第六話:桜生誕~こんにちは赤ちゃん
>>薫
急な陣痛から出産まで終えて、ドタバタしたまま緊急入院してから3日後、僕は6人用の大部屋の病室の、入り口から入って右側の真ん中のベッドで寝させられていた。
そこへ、突然他のベッドと同じ様に、自分の左側に小さくて可愛らしい乳児用ベッドに毛布等が掛けられた。軽度の未熟児としてこの世に産まれ、一時的に新生児室へ入っていた赤ん坊が今日から母親と同じ病室へ移される事になり、共に退院するまでの間も母子が一緒に過ごせるように手配されたのだ。
やがて病室のドアが開き、白いタオルで包まれて真新しい産着を着た赤子を抱いた看護師が静かに入って来て、赤ん坊を仰向けでベッドの上に寝かし付けて毛布を掛けると母親である僕に会釈し、そのまま来た時と同様に音を立てずに退室して行った。
僕の両隣と向かいの窓際の母親達が慣れた手付きで子供を抱き上げてあやし始める中、僕はベッドから半身を乗り出し、初めて対面する我が子の姿をじっと観察した。
母親が穴のあく程見つめているにも関わらずぐっすりと眠り込んでいる赤ん坊は、髪もまだ十分に生えていない上に体が小さく頭でっかちであったものの、驚く位僕とそっくりな顔をしていた。というより、まばらに生えた茶味掛かった髪の色が少し和樹のそれに似ている事を除けば、小さい頃に撮った写真の中に写っている乳児の頃の僕の姿に瓜二つだった。
そっと右手を伸ばして赤ん坊の股間に軽く触れてみると、何の感触も感じなかった。そうか…本当に女の子なんだ……、と感慨深く思いながら僕は抱き上げる為に赤ん坊の腰を両手で掴もうとした。
すると突然、今まで閉じられていた瞼がパッと開き、赤ん坊が目を覚ました。生まれたばかりであるとはいえ、もう3日も経っているからある程度は目が見えているのだろうか、クリクリとした大きな目を更に大きく見開きながら不思議そうな顔で赤ん坊は僕の顔を見上げていた。
か…可愛い!可愛過ぎる!!生来の子供好きの所為で、今までもこういう小さな子を可愛いと思って眺めた事はあるにはあったが、そんな他所様の子とは比べられない位僕は目の前にいる子供を愛おしく感じ、猛烈にモフモフしたいという欲求に駆られた。が、どうにか理性で抑えながら僕は赤子の腰を両手で優しく掴んだ。
その途端、手で触った感触でもありありと判る位、唐突に赤ん坊の体が硬直した。見ると、額から冷や汗を一筋滴らせて口を真一文字にギュッと結び、目を見張りつつ不安そうに此方に視線を向ける赤ちゃんと目が合った。直様僕は、この娘は絶対に僕を母親だと認識していないな、と直感した。
固まったままの子供をそっと持ち上げると、今度は怯えたように細かく震えだしたので、僕は今にも泣き出しそうな娘の顔を左の乳房に押し付ける様にそっと胸に抱き寄せた。
当初こそ混乱するように手足をパタパタと可愛らしく振って抵抗していたものの、僕の心臓の鼓動が聞こえたのだろうか、急に大人しくなっておっぱいに耳を当てて安穏となり、また不思議そうにポケッとした顔で僕の顔を見上げた。
そうしてどの位の時間見つめ合っただろうか、5分……いやたった数瞬の間だったかもしれない、まるで溜飲を下げた様に唐突に赤ん坊の表情が明るくなり、口を大きく開けて満面の笑みを浮かべながら、
「アウア!アウアッ!」
と、手足をパタパタと動かして僕の胸に抱きついてきた。どうやらこの段になって漸く僕を母親だと認識出来たらしい。
