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第三話:嫉妬と羨望~義実家の仕打ち

>>薫

 夫を送って家に戻って来てから独りで遅めの朝食を摂りながらテレビのワイドショーをぼんやりと眺める。そして冷たくなってしまったご飯とみそ汁だけの簡単な食事を済ますと、シンクの中に置いた水を張った金盥の中に、先に下げた夫の食器と共に茶碗と漆器を放り込んだ。そして一度水の中に浸けてから食器を全部取り出し、盥の中の水を綺麗な水に入れ替えて盥の中に水道の水を注ぎ続けながら、スポンジを手に取って食器洗剤を付けて泡立てると、汚れが拭われて泡塗れになった食器を順番に盥の中に投入してある程度の泡を落とす。金盥から出た後、流水で残りの洗剤も洗い落されてピカピカになった食器類をキッチンに備え付けられている食器洗い乾燥機の中に順次投入し、乾燥のみに設定して蓋を閉めると僕はスイッチを押して食洗機を作動させた。

 そして食器を洗って移す時に床のフローリングの上に滴り落ちてしまった水滴を傍にあった白いタオルで拭き取ると、そのタオルを持って洗面所に行き、ドラム式洗濯機の蓋を開けてドラムの中に放り込んだ。

 それから洗濯機の反対側にある洗面台の下に付いている扉を開けて洗面台の下に置いた脱衣入れを引っ張り出し、中に放り込まれている前日に自分達が着ていた衣服やバスタオルや自分のパジャマを纏めて洗濯機の中に入れ、一度洗面所を出てリビングへ引き返して床の上に放置されている和樹のパジャマを回収して洗濯機の中に投下し、蓋を閉めてスイッチを入れ、乾燥以外にセットして液体洗剤を適量投入すると、僕はそのまま洗濯機を稼働させた。


 寝室に置かれたベッドのベッドメイキングをした後、掃除をする為に家中の窓を順に開けていく。

 廊下に唯一面している寝室と洗面所の扉の間にあるクローゼットを開き、中からモフモフしたハンディタイプの物とモップの様な形をした普通のクイックルワイパーとサイクロン式のパナソニック製の掃除機を取り出し、掃除機のコードを目一杯伸ばして玄関の靴箱の傍にあるコンセントに差し込むと、ハンディクイックルを片手にスイッチを入れて掃除機を動かしながら家中の部屋を巡回して掃除をし、その後クイックルワイパーのドライシートでフローリングの上に微かに残っている埃を掻き出すと、僕は汚れたシートを台所に置いた45Lのゴミ袋の中に捨てて掃除用具をクローゼットの中に片付けると窓を閉めて回った。

 そうして家事が一段落着くと、僕はリビングのテレビの前にあるテーブルの、テレビと真正面に向かい合う場所に大きめのクッションを置くと、その上に尻を沈み込ませる様に三角座りをして足を伸ばし、再びボンヤリとテレビの画面を見始めた。


 子供を堕胎してからもう半年以上も経っていたが、惰性と慣性で家事だけは淡々とこなしながらも、僕の心は未だに重く沈んでいた。

 無論自分の体質の所為で胎児をみすみす死なせてしまったという点に関してもショックだったが、それ以上に他の母親の子供は普通に産まれて育っているという現実に関して僕自身が抱いていた妬みや羨望といった主観的な、あるいは周囲の人々の落胆といった環境的な要因も僕の心の中に大きく影響している様に思われて仕方がなかった。

 特に義理の両親の落胆ぶりは凄まじく、流産した事を伝えた途端、

「この役立たず!何故殺すような事をしたの?」

とか、

「和樹の女房だとはいえ、お前は富士之宮の嫁である、という自覚があるのか?」

等と散々罵られ、後継ぎを期待していた分この人達もがっかりしているのだと解っていても、只でさえ傷ついた心を更に深く抉られた様な気分を感じながら、僕は黙って俯いて耐える事しか出来なかった。

 無論、あくまでもこういう反応は例外的な物であって、大概は同情や励まし等、此方を気遣う様な優しい言葉を掛けてくれる人が殆どであったが、心にポッカリと開いた穴が塞がるどころか却ってその心配りが負担になり、まるで目に見えない錘と鎖で雁字搦めにされている様な錯覚に陥って、誠に身勝手で申し訳ないと思いつつも内心では放って於いて欲しいと願いながら、僕はずっと自分の心の殻の中に閉じ籠っていた。

 中でも葵姉ちゃんは、そんな気兼ねなどする必要は一切ないのに、僕と入れ違う感じで新しい命を宿してしまった所為か、特に僕に対して心配したり遠慮する様な事を口走っていたりしていたので、僕は彼女の前では一層元気良く振る舞う様にし、特にここ最近は葵姉ちゃんが臨月を迎えた事もあり、3月末に引退して横浜から祖父の処へ引っ越していった伯母夫婦に代わって、日中に時々横浜の彼女の家を訪れては、拙いながらも出来る範囲で彼女の世話を焼くようにしていた。ただ、それでも赤ん坊を孕んで大きく膨らんだ彼女のお腹を目にするのは非常に心苦しく、見据える度に涙が溢れて心が崩壊してしまいそうだったので、今日もそうする心算だったが、なるべく午後の遅い時間に出かけて専ら夕暮れ時か夕方過ぎの早い時間に暇を請うのが日課となっていた。


