第五章:最後のチャンス!~出産へ
>>薫
2039年になって少し経った冬のある日、お姉様が懐妊されている事が発覚した。そして同じ年の9月3日、無事に元気な女の赤ん坊が誕生し、お姉様に顔立ちが良く似たその娘はお姉様と征司さんによって『麗奈』と名付けられた。
その年の4月2日には、義姉が長男の『雅樹』を出産していたので、僕の周りではちょっとしたベビーブームが巻き起こっていた。
そして、この流れに乗り込んで自分も子供を手に入れてやろう、と画策した僕は、和樹をその気にさせる為にあの手この手を講じていた。
下品な話、やるやらない以前に和樹が家に帰って来ないと話にならないので、まず夫が真っ直ぐ家に帰ってくる、否帰りたくなる環境を整える事に僕は尽力した。例えば、今までは酔っ払ったり酔い潰れたりしたら色々と面倒な事になるからという理由で家の中への持ち込みを遠慮して貰っていたが、少しだけ譲歩して、仕事上または付き合いでどうしても顔を出さなければいけない場合を除いて必ず家で飲む事を条件に、規制緩和をして多少の酒類を家の中に置いておく事を許す事にした。
他にも、料理を作り終えてから夫の皿にだけ塩やその他の調味料を加え、義母が作る料理のそれ…彼好みの味付けになるように工作して和樹の機嫌を取ったり、性的興奮を促進させる為に下着の代わりにビキニタイプの水着を着て、胸元が大きく開いている服とか裾の短いスカートを履くとかした際疾い格好を家の中ではしたりして、努めて夫にとって居心地の良さそうな環境を整えた。
これで上手く自分の思惑通りに事が捗れば万々歳だったのだが、実際はそういう訳にもいかず、急に僕が懐柔策に乗り出した所為か、何かを警戒するように僕を一瞥するだけで、和樹は何かと理由をつけてなかなか家に戻って来ようとはしなかった。急いては事を仕損じる、急がば回れ等と云うので、彼がその気になるまで根気よく続けようと思っていたが、それでも何処かモヤモヤとした気分の悪さを感じ、憂鬱になりながら僕は日々をすごしていた。
さてそんな中、立春を迎えて大分立ち、そろそろ3月も半ばに差し掛かったので衣替えをしようと寝室のクローゼットの中に仕舞ってある衣類ケースを引っ張り出して漁っていると、ふと高等部時代に着ていた紺色のスクール水着が、何故か夏物の下着や水着の中からではなく、春物のシャツ等が入ったケースの中から現れた。
不思議に思いつつも高等部時代を懐かしく思いながらそれを広げて眺めていると、突然僕の頭の中に、これは使えるのではないか?という考えが思い浮かんだ。思ってみればこの水着を学院の水泳の授業以外で身に付けたことは全く無く、従って和樹にこのスクール水着を着た姿を見せた事も全然無かった。
しかも彼は二次元美少女が出て来るエロゲーが好きなオタク気質の持ち主で、かつ女装していた僕に恋慕した挙句、性別さえ男から女に変えてしまった変態である。更に言えば、ヒトが大便をしている所を凝視しながら欲情に駆られる様なマニアックな性癖まで持ち合わせているから、スク水姿なんかを披露すれば喜んで飛びつくかもしれない。
物は試し、善は急げ、と僕はスクール水着に着替えてみる事にした。
高2の初夏に購入して以来高3の時まで使っていた水着なので、まだ着られるかどうか不安だったが、何の事もない、特にきついと感じる事もなく易々と着る事が出来てしまった。考えて見れば高校時代から身長も体重も3サイズも特に変化していないのだから、着られないという事の方がおかしいのだが……。あ……でも、少しだけ胸の辺りがきつくなったような気もしないでもないけれども……。まあ、大丈夫だろう。