僕は安堵しつつ、
「こんにちは、赤ちゃん。お母さんですよ……。」
と囁きながらギュッと我が子を抱き締めた。
暫くそうして子供をあやしていると、不意に胸の辺りに鈍痛を感じた。そして気になり始めるや否や、乳房に強烈な痛みを感じて僕は胸が苦しくなった。まだ抱きつこうとジタバタと抵抗する我が子を、ごめんね、と申し訳なく思いながら少しだけ引き離すと、左腕で子供を抱えながら右手を病衣に突っ込み、僕はそっと左胸に触ってみた。
乳房がこれまでに経験した事がない程パンパンに張っていた。道理で胸部に痛みが走って苦しい訳だ。しかも心做しか乳頭の辺りが湿ってきているようにも思う。僕は今更ながら、自分が妊娠出産して母親になったのだ、という事実に改めて思い当たった。恐らく既に体の中で母乳の生成が始まって、この数日の間に限界まで蓄えられていたのだろう……。
乳飲み子なら都合よく目の前で戯れているものの、果たして今母乳を飲ませても差し支えがないのか定かでは無かったから、赤子を抱きながらどうしたものかと僕は考えあぐねた。
だが、僕の胸が張っている事に気が付いたのか、母親の思惑など何の其の、とでも言うかのように赤ん坊は僕の病衣の左襟口に手を掛け、そのまま引き剥がして乳首に吸い付こうと藻掻きだした。そう云うせっかちな娘の様子を見下ろしつつ、まあいいか、と思って僕は胸を開けると、子供の顔を左の方のおっぱいに引き寄せて存分にしゃぶらせた。
子供の下が乳首に触れた瞬間、電撃が走ったかの様に痺れる感覚と共に片方の乳房から母乳が溢れ出していく。もう片方の乳房にも刺激が伝搬して乳頭から母乳が迸ったが、片方の胸は張りを失って痛みが引いていっているのに、もう一方は未だに張る事による痛みが残っているので、胸に奇妙な感覚を得たまま僕は授乳を続けていた。
夢中で母親の乳首に吸いついていた娘の視線が、ふと僕の左胸から右胸の方に逸れた様な感じがした。恐らくもう片方の乳頭からも母乳が滲み出している事に気が付いたのだろう。左の方のおっぱいから口を離すと赤子は左手を僕の右の乳房の方へ伸ばし、そのまま右胸の乳首を掴んで自分の口元へ持って行こうとするような仕草をした。どうやら左右の乳房から同時に母乳を頂戴しようと目論んでいるようだ。見ている分には可愛くて凄く和む光景なのだが、がめついな、と呆れながら僕は我が子の行動を観察した。
午後の回診の時間に笠井医師が僕の所へやって来た。相変わらず何処か偉そうなオーラを周囲に振り撒いて此方の神経を逆撫でているが、結果的に無事に出産を終える事が出来たし、先輩ママとして子育てに役立つ便利な小技や豆知識を、此方が何も質問していないにも関わらず小姑の様に勿体ぶりながら教えてくれたりするので、特に表立って不満を表すような事は無く、今回も子育て指南と称する無駄話をするだけして終了するかと思いきや、
「実は、少しあなたにお願いがあるのだけれど……。」
と、意味ありげな口調で話しながら彼女は僕に詰め寄った。
「この娘……、もう名前は決めたのかしら?」
「いいえ、まだですわ。夫と二人で決めようと思っていまして……。」
「……そう。それじゃあ単にベビーって呼ばせて貰うわね。このベビーをあたしの研究対象とする事に協力してくれないかしら?」
「…………は?」
思わず僕は絶句した。自分の子供が研究対象になる?どういう事だ?