 芸能人の結婚スクープや離婚騒動等、恐らく自分も含めた視聴者の大部分にとっては知った処でどうでもいい情報を仰々しく報じる芸能リポーターの話を馬耳東風で聞き流していると、突然五月蝿くがなり声を上げていた洗濯機のモーター音がガタンっと止まり、ピ――――――――っと間延びした様な情けない感じの甲高い警告音が洗面所の方から響いて来たので、洗濯物を干す為に僕は立ち上がると洗面所の方へ足を向けた。

 タオル類だけ洗濯乾燥機へ入れ直して乾燥させ、残りの衣類を格子状に小さな穴が沢山開いている白くて四角いプラスチック製の洗濯籠の中に纏めて詰め込むと、僕はそれとハンガーを纏めて仕舞った紙袋を持ってリビングへ引き返し、これらの洗濯物を天日干しにするために東側にある方の窓と網戸を開いて足元に籠と紙袋を置いた。

 一度キッチンへと引き返して水で濡らしたキッチンペーパーを何枚か取って来ると、僕はベランダの框の処に置きっぱなしにしているサンダルに足を掛け、ベランダの規定された位置に取り付けた銀色の物干し竿に積もった埃を濡れた紙で拭って綺麗にし、その後ハンガーに衣服を掛けて物干し竿に順番に吊るしてから、汚れたキッチンペーパーを台所のゴミ袋に捨て、紙袋と洗濯籠を持って洗面所の方へ引き上げる序によく手を洗った。


 お昼になったのでキッチンに入って薬缶に水を入れ、電磁コンロに掛けて湯を沸かし、戸棚の中から大量に買い込んでおいたカップヌードルの内の一つを取り出すと、中に湯を注ぎ込んで3分待った後、僕は割り箸とカップ麺を持ってリビングに舞い戻り三度テレビの前を陣取った。

 別段料理をする事が嫌いな訳ではない。いや、寧ろ作っているとある程度は気が紛れる上に腹も膨れるから好きと言っても過言ではないと思うが、ここ最近気が滅入っている所為か作るのも片付けるのも面倒臭くなってきた為に、夫がいる朝晩の食事は兎も角、独りきりでいる事が大半である平日の昼食はこういう出来合いの物で簡単に済ます事が多くなっていた。

 結婚当初の頃と比べれば、すっかりだらしなくなって堕落した専業主婦ニートに成り下がってしまっている訳だから、心の中ではこのままではいけない!と自分に発破を掛けつつも、同じ様に心の何処かで、気が沈んでいるんだもの…仕方がないよね、なんか頑張る事に疲れたな、等と自分に言い訳をして結局だらだらと過ごしてしまい、葵姉ちゃんの家へ行く時と買い物へ向かう時、後月末にあるマンションの管理組合の理事会の会合へ出掛ける時以外は殆ど外に出ず、独りで家の中に引き籠っている日々を送っていた。


 カップ麺を食べ終わって片付けると、丁度いい時間になったので僕はテレビを消し、テーブルの前から立ち上がって出掛ける準備を始めた。

 ノースリーブの白い薄手のワンピースの上から麻で出来た薄い水色の長袖のブラウスを羽織り、黒いパンストを穿いてバッグに財布や家とか車のキーを入れると、戸締りと電気とガスを確かめてカーテンを閉め切ってから玄関で靴を履くと、玄関の扉に鍵を掛けて僕は外に出た。


 そして駐車場に停めてあったY33グロリアのアルティマに乗り込むと、エンジンを掛けて発車措置をし、ステアリングを左に切りながらゆっくりと車を発進させた。

 丁度マンションの敷地の北側ある大通りに面する駐車場の出入り口から歩道の方へと車の鼻先を出す。目の前には緑地帯にした中央分離帯を備えた比較的車の通行量が多い片道2車線の道路が東西に伸びており、駐車場の入り口付近の部分だけ右折が出来るように分離帯が途切れ、向こう側の車線や歩道まで見通せるようになっている。

 高速に乗る為にはこの道を右折して東の方へ向かった方が僕にとっては都合が良かったので、僕は一時停止をするとフォグランプと前照灯を全て切って右ウインカーを点滅させ、左右の人の流れと右から来る車列が途切れるのを待ってから中央分離帯まで車を一気に前進させ、今度は左から来る車が来なくなったのを確かめてから思い切りステアリングを右に切って大通りを走る車の列に合流した。


 ただでさえ真夏で糞暑いのに、車の排ガスが熱を閉じ込めた所為でムンムンに空気が蒸し暑くなった渋滞の長い車列を掻き分けて、4号線からC1を経由して1号線を南下して横浜のとある住宅地に接する、葵姉ちゃん夫婦が暮らすマンションの来客駐車場に車を止め、正面の出入り口へ回り込むと、僕はオートロックのインターフォンの機械に葵姉ちゃんの部屋の番号を打ち込んだ。