家には全身が映せる様な大きな姿見が無いので、恐らく家にある鏡の中で一番大きなものであろう洗面所の鏡の前に立って自分の姿を確認してみた。さすがにあれから10年近くは経っているので少しだけ老けた感じが否めないが、中学時代からずっと同じ眼鏡を愛用し、高等部時代から髪型を変えていない所為か高等部の学生だった頃と見て呉れがあまり様変わりせず、学院時代の事がありありと思い出されて懐かしさで心がいっぱいになった。
みんな元気にしているだろうか……。
同じクラスになった友人達の殆どとは大学に進んでから疎遠になったし、学生会で共に活動した親友達も皆、互いが結婚してからはだんだんと音信も途絶え、今現在まで家族ぐるみで交流があるのはお姉様と杏子様位のものである。
同窓会のような物でもあればいいのだろうが、そういう話が出る訳でもなし、そうかと云って自ら幹事になって皆を集めるというのも面倒だし、こんな草臥れた姿を仲間達の目の前で晒すのも気が引けた。
まあ、一人で勝手に気が滅入っていても仕方がない。取り敢えず今は夫が帰って来るまではこの格好で過ごす事に決めると、僕は鏡に背を向けて洗面所を出て行った。
スク水を着た姿を和樹の目の前で見せると、予想以上に好評を博したのかと思いきや、スク水の上にエプロンを着てキッチンで食事の用意をしていた僕の腰に艶めかしく両手を回して愛撫しつつも、和樹は警戒をしているのか何かを勘ぐるように、
「なあ、薫。お前、最近ちょっとおかしくないか?」
と、僕の左肩に顎を乗せて左耳に息を吹き掛けるようにそっと囁いた。
僕は、鬱陶しいな…昔みたいにさっさと襲えよ、と内心苛立ちながらも、
「あら、何を言っているの?わたし、普通よ。」
と、作り笑いをした。
突然、険しい表情になったと思ったら、そのまま和樹は物凄い力で後ろから僕をガシッと抱き締めた。あまりにも強い力と体を締め付けられた猛烈な痛みに驚いてか細い叫び声を上げてしまったが、やっとその気になったのか、と内心嬉しく思いつつ手に持っていた包丁を俎板の上に寝かせると、僕は全身の力を抜いて彼に身体を預けた。
しかしながら彼はそれ以上僕に手を出そうとはせず、代わりにまるで地獄の底で静かに煮えたぎっている大釜のような明らかに怒気を含んだ恐ろしい声で話し掛けてきた。
「お前さ……。ひょっとして俺以外の男と浮気しているんじゃないだろうな?」
「…………?」
震え上がるよりも先に、こいつは何を言っていのだろう?と拍子抜けながら夫の瞳を覗き見た。僕としては手っ取り早く子づくりに勤しんで次の子供を孕みたいだけなのだが、目の前の男は違う思惑を予感したらしい。目が真剣そのものだった。ただし、如何なる過程を経てそう云う結論に達したのか、皆目見当がつかないので僕は当惑した。
「い……嫌だわ、あなたったら。冗談も程々にして下さいませ。わたしがあなた以外の男と目合うなんて事がある訳ないでしょう?……そんな事より、久しぶりにエッチしましょう!」
馬鹿馬鹿しい、そう思って夫の言い掛かりを黙殺すると、僕は彼の腕の中で身体を回して彼の方に向き合い、背伸びをして彼の胸板に乳房を押し付け、上目遣いで和樹の顔を見つめながら一心にその体を求めた。
だが、彼は表情を緩める事もなく僕に詰め寄った。
「ほら、そこだ!そこなんだよ!」
「…………?」
訳が分からず呆然としながら僕は和樹の顔をただただ見上げた。
「結婚して3年、出会ってからはもう10年近くも経つが、お前の方から求めてきた事なんて、今の今まで一度も無かっただろ!どうして今になって急に発情しているんだ?どう考えてもおかしいだろ!」
そう言って両手でガシッと僕の両肩を掴むと、彼は僕の身体をブンブンと前後に揺らし始めた。
「なあ、薫。お前、俺が居ない間に他の男と生でやって、それを誤魔化す為にセックスしたがっているんじゃないだろうな?」
「違います!」