二の句が継げずに呆然と彼女の顔を見つめる僕などお構いなしに笠井女史は話を続けた。
「本当、素晴らしい子供よ。この娘は!そう!奇跡……まさに奇跡の子供だわ!!」
笠井医師は酷く興奮して捲し立てていたが、一方僕はそんな彼女に大変冷めた視線を送っていた。この娘が奇跡の子?確かに本来なら体質的に子供なんて出来ないだろうと思われていた自分の腹の中から産まれてきたのだから、そういう意味ではある意味奇跡的な出生だったかも知れないが、親の自分でさえどう贔屓目に見ても、奇跡の子供どころか至って普通の五体満足な子供にしか見えない。第一、研究のために供与して欲しいと要請されて、たった一人の我が子を差し出す親が何処にいるというのか?しかもそれを言い出している本人は、一人の研究者である前に2人の子供の母親である。仮にも人の親であると自認しているのなら、こう云う事を言い出したら相手がどう感じるのか自分が一番よく解るだろうに、どうして態々こう云う事を言うのか、本気で理解に苦しんだ。
しかし、取り敢えず何処がどういう風に奇跡なのか?そこが妙に引っ掛かって気になったので、
「奇跡……ですか?」
と、僕は女史に向かって聞き返した。
「そう、まさに奇跡だわ!信じられる?実の親子なのにHLAが1箇所も違いが見られなかったのよ。父親のとは殆ど一致しなかったのに、子供のHLAが母親のそれと100%も一致するなんて奇跡以外の何ものでもないわ!いいえ、生物学会の常識を覆す世紀の大発見だわ!」
成程、笠井女史が興奮して大声で叫ぶのも無理もない、と僕は考えた。彼女の言う事が真実であるとするのなら、確かに奇跡である事に違いなかった。
HLAは主要組織適合遺伝子複合体(MHC)の一種で、ヒトの白血球等の細胞が持つヒト白血球型抗原を略した言い方である。平たく言えば赤血球における血液型と同じ様に白血球の型を示す物である。
同時にこれは、T細胞やナチュラルキラー細胞といったリンパ球が細胞性免疫において自己と非自己を明確に区別する、暗証鍵としても作用するので、細胞性免疫系が確立された以後は、このHLAの型が合わないと骨髄や臓器を移植しても拒否反応を起こしたり、それによる重篤な免疫疾患を発症して死に至ったりする事もあるので、現代医学において非常に重要視されている。
面倒なので細かい内訳の説明は省略させて貰うが、その型の種類は優に数万種類に及び、赤血球の比ではない。無論ABO式血液型と違い、一番一致する可能性が高い兄弟姉妹間で25%であり、赤の他人と一致する事が殆ど無いのは勿論、通常は父親と母親から半分ずつHLA因子を受け取るので、親子間で一致する事はまず有り得ず、あったとしてもその確率は1%以下と限りなく低い。しかも今回は僕と和樹のHLA型は全く違う物である上に、当の僕は性転換して女になった元男である。そら奇跡だと騒ぎたくもなるだろう。
僕だって学部は違えども大学で遺伝関係を囓っていた身だ。彼女の気持ちも解らない訳ではない。解らない訳ではないのだが……、
「考えられるのは、父親から受け継ぐ筈だったHLA因子の遺伝情報が、連鎖や組み換えを受けて偶然母親の物と同一の物になった……ってところかしら。ただ、偶然にしては出来すぎているわ。……ねえ、協力してくれないかしら?あたしも母親だから二の足を踏みたくなる気持ちも分かるけれど……。あたし、純粋にその子に興味があるのよ。」
「……すみません、お断りします。」
と、僕は丁寧に断った。確かに興味深い現象ではあるが、その為にやっと手に入れた子供を差し出す様な真似はしたくなかった。それに、それはそれで神の御業が成した奇蹟という事にしておけば良いではないか。態々その原因を究明する必要もあるまい。そう思うのだ。
暫く苦い表情で沈黙した後、
「はぁ……。」
と深く溜息を吐くと、
「わかったわ。ごめんなさいね。さっきの言葉、聞かなかった事にして頂戴。」
と言い残して、笠井女史は僕等の前から去って行った。