 少し長い呼び出しの警告音が鳴り終わると、向こうも僕が来た事に気が付いたのだろう、僕がまだ何も言っていないのにも関わらず、

「あ、クーちゃん、いらっしゃい!」

と言う葵姉ちゃんの声がスピーカーから聞こえたのとほぼ同時に、マンションの関係者以外の侵入を頑なに阻んでいた自動ドアが呆気なく開き、僕はそのままマンションの奥へと入って行き、3階にある彼女達の住居へ向かった。


 10階建てと大きい建物で、3LDKで間取りや印象も大分違うものの、ウチとほぼ同じような造りをした306号室のドア横に付いているインターフォンのボタンを押すと、間髪を入れずに玄関の扉が開き、扉の隙間から葵姉ちゃんの顔が現れた。

「お姉ちゃんごめんね。今日も遅くなっちゃって……。」

と、挨拶代りに詫びを入れると、向こうもこちらの勝手が知っているからか、

「いいの、いいの。上がって、上がって!」

と、軽快な調子で言うと彼女は僕を家の中へと招き入れた。


 海が見渡せるように、という立地上の制約の所為か、南向きというよりはかなり西を向いたリビングルームへ僕を通し、ウチの物と違って真っ白で、造花を飾る等して小奇麗に纏められた、小洒落たダイニングテーブルの一角に座らせると、葵姉ちゃんはキッチンに入ってガスコンロに火を入れ、薬缶で湯を沸かして紅茶を入れる準備をし始めた。

 遠目でもはっきりと判る位、臨月を迎えて大きくパンパンに膨らんだ腹を抱えてしんどそうだったので、手伝おうと思って僕は反射的に立ち上がったが、

「いいの!いいの!クーちゃんは座って待っていて!」

と、右手を左右にパタパタと大げさに振りながら断ると、そのまま彼女は一人で紅茶を入れ、丸い盆に紅茶が入ったカップとソーサーを2組み載せると、テーブルの上まで運んで来た。

 もうすぐ出産を迎えるから、誰もいない日中は何かと大変だろう……、と思って手伝いに来たのに、いつも普通の来客のように扱われて気を遣われるので、今日も僕は少し肩身が狭い思いをしながら、なるべく縮こまって差し出された紅茶を啜っていた。


 だけれども、僕だってただやって来ただけの役立たずでは終わらない。大抵の家事をこなす事が出来る葵姉ちゃんでも、さすがにこんな大きなお腹で重い荷物を持って長距離を移動するのは体力的にも精神的にも厳しいという事なので、買い物だけは彼女の代わりに僕が行ってくる事に決めていた。

 葵姉ちゃんからその日の買い物のリストが書かれたメモを受け取る。

「じゃあ、お姉ちゃん行って来るね。ゆっくりと休んどいて。」

「いつもごめんね。お金までクーちゃんに払わせちゃって……。」

「いいの、いいの。気にしんとって。大した出費やあらへんし。それに買える物はわたしの方の買い物も一緒に済ませてしもうてるから、お姉ちゃんが気に病む必要なんてあらへんよ。」

 それでも葵姉ちゃんは何か言いかけていたが、僕は気にしないでと押し通し、玄関から外に出て下に停めた車に乗り込み、葵姉ちゃんが普段利用しているという、最近は僕も半ば常連となった、葵姉ちゃん宅からほど近い所にあるイオンモールへと車を走らせた。


 態とアイスや冷凍食品の様な低温化で保存しなければならない物を1つか2つ買って、これでもかという位大量のドライアイスを戦利品として頂戴し、スーパーのレジで貰った2枚の白くて大きなレジ袋の1枚に自分の家で使う分として購入した食品と一緒に詰めると、僕はまた葵姉ちゃんの家に引き返し、葵姉ちゃんに頼まれた分の食材を彼女と共に彼女の家の冷蔵庫の中に仕舞う為に、二人でキッチンの中へと入った。

 ガサゴソと冷蔵庫の中の物を色々弄くりながら適材適所に食品を無事保存し終え、冷蔵庫のドアをバタンッと閉めた途端、

「うっ!」

と妙に曇った唸り声を上げたかと思うと、突然両手で腹を押さえて葵姉ちゃんが蹲った。

 余りの事に、僕は豆鉄砲を食らった鳩の様に呆然と、悲鳴を上げながらのた打ち回り始めた従姉を見下ろしてしまっていたが、直ぐに緊急事態だと思い当たって我に帰ると、

「お姉ちゃん!大丈夫?しっかりして!」

と叫び、腰を屈めて青息吐息している葵姉ちゃんを抱き支えた。

「く……クーちゃん…………。あ……赤ちゃんが……。」

「わかったから喋らないで!今119番するから!……ほら、ヒーヒーフー!!」


 取り敢えずどうにか葵姉ちゃんをリビングまで移動させて仰向けで横に臥させると、

「お姉ちゃん、電話借りるわね。」

と一声掛けてからリビングの一角に置かれていた白い複合機能付き電話機の受話器を手に取って『119』と番号を押し、切羽詰まっている所為でたった数回のコールも焦らされている様に感じながらそれを耳に当てた。


