロン掛けを再開しようとテレビの方へ振り返ると、此方を向いて立ち上がり、ソファーの背凭れに両手を掛け、首まで髪が伸びておかっぱのようになった頭をちょこんと覗かせて桜が僕の方を見ている事に気が付いた。
「あら、桜。どうしたの?」
と声を掛けると、彼女はその可愛くて大きな目を更に大きくして爛々と瞳を輝かしながら、
「京都のお祖父ちゃん家、行くの?」
と、やや興奮したような感じで訊いてきた。
無理もないだろう。我が家に何度か両親が遊びに来た事はあるが、京都や松江に桜を連れて行った事はまだ一度も無かった。
その所為だろうか、特に物心が付き始めた今年の盆の頃には、下にあるマンション内の公園でいつも一緒に遊ぶお兄さんお姉さん達が、夏休みにそれぞれの祖父母の家に出掛ける話をして盛り上がり、実際その頃にはみんな地方へ帰郷して閑散としてしまったので、
「ねえ、ママ。桜はお祖父ちゃん家、行かないの?ねえ、ねえ。」
とせがまれ、仕方なく義実家へ泊まりに行った位だった。
だが、やはり世田谷にある義実家が、桜が思っていたような『田舎の祖父母の家』という象形からはかけ離れた物だったからか、それともいつものように図に乗ったのか、今度は、
「京都のお祖父ちゃん、お祖母ちゃん家にも行く――!行きたい!行きたい!」
と事あるごとに言い出すようになっていた。
だからきっと、さっきの電話で話している様子からピンと来たのだろう。桜は瞳をキラキラと輝かせながら期待に満ちた笑みを浮かべて僕の方を窺っていた。
僕はそんな娘の様子を何時もながら可愛いなと思いつつ、
「ええ。でも京都のお祖父ちゃんお祖母ちゃんのお家じゃなくて、松江って云うところにある、ママのお祖父ちゃんお祖母ちゃんのお家に行く事になると思うけれどね。」
と答えると、僕が言った意味がまだ良く理解出来ていないのか、桜は不思議そうな顔をして可愛らしく小首を傾げながら、
「ママの、お祖父ちゃん?」
と尋ねてきた。
「そう。桜の曾お祖父ちゃんと曾お祖母ちゃんに当たる人達よ。」
「…………?」
まだ解っていないのか、桜は依然として首を傾げつつキョトンとした表情で僕の顔を見つめていた。僕は彼女の傍まで歩み寄り、娘の手の甲に重ねるようにソファーの背凭れに両手を掛け、彼女の目線まで腰を落として向かい合うと、なるべく解り易くなるように噛み砕いて説明した。
「ママのお母さん、つまり京都のお祖母ちゃんのお父さんとお母さんなの。」
「……ふ~ん。」
今一理解していないながらも自分の中で一応の落とし前を着けたのか、少し間を置いてから桜は納得したように頷いた。そして再び眩しいくらい輝いた笑顔になると、
「それでね!それでね!ママ!何時行くの?何時行くの?」
とはしゃぎ出した。
「今度のクリスマスが終わってから大晦日の間位にね。パパとも相談しなければいけないけれど、お正月をあっちで過ごす事になると思うわ。」
「うん、わかった~♪」
まるでそこがトランポリンの上であるかのようにソファーの上で跳び上がって小躍りしている桜の様子を暖かく見つめながらも、僕は自分で発した言葉に内心当惑していた。そうだ、クリスマス……、どうしよう?