話の内容は解らずとも不穏な雰囲気は感じ取ったのか、気が付くと胸に抱いた赤ん坊が不安そうな表情をしながら僕の顔を見上げていた。僕は子供の顔を肩の上、首の辺りまでそっと抱き寄せると、
「大丈夫。心配しなくてもいいからね。」
と、子供の背中をトントンと掌で優しく叩きつつ語り掛けた。
日が暮れてそろそろ面会の終了時間が近付いてきた頃、やっと和樹が病室に見舞いに来て、開口一番こう言った。
「よっ、どうだ?体調は。」
早産で、しかも移動中の車内で産み落としかけるというとんでもない出産だった上に、後産を終えた後も暫く後陣痛が続くなど産後の肥立ちも芳しくなかったから、彼なりに僕の体調を気遣っているようだった。恐らく十中八九今一時の間だけで終わる優しさだろうが、僕は少しだけ嬉しく思った。
「ええ、大分良くなったわ。」
僕がそう答えると、赤ん坊のベッドの傍に置いてある見舞い客用の背もたれのない円形の青い合成皮革が表面に張られたパイプ椅子に座り込むと、和樹は安堵したように溜息を吐き、顔を上げて僕に話し掛けた。
「さっき看護婦さんとすれ違った時に聞いたんだが……。赤ん坊、新生児室から出たんだって?」
「ええ……。」
そう答えると僕は、脇にある小さなベッドの中で薄桃色の毛布に包まれてスヤスヤと寝息を立てている子供の顔を愛おしく思いながらそっと静かに覗き込んだ。
ふと顔を上げると、和樹もまた、同じ様に僕の向かい側から赤ん坊の顔を見下ろしていた。
二人で頭頂部を突きつけ合うように、子供の寝姿を左右から眺めていると、突然和樹が静かに口を開いた。
「俺さ……。」
「…………?」
「考えてみたんだよ。赤ん坊の名前。」
「……………。」
「桜……、っていうのはどうだろう?」
桜か……。恐らくはそういう名前のキャラクターがいて、そこから肖ったのだろうが、今年はもう桜が開花し始めているから特に変な感じもせず、女の子らしい可愛い名前だと思ったので、僕は特に異論を唱えず、和樹が名付けた名前を受け入れた。
退院したその足で直接、僕は自分の車を受け取る為に家族揃って調布警察署へ行った。あの出産のドタバタした時に、やむを得なかったとはいえ、エンジンを掛けたまま車を放置してしまったので、退院するまで一時的に警察署の方で保管しておいて貰ったのである。
入院中に和樹に手続きを取って家の駐車場に移動しておいて貰っても良かったのだろうが、和樹は滅多に車を運転しない上に、僕自身も家族とはいえ自分以外の人間に自分の車を触られるのも嫌だったし、何よりも無事に子供が産まれた事を報告するついでに、あの時助けて頂いた警察官の方にも会って一言礼を述べたかった。
無事に手続きを終え、桜を抱っこしながら和樹と並んで、車が保管されている駐車場まで歩いていると、奇遇な事に廊下の向こうから、先日の若い眼鏡を掛けた制服警官とその上司らしい、パトカーのハンドルを握っていた壮年で中肉中背な制服警官が並んで歩いて来ているのが目に入った。
僕が軽く頭を下げて会釈すると、向こうも此方に気が付いたのか、
「あっ!」
と叫びながら駆け寄ってきた。
「先日は、家内がお世話になりました。」
「お陰様で無事に生まれました。有難う御座いました。」
と、夫婦揃って感謝の言葉を伝えて頭を下げると、
「いえいえ、仕事ですから。」
「無事に産まれたんですね。どうなったんだろうと気になっていましたから、ホッとしました。おめでとうございます。」
と、若い方から逆に祝いの言葉を掛けられた。
すると、突然上役らしい警察官が僕等に向かって話し掛けた。
「ところで、お二人はお子さんの為にベビーシートはもう購入されたのですか?」
「いいえ、それは……。」
はっきり言って、産まれたばかりの子供を車に乗せて何処かに連れ回す、という発想は無かったので、チャイルドシートなら兎も角、長くても精々1年半程度しか使わないであろうベビーシートを買う気は今の所無かったし、人から借りようにも、身近な知り合いの家には、ベビーシートなど無いか、あったとしても現役で使っている子供がいる家ばかりだったから、借りる当てすら無かった。だからと云ってお巡りさんの前で、車は持っているけれど、乳児を車に乗せる予定が無かったので買っていない、とは口が裂けても言えないので、僕は茶を濁してしまった。