 分娩室の『処置中』と白い字で書かれた赤いランプが消え、葵姉ちゃんの筆舌に尽くしがたい位壮絶で強烈な阿鼻叫喚が収まって、代わりに固く閉め切った扉の向こう側から元気な赤ん坊の産声が聞こえ、緊迫して張りつめていた空気がドッと弛みきった様な安堵感の様な雰囲気が部屋の中から外へ漏れ出して行くのを感じた途端、僕は糸が切れた操り人形の様に、部屋の外の廊下に置かれた革張りのソファー様な黒くて四角いベンチの上に座り込んだ。

 と同時に、僕が病院から公衆電話で呼び出してから慌ててすっ飛んで来て、出産の間中僕以上にオロオロと右往左往していた誠さんも同様に僕の左隣の席でへたり込んでいる事にお互いに気が付いた途端、不覚にも僕等は相手の顔を見つめ合いながら噴き出してしまった。

「フフフ……。」

「アハハ……。」

「ふぅ……。」

と、二人とも息を吐いて心を落ち着かせた後、改めて僕は従姉の夫の方へ振り向いた。

「おめでとうございます。お父さん。」

「……?」

 僕はただ、二人に無事に子供が出来た事を茶化しながら言った心算だったのだが、いきなり妻の従妹から『お父さん』と呼ばれた事に面食らったのか、ポカンとしながら誠さんは僕の顔を暫くの間見つめていた。

 だが、すぐにそれが強ち間違っていない事に気が付いたのか、サッと表情を引き締めると、

「ありがとう。」

と、父親に相応しくしっかりとして頼もしい返事をした。


 やがて1人の看護師が誠さんを呼び出す為に部屋の中から出て来ると、出産という重労働を無事成し遂げた妻と産まれたばかりの我が子に会いに行く為に、彼はベンチからそっと立ち上がった。

 僕は立ち上がると、そんな彼の背中に向かって、

「お兄さん!」

と声を掛けた。そしてこちらの方を振り向いた彼に向って、

「申し訳ないけれど、わたし…そろそろお暇させて頂きますね。」

と詫びた。無論彼の方は驚いて、

「え?もう帰っちゃうの?赤ちゃんの顔を見て行ってくれればいいのに。」

と引き留めてくれたが、

「大分遅くなってしまったし、ウチの人が帰ってくる前に片付けておかなければいけない諸々の事がまだ残っていますから急いで戻らないといけませんの。また明日、改めてお見舞いに来ます。」

と言って、僕は少々強引に断って帰り支度を始めた。

「そうか、残念だな……。あ、そうだ、今日は色々とありがとう。お陰で助かったよ。」

「いえ、当然の事をしただけですわ。それではお姉ちゃんに宜しくお伝えください。さようなら……。」

「わかった。じゃあね!」

 そして僕等は別れ、僕は病院の廊下を、自分の車を駐車した駐車場に向かって静かに歩きだした。


 僕だって勿論、ああいう場合は誠さんの言う通りにした方が好ましいという事は頭の判ってはいる。ただ、一体どんな顔をして葵姉ちゃんの赤ん坊と対面すればいいのか皆目見当も付かなかった。いや、分かっていても今の自分にはそういう表情…心から祝福する純粋で綺麗な笑顔を作る事が酷く難しい様に感じられた。

 理由ははっきりしている。葵姉ちゃんと誠さんは僕にとってかなり親しい部類の身内だし、彼らにとって良い事は僕の心情にもある程度波及する分自覚する事が出来る感情は薄まってはいるものの、要するに彼らの赤ん坊が無事に産声を上げた事を僕自身が素直に喜ぶ事を本能的に拒否しているからだ。

「これが、嫉妬というものかしら……。」

車に乗り込んで運転席に腰を掛け、シートベルトを締めてエンジンを掛けながら、そう僕は独り言を呟いた。


 次の日の夕方の17時頃、面会時間も残り少なくなった頃に僕は横浜市内にある大学病院へ葵姉ちゃんとその赤ん坊を見舞う為に訪れた。

 愛車の100系クレスタを駐車場の一角に停めた後、僕は病棟の中に入り、葵姉ちゃんと赤ん坊が待っている筈である個室の扉の前に立った。結局一日そこらで心の底から表裏無く自分を納得させる事は出来ず、どういう顔をして従姉と赤ん坊に会えばいいのかも煮え切らないまま、そうかと言って知らない顔をする訳にもいかず、結局来てしまった。

 まあ、来てしまったものは仕方がない、そう自分に言い聞かせて出来るだけ平静を装う為に深呼吸してから意を決し、僕は病室の開き戸をトントンと軽くノックした。

「はい?」

と、従姉の澄んだ声が扉の向こうから聞こえて来たので、いよいよ来たぞ、と自分の心に鞭打ちながら僕はそっと病室の扉を開け、部屋の中に足を踏み入れた。

「こんにちは、お姉ちゃん。」

「ああ!クーちゃん。」

と、ベッドから顔だけ此方に向けて素っ頓狂な声を上げつつも、妙にぎこちない僕の態度など意に返さないとでも言うかの様に、葵姉ちゃんはいつも通り暖かく迎え入れてくれた。

