第十二話:お姉様、第二子の懐妊
>>薫
2043年、初春。
3月になって、陽が射す時間も長くなり、寒さの中にも暖かさを感じるようになれた頃、麗子お姉様に第二子のご懐妊が発覚したという事を聞いてお祝いに駆けつける為、桜を後部座席右側に乗せ、共に行く事になった杏子様の家の門前に、スーパーチャージャーを装着した190後期のレクサス・GS350を横付けた。
「じゃあ、ママ。杏子小母さんと圭一お兄ちゃんを呼びに行ってくるから、そこで良い子にして待っていてね!」
そう、シートベルトを外しながら後ろに向かって声を掛けると、肩ベルトを背中の方に回し、まるで腰ベルトのみの2点式シートベルトの如く3点式ベルトで締め留められた桜は、
「うん!」
と、両手を上げて元気の良い返事をした。
頭の中では解っている。6歳未満の幼児を乗車させる時はしっかりと固定されたチャイルドシートに座らせなければいけない、と法律で決まっている事くらい……。だけれども、面倒臭いのだ。セダンのような背の低い車に取り付ける為に背を屈めるのも、シートベルトを通して固く留めるのも、好奇心旺盛な我が娘を抑える為に一々神経を削るのも、チャイルドシートのバックルを嫌がって桜が留め具を外すのを、ミラー越しに気が付く度に叱りつけるのも!
だから、市から借りたチャイルドシートは旦那のアルファードの2列目シートの左側に固着したままにして、家族揃ってミニバンで出掛ける時にこそ使用するものの、普段の買い物などで自分の車を使って移動する時は、僕はシートベルトに直接桜を括り付けている。
子供と車と云えば、こんな事を思い出した。
この前の正月休みに京都の両親が此方に遊びに来た事があった。それで吉祥寺駅へ100系後期のマークⅡで迎えに行って父母と合流し、母を助手席へ、父を後ろの席に乗せて帰途についた後、マンションの駐車場へ車を停めた時だった。突然後席左側から車外へ出ようとドアノブに手を掛けた父が突然素頓狂な声を上げた。
「ど……ドアが開かない!」
え?と思って母と共に振り返ると、確かにドアが解錠されているにも関わらず、父が何度もドアノブを引張っても、扉は開く気配が一切ないようで、うんともすんとも言わなかった。
「あら?おかしいわ。ちょっと待って!」
恐らくドアロックの不調だろうか?そう考えた僕は父を静止し、運転席のドアの内鍵に手を伸ばすと、一旦集中ドアロックを掛け、再びアンロックさせた。
「お父さん、どう?」
「駄目だ。開かない。」
そっと背後の様子を窺うと、父は苦虫を潰した様な顔で僕の方を見上げ、ぶんぶんと大げさに首を振ってみせた。
「じゃあ、ちょっと待って。外から開けるから。」
そう父に答えて車から降り、車体の左側に回ってドアノブに手を掛けた時、自分が後ろの2枚のドアにチャイルドロックをし、中から絶対に開かないように細工をしていた事を僕は今更ながら思い出した。
「何だ……。チャイルドロックを掛けてあったのか、この車。」
僕が外からドアを開けたお陰でやっと車外へ出る事が叶った父は、降車際にチラリとドアの金具が付いた側面を覗うや否や、流石運転歴40年のベテランドライバーと言う所だろうか、納得したように呟いた。
「手が届かないから、走行中に扉を開けようとするような仕草はまだした事が無いけれど、一応対策を取って置いた方が良いかな、って思って……。」
「そりゃそうだ。……ところで、そう言えば桜はどうしたんだ?てっきり一緒に迎えに来るものだと思ったんだが……。」
「和樹さんが休みだから、少しの間だけ娘の面倒を見て貰っているの。二人ともお父さんとお母さんの到着を待っているから、さあ、早く上へ行きましょう。」
話を戻す。
「じゃあ、ママ。杏子小母さんと圭一お兄ちゃんを呼びに行ってくるから、そこで良い子にして待っていてね!」
「うん!」
