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第四話:一縷の希望~もう二度と夫を家で一人にさせない

>>薫

 その日の晩の内に荷物を纏めて置手紙だけを残し、朝一番に出掛けて吉祥寺駅で京都市内までの切符と新幹線の自由席券を手に入れた僕は、後ろめたく感じながらも実家に居座っていた。


 恐らく有栖川家の方から電話か何かあって事の経緯を聞いていたのだろう、父も母も突然子供が押し掛けて来た事に対しては何も訊いて来なかった。しかし、

「いわんこっちゃない。」

「だからあんな男止めとけって言ったんだ。」

等と、まるでこうなる事を予見していたような両親の言葉に心なしか鬱陶しく思ってしまった。


 和樹から一言でも詫びの言葉を引き出したら家に戻ろうと思いつつ、奴の方からは何の音沙汰も無く一週間程過ぎたある日の晩、リビングで母と共にテレビを見ながら夕飯を食べていると、大学から帰宅した父がリビングに入るなり、鞄の中から何か雑誌の様な物を取り出し、いきなり僕の膝の上にそれを放り投げた。

 何だろうと思ってそれを手に取ると、あるページに黄色の付箋を1枚貼り付けた、世界中から送られた医学系の論文を掲載している『ネイチャーメディシン』という学術誌だった。

 なんでこんな物を?と不思議に思いながらしげしげと雑誌の表紙を眺めていると、中腰になりながら僕の方へ屈んだ父がポストイットを挟んだ所を指しながら、

「読んでみろ。」

と、ポツリと言った。

 言われるがままそのページを開いて見てみると、そこには英語で書かれた長い論文が掲載されていた。


 元々英語自体が得意ではない上に、大学で勉強していた専門分野の内容や用語の意味も大部分が頭の中からポッカリと消失していた為、上辺だけをなぞっただけの大体の意味しか読み取れなかったものの、僕はその論文の内容に引き込まれた。

 それは、慈恵医大のカサイ アキラという博士が著したものであり、元々男性で性転換薬を使って女体化したアカギ ナオミ(旧名ヤマノ ナオト)、及び他2名の性転換で女性になった元男性の患者における妊娠症例に於いて、母体にも胎児にも負担を掛けずに母親の体調を管理する技術を開発し、三連続で無事出産まで漕ぎ着けた過程とその研究結果の報告、そしてその研究の基礎理論を詳細に記述したものだった。この技術を用いれば性転換した女性となった人でも子宝を授かれる可能性が格段に高まる。そのように論文には書かれていた。

 残念な事に、図解やグラフも交えて詳細に記された仕組みの殆どを理解する事は出来なかったが、これは十分期待できる物なのではなかろうか!と僕は期待に胸を膨らませた。

「ねえ、お父さん。これ、貰っちゃってもいいかしら?」

と父の方に顔を向けて尋ねると、

「そうでなければ、渡さん!」

と、父が快諾してくれたので、僕はその雑誌を持って嘗ての自室に置いたスーツケースの所へ行くと、大切に仕舞い込んでからリビングに引き返し、食事を再開した。


>>

 薫が良く分からん置手紙を残して唐突に姿を消してから一週間、少し淋しさを感じつつも五月蠅い嫁が居なくなったのを良い事に、和樹は独身時代の頃を回顧しながら久々の自由を謳歌していた。

 普通なら女房が何の音沙汰も無く一週間も家に帰って来なかったら、例え実家に帰っていると判っていても心配して向こうへ連絡を取る等するものだと思うのだが、彼は一切そう云う事はしなかった。勿論妻が居ないからと云って家事をする訳でもなく、夜は遅くまで梯子酒をし、食事はコンビニやスーパーで売っている惣菜で済ませる等していい加減に過ごしていた。


 その日の晩も仕事を終え、いつもの通り勤務先の近くにある馴染みの飲み屋に行こうとした途端、突然スーツのポケットの中に入れていた私物のスマートフォンが鳴り始めたので、和樹は立ち止まってポケットから電話を取り出すと、タッチパネルを見る事で誰からの電話か確かめた。