「具合はどう?もう大丈夫なの?」

「うん、もう大丈夫!心配してくれてありがとう。」

「そう……良かった!……それで、赤ちゃんは?」

 そう言えば、姿が見えないな。誠さんから母子共に健康だと今朝の電話で聞いていたし、まだ面会時間の筈だから母親と一緒にいてもおかしくないと思ったのだが、もう新生児室へ帰ってしまったのだろうか……。そう思って赤ん坊の姿が見えない事を残念に思いながらも心の何処かでホッとしながら、僕は葵姉ちゃんから見て左側のベッドサイドにあった見舞客用の椅子にハンドバッグを膝の上に置きつつ腰を掛けた。

 だが、

「ごめんね、さっきおっぱいを上げたらぐっすり眠り込んでしまったのよ。」

と言うと、葵姉ちゃんは僕と彼女の間の空間の一点を見下ろし、その部分に掛けられた桃色の薄手の毛布をそっと捲り上げて、それが何であるか良く見えるように僕に見せた。

 そこには真新しい産着を着て毛布に包まれ、母親の胸元に寄り添うように顔を埋めたままスヤスヤと眠る1人の小さな乳児がいた。尤も、小さいといっても昨日産まれたばかりの赤子としてはそれ相応の大きさの様に思われた。

 ただ……こんな小さな身体であったとしても生の脈動がちゃんと根付いてそのエネルギーをいかんなく主張する様子に、元々生物学を勉強していた者として素直に感動せざるを得なかったし、赤ん坊ながらしっかりと自分の力で生きようと頑張る姿に胸を打たれたし、何よりも理屈抜きで可愛かったから、つまらぬ嫉妬心等何処へ行ったのやら、

「2700gの女の子だったのよ。」

等と僕へ話す葵姉ちゃんの言葉も上の空で、僕は愛おしく思いつつ赤ん坊の寝顔を一心不乱に見つめていた。


 そんな風にわくわくしながら赤ちゃんの様子を観察していると、不意に葵姉ちゃんが、

「抱いてみる?」

と言って乳飲み子を抱っこさせてくれたので、僕は彼女の言葉に甘え、恐る恐るとまるで壊れ物を取り扱う様に慎重に葵姉ちゃんの手から子供を受け取り、自分の胸元に優しく抱き上げた。

 赤ん坊の寝顔を直にまじまじと見下ろすと、愛しく思うあまり自然に表情が和らいでいくのが自分でも良く分かる。正直に言って、下らない事に愚図愚図と拘り続けていた先程までの自分を僕は深く恥じた。

 しかし…ふと、もしこの娘が自分の子供だったら……、という考えが胸の中に突然湧き出て来るや否や、僕は自分でもどうすれば良いのか分からなくて手を拱く位、大きな喪失感にまたもや襲われた。

 その時、丁度タイミングを見計らったかのように、面会時間の終わりに近付きつつある事を知らせるオルゴールのメロディーが病室のスピーカーから流れて来たので、

「それじゃあ、お姉ちゃん。落ち着いたらまた来るわね。赤ちゃんの名前が決まったら教えてね!じゃ、赤ちゃんもバイバイ!また会おうね。」

と、これ幸いと帰り支度を済ますと慌てて僕は病室から飛び出し、

「ふ~~~~~~。」

と、大きく息を吐いて胸を撫で下ろした。

 そして、いつか必ず自分の子供を授かってやる!と心に誓ったのだった。その時、本当にふとした拍子に、僕はあの坂上医師の言葉を無意識に反芻していた。

「自然分娩に限りなく近い母体補助型不妊治療……。」

今度…もし次に僕の胎内に新しい命が宿ったらやってみようかしら。そう思いながら車のハンドルを握りつつ、僕は呟いた。


 葵姉ちゃんとその娘の茜ちゃんが病院から自宅へ無事に退院してから1週間程経った土曜日の夕方、僕と和樹は急に義理の両親に呼び出され、何が何やらさっぱり分からぬまま、僕の車で世田谷にある夫の実家を訪れた。

 運転してきた、VQ30DETエンジンをツインターボ仕様に改造したJY33レパードの後期型をガレージの此方から見て右端、義兄のオデッセイの左隣のスペースに後退で横列駐車すると車から降り、僕は和樹の後に続いて義実家の敷居を跨いだ。


 玄関の框の所まで僕等を出迎えに来た舅と姑は、今宵は非常に機嫌が宜しい様で、僕に向かって悪言卑語や罵詈雑言を吐き捨てていた事等露ほども無かったかのように、彼らの本性を知っているこっちが嫌悪してしまう位、始終笑顔を浮かべながら穏やかに歓迎した。


 何か目出度い事でもあったのか、どうやら今夜は盛大に宴会などを催す予定らしく、家の中に上がり込んでリビングにバッグを置き、手洗いを済ますや否や、僕は義母の命令指揮下の元、義姉のサポートをする様な感じで、義理実家の馴染みの高級寿司店から届けられた特上鮨の大皿2つと船盛り1つを受け取ってリビングに移動してきた大きな檜造りの和机の上に並べたり、キッチンに立ってその他のご飯や御馳走を作るのを手伝わされたりする羽目になった。