去年のクリスマスは桜がまだ9ヶ月だったから、桜には粥状の離乳食、自分達も普段と変わらぬ食事を摂って、特に飾り付け等もせずに素っ気無い物になってしまったが、物心ついて離乳食も卒業し、大抵の物なら介添えしてやれば食べられるようになった今、これからは食卓の上にクリスマスケーキやフライドチキンを用意したり、部屋をそれらしく飾り付けたりしてクリスマスらしいクリスマスを過ごすべきかもしれない、と僕は考えた。
和室に敷いた自分の布団に桜を寝かし付け、自分も掛け布団の上に寝転んで寝ている娘に寄り添い、髪を梳く様に右手で桜の左の頬を摩っていると、玄関からガチャンっという音が響き、和樹が廊下を玄関からリビングの方へ歩いて来るのが開けっ放しにされた和室の襖越しに見えたので、僕は娘を起こさないように静かに立ち上がって夫の元へ向かった。
「お帰りなさい、あなた。今夜は早かったのですね?」
「ああ、まあな。」
「先に御飯を召し上がりますか?それともお風呂を先にお済ませになりますか?」
「飯だ!」
前を歩く和樹に従うようにリビングへ入ると、僕は彼からコートとスーツのジャケットと鞄を受け取ってソファーの背凭れに掛け、彼の食事を用意する為に台所に入った。
ダイニングテーブルの、和樹が食事を摂っている所の真正面にある椅子に腰を下ろし、両肘をテーブルの上に置いて頬杖を突くと、僕は彼と向かい合い、そして話し掛けた。
「ねえ、あなた……。」
「ん、何だ?」
食事をしていた手を止めると、和樹は訝しげな表情をして僕の方へ顔を上げた。
「今度の年末年始の事なのだけれど……。」
「……ああ。」
「わたし、今度の年末年始に桜を連れて松江の方に行く事になると思いますから。申し訳ないのですけれど、わたし達が向こうへ行っている間、代わりに世田谷のお義父さんとお義母さんの所へはあなた一人で挨拶に行って下さらないかしら?」
「ああ、わかった。……ああっ?」
夕飯を食べながら僕の話を聞き流していた和樹は、驚いたような大声を唐突に上げると、目を丸くしながら僕の顔を凝視した。
「なあ、薫。今、何と言ったんだ?」
「今度の大晦日からお正月に掛けて、桜を連れて島根の方へ行く事になった、って言いましたけれど。」
「其の次だ。」
「だからあなたは、あなたの実家でお正月を過ごして下さいね♪」
「いやいや、聞いていないぞ。そんな事。」
「今日、わたしの実家から連絡があって。お父さんとお母さん、それに孝も仕事で忙しくて、今度の年末年始に向こうの家へ挨拶に行けないそうなのよ。だからわたしに桜を連れて松江の家へ行って欲しいそうですわ。それに、お祖父さんとお祖母さんにはまだ桜の顔を見せていないし、いい機会だから会わせに行こうって思ったのよ。」
「そういう事なら分った。分ったんだけれどな……。」
何故か、心なしか彼が焦っている様に僕は感じた。
「どうして俺が一人で取り残される事になっているんだ?」
「…………!」
本気で言っているのか?と内心驚愕しながら僕は和樹の顔を見つめた。
「解らないの?」
「何が?」
「だってあなた、いつもわたしの実家や綾小路の本家に行く事を嫌がっているじゃない。」
「う…………。」
和樹は不貞腐れたように黙り込んでしまった。
「ひょっとして、あなたも一緒に行きたいの?」
と、僕は彼を軽く揶揄した。すると彼は沈黙したままそっぽを向いた。僕はそんな彼の様子を横目で見ながら話を進めた。
「別に一緒に来てもいいのよ。というより、そっちの方がわたしだって有難いもの。元々あなたが来ないだろうと思って桜と二人で行こうか、って思っていたのだから。家族3人で行けるのなら、そっちの方がずっと良いですわ。」
「…………。」
「…………。」
「……そうか、わかった。」
「……良かった。でもあなた、大丈夫?あなただって会社の忘年会や新年会に顔を出さなければいけないでしょう?」
と、僕が問いかけると、
「ちょっと待っていろ。」