 ディスプレイには『八重樫 進』と云う名前とメールが来た事を示す手紙のマークが表示されていた。進は和樹の1つ年上で、中学高校どころか大学の学部さえも同じだった上に、互いの妻同士が疑似姉妹の関係にある事から、職場は違えども社会人になった今でも交流する機会が割と多い先輩である。たまにこんな感じで物凄く此方の都合が良いタイミングを見計らったかの様にメールを送って飲みに誘う事が何度かあったから、この時も和樹は深く考えずに進の提案に乗り、彼と飲む為に指定された待ち合わせ場所に小走りで向かった。


 和樹が新橋の勤め先から六本木の界隈にある待ち合わせ場所に向かうと、そこにはやはり仕事帰りの進だけではなく、慶応大学経済学部の進の同期で、和樹から見れば1つ上の先輩に当たるが早産まれの為に同い年である、進の紹介で麗子と知り合って有栖川の家に婿入りした征司も一緒に待っていた。

 彼ら3人は、大学こそ同じくするものの、職場の場所も自宅の住所もてんでバラバラである為になかなか一緒に集まる事が難しかったが、彼らの嫁が同じ疑似姉妹関係にあって今でも頻繁に連絡を取り合っているので、たとえ久々に顔を合わせたとしても3人が3人とも互いの近況を良く知っており、女房の姉妹関係にかこつけて三国志の『桃園の誓い』の如く義兄弟の盟約を酒の席で冗談交じりに交わす位仲が良く、こうして揃って飲みに行く事が時々あった。


 さて、この日の晩も進が先導するまま3人はとあるバーにやって来た。様々な酒が陳列された棚と7席しか椅子が無いカウンターだけの薄暗くて小さな場末の店だったが、進がチョイスしただけあって雰囲気の良い店だな、と和樹は感じた。

 その日の客は彼ら3人のみで、この店のバーテンダーで30半ばと思しきダンディーな雰囲気を醸し出している渋面のマスターを含めると4人しか人が居なかった。恐らく進がよく来る店なのだろう。彼ら3人が店の中に入って来た途端、カウンターの奥にある酒棚の方を向いて此方に背を向けていたマスターが彼らの方を振り向き、

「おや、いらっしゃいませ。八重樫さん……。久しぶりですね。」

と、親しげに声を掛けてきた。


 バーカウンターの真ん中にある3席の一番奥の席に進が座り、手前の席に征司が腰を掛け、必然的に年長者二人に挟まれて真ん中の席に追いやられた事に戸惑いを覚えつつも、和樹も腰を落ち着けた。

「マスター。」

「はい?何でしょうか?」

「さっきから気になっていたんだけど、奥の棚の上から3番目で右の方にある、あの変わった形のビンの奴さ。何あれ?ウイスキー?」

「あ?ああ、これですか?……一応スコッチ…………でしょうかね……。アイスランドの酒ですけど……。」

「ああ、そうなんだ。ふ~~~~ん……。じゃ、それをチェイサーで……。」

と、左隣にいる進が馴れた様子でマスターに注文すると、

「和樹?お前はどうするよ。」

と、自分の方に話を振って来たが特に何も考えてはいなかったので、

「じゃあ、自分もそれで……。」

と、和樹は進に同調した。

 ただ、征司は強い酒が苦手な所為か、

「僕の方は水割りでお願いします。」

と注文していた。


 慣れた手つきでボトルを扱い、

「どうぞ。」

と言いながらマスターは進と和樹の前にスコッチが入ったチューリップグラスと水が入ったグラスを1つずつ置き、征司の前には水割りされたウイスキーが入った厚底のウイスキーグラスを置くと、酒を棚の上に戻してそのままつまみの用意をし始めた。


 そうしてまた店の中が静かになると、酒が入ったグラスを手に取りながら、進は右隣に座っている和樹に話し掛けた。

「そういえばさ、和樹……。薫ちゃん、元気にしているか?」

「え?元気にしていますけど……。」

 何故いきなり薫の話題が?と奇妙に思いつつも、和樹は平静を装いながら誤魔化した。が、進の方は杏子達から薫と和樹の家庭内のトラブルの話を聞いていて、既に薫が実家に戻ってから1週間以上経過している事も知っていたので、和樹の答えを聞くや否や機嫌が悪くなった。