桜の返事を耳にしつつ、僕は体を少し屈めると、充電ユニットからレクサスのエンブレムが描かれた黒くて四角い電子キーを抜き取り、それを手に降車すると、ドアノブに軽く手を触れて車を施錠した。
スマートキーって本当に便利な物だと思う。
大昔の車では、車を施錠しようとすると、構造上必ずエンジンを切らなければならなかったが、キーレスエントリーカーのエンジンスターターはただの押しボタン型のスイッチだから、エンジンを掛けっぱなしにした状態でロックを掛けられ、運転者が車を離れる事が出来るので、子供だけを車内に残す時に非常に便利だ。空調が効いてようが効いてまいが犯罪行為には違いないが、少なくとも罪悪感は軽減する。
まあ、そう云いつつも万が一の時に備え、時々後ろを向いて車内の様子を窺ってはいるのだけれど……。やはり世間一般から見れば咎められることはあれ、あまり褒められる行為では決して無いだろう。
でも、今回は単に杏子様達を出迎える為にホンのちょっとだけ車から離れるだけだし、5分も経たない間の事だから、良いよね?……と自分に言い聞かせつつ運転席側から車体後部を回って八重樫邸の門前に立った。
進さんと杏子様と圭一君が暮らす家は、田園調布という場所柄を考慮すればかなり贅沢な造りなのだろうが、1階にリビング・キッチン・バス・トイレを除いて4部屋と2階に3部屋あり、建坪約50坪で7LDKの立派な庭付き一戸建てだった。
やや大きいと云う点さえ除外すれば、積水ハウスやミサワホーム等の住宅会社が建設販売しているような、外壁が少し灰色掛かったベージュで塗られた、シックで落ち着いた感じがする普通の住宅である。しかも青色の平べったい直方体のタイルが一面に敷かれた寄棟型の屋根の上には、それと判らないように小型の藍色の太陽光発電の電池パネルと黒い太陽光温水器タイルが何枚も仕込まれている。きっと、電気代だけでなく光熱費も格別に安く済んでいる事だろう。羨ましい事だ。
橙掛かった薄い赤色の花崗岩の、車の車輪の位置に合わせて設置された細い2本の石畳と白いコンクリートで拵えられた駐車スペースのすぐ傍から、建物を囲むように庭全体に芝生が生え、キラキラと爽やかに映える緑の輝きを瞬かせているのが、外から窺っても瞬時に知る事が出来た。それと、杏子様の趣味だろう、今はまだ冬が終わったばかりで何も育ってないが、ガーデニング用の土が入った色取りどりの植木鉢がスコップや如雨露と共に軒先に置かれている。きっと、暖かくなった時はこの庭を様々な色の花々が華麗に彩るのだろう。
軽く深呼吸をし、ウチのマンションの各戸の扉の前に設置されている物とよく似た、黒っぽい青銅色のメタルチックに鈍い輝きを放つインターフォンのボタンを押した。
ピンポ――――ン……。
軽やかに鳴ったチャイム音から少しして、
「はい?」
という杏子様の声が小さなスピーカーから聞こえてきた。
「お久しぶりです、薫です。お迎えに上がりました。」
「ああ!薫ちゃん。……ちょっと待ってて。今、そっちへ行くから。」
ガチャリ……、と徐に黒い鉄製の玄関の扉が開くと、その向こうからややベージュ掛かったクリーム色のスカートタイプのスーツ姿の杏子様と、彼女の手に引かれ、青い半袖のポロシャツとカーキ色の半ズボンの上から黄色いダウンジャケットを羽織り、任天堂の携帯ゲーム機を大事そうに抱きしめた圭一君が僕の目の前に現れた。
杏子様は一度後ろを振り返り、玄関の開き戸の鍵を施錠すると、愛息と手を結んだまま僕の眼前へとゆっくりと歩み寄って来た。
表の路地との境を分かつ門扉を押し開け、閉めると、杏子様は僕が開けた車の後部の左側のドアの開口部へ近付き、まずは圭一君を抱き上げて車内へ入れ、そして自分も乗り込んだ。僕は彼女達が乗り込んだ事を確認するとそっとドアを閉め、自分も運転席の方へ回り込んだ。
運転席に座り込んでシートベルトを締め、ハザードを消して右ウインカーを点滅させ、前後左右を確認してからギアをDに入れると、僕はハンドルをやや右へ切りながらサイドブレーキを解除した。