だが、お巡りさんはやれやれとでも言うかのように笑いながら、優しい口調でこう言った。
「まあ、今回は突然の事態だったようですから大目に見ますが、お子さんの命を守る為にも出来るだけ早い内に用意してあげて下さいね。何でしたら、各地の警察署・役所・公安委員会でもベビーシートやチャイルドシートの無償貸し出しを行っていますから、是非利用して下さい。」
「レンタルする事が出来るのですか?しかも無料で?」
僕は驚いた。そんな行政サービスがあったのか……。
「ええ、お住まいはどちらの方ですか?」
「吉祥寺の方ですが……。」
「吉祥寺か……。よく分かりませんが、おそらくそちらでも交通安全協会の方で無償貸し出しを行っている筈ですから、一度問い合せてみて下さい。……あ、そうだ!何処へやったかな……。」
と言いながら、警官は持っていた鞄の口を開けて、手を突っ込んでガサゴソと何かを探し出し、僕達の前に差し出した。それは、チャイルドシートの無償貸出に関する東京交通安全協会のパンフレットだった。受け取ってパラパラと中身を覗いてみると、少し型の古い廉価モデルから憧れのアップリカの上位製品の最新モデルまで、本当に期間限定だとはいえ無償で貸し出されていた。
実際に利用するかはさておいて、帰ったら直ぐにでも最寄りの警察署か市役所に問い合わせてみよう。桜を抱いた和樹が隣りの助手席に座る帰りの車中の中で、少しばかり興奮しながら僕は考えた。
マンションの駐車場に100系マークⅡを駐車し、和樹から桜を受け取って抱きしめると、僕等は駐車場からマンションへ向かって歩き出した。
家に着いてリビングに入って電気を点けると、目に飛び込んできた部屋の風景に心底僕は驚いた。
そこには、ソファーの後ろに置かれた真新しいベビーベッドと布団、毛布やメリーゴーランドのセットを始め、女の子らしい薄桃色や黄色などのベビー服が数着、ガラガラ、おしゃぶり、乳幼児用の玩具、紙オムツなど、当面必要になるだろうベビー用品が一箇所に纏めて大量に置かれていた。無論、どれも購入した覚えも誰かから貰った記憶も無い物ばかりである。
「ど、どうしたの?!これ……!」
一瞬言葉を失ったものの、僕は和樹に説明を求めた。
「ああ、桜が無事に産まれた事を伝えたら、一昨日の夕方に突然お袋と親父が訪ねて来てさ。まだこういう物を買ってない事を話したら、昨日はいきなり業者まで引き連れてこれを置いて行ったんだ。」
「これ……、全部……?」
「ああ。」
さらりと何でもない風に彼はそう言ったが、僕は畏れ多く思った。これだけ揃えるのに相当の支出をした筈だ。普段は嫌な人達だと思って、互いに関わらないようにしている分、心から僕は義理の両親に感謝した。……新しく買ってきたらしい割にはどこか草臥れているピカチュウのような耳と尻尾が付いた黄色い乳児服の裏を捲るまでは。
その服には、足を覆う部分……丁度足の裏に来る部分に、義姉の字で黒い油性マジックを使って『綺羅羅』と書かれていた。いや、この服だけではない、義実家から頂いた数十着のベビー服の全てに同じ名前が同じ人間の手によって書き込まれていた。要は、あまりにも女の子っぽくて甥子に着せられそうになく、手を持て余していた物をお下がりという形で桜に厄介払いしただけのようである。
しかしそれ以外は、早く揃えなければ、と内心焦っていた物ばかりだったので、僕はやはり有り難く感じた。
興味津々なのか、腕の中でモゾモゾ動きながら、ベッドに付いている色とりどりのプラスチック製の小魚の飾りが沢山付いたメリーゴーランドに向かって桜が手を伸ばそうとしている事に気が付いたので、早速僕は娘をベビーベッドの布団の中に仰向けで寝かせ、メリーゴーランドのモーターのスイッチを入れてみた。
スイッチを入れた途端、メリーゴーランドに付いていた小さなLEDの電飾が淡く虹色に輝きだし、ゆったりした電子オルゴールの音色と共に魚の飾りがゆっくりと回転し始めた。