「嘘言うな。薫ちゃん、お前と喧嘩して1週間も実家に戻ったきりだろ?知っているぞ。」

「いや、別に喧嘩したわけじゃ……。っというか、何故進さんがそんな事を知っているんです?」

「ウチの杏子から事細かく聞かされてな……。ちなみに同じ理由で征司の方も既に知っている。」

「ええ?!」

 驚いて和樹が反対側にいる征司の方へ振り返ると、彼はウンウンと何度も深く頷いてから、

「先週、麗子さんとお義母さんと杏子さん達がいる時に薫ちゃんがやって来たらしくてね……。」

と付け加えた。


 大方の事情を知った和樹は、被害者面をしつつも内心ではしてやったりと姉二人に訴えていたであろう薫の顔をありありと想像しながら、こういう所だけどんどん女臭くなりやがって、と苦々しく思いつつ酒を一口含むと、コップの水を飲んで一気に流し込んだ。

 そんな和樹を窘めるようにまた進が口を開いた。

「聞いたぞ、和樹。お前、この間実家に帰った時、親父さんから薫ちゃんの事、『マグロ女』呼ばわりされたんだって?」

「え……ええ、まあ……。」

 それがどうした?と思いながら和樹は進の顔を窺った。彼は、何が問題にされているのか、今一つ理解していなかった。

 そんな弟分の態度に呆れながら、進と征司は揃って溜息を吐いた。

「お前なあ、いくら手前の親父だからって、自分の嫁の事を名指しで堂々と『マグロ女』って言われたら普通切れるだろ?俺がお前だったら、もしも杏子が親父からそんな事言われたら、その場で殴りかかって大喧嘩になるぞ。なあ?征司……。」

と、進が征司に同意を求めると、

「殴りかかる……まではいかなくても、僕も激昂するだろうね……。」

と、相槌を打つ様に頷きながら征司も彼に同調した。

「まあ、僕だって父さんに面と向かって文句をいう度胸は無いから、気持ちが分からない訳ではないけどさ……。せめて薫ちゃんをフォローしてあげるべきだったんじゃない?さすがに放置はないと思うんだ……。」

「泣きながら飛び出した、って言っていたそうだからな…………。」


 年長者二人にそれぞれダメ出しを食らってから初めて自分の非に気が付いた和樹は、バツが悪くて思わず後ろ髪を掻いてしまったが、何故夫婦二人の間で解決するべきどうでもいい問題について赤の他人である筈の彼らから意見されなければならないのか解らず、彼は不服そうに頬を膨らませた。

「わかりましたよ。俺もあいつに対して配慮が足りなかったと思います……。思いますけどね……。態々こんな所に呼び出されて迄言われる事じゃないと思うんですが……。」

と、イライラとしながら文句を言うと、進と征司はすまなそうに彼の顔を見つつ白々しくこう言い放った。

「いや、まあ……。僕らもあまりきつく言わない方がいいかなあ……とは思ったんだけどさ……。」

「杏子から『きつく懲らしめて上げなさい。』って念を押されているからさ、言わないわけにはいかんのだよ。」

「…………。」

 和樹は一瞬言葉を失いかけたが、だが待てよ?と疑問に思いながら和樹は反論した。

「でもそんなの、黙って聞き流していればいいでしょう?態々馬鹿正直に実行しなくても……。先輩らしくない。」

「そんな事出来るなら苦労しないよ。毎晩、毎晩、帰る度に『今日こそ言ってくれた?』って訊かれるこっちの身にもなってみろ!世の中の亭主がみんな、お前みたいに亭主関白出来る訳じゃ無いんだよ!」

「進君はまだいいよ。僕なんて、自分が決めた事だとはいえ、義理の両親やお祖父さんとも一緒に暮らしているんだよ。しかも今回の事に関して言えば、麗子さんだけじゃなくてお義母さんからも言い含められているからね。和樹君には申し訳ないけど、無視するなんて絶対無理、無理!」