と言うと、和樹は徐に食卓から立ち上がり、鞄を開けて黒革の手帳を取り出した。
「26日に仕事納めで、27日の土曜に忘年会があって、3日に新年会があって5日から仕事始めだから、28日から正月の2日までなら休みが取れるぞ。」
「そう。じゃあ、29日から元日までで予定を立てればいいですわね。」
僕は、和樹と会話しつつ傍にあったメモ用紙とボールペンを手に取ると、日付をメモし始めた。
「29?28日から行けばいいじゃないか。それに元日に帰る事もないだろう?」
「何言っているの。27日に飲み会があるのでしょう?あなた、十中八九飲み過ぎて遅く帰って来るでしょう。寝不足と二日酔いの状態で子供を連れて千キロも移動する自信がありますの?もうあなた、30なのよ。」
「うっ……。ま…まあ、そうだが……。」
「それに3日に新年会があって、すぐに仕事始めがあるのなら、帰ってから一日ぐらい休める時間が必要だろうし……。」
「そこは要らないんじゃないか?3日の次の4日は日曜日だし、ここで休息を取ろうと思えば取れなくもないぞ。それに元日早々に翻すのも向こうに対して失礼じゃないか?」
お前が言うな、とも思ったが、確かに和樹が言う通り、正月早々に慌ただしく向こうを立つ、というのは世間体を考えると色々問題があるように思われた。そうかと言って、1月の2日の深夜に戻ってきて翌3日に夫を飲み会に送り出すというのも、それはそれでどうなのだろうか……。
「う――――ん。」
と唸りながら僕は考えた。
「それじゃあ、帰りはお昼くらいに立って、飛行機を使って戻った方がいいかもしれないわね……。」
そう呟くや否や、
「え?お前の車で行くんじゃないのか?」
と、唐突に和樹が大声を上げたので、僕は驚いて彼の方へ顔を上げた。
「え?……ええ、その心算でしたけれど……。新幹線とやくもで行こうかなって……。」
「ふーん。でも珍しいな。お前なら絶対車で行きたがると思ったのに。」
「そりゃ、車で行けるのなら行きたいけれど……。桜がいるから難しいわね。さすがに子供の面倒を見ながら運転なんて出来ませんもの。」
「桜なら俺が面倒を見ればいいだろ。」
「トイレの問題があるでしょう?あの娘、まだちゃんと自分でおしっこの始末が出来ないのよ。PAやSAを通り過ぎた直後とか渋滞中に、『おしっこ!』とか言い出したらどうするの?紙製の簡易トイレや替えのおむつパンツを用意するにしても限度って言うものがあるわよ。それに後始末だって大変だし。電車だったらお手洗いにだっていつでもいけるし、おむつを替える事が出来る設備が備わっているわ。」
「それはそうだが……。でも小さな子供連れで乗り込んだら他の客の迷惑にならないか?」
和樹は、珍しくまともな事を言って渋い顔をしたが、僕の方は杞憂で終わるだろうと高を括っていたから、彼の心配を一笑に付した。
「大丈夫よ。桜は大人しくていい子よ。他の人に迷惑を掛けるような事は絶対にしないわ。それに、新幹線には子連れ家族専用の指定席車両が設けられているし。やくもの指定席車両なんていつもガラガラよ。案ずる事は何もありませんわ。」
「そうだといいが……。」
「でも、それなら行きの切符と帰りのチケットを出来るだけ早い内に手配しておいた方がいいわね。明日にでもネットで予約の手続きを取っておく事にするわ。」
「ああ、そうだな。お前に任せるよ。」
そう言うと、和樹は再び黙々と夕食を食べ始めた。
家族で帰省する為のJRの切符とJALのチケットを予約してから少し経った日曜日、僕は2つ上の階の部屋、田山さんの一家が暮らす603号室のキッチンに、田山さんの奥さんと他数人の自分の娘と同じ年頃の子供を持つママ友数人と共に集合していた。田山夫人に、小さな乳幼児でも食べる事が出来そうなクリスマスらしい料理の作り方を教えて貰う為である。
田山さんというのは、ウチのマンションの管理組合の理事長を10年以上引き受けている、マンション最古参の住人の一人である。