 キッチンとリビングの境目辺りに据えた椅子の上に座って偉そうに嫁二人に指図をする姑も含めるかどうかはさて置いて、老若関係なく女達が甲斐甲斐しく働いているにも関わらず、まだ料理も皿も全部揃ってはいないのに、男共3人はもう既に檜机の一角に集まって、義父が持って来た大吟醸を、燗を掛けないまま猪口に注いで乾杯し、早くも自分達だけで宴会を始めていた。

 そんな様子を横目でちら見したところ、

「ったく、仕方がないわよね。男って奴は……。」

と、隣で僕が衣を付けた具材を、強火のガスコンロに掛けられている油が並々と入った鉄鍋の中に投下して天麩羅を揚げていた義姉が、突然吐き捨てるようにそう言った。

「いつも、いつも。人が必死になって食事の支度をしている前で楽しく酒盛りを始めやがって……。たまにはてめえも手伝えっての!」

「は…ハハ……。」

 義姉が愚痴りたくなるのも解らない訳では決してなかったので苦笑しながら相槌を打ったが、何も家事スキルを持ち合わせていない奴に手を貸して貰った所で、効率が上がるどころか寧ろ足を引っ張られてペースが乱され、余計に手間が増えるだけだから却って何もされない方がいいのではなかろうか、と心の中で僕は考えた。


 カリカリに上がって黄金色にキラキラと輝く天麩羅を、キッチンペーパーを敷いたトレイの上に移しながら、心の中でさっきからずっと気になっていた事を僕は義姉に尋ねてみた。

「そう言えばお義姉さん。今夜は何のお祝いなのですか?」

 僕自身が知る限りでは、今日は義理の実家の何かの記念日という訳でも無かったし、何か格別に良い事があったとも夫から聞いてなかったので、何でもない日に普段と違って豪く豪勢に御馳走を並べ、食卓を豪華に飾って宴会を催す事が不思議に思えて仕方がなかったのである。

 すると洋子さんは、油を落とした天麩羅を有田焼の大皿に移しながら、別にどうって事が無い風にこう答えた。

「ああ、あれね……。本当に何でも無い、下らない事なのよ。今度はわたしに男の子が出来たって判った途端に勝手に大騒ぎして、ああしてドンチャン騒ぎしているだけだから。急に呼び付けられて迷惑したでしょう?」

「い…いいえ……。そんな事はありませんけれど……。そう云う事なら、おめでとうございます。」

 僕は何とか平静を装っていたが、心に会心の一撃を受けたような、大きなショックを受けて動揺していた。

 そんな僕の様子を知ってか知らずか、

「ありがとう。」

と受け流すと、義姉はまた作業に戻り、盛り付けが終わった皿を持ってリビングの方へ去っていった。


 未だ酒盛りをして盛り上がっている男達の邪魔にならない様に食卓の準備を整えていると、義父と義兄と夫が交わしている会話が自然と僕の耳に入って来た。

「……まあ、何だ。取り敢えずおめでとう、兄貴。」

「ああ、ありがとう。俺もやっと肩の荷が下りるよ……。」

「何しみったれた事言っているんだ。お前なんかまだまだだ。後継ぎを拵えた位で大きな顔をするな。」

「まあ、わかっていますけどね……。父さん。」

「しかし、そう云う親父も何か機嫌がいいな。」

「ふん……。」

「まあ、気持はわかるけどな。俺もそうだし。……ところで、和樹。お前の所はどうなんだ?あれから何の音沙汰も無いが……もう産まれているんじゃないのか?」

「…………。」

「…………ふん。」

「…………?」

 義兄が故意ではない分性質が悪い一言を発してから急に静かになったので、そっと3人の様子を横目で窺うと、バツが悪そうに俯く和樹と不機嫌そうに手に持っていた猪口を机の上に叩き置いた茂樹、そして和やかだった場の雰囲気が一瞬にして暗転した事に気付いて戸惑いながら他の二人の顔をキョロキョロと交互に見つめる元樹の姿が僕の目の中に飛び込んで来た。

「……あっ!ああ!そうだったな。忘れていた。すまん、和樹!気を悪くしないでくれ。」

「まあ、良いけどさ。そんな気にしていないし。」

「馬鹿が……下らん事を思い出させやがって。折角の酒が不味くなる。」

「すみません……。でもさ……、そろそろ次の子供を作ろうとか、考えていないのか?」

「う~~ん、俺自身はそこまで欲しいとは思わないけどさ。あいつの方はまだ諦めてないんだよな。」

「ふ~~ん。まあ、分からんでもないけどな。」

「それにしたって不妊治療はないと思うんだ。」

「不妊治療?」

「ああ。なんだ。何か薬で母体の体調を調節する事で出産の安定性を上げるとか……そういう治療があるらしくて、受けてみたいとか言っているんだよな。……まあ、受けてもいいとは思うが、何分金が掛るからなあ。」