いきなり音と光を撒き散らしながらメリーゴーランドが回りだしたからだろう。ただでさえ大きくて円な瞳をさらに大きくして桜は目を丸くした。そして非常に気に入ったのか、
「キャッキャッ。」
と嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら、上から糸で吊り下げられて空中を泳ぎ回る魚達を捕まえようとするかのように両手を伸ばし、瞳で魚の動きをグルグルと追いかけ始めた。
僕は、そんな娘の様子を、彼女が遊び疲れて眠りに落ちるまで、静かに見下ろしていた。
桜が寝入ってしまったので、僕らは夕食を取って風呂を済ませて、ベビーベッドの上に桜を一人残してリビングの電気を消すと、寝室へ向かって就寝した。
真夜中、何故か中々眠りに落ちることが出来ず、ウトウトしながら目を閉じていると、リビングの方で何かがガサガサと動く気配と共に、
「アウウウウ?アウア……!アウア……!バブゥ……。」
と寝言?を呟くような桜の声が聞こえて来た。何処か寂しげな、不安気にか細く響くその声の調子が少し気になったが、赤ん坊も人間だ、寝言の一つや二つ呟くだろう、と思って僕は聞き流してしまった。明日も朝が早かったので出来る限り寝ておきたかったのだ。実際その後すぐに桜の声は止んで静寂が戻ったので、そこまで重要な事だとは思えなかったのだ。
しかしながら、そう安堵して眠りに就こうとした刹那、
「ウ……ウ……ビエエエエエエエエエン!!……ウェ――――――ン!アウア!アウア!」
と、凄まじく大きな赤ん坊の泣き声が、リビングの方から暗闇を伝って僕の耳に聞こえて来たので、僕は吃驚して飛び起きると桜の元へ駈け出した。
リビングの電灯を点けてベビーベッドに駆け寄って中を覗き込むと、顔に大きな皺を作りながら桜はワンワンと大泣きしていた。
急いで桜を胸に抱き寄せ、あやすようにユサユサト揺らして宥めていると、その内泣き声が段々小さくなり、やがて眠りに落ち、スヤスヤと寝息を立てる音を除けば再び辺りに静寂が訪れた。
暫くすると、今度は寝室の方からガサッという音が聞こえ、少しペースが速くて音も大きな、明らかに苛立っているような足音と共にリビングに和樹が入って来た。どうやら起きてしまったらしい。部屋に入るや否や、彼はすごく不機嫌そうな声を上げて僕を問い質した。
「一体どうした?何だったんだ?今の……。」
「ごめんなさい。桜が夜泣きをしてしまったみたい。もう収まったわ。」
僕が眠りに落ちた桜をベッドの上に仰向けで寝かせながらそう答えると、
「夜泣き?」
と和樹はなお苛立ちながら訊き返してきた。
「……ひょっとして、これから毎晩続くのか?勘弁してくれよ……。」
うんざりしたい気持ちはよく解るが、如何せん赤ん坊のする事である。少しは大目に見て我慢して欲しいのだが、彼の性格を鑑みるにそう云う訳にはいかないだろう。気が滅入りたいのは僕だって一緒である。
桜を妊娠中に出席していたマンションの管理組合の会合の後、同じマンション内の主婦達と雑談をしている時に、先輩ママの人達から赤子の夜泣きの恐ろしさについての苦労話を聞かされて散々脅かされたが、確かにこんな真夜中や朝方に、一度どころか何度でも毎晩のように叩き起されるのは、想像しただけで鬱屈としてくるものがある。
しかしながら逆に、どうして赤ん坊は夜泣きをしてしまうのか?その原因を紐解いて行けば快適な睡眠を妨げられる事も無いのではないか、と僕は考えた。
そうした中で僕は、コンラート・ローレンツの『ソロモンの指輪』の中に著述されていたある逸話を思い出した。
ある日、ローレンツ博士はハイイロガンの卵の人工孵化の観察実験を行っていた。もう間もなく生まれようとするその卵の雛が無事に孵化したのを見届けたら、博士はこの雛を母鳥の元へ返そうと目論んでいたが、孵化した雛が一番最初に見た物が博士だった事から、雛は博士を親だと認識し、本当の母親の所へは決して向かおうとはしなかった。(この時初めて『刷り込み』という現象が発見された)