旦那さんの方は、いつも裾の長いデニムのズボンを穿き、Tシャツやトレーナーの上に赤い格子縞のシャツを羽織って、野球帽を前後逆に被るという典型的なオタクな服装をしている、一見すると変質者のようにも見えかねない、黒縁の眼鏡を掛けて頬や顎に髭を貯えた小太りの小父さんだが、その正体は大手出版社の月刊誌や週刊誌で連載を受け持つ巷ではかなり有名らしい少年漫画家である。
奥さんの方も少しふくよかな人で、濃い茶色に染めたショートヘアーに楕円形のレンズの銀縁の洒落た眼鏡を掛けた上品な婦人である。彼女もまた、その分野では有名な出版社で絵本や児童書を沢山執筆している童話作家である。
二人とも子煩悩で、このマンションでは最高齢となる高校生の男の子と中学生の女の子の兄妹を育て上げており、また大変な子供好きで児童教育に関して非常に造詣が深く、近所の子育て中の母親の相談も気軽に受け付けて助言を添えてくれるので、僕も含めて近所の母親連中からとても信頼されていた。
実際、僕も桜が産まれて半年近く経った頃、離乳食の作り方や与え方も全く分からなかったので、その事について田山さんの奥さんによく相談に乗って貰っていたし、最近桜がよく喋り始めてからも、乳幼児期の情操教育に適切な絵本を紹介してもらったり頂いたりして、すごく助かっていた。遠くの親戚より近くの他人とは良く言うが、すぐ近くにこうして頼りになる人達に恵まれた事は、僕にとって非常に幸運な事だとしみじみ思う。
自分で調べて自分の家で作るのが正しい事なのかもしれないが、クリスマス当日までは、ケーキを作る事を桜に内緒にして喜ばせよう、と僕は密かに考えていた。この日も、同世代の主婦で娘と同い年位の子供を抱えている田中さんと深山さんと共に、田山夫人にレシピを教えて貰ったという訳である
田中さんと深山さんというのは、先に書いた通り僕と同じ位の歳の、同じマンションに住んでいるママ友で、これまた僕と同世代の主婦であり、同じマンションに暮らす小山田さんと小暮さんと本庄さんを中心とするグループとよくつるんでいる人達の事である。よく一緒に小山田さん達のグループに入らないかと誘われるが、小山田さん達は良い人達ではあるけれども人の噂話を井戸端会議で話し合うのが大好きという、僕が苦手とするような類の人達なので、適当に言い繕って心なしか彼女達とは少しだけ距離を取るようにしていた。
そんなこんなでクリスマスイブを迎えた。
キッチンで小さなクリスマスケーキや手羽先を揚げたフライドチキン等を準備する為に調理していると、その前の週末に銀座の三越で料理に使う食材を買うついでに、可愛かったからという理由で購入して現在リビングに飾られている20cm程の虹色に輝くLEDの電飾が付いた緑色の小さなクリスマスツリーを見て、
「キャッキャ。」
と楽しんで見とれていた桜が、何かのおまけで付いてきた、赤と黄色の横縞が斜めに入っててっぺんに金色に輝く房がついたボール紙製の円錐形の防止を被った状態で、ヨチヨチと台所の中に入って来た。
「ママ――、何しているの?」
「こらっ。危ないから台所には入ってきちゃ駄目って、いつも言っているでしょう。」
そう言って桜の腰を両手で握って持ち上げ、抱き寄せてリビングの窓と窓の間に置いたクリスマスツリーの前へ連れていこうとしたが、
「ヤーよ!ヤーよ!」
と、彼女は愚図りだして僕の腕の中でジタバタと騒ぎ出した。
「ママと、一緒、いるの――――!」
「お願いだから、ママの言う事を聞いて頂戴。今は手が離せないの。……いい子だから、ね。」
ポンポンと娘の背中を叩きながら言い宥めようとしたが、僕の願いに反して桜はブンブンと首を横に振った。
「ママといる――――!遊ぶ――――!」
「ママは夕御飯を作らなければいけないから、今は桜と遊んであげる事は出来ないの。」
「や――――だ―――――――!!」