 その時、兄弟の話を聞きながら黙って酒を飲んでいた義父が、突然穏やかでない声を上げて会話を遮った。

「……無駄だろう。」

「……………。」

 2人は会話を中断して黙り込み、呆然としながら父親の方へ顔を向けた。そして少しの間黙然とした後やっと義兄が額に冷や汗を掻きながら口を開けた。

「い……いや、父さん。そう頭ごなしに無駄と言う事は無いでしょう。まあ、俺も難しいんじゃないか、とは思いますけどね……。」

 だが義父は、義兄の言う言葉に耳を貸す事もなく聞き流すと、こう断言した。

「薫さんと和樹の間に子供が出来ないのは、薫さんが鮪女だからじゃないのか?不妊治療?そんなもの……やるだけ無駄だろう。」


 一瞬、永遠に時が止まった様な気がして僕は手を止め、そして体中が硬直して動く事が出来なくなってしまった。それでも淡々とした義兄の声が耳の中に入って来る。

「と…父さん!そう云う事をここで言うのは…………。」

 どうやら義兄は会話をしながら僕の様子をチラチラと窺っている様だった。それとは対照的に義父は意に介さず、いやひょっとして敢えて無視を決め込んでいるのか、話を続けた。

「だいたい、子供が出来無い原因がウチの性転換薬に問題があるからだって?……巫山戯るな!ウチの薬は完璧だ!言い掛かりをつけるのもいい加減にしろ!」

そう怒鳴ると、また持っていた猪口を机の上に叩き付けてやっと義父は静かになったが、その肩は細かく震えていきり立ち、ピリピリと張り詰めた空気を彼方此方に撒き散らしていた。

 義父の言葉にショックを受けると共に場の雰囲気に耐えられなくなった僕は、立ち上がるとリビングから外の廊下に向かってその場から逃げ出してしまった。


 廊下に出てから2・3m程行った所で立ち止まると、僕は廊下の左側の壁に左手をつくとその場でしゃがみ込んだ。

 動悸が止まらない。ふと気が付くと目の前にあるフローリングの床が涙で滲み、一粒の水滴が現れたと思ったら、どんどん集まる事で小さな水溜りが僕の足元に出来ていた。


 微かに嗚咽を漏らしながらも声を殺して5分程泣き続けていると、何時の間にか何事も無かったかのようにリビングの方から宴会で盛り上がる義実家の面々の賑やかな声が痛ましくなる位僕の耳の中にまで響いていた。当然の様にその中には義兄や義父と飲み交わす和樹の楽しそうな声も含まれている。そしてその声が本心から楽しんでいる様に感じる分、僕の方はショックを受けて落ち込むと共に、心の片隅で憎しみの様な物が渦巻いていくのを静かに感じていた。

 信じられない。幾ら自分の父親とはいえ自分の嫁を思い切り貶されたにも関わらず言い返さない上に、その言葉にショックを受けて泣きながら妻が飛び出して行ったのに、後を追い掛けてフォローしないどころか放置して、さも楽しそうに一緒に酒を飲んで楽しんでいるなんて……。許さない……!


 そっと廊下のドアの陰からリビングの様子を窺うと、皆が此方に背を向け、話したり酒を飲んだり御馳走を貪ったりする事に夢中になって、此方の様子には誰も気が付いては居ない様だった。

 僕は忍び足でそっとリビングの中に侵入すると、入り口のすぐ近くの壁際に置いていたハンドバッグを引っ掴み、回れ右して廊下から玄関へ向かうと、そのまま家の外に飛び出してガレージのシャッターを開け、レパードに乗り込んでそのまま発進させた。


 家には帰りたく無かったが実家に向かうのは遠すぎるし、ホテルに泊まれば金が掛るし、そうかと言って女一人でネットカフェに行くのも気が引ける。ただ単に身近な知り合いの家の中で今いる場所から一番近くて真っ先に思いついた、というそれだけの理由で僕はお姉様の家へ向かった。

 車を玄関の前に停車してから外に降りてインターフォンのボタンを押すと、突然こんな夜遅くに訪ねて来た所為か少し驚かれた様な感じもしたが、僕は家の中に通された。

 家の前に車を駐車して家の中に上がると、

「久しぶりね、薫。……でもこんな時間に突然どうしたの?」

という声と共に目の前にお姉様が現れた。

 僕は心配そうに此方を見つめるお姉様の顔を見た途端、

「お……お……お姉様!」

と、無様に泣き腫らしながら僕はお姉様の胸元に泣きついた。


 その場で積りに積もった夫への不満を形振り構わずぶちまけかけたが、

「取り敢えず落ち着きなさい。話は中でゆっくりと聞いて上げるから。ほら、上がりなさい。」

と、お姉様から諭され、何とか落ち着きを取り戻した僕は彼女に促されるまま有栖川邸のダイニングルームへ通された。


 丁度夕食時だったのだろう、廊下の方にまで温かい食事から漂う心地良い匂いが鼻につく。

 部屋の中に入ると食卓を囲んでいた面々が此方の方に振り返ったので、僕は彼女らと目を合わせた。

 部屋の中には小母様と使用人の女性2人以外に何故か杏子様と、おそらく彼女と進さんの1人息子の圭一君だと思われる小さな男の子がいたので僕は少し驚いた。

「久しぶりね。」

と、杏子様から声を掛けられて慌てて会釈する。そして、

「大きくなったでしょう?この子。もうすぐ3つになるの。」

と言われ、改めてさっきから母親に食卓の上のスープを飲ませて貰う為に彼女の左袖を掴んで催促している、バイパーをデフォルトした様な赤いスポーツカーの絵が大きくプリントされた水色のTシャツを来た、何処となく進さんに雰囲気が良く似た男の子へ視線を向けた。