仕方なく博士はその雛にマルティナという名前を付けて、フィールドワークも兼ねてその娘を養う事にした。そしてその一連の顛末が一つのエピソードとして先述の本に記載されている訳だが、その中に次のような事が書いてあったように僕は記憶している。
博士はマルティナを、それこそ実の娘と同じ様に慈しみ、彼女の為にふかふかのクッションと柔らかい布地、そして更に小型の電気毛布をバスケットに仕込んだ彼女専用のベッドを拵えてやり、夜になれば彼女をそこに寝かせて自分の枕元に置いていた。
ところが、普段はとてもいい子のマルティナだけれども、夜泣きが激しく、毎晩のように
「ピープッ!ピープッ!」
と泣き叫んでは博士を憔悴させていた。
毎晩のように叩き起されるのに辟易した博士は、何とか彼女の夜泣きを抑えようと、ベッドに色んな細工や工夫を凝らしてみたが、どれも今一つ効果を上げなかった。
しかしながら毎晩のようにマルティナの鳴き声を聞いている内に、博士はある事に気が付いた。
先ず、マルティナはいきなり大声で夜泣きを始める訳ではない。夜泣きを始まる前に必ず、
「ヴィヴィヴィヴィヴィッ?」
と云う、誰かに呼び掛けるような小さな鳴き声を上げていた。博士はその的確な観察眼と長年の研究で培った経験から、それが意訳をすれば、
「お母さん!お母さん!どこー?」
という、子供が母親を探している鳴き声である事を突き止め、更に様々な試行錯誤の上、親のガンが子供のガンに呼び掛ける、
「お母さんはここにいるから、安心しなさい。」
という意味の鳴き声である、
「ガガガガガガ!」
という音を出してマルティナの背中を優しく叩いてやれば、
「ヴィルルルル……!」
という満足気な声を上げて、彼女が夜泣きをしない事を発見した。
もしも、誰かが眠っている私の耳元で、
「ヴィヴィヴィヴィヴィ?」
といったら、今でもすかさず、
「ガガガガガ!」
と私は答えるだろう。そのように博士が書き記している位なので、実際に物凄く手を焼いていたのだろう。
兎も角この出来事のお陰でローレンツ博士は、母親の姿が見えない事からの不安、そして母親が近くにいて庇護しているという安心を求める寂寥感と逼迫感から、雛鳥は夜泣きという行為をするのだと結論付けた。
さて、桜の夜泣き対策も同じ様に考えてみよう。そう思って思案し始めたものの、あっという間に結論が出てしまったので、僕は考える事が馬鹿馬鹿しくなってしまった。
そら、こんなただ広くて真っ暗な部屋にたった独りで取り残されたら泣いて当然だろう。
下手すると大人でも、百物語や一人かくれんぼをしたり、幽霊や妖怪の類を創り出したりする程、暗闇というものに恐怖という物を連想して畏れるくらいだ。赤子ならさもありなんだろう。
しかも桜は此方が全面的に世話をしなければ生きていけないか弱い乳児である。庇護してくれる母親がいないという状況など、絶望以外の何ものでもないだろう。夜泣きをするなという方が酷である。
そうとなれば桜の夜泣き対策は自ずと決まってくる。リビングの電気を点けっ放しにしておくか、一晩中桜を胸に抱いてあやしながら過ごすか、その両方か……。蛍光灯を点ける事は体内時計のリズムと子供の成長に与える影響を考慮すると論外にも程があるので、今の所一晩中一緒に過ごすのが一番現実的であるように僕は思った
「ごめんなさい、あなた。わたし、今夜からこの娘とこっちで一緒に眠る事にするわ。その方が夜泣きをしてもすぐ泣き止ませる事ができるでしょうし。」
和室の押入れから毛布を持ってきてソファーの上に敷き、その中で寝転がりながら僕は和樹に声を掛けた。そして、
「そうか……。わかった。じゃあ、電気消しとくぞ。」
という彼の声を合図に、僕はソファーの上に、和樹は寝室でと、その日の晩は別れて眠る事になった。
その後、僕は新しく布団を購入して和室に敷き、その上で桜と共に眠り始めた。そして何時の間にか和樹も同じ様に隣に布団を敷いて和室で就寝するようになり、結局今まで使っていた寝室を、将来は子供部屋にするという事で桜に譲り渡す事になるのだが、それはまた別の話である。