「またまた御冗談を……。」

 半ば必死になって家庭内の立場が弱い事を大げさにアピールする兄貴分二人を鬱陶しく思いながら和樹が茶化すと、何糞とばかりに進が反論した。

「じゃあ、聞くが。和樹、お前、月々の小遣いを幾ら貰っている?」

 いきなりこんな事を聞かれて少し戸惑いつつも和樹は答えた。

「俺ですか?……特に決めていないですね……。必要な時は薫に出させますから。」

「俺は月3万だ……。」

「ごめん、僕…5万も貰っている。」

「5万かぁ……。羨ましいな、この野郎!」

 今度は、月の小遣いを幾ら貰っているか、という話題で一頻り盛り上がっている兄貴達を見て、和樹は心底驚愕した。

「3万?5万?……たったそれだけ?!」

「いや、相場だと思うが?」

「別段少ないとは思わないなあ。時々人様から、有栖川の次期総帥候補でも小遣いこれだけしか貰ってないんだ、って驚かれる事はあるけどね……。」

「独身の時は兎も角、自分の金を全部自由に使うって訳にもいかないからなあ……。月3万も誰にも文句を言われずに自由に使える金があるだけでも十分だろ。常識的に考えて……。」

「ですよね……。」

「そう言えばさ、和樹。お前普段何食べているんだ?朝食。」

「え、朝食ですか?」

「うん、朝食。」

 また違う話題を進から突然振られて和樹は困惑したが、

「最近はコンビニの菓子パンで済ます事が多いですかね……。」

と、最近食べた物をぼんやりと思い出しながら返答した。しかし、進が望んだ回答とは違うものだったのか、

「違う、違う。最近のじゃなくて、薫ちゃんが実家に帰る前にお前が食べていた朝食を教えろ。」

と言われてしまったので、仕方なく彼はまた記憶の引き出しを開けて整理し始めた。

「あいつが帰る前ですか?基本あいつが用意したやつを食べていましたけど……。」

「そんな事は判っているよ!要は、薫ちゃんがお前の為にどんな飯を毎朝出していたのか、って云う事が知りたいんだからさ。」

「はあ……。大体毎朝、御飯、味噌汁、焼き魚、納豆……、たまにこれに何か副菜がもう一品付くって感じですかね……。」

「ほう……。まあ、普通に理想的な和食の朝食って感じだな……。」

 有栖川に婿入りしてから似た様な、むしろこれよりも豪勢な物を食べられるようになっていたものの、元はごく普通の市井の人だった征司は、このラインナップの朝食を毎朝和樹に出している薫の力量に感心していた。

 一方、進の方は和樹の答えを聞いて酷く落ち込んでいた。

「うわー、朝から豪勢な物を食っているな。羨ましい。俺なんか……、昨日なんてコーンフレークに牛乳掛けただけで済ませたぞ!」

 彼の場合、夫婦共働きの所為である事も少なからず影響しているのだが、そういう事情を含めても、いつも軽く済まさざるを得ない自分と違って手の込んだ朝食を毎朝出される羨ましい立場にありながら、そこまで尽くしてくれる男から見れば理想的な嫁を蔑ろにしている事に、少しだけ怒りのような物を覚え始めた。

「それで、朝になったら駅まで薫ちゃんに車で送って貰っているんだって?」

「別にそれはいいでしょう?だってあいつの車の維持費だけでも結構掛かっているんですから、その位させたって構わないでしょう。それにあいつだって喜んでやっている節があるし……。」

「朝は兎も角、深夜にも飲み屋まで迎えに来させているらしいじゃないか?!さすがにそこまでさせるのはどうかと思うぞ。それに第一、あの子と一緒になったら車も自動的についてくる事位初めから判っていた事だろ。」