三半規管に思い切り響く位頭が激しく振動して気持ち悪いやら、和樹のあまりにも突飛な思考に閉口するやらで、げんなりしながら僕はそう答えた。
しかし、納得しかねているのか、尚疑り深い視線を和樹は僕に向かって投げ掛けた。
「なら訊くが。どうして最近そんなに色気付くようになったんだ?いくら何でも不自然にも程があるぞ。」
「それは……。」
それを僕の口から言わせるつもりなのか?信じられない!と愕然としつつも、僕は口を固く閉じて和樹から目を逸らした。
「なあ……どうなんだ?」
「………………。」
「黙っていたら判らないだろ!どうなんだよ!」
「………………。」
「なあ、薫!」
半ば悲鳴のようにも聞こえる和樹の度重なる悲痛な怒声を耳にする内に、その声に応えなければいけないと思う良心の呵責と、本当に下らない卑小な本心を曝け出したくないという自尊心との板挟みで、僕の心は段々と耐えられなくなっていった。
そして遂に、何時の間にか目尻に涙を溜めながら、僕は心の奥底に押さえ込んでいた感情を和樹に向かって吐露していた。
「どうしても……どうしても子供が欲しいのよ。」
僕の言葉に一瞬虚を衝かれたように目を丸くしながら押し黙ったが、直ぐに真顔に戻ると和樹は静かに僕に語りかけた。
「それは知っている。でもな、薫……。お前は…その……体質的に難しい事をお前自身が良く解っているだろう?……それに、別に子供が居なくたって構わないじゃないか。兄貴の所に雅樹も生まれたし、俺達が跡継ぎを作る必要はもう無いんだからさ。このまま夫婦2人だけの生活でもいいじゃないか……。何が気に食わないんだ?」
「……悔しいのよ。」
と、僕が乾いた雑巾を絞り切ったようにか細い声を上げると、不可解なものでも見るかの様に怪訝そうな顔をして和樹は黙って僕の顔を見つめ、そしてこう問い質した。
「悔しい?」
「だってそうじゃない!葵お姉ちゃんも、お姉様も、杏子様も、お義姉さんも……みんな普通に妊娠して、無事に元気な赤ちゃんを産んで、凄く幸せそうにしているのに……。どうして……どうして、わたしだけ……わたしだけ…………。」
今度は大声で泣き叫びながら、僕は和樹に向かって自分の心中を思い切りぶちまけた。が、彼はそれ程ピンと来なかったのか、
「そんな事を言っても仕方が無いだろう。」
と、僕を抱きしめて宥めながら諭し始めた。
無論和樹に指摘されずとも、言っても仕方が無い事だし、こう云う事に対して嫉妬心に駆られる位馬鹿馬鹿しい事も無い事だって僕自身重々承知している。実際幸せそうにしているのが全くの赤の他人だったら、単に羨ましいだけで済んでいただろう。
だが、義姉も葵姉ちゃんもお姉様も杏子様も僕にとってはとても親しい人達である。ただ単に一期一会ですれ違う程度の他人と違って、互いに互いの生活や人生の全容を良く知っている間柄で、頻繁に顔を合わせる人々である。だからこそ、会って幸せそうに子供と過ごしている様子を見せ付けられる度に、絶え間ない羨望と劣等感から、まるで般若の如く怨恨に苛まれてしまう。
しかも一方で、義姉は置いておくとしても、彼女達は僕の大好きな人達で、僕にとって大切な人達である。だからこそ幸せになって欲しい、と本心からそう思う。だけれども僕を差し置いて幸福に享受する事だけはどうしても許せない!そんな矛盾を心の奥底に抱かえて葛藤しながら僕はこの数年間をずっと過ごしてきたのである。そして、誰も不幸にする事も無く僕自身の心が救済される為には、僕自身が子供を授かるのが一番手っ取り早い解決方法だった。
それだって嘗ては絶望的に有り得ない、万に一つ起きるか起きないかの奇跡だったかも知れないが、日進月歩の医学の成果により、百に一つ起きそうな所まで飛躍的に確率が向上している。可能性は十分にある。