困った……。誰に似たのだか、桜は頑固というか、これと決めたら強硬に押し通そうとして絶対に曲げようとしない所があった。それが他人に流されず確固たる自分を持ち、初志貫徹するという彼女の長所にもなっていたが、事に躾に関して言えば、一度でもこう云う状況に陥ると中々素直に言う事を聞いてくれず、手を焼く事が結構多かった。
親の威厳を示して一喝する等して黙らせればいい。場合によってはある程度の体罰というのも有りだろう。頭では理解している。だが、たとえ躾の為に叱ったり叩いたりした結果だとしても、子供が悲しむ顔を見たくなかったので、余程の事でもない限り僕は娘を叱る事が中々出来なかった。
だが、そんな桜でも、一つだけ容易に手懐けられる奥の手があった。
「分かったわ。そんなにママの言う事を聞けない悪い子はウチの子供じゃありません。だから出て行きなさい。」
なるべく毅然とした姿勢を心掛けて厳しい表情を作って僕がそう宣言した途端、
「ふぇ?」
と奇声を上げると、桜はポカンとした顔で一瞬僕の顔を見つめた後、心細そうな表情にオロオロしながら泣き始めた。
「うぇ―――――――ん、え―――――ん!違うもん!違うもん!桜、ママの子、だもん!」
「だったらママの言う事を聞く事が出来るわよね?」
と、ポカポカと僕の胸を叩いてくる娘を宥めながら念を押すと、
「む――――っ!」
と膨れ面をしながらも、
「わかった……。」
と言って大人しくなったので、
「よしよし、いい子いい子。もう少ししたら御飯が出来るから、楽しみに待っていなさい。」
と、僕は抱っこをしつつ娘の頭を右手で優しく撫でてやった。すると、気持ち良いのか、
「エヘヘヘ……。」
と幸せそうに微笑みながら、桜は頭を僕の胸元に押し当てて来た。
全くこの娘ったら。さっき怒られてしょんぼりしたばかりだと云うのに、もうすっかり立ち直って何時もの元気な桜に戻っている。まあ、そこがこの娘のしおらしい所なのだけれど……。
そんな事を思いながら、一旦桜を抱いてリビングへ向かおうとした時、
「ねえ、ママ。今日の御飯、何なの?」
と、桜が顔を上げて僕に尋ねてきた。
「なあに、もうお腹空いたの?」
「さっき、もうすぐ御飯、って言ったの、ママだよ。ねえ、なーに?なーに?」
「それは出来てからのお楽しみ。」
そう言って、僕が歩き出そうとした刹那、
「ママの意地悪……。…………にょ?……わぁ!何これ?何これ?」
と、もぞもぞと僕の肩の上まで這い上がった桜が、台所の一角に置かれた皿の上に盛りつけられた出来立てのフライドチキンと、ユールログに視線を向けた途端、目の色を変えた。
「ねえ、ママ!これ、なあに?」
と、チョコレート色をして上から雪に見立てた粉砂糖が塗されたユールログを桜が指差したので、
「これはね。ユールログって云う、丸太を模ったケーキなのよ。」
と、僕は娘に簡単に説明した。
またしても、桜の目がキラキラと輝いた。
「え?!ケーキ!」
そう言った娘の口元には、既に涎が垂れかけていた。1歳の誕生日の時に赤ちゃん用のショートケーキを食べさせた時に大層気に入って以来、見ただけで垂涎する程桜はケーキが大好きな子供なのである。
なにせ、和樹も帰って来たので皿をダイニングテーブルの上に並べ、いざ夕飯が始まった時の母娘のやり取りが、
「ママ!ケーキは……?」
「夕御飯が食べ終わってからデザートにね。」
「む――――っ。」
と、こんな感じだった位である。子供だからお菓子に目がないという事は理解出来なくもないが、御飯を差し置いてまで食べたがるというのはどうなのだろうか?僕は少しだけこの娘の将来が不安になった。
夜、桜が寝る時間が来た。
お気に入りの絵本を読み聞かせると、何時も通り直ぐに夢の中へ墜ちて行ったので、僕と和樹はそっと布団から起き上がると書斎に行き、書斎のクローゼットから和樹に頼んで用意しておいて貰った、30cm位の高さがある結構大きなテディベアの縫いぐるみが入った包を例のクリスマスツリーの近くに静かに置いた。
そして、明日の朝桜が一体どういう顔をするのか楽しみにしながら忍び足で和室へ引き返すと、僕達はやっと床に就いた。