「うっ…………。」


 そうして黙ったまま煽る様に酒を飲み始めた和樹を抑えるように肩を叩くと、進は彼を諭し始めた。

「なあ、和樹。俺が言うのも何だが……。薫ちゃん位色々尽くしてくれる娘なんてそうそう居ないぞ。もっと大切にしてやれよ。」

「はあ…………。」

「取り敢えず帰ってから直ぐにでも薫ちゃんに連絡を取って謝れ。」

「はあ……、でも謝れって言われてもなあ…………。何て言えばいいんです?」

「知るか、そんな事!思い浮かばなければ、元気か?とかでも良いから兎に角連絡だけは取っておけ!いいな?!」

「はあ……、分かりました……。」

 不承不承ながらも和樹から言質を取った途端、進は漠然とした達成感に浸って少しだけ上機嫌になった。

「ようし、分かったのならそれでいい。それじゃ、大分遅くなったし今夜は解散するか。マスター!勘定を!」


 店を出て他の二人と別れた後、独りになった進は鞄の中から自分のスマートフォンを取り出すと、今夜の顛末を妻に聞かせる為に自宅に向かって電話を掛けた。

「あっもしもし、杏子?俺だけど……。」


>>薫

 突然鳴り始めた携帯の着メロによって、僕は叩き起こされた。

 時計で時刻を確かめると丁度深夜の0時半。こんな時間に誰からだろう、と思って携帯を見てみると杏子様からだったので吃驚する。兎に角、特に最近歳の所為か眠りが浅くなりがちである両親を起こさない為に、僕は急いで電話に出た。

「もしもし、杏子様?薫です。」

「もしもし、薫ちゃん。良かった、まだ起きていたのね!あ、ひょっとしてもう寝ていたのを起こしてしまったのかしら?」

「いいえ、大丈夫です。お気遣いなさらないで下さい。ところで、こんな夜更けに如何されたのですか?」

「ええ、さっきウチの進君から電話があってね。征司さんと2人で和樹君を呼び出してキツク言い含めたんだって。だから、早ければ明日……いえ、もう今日かしら?和樹君から連絡があると思うわ。」

「そうですか……、有難う御座います。すみません、進さん達にまでわたし達の事で御迷惑を掛けてしまって……。」

「いいのよ、気にしなくても。お姉さん達がやりたくてやった事なんだから。」

 電話機の向こうの杏子様の声はとても暖かくて優しい物だったが、その分こんな余分な心配を掛けてしまった事を僕は心から申し訳なく思った。そして、

「こっちに戻ったら、また連絡して頂戴。じゃあ、お休みなさい。」

と言って杏子様は電話を切った。

 僕は携帯を折りたたんで枕元に置くと、再びベッドの上に横になって就寝した。


 そして朝になって、今度は和樹からの電話で起こされた。

「もしもし……。」

「……俺だ。」

「あなた……?」

「ああ。……元気か?」

「ええ。あなたは?」

「俺も、だ……。」

「…………。」

「…………。」

「…………。」

「あのさ……。」

「……はい?」

「……すまなかった…………。」

「…………!」

「お前の気持ちに全然気が付いてやれていなかった。」

「わたしこそ、ごめんなさい。勝手に出て行っちゃって……。」

「…………。」

「…………。」

「家に……戻って来てくれないか?」

「…………。」

「ダメか……?」

 いつもと違って物凄く弱気な夫の声に少しだけ面食らったが、帰宅する事を軽率に決めていいのか考えあぐねたので、僕は黙って和樹の声に耳を傾けていた。

「頼む…………。」

「わかりました……。」

 もういいだろう。何故か全てを許してしまえるような気がして、僕はそっと受話器に向かって囁いた。

「今日直ぐ、って云う訳にはいきませんけれど、明日そちらに帰りますわ。予定が立ったらまた連絡しますから。」

 そう和樹に話して電話を切ると、自宅に帰る事を伝える為に、僕は両親の居る所へ向かった。


 翌日の夕暮れ時、JR中央本線の快速電車を降りて吉祥寺駅の北口の改札を出ると、何故か夫が自分を迎える為に待っているのを発見して、僕は少し驚いた。

 改めて、

「心配を掛けてすみませんでした。」

と言って、お互い仲直りしてから僕らは2人で一緒にタクシー乗り場に停車していたタクシーに乗り込んで帰宅の途に着いた。


 心なしかウキウキしながら家の玄関の扉の前に着き、鍵を開錠してドアを少し開けた途端、強烈に不快な臭いが鼻を衝いた所為で僕は酷い吐き気を催してその場に蹲った。どうにか吐く事は我慢したが、何なのだ?この臭いは?腐卵臭というか……まるでうっすらと家中に満遍なく硫化水素を撒き散らした様な、もっと具体的に言えば、生ゴミの腐った臭いと油が酸化しまくった後の匂いと黴が混じった埃特有のムワッとした香りが入り交じった様な不快臭が漂っていた。