そして自分の齢が25歳という、子供を宿すのに恐らく最も適した年齢に差し掛かっているという、機運が熟したように感じていた。だからこそ、今行動せずに何時にせん、と自分一人だけが焦燥に駆られて空回りしてしまっていたのである。
色んな想いが心の底から続々と込み上げてきたが、その場で上手く言葉に纏める事が出来ず、僕は一向和樹の胸の中で泣き続け、そうして気が付くと何時の間にかリビングのソファーの上で僕は彼を押し倒し、彼の股間の上に馬乗りになって無我夢中で腰を振り続けていた。
2040年の8月某日、葵姉ちゃんが2人目を妊娠している事が発覚したのと前後して、僕の胎内にも新しい命が宿っている事が確認された。
以前にもお世話になった坂上医師から妊娠している事実を知らされると、僕は自分のトートバッグの中から、父が郵送して来た、例のカサイ博士が著した最新の論文が掲載された医学学術誌を取り出して先生の目の前に差し出し、こう切り出した。
「先生。わたし、母体介添型の不妊治療を受けようと考えているのですけれど……。」
すると、坂上医師は嬉しそうにこちらの方を向き、
「そうですか、それなら話が早い。私も今、奥さんに奨めようと考えていたところでしたから。」
と言った。
「ええ、それで……実は父とも相談したのですけれど、治療を開始するに当たって、この論文を書かれた先生の所へ是非受診したいと考えていますの。つきましては、お手数を掛けしますが、このカサイ先生の所へ紹介状を書いて頂けないでしょうか。」
と、僕は坂上医師に向かって頭を下げた。
ところが、坂上医師はさっきとは一転して少し困ったように禿げかけた頭を書きながらこう答えた。
「慈恵のカサイ先生ですか……。紹介状を書くのは一向に構いませんが、正直受診できる保証はしかねますよ。」
「…………?」
彼の言っている事がよく分からず、最初僕は思わず小首を傾げた。
彼の説明によると、カサイ医師の論文が発表されてから、全国にいる僕と同じ様に例の性転換薬の女性になった元男性から問い合わせや申し込みが殺到しているようなのだという。さらに博士本人がバリバリの研究畑の人で慈恵医大でも教鞭を執っている等何かと忙しい人なので、そうしたアポイントの殆どを断っているのだという。
「だから、こちらから先方へ富士之宮さんの事を紹介してみますが、向こうが承諾してくれる可能性はかなり低いですよ。それでも構われませんか?」
そう、真剣な眼差しを向けて念を押すように、坂上医師は僕に向かって尋ねてきた。だから僕も先生の瞳を射抜くように真っ直ぐ見つめながら、
「はい、構いません。宜しくお願い致します。」
と、大きくはっきりと答えた。
どうせ出たとこ勝負である。駄目なら駄目だったで、他の方法を取ればいい。取り敢えずまずは、近所の信頼できる掛かり付けのお医者さんに紹介状を書いてもらってアポイントを取る、これを実行に移す事にした。
数日後の夕暮れ時、坂上先生から我が家へ電話が掛かって来た。
「すみません。出来る限りの事はやってみたのですが、やはり断られてしまいました。」
そう言って、顔が見えなくても明らかに肩を落としている様子が容易に想像できる位がっくりとした声を出しながら先生は何度も僕に謝った。
元々断られる公算の方が大きく僕の方だって覚悟はしていたし、無理なお願いをしたのは此方の方なのだから、そんなに頭を下げられると申し訳なさのあまり却って此方の方が気を遣ってしまう。
「そんな、無理を承知でお願いをしたのは此方の方ですからお気に為さらないで下さい。わたしの方こそ、お手数を掛けて頂いて本当に有難う御座いました。」
誰も見ている訳でもないのに無意識の内にペコペコと頭を下げて礼を言うと、僕は電話の子機を充電器のスタンドの上に戻して大きく溜息を吐いた。やれやれ、やっぱり駄目だったか。