 たしか以前にあったのは僕が結婚式を挙げた前後、この子がまだ産まれたばかりの頃に一度会ったきりなので、なるほど…こうして見るとたった2年という短期間で倍以上に大きく成長しているのが良く分かる。しかも初めて会った時は杏子様の腕の中で爆睡していた癖に、今ではこうしている間も活発に身体を動かして、

「ママ!ごはん!ごはん!」

と、一人前に口を利いて食事を強請っているのだから余計に目を見張るものがあった。

 スープをスプーンで掬って一人息子の口元へ持っていき、宥めすかしながら杏子様は話を続けた。

「ほら、ウチわたしも進さんも外に働いていて、共働きでしょう?だから昼間の間、わたしの仕事が終わるまでここで預かって貰っているのよ。」

そしてそのまま夕飯も御馳走になっている時もある、と云う事のようである。道理でここに杏子様と圭一君の姿がある訳だ。


 序でだから僕も一緒に食べて行けばいいと促され、自分の方も言われてみれば腹が空いている事を自覚したので、僕はお言葉に甘えてダイニングテーブルの一角、お姉様の隣で杏子様の真向かいの席に腰を下ろした。そして、

「さてと……。奇しくも久々に三姉妹が顔を揃えた訳だけれど……。どうやら末っ子の方は穏やかではないみたいね。何があったのかお姉さんに話してごらん。」

と杏子様に問われるまま、僕は先程義理の実家で起こった事を逐一お姉様達に訴えた。


 若干日頃の鬱憤を晴らす様な感じで話し終わると、その場にいた他の女性陣は一様に眉を顰め、それから同情する様な、というより呆れている様な微妙な視線を僕に向かって投げかけて沈黙していた。

「酷い話ねえ……。辛かったでしょう……。」

と杏子様が沈黙を破った。

「でもそこまで取り乱すような話でもなかったわね。もっと大人にならなくちゃ駄目よ。」

「…………。」

 たしかに、考えてみればあんな一言位無視して聞き流す位の度量があってこそ一人前の大人なのかも知れない。後顧してみると自分の行動が酷く大人気ないものに思えてならず、シュンとした僕は俯いて押し黙るしかなかった。

「立ち向かって一言でも言い返すなら兎も角、逃げ出したら益々舐められてあなたの立場が悪くなるだけよ。」

「…………。」

「でもまあ、和樹君の方も追い掛けて引き留める位の事はするべきだわよねえ……。」

「…………。」

「それで正直な話、薫ちゃん。あなた今心から幸せだって言える?」

 突然そんな事を杏子様から問われ、僕は益々答えに窮した。今の自分を客観的に見た時に、不幸では絶対に無いと断言出来るが、主観的な観点から自分の心に問いかけてみると、どうも幸福だとは即答しかねた。


 答えられずに押し黙っている僕の様子を見て溜息を吐くと、今度はお姉様が口を開いた。

「ねえ、薫。こう云う事を言うのはどうかとも思うけれど……。あなた、和樹さんと別れた方が良いのではないかしら。」

そしてお姉様に迎合するように杏子様も、

「そうね、こう云う事が起こる度に大騒ぎをする様な事が今後も起こりそうなら、別れた方がこの娘にとって最善かも知れないわね……。そうしちゃったら?まだ20代の前半なのだからやり直すチャンスなんて幾らでもあるわ。」

「…………っ!」

 さっきとは打って変わり、僕は激しく首を横に振って2人の姉の提案を突っ撥ねた。冗談じゃない。目の前にいる二人には信じられない話なのかもしれないが、僕は学生時代にも殆どアルバイトとかそう云う物はやらなかったし、卒業後すぐ和樹と一緒になって以来、パートにも行かずにずっと現在まで専業主婦をやっている。要するに24年間も生きてきて一度も履歴書に書けるような就業経験が全く無いのだ。そんな状況で離婚して独りで職を探し求めた処で、そんな奴を誰が好き好んで雇うというのか?だからこそ夫の成す事言う事に逆らう事が出来ず、益々和樹の傲慢さに拍車を掛けて悪循環に陥っているのだろうが。そうかと言って金銭的に完全に夫に依存している現況で離縁など出来る訳がない。取り敢えず『離縁する』という選択肢は僕の頭の中には存在しなかった。


 僕の様子を見て、お姉様と小母様は手を拱いている様に困った表情をして黙っていたが、杏子様は一瞥しただけで再び新しい提案を僕に持ちかけた。

「今の夫婦生活に不満がある、そうかと言って離婚したい訳じゃない……。困ったわね。でも打破する方法が無い訳じゃないのよ。」

「…………?」

「そんな夫なんか放っておいて実家に帰っちゃいなさい。あなた達には冷却期間というか、一人になってお互いの事を見つめ直す必要があると思うわ。」

 優しく微笑みながらそう語る杏子様の言葉を聞きながら、たしかに和樹から離れて互いに相手の事を冷静に考えた方が良いのかもしれない。

 その晩、急遽僕は身一つで数年振りに帰郷する事に決めた。

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