 玄関に荷物を置き、靴を脱いで家の中に上がって廊下を進むと、最悪なことにリビングに近付く程臭いが強くなっていく事に僕は気が付いてしまった。激しく嫌な予感がしたが、意を決するとリビングのドアを開けて部屋の中に足を踏み入れた。

 そして、リビングの惨状を目の当たりの瞬間、僕はその場で泡を吹いて気絶しそうになった……。


 さすがにバタンキューはしなかったものの、部屋の中の様子は頭を抱えるのに十分な位酷い物だった。

 まずリビングの東半分に敷いたカーペットの上のテーブルとソファーとテレビ周りが一番凄惨な様相を呈していた。テーブルのソファー側には惣菜や唐揚げのプラスチックトレイのパックの残骸やパンか何かの包装のビニール袋、割り箸、レジ袋等がこれでもかと散乱し、その足元のカーペットとフローリングの上には空っぽになったウイスキーやワインの酒瓶数本やビールの空き缶が幾つか散乱していた。どう見ても、テレビ見ながら酒を飲んでつまみを摘まんでいた跡です。本当にありがとうございました。


 閉めきったままだったカーテンと窓を開けて空気を入れ替え、ゴミを処分するためにゴミ袋を取りに行こうと台所へ行くと、ピ――――ッという甲高い警告音と共に冷蔵庫の冷蔵室のドアの隙間から黄色い光が漏れている事に気が付いた。どう考えても冷蔵庫の扉が開いています。ただでさえ糞暑いのに冷気がガンガン逃げているから……。東京電力から来月請求されるだろう電気代と、冷蔵庫の中にしまった食料品に訪れたであろう惨劇を想像しただけで、凄い目眩が僕を襲った。

 ふらつきながらも半ドアの冷蔵庫の扉をキチンと閉める為に少し開けた時、チラリと見えた冷蔵庫の中身に驚いて、扉を大きく開けて中身をよく確認すると、その光景を目の当たりにして僕は唖然とした。何せ元々入っていた食品類を奥の隅の方へ追いやる形で、買った覚えも無い缶ビールが10本以上も無理やり突っ込んであったのだ。開いた口が塞がらない方がおかしい。どうせ僕が居ない事をいい事に、調子に乗った和樹が買ってきた物だろう。まあ、奥に追いやられたお陰で元々買い置いていた食料品には冷気が当たっていた様だったから、一瞬想像したような惨状は不幸中の幸いにも回避されていたが、だからと言って怪我の功名だと褒められるものでは決してない。

 だいたいこの冷蔵庫はいつから開いていたのだ?まさか一週間ずっとって訳でもあるまい。昨日からっていうのもちょっと考え辛いだろう。だって夜中に電灯を消して真っ暗にした時、冷蔵室の扉を半ドアにしていたら黄色いランプの光が漏れるから、いくら鈍感な奴だったとしても嫌でも気が付くと思うからだ。

 と…その時、悪魔のような考えが僕の心の中に浮かんだ。

 もし……もしこのリビングの蛍光灯が2ヶ所とも、いや台所も含めて3つとも1週間中点けっ放しだったとしたら……、電灯だけじゃない!リビングを心地よい温度に冷やしているエアコン、そこで夕方のニュースを流しているテレビ、他諸共……。どれもこれもが電源を切られる事もなく1週間ずっと稼働しまくっていたとしたら……。いくらエアコンが目標温度に達すると低電力モードになるとはいえ、温度が上昇する日中や熱帯夜も全力で動いていただろう。いくら夜間は電気代が安くなるとはいえ、1週間×24時間以上もフルで使い続けていたら相当の電力を消費している筈だ。

「今月分の電気代、一体幾らになるのかしら?」

そう呟いた途端、何故か僕は声を出して吹き出しそうになってしまった。きっと精神的に壊れかけていたんだと思う。


 更に本能的な危険信号を受信しておっかなびっくりと自分達の寝室を覗いてみると、こっちはこっちで相当に悍ましい様相を呈していて、正直発狂するかと思った。

 ベッドは当然ベッドメイキングされるなんて事は一切無かったようで、掛布団やベッドカバーが彼方此方で捲れ上がって不様に目立つ大きな皺を其処彼処に拵えている。そしてそのベッドの上や傍の床の上に、和樹のパジャマが裏表逆になったような状態で乱暴に脱ぎ捨てられていた。