さて、それならすぐに次の手段を講じなければならない。僕は再び子機に手を伸ばすと、私立の医大を卒業して今は彼女の祖父が経営する病院で研修医をしている瞳ちゃんの携帯に電話を掛けた。
少しの間呼び出し音が受話器の中で鳴り響いた後、ガチャリという音と共に、
「もしもし……。」
と言う懐かしい声がスピーカーから聞こえてきた。
「ああ!もしもし、瞳ちゃん?」
「え?……ええ、そうですが……。その……、どちら様ですか?」
「ああ!ごめんなさい、わたしったら……。薫です。」
僕の声を覚えていない様だったから、慌てて自分の名前を名乗った瞬間、電話の向こうからバタンっと椅子か何かが倒れた時の様な派手な音がして、時間差で瞳ちゃんのしどろもどろな声が聞こえてきた。
「か……、薫様……?!え、何で?どうして?!」
一先ず瞳ちゃんを落ち着かせた後、妊娠した事、そして不妊治療を受ける事にした一連の経緯を彼女に向かって簡単に話すと、僕は本題を切り出した。
「……それでね、瞳ちゃん。あなた、慈恵医大の出身だったわよね?」
「ええ、そうですけれど……。それが何か?」
「カサイ先生ってご存知でないかしら?慈恵で教鞭を執っておいでだと思うのだけれど……。」
「はい、存じて居ますわ。わたしもあの人の講義を受けた事がありますから。でも残念ですわ。わたしはあの人の研究室の所属では無かったので、面識はあっても親しい訳でもありませんし。専門にしている科も違うので紹介状を書いて差し上げる事も出来ませんわ。申し訳ありません。」
「…………あ!」
切られた。『カサイ先生』の話を出した途端、心なしか声がウンザリした調子に代わり、そのまま一蹴されてしまった。僕はがっくりと肩を落とした。
仕方ない、また別の方法を考えるか……。そう気を取り直すと、僕は子機の外線ボタンを押し、今度は父の携帯に電話を掛けた。
「……もしもし、薫か?」
車の運転中だったのだろうか、父の不機嫌な声共に車のエンジンのアイドリング音とウィンカーリレーのチカチカ音が受話器の向こうから聞こえてきた。
「ごめんなさい、お父さん。運転中だった?」
「まあな……。で、どうかしたのか?」
「うん、実は相談というか、お願いしたい事があったのだけれど……。また後にするわ。家に着いたら連絡してくれませんか?」
そう言うと、僕は一度電話を切って子機を充電スタンドにセットした。
暫くして、実家の方から父が折り返しで僕の所へ電話を掛けて事情を訊いてきたので、妊娠している事が判明した事と不妊治療の補助を受けようと考えている事を伝えた上で、父が持つコネクションを使って、僕がカサイ医師の治療を受ける事が出来るように橋渡しをしてくれないか、と切り出した。
「どうでしょうか?」
と僕が言うと、電話口の向こうで渋るように唸ったまま父は押し黙ってしまった。
やはり駄目か……、と思いつつも、
「お父さんに迷惑を掛けている事は解っています。でも、これに賭けたいんです!お願いします!」
と全力で頼み込んだところ、
「わかった……。やるだけやってみよう。……でも、今回だけだからな!」
と渋々ながらも父が承諾してくれたので、僕は嬉しさのあまり、
「はい!分かっています。……ありがとう。お父さん、本当にありがとう……。」
と、心の中ではしゃぎながら涙を流して感謝の言葉を述べていた。
そして一週間後、父から紹介状が添えられたベージュ色の封書が僕の手元へ送られて来たのだった。
ずっと男性だと思っていたので、実際に診察室でお会いした笠井 瑛博士が妙齢の……四十路も半ばに差し掛かったような女性だと判った時は目が点になった。そして世間話で彼女に小学生の息子が2人いる事を耳にした途端、この人が持つ研究成果を頼って治療を受けに来たものの、僕は早くも自分が選択ミスをした事に気が付いて後悔していた。
一般に、産婦人科のような女性が深く関わるような所では、男よりも女の医師の方が良いと考えられがちである。いや、確かに同じ女性だからこそ解りあえて意思の疎通が潤滑に図れる部分も勿論あるのだが、事に妊娠・出産に関していえば必ずしも女の医師の方が良い訳ではなく、寧ろ男の先生の方が結果的に良かったりする時が多かったりする。
というのも、男は妊娠・出産が出来ない分その痛みや苦しみを想像で補うしか無いので、患者が少しでも不調や不満を訴えた場合迅速に処置してくれたり、余程医学的に考えて常軌を逸した物では無い限り、少々無理な要望を親身になって聞いてくれたりする場合が多いのだ。そして、これはまだ妊娠や出産の経験の無い若い女医にも当てはまる。
一方、妊娠出産経験済みの年配の女医さんの場合、特に初めて妊娠して出産を迎えるような未経験の患者において、経験者という1段も2段も上の立場から、ああしろ、こうしろ、わたしの時はこれで上手くいったからその通りにしろ、と経験者故の心強さや頼りがいがある反面姑並みに小煩く細かい所まで指導してくるので、当たり外れが物凄く激しいらしい。あくまで身近にいる経験者の皆様の意見を僕なりに総括してみただけなので実態はかなり違うものなのかも知れないが、ハズレだったらどうしよう……、と心の中で僕は戦々恐々とした。
というか、ハズレである可能性の方がずっと高そうだ。何というか、丸いとしか形容しようがない程腹に肉が付いたポッチャリとした体型に、同じく肉付きが良すぎる丸顔には額や口元に小皺が沢山刻まれていて、セミロングの茶髪にコテコテのパーマをこれでもかと当てた挙句此方の様子を舐めるように観察している、縁が赤い楕円形のレンズのメガネを掛けて薄桃色の白衣を羽織った目の前のおばちゃんを見て、僕は率直にそう思った。
事前に記入して看護師に手渡していた僕の問診票を左手で取り、右手に持ったペンをクルクルと回して手慰みをしながら、笠井医師は僕に向かってブツクサと、およそ淑女としては似つかわしくはないぶっきらぼうな調子で語り掛けてきた。
「しっかし……、驚いたわよねぇ……。こんな若い娘の為に天下の京都大学の医学部の学部長……それもあたしと同じ産婦人科の専門医が、態々宜しく頼むって頭をさげてきたんだから……。いくらあたしでも旧帝の偉いさんの要請を無下に断る、なんて事出来ないから診てあげるけれど、あんた一体何者なの?」
「娘です……。」
本人はそのつもりは無いのかもしれないが、何処か刺があって嫌味な言い方にイラつきながらも、グッと耐えて僕は静かに答えた。
此方がどれだけイライラしても素知らぬ風を突き通す心算なのか、笠井医師は右足を上にして組んでいた足を右足が下になるように組み直すと話を続けた。
「……ふん。それにしては苗字が違うようだけど?」
「結婚して夫の苗字に変わったので……。」
「……そう。」
そう言うと笠井女史は右足で床を蹴って回転椅子を半時計回りに90度回り、僕に少し背を向ける形で机に向かってカルテに何かを書き込み始めた。そして再び顔を上げて僕の方に顔を向けると、
「じゃあ、今から治療に当たって簡単な問診をするけど……。その前に一つだけ言わせて頂戴。」
「…………?」
「たとえどんな事があっても、主治医である『あたし』の言う事を絶対に従って頂戴。何も訊かずにあたしの言う事をよく聞くのよ。他の人が何と言おうがあたしの方が正しいのだから。医者としての治療と一緒に、2人の子供を産んで育てている先輩ママとしてもアドバイスしてあげるから、感謝しなさい。」
「は……はい…………。」