 もしかして、もしかすると……洗濯とかも一切やってなかったりするのだろうか、と戦々恐々としながら洗面所に入ると、案の定脱ぎ捨てた服や使い終わったバスタオルが濡れた風呂場の床の上に纏めて積み重ねて放置されていた。しかしながらその量は、僕が予想していた量よりもずっと少なかった。さすがに洗濯に関しては時々やっていたらしい。

 だが、それはそれで僕は不穏な空気を感じざるを得なかった。毎回毎回洗濯を開始する前に、果たして和樹はこの全自動洗濯乾燥機に2ヶ所付いているフィルターをチェックしたのだろうか……?少なくとも今まで僕以外触ることがなかったこの子に関して言えば、下手をすると動かすだけで手一杯だったかもしれない。恐らくそんな事まで気が回ってはいなかっただろう。


 僕は風呂場に入って洗面器を取り出し、洗濯機の下の方に付いている洗濯用のフィルターのリッドを開いて洗面器を押し付け、フィルター部分のコックを捻って思い切り引き摺り出した。

 その瞬間、ドバドババシャバシャ…………と埃が混ざって灰褐色に濁った水が勢いよく流れだし、洗面器の中にどんどん溜まっていった。

 幸いギリギリ洗面器いっぱいになった所で水の流入が止まったので、僕は慎重に洗面器を持ち上げると、風呂場の排水溝からその汚水を下水管へ排出した。


 そしてフィルターを綺麗にしてから元に戻し、今度は上についている乾燥機用のフィルターを取り出してゴミ袋の所へ行って一頻り埃を落とし捨てると、また洗濯機にフィルターをセットし、バスタオルを1枚残し、残りの風呂場に集積されていた洗濯物と寝室にあったパジャマを纏めて洗濯機の中に放り込んだ。

 次にパンストを脱いで裸足になってから風呂場に入り、扉を閉めてからシャワーの水を一面に掛けて浴室を清掃し、さっき汚水を捨てた洗面器もよく濯いでからシャワーを止めて洗面所に戻ってバスタオルで足を拭いてから浴室の床の水気を軽く取ってやると、洗濯機の中にバスタオルを放り込んでスイッチを入れ、洗剤を投入して僕は洗濯をし始めた。


 そこからはもう半分やけくそだった。こんな奴を少しでも許そうと思った馬鹿な自分を呪いながら寝室へ行ってベッドメイキングをし、リビングへ引き返して散乱したゴミをゴミ袋に分別しつつ回収し、家中の窓を開けてエアコンやテレビのスイッチを切り、廊下のクローゼットから掃除機を取り出すと、僕は家中の大掃除を始めた。既に帰宅した時点で日が暮れかけていたから、夕食を作る時間どころか食べるような時間になるまで全ての作業が終わらせる事が出来なかった。

 それなのにも関わらずどうしてこの男は空気を読むという事が出来ないのだろう?夕飯時になった途端、こっちが必死に掃除をしていて夕飯を作れる余裕等無い事が判りきっているだろうに、声を掛けてくる和樹に対して僕は思わず怒声を上げていた。

「なあ、薫。飯、まだか……?」

「まだに決まっているでしょう?というか、これを見てそれどころじゃないって判りませんの?馬鹿なの?死ぬの?」

「いや……、まあ……。」

「大体ね。わたしだってとっくの昔にご飯を作ってあなたと一緒に食べたかったわ。でもね、あなたが家をこんなにした所為で、もう夕飯なんて作れる気がしませんわ!」

「いや、今からでも作れば…いいんじゃないか?」

「何をふざけた事を言っていますの?もう夜の9時を過ぎているのよ!今から作った所で何時に出来ると思っているの?」


 結局その晩は和樹と二人で店屋物を取った。そして蛇足になるが、和樹に向かって怒鳴った後、家中の窓が全部開いている事に気が付き、恐らくさっきの怒号がマンション中に響き渡っていたであろう、という事に思い至った途端、僕は鬱屈したあまり死にそうになった。それ以来、何か大声を上げる時には必ず窓やドアが閉まっているか無意識の内に確認する癖が付いてしまった。

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