自信満々の女史の態度に不安を感じて苦笑しながら、ああ…これは本当にハズレかもしれないな……、と僕は心の中でガックシと肩を落とした。
が、何にせよ賽は投げられた。もうここまで来たらこの人に何処までも縋るしか無いのだ。こうして僕の出産までの長い日々が幕を開けた。
運命のデッドラインである7ヶ月目の検診を今度は無事にパスをし、特に大きなトラブるもなく臨月を迎え、予定では次の月の頭に出産を控える事になった2041年3月12日の事だった。
年が開けてからずっと冬の割には暖かい日が続いていたからだろう。例年よりもずっと早く桜の開花が観察された、と報じる昼のワイドショーのニュースを視ながらソファーに腰を掛けて本を読んでいた時、突然重厚なハンマーか何かで軽く殴られた様な鈍い痛みが下腹に走り、思わず僕は大きくなった腹を抱かえてその場で蹲った。
満潮で満ちた海が引き潮に向かって下がっていく様に鈍い余韻を残しながら痛みは引いていったが、まだ予定日まで大分あるのにも関わらず、僕は陣痛だと確信した。
まだ下腹に痛みが残っているし、またこれからもっと激しい痛みが襲ってくるだろうとも考えたが、兎に角病院へ行こう!と考えた僕は慈恵会医大第三病院へ電話を掛け、陣痛が始まったのでこれから向かう、との旨を連絡すると、急いで身支度を整えて出かける準備をした。
まだ急を要する程酷い陣痛が訪れている訳ではないので救急車を呼ぶのも気が引ける。会社にいる和樹に電話して家に呼び戻し、車で病院まで運んで貰うのが一番良いのだろうが、年度末で忙しいそうなので手を煩わせる訳にはいかないし、第一奴の性格を考えても帰って来るか怪しい。というより下手をすると、
「そんな事で一々電話するな!馬鹿野郎!」
と怒鳴られるのが関の山だろう。……頑張って自力で行こう、そう思って僕は100系マークⅡのキーを手に取ってハンドバッグを手に取ると、壁に手を着いて寄り掛かりながらエッチラオッチラと歩き始めた。
どうにか駐車場に停めてある車まで辿り着いて乗り込むと、シートベルトを締めてエンジンを掛け、発車措置をしてから僕は車を急発進させた。
時間が経つにつれ、まるで地震津波のように激しい陣痛が次々と襲い、最初はまだ周囲の状況も何とか気遣える程度で済んでいたものの、最初の陣痛を感じた頃から1時間も経った頃には、運転どころか座っているのもやっとな位身体が苦しくなり、シートベルトに締め付けられながら僕はバケットシートの中で激しくのたうち回っていた。
幸か不幸か、もう目の前に病院の白い建物が見えている所まで来ているにも関わらず、僕の車は信号待ちの渋滞の長い車列に填って立往生していた。
向こうの方に赤く灯っていた信号機の灯火が消え、入れ替わるように青い電灯が光始める。向こうの方に見える銀色に輝くトラックのコンテナがゆっくりと遠ざかり始め、前に止まっている車が制動灯の赤い光を順番に消していって徐々にゆっくり動き出して行く。が、僕の方はそれどころではない、歯を食いしばって陣痛に堪えながらも左手をインパネのセンターパネルのエアコンの吹き出し口の方に手を伸ばし、ハザードランプのスイッチを入れてから、崩れるようにシートに深く座り込んだ。
最悪な事に3車線の内の真ん中の車線で停車していたので、後続の車からパ――――ンと激しいクラクションの嵐を浴びたけれども、どうしようも出来ずに僕はただ蹲って耐えていた。そして後続の車もそうした気配を感じ取ったのか、ウインカーを付けて車線変更をして、次々と僕の車の両側を追い越して行った。
どれ位時間が過ぎ去っただろうか、今までも苦しかったが、突然これまで経験した事が無い程激しい痛みが下腹を襲ったかと思うと、まるで大便をひり出す時の様な感覚と共に、何かが腹の中から股間の方へ下りて来るように感じた。まだそれどころではないのに、赤ん坊が外に出て来ようとした。
「駄目!駄目!まだ出てきちゃ駄目!」
と、膨らんだ腹に向かって喚いたが既に時遅し。あれよあれよという間にマンコが開いていき、太腿に何か丸くて固い、表面がザラザラした物が当たるのを感じた。気が付くと、股間の辺りのロングのワンピースのスカートの裾がグッショリと濡れて滲み、車のシートやフロアのカーペットにも同じ様な大きな染みが浮き出ていた。何時の間にか破水していたらしい。
苦しさのあまり薄れていく意識の中、僕はふと、いっその事ここで産み落として楽になってから病院へ向かおうか、という考えが頭を過った。ところが、
「も……もう出てきていいから!さあ……、早く出て来なさい。」
と、シートベルトのバックルを外して赤ん坊に向かって呼びかけた途端、今まで順調にその身体を出していた赤ん坊の勢いが、まるで出ようか出まいか考えあぐねている様に急に落ち込んだ。
「ちょ……ちょっと、どうしたの?赤ちゃん……。で…出てきてもいいのよ……。ほら……、おいで!」
僕は焦った。産むのならとっとと産み落とした方が良い。下手に長引かせると赤ん坊に余計なストレスが掛かってしまう事になる。もしかしたらもう既に異変が起こっているのかも知れない……。そう思うと居ても立っても居られなかった。
どうしよう……、そう思ったその時、突然後ろからファンファンとけたたましく鳴り響くパトカーのサイレンの音が響いてきた。
何とか首を動かしてルームミラーを見ると、僕の車のすぐ後ろに紺色の制服に制帽を被った男の警官が2人乗ったクラウンの白黒パトカーがパトランプを点けてサイレンを鳴らした状態で停車しているのが見えた。
すると、助手席に乗っていた眼鏡を掛けた若い警察官が、車から降りて僕の方へやって来て運転席のガラスをドンドンと激しく叩いた。
「もしもし!どうしました?大丈夫ですか?!」
た……助かった……。そう感じた僕は最後の力を振り絞って運転席のドアノブに手を伸ばし、ドアを開けるとそのままその警察官の腕の中に撓垂れた。
「た……助けて……。あ……赤ちゃんが……。」
いきなり若い女に抱きつかれた挙句助けを求められて警官は面食らった様に目を丸くしたが、僕の大きな腹と不自然に濡れた車内、そして僕の股間から顔を出そうとしている赤ん坊の頭を目にした途端ハッと表情を変え、此方の様子を窓から顔を出して見守っていたパトカーの運転手の方へ顔を向け、
「大変です!至急緊急要請!緊急要請!妊婦が……出産しかけています!というか赤ん坊の頭出てる!」
と大声で叫んだ。すると運転していた警官の方も、
「え?え……え、わ……わかった。」
と、目の前の警官に負けない程大声で返事をし、少ししてから、
「今、本部へ緊急要請を出した!後5分!」
と此方に報告してきた。
それを聞いて少しほっとしたように表情を緩めながら、
「奥さん、もうすぐで救急車が来ますから。頑張って!」
と、眼鏡の警官は僕を励ましてくれた。
暫くして、思ったよりも早くピ――――ポ――――ピ――――ポ――――と鳴り響く救急車のサイレンが遠くから聞こえて来た。
救急車は僕の車の右斜め前に停車すると、中から数人の救急隊員が降りて来てリアハッチのドアを開け、ストレッチャーを出して僕を乗せるとそのまま目の前の病院へ向かって走り出した。
病院の救急搬送口から分娩室へ運び込まれた途端、居合わせた産科医に引き摺り出される感じで僕はやっと赤ん坊を産み落とした。
意識が遠のいて視界が暗転していく中、
「オギャア!オギャア!」
と元気に泣き喚く赤ん坊の産声と、
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ。」
と、僕に向かって語りかける看護師の声が耳の中で木霊していた。