じわっと、されど力強くタイヤで地面を踏み込みつつ徐に大きな鉄の箱が動き出す。ふとルームミラーへ目をやると、一番左側に座って右にいる子供達の様子をそっと見守る杏子様と、新しく買って貰ったものなのか、圭一君が持ち込んできた携帯ゲーム機を巡って、真ん中に座った彼と右側の席に据え付けられた桜が一緒にはしゃいでいる様が視界の中に入ってきた。
「そう言えば、薫ちゃん……。」
突然、杏子様が僕に向かって声を掛けた。
「はい?」
運転に集中しなければならないので、僕は顔を前に向けたまま、目線だけミラー越しにチラリと彼女の方へ走らせた。
そこから有栖川邸へ向かうまでの道中、キャッキャと楽しく騒いでいる子供達を脇目に見つつ、僕と杏子様は大人同士のお喋りに興じた。
有栖川邸に到着し、お互いに子供を傍らに座らせ、ダイニングルームのテーブルの上で杏子様と共にお姉様と小母様と対峙してからも、僕達はカップに入れられた温かい紅茶を飲みながら取り留めのない雑談を続けた。
「お姉様、二人目の御懐妊、御目出度う御座います。」
「御目出度う、麗子。」
「有難う、薫。そしてお姉様も。」
そんな感じで、近況について報告し合う。どうやらとうとうこの春に、杏子様の方では圭一君が聖リリカル女学院の付属の初等部(幼稚舎と初等部までは共学、中等部から大学までが女学)に、お姉様の方では麗奈ちゃんは同じく幼稚舎へ入学する事が決まったらしい。
そういう話の流れの最中、不意に杏子様から、
「そう言えば、薫ちゃん。桜ちゃんの就学前教育はどうする心算なの?」
と話を振られ、まさかこの手の話題が自分にも及ぶまい、と考えていただけに尻込みしてしまい、
「え?ええ――っ?」
と、僕は思わず返答に窮した。
勿論、母親として娘の将来や教育について全然考慮していなかった訳では決して無い。寧ろ、口に出した事はまだ無かったものの、内心ではかつての幼い頃の自分と同様に、桜には何処かの幼稚園で3年保育を受けさせよう、と考えていた。
でも、最近は仕事が忙しいようで余裕が無いのか、それ以上に関心が無いのか、和樹の方は娘の教育に対して真面目に相談にのってくれない。それに幼稚園の就学年齢は満3歳から5歳程度まで、一方桜は先の木曜日にやっと2歳の誕生日を迎えたばかり……。具体的な話を始めなければならないと頭では理解していても、まだ1年近くも猶予があるし大丈夫だろう、と高を括って胡坐をかいているような有様だったから、いざこうして具体的に突っ込まれると困惑してしまったのだ。
しかしながら、今現在娘を幼稚園に通わせている、かつて通わせて今息子を小学校へ進級させようとしている、という頼り甲斐がある先輩ママが2人と、お姉様という一人娘を立派に育て上げ、自分にとってもある種母親のような親しみを感じ得ないお祖母ちゃんが目の前に揃っているのである。普段、夫にも両親にも、ましてや義実家には絶対に持ち掛けられないこの手の相談をするには絶好の機会かもしれない。
おずおずとだが、ダイニングテーブルの傍の床に敷かれた絨毯の上で小さなお兄ちゃんお姉ちゃんと一緒に無邪気に飯事を楽しむ桜をそっと横目で窺いつつ、僕はお姉様と杏子様と聡子小母様に打ち明けた。
「何処の幼稚園に入れるか、そういった事は殆ど未定なのですけど、桜には3年教育の就学前教育を受けさせようと思っているんです……。」
「でも、薫ちゃん。そう言って、もう既に幾つか願書を押さえているでしょう。」
「いえ、そんな事は全然!だって和樹さんともまだちゃんと話し合っていませんもの!」
まるで、今の時点から願書を取得してある程度の準備をしていて当たり前だ、というような雰囲気を纏って杏子様がさらりと話したので、僕は慌てて否定した。実際、願書を取り寄せて戦略を練るどころか、一体何処の幼稚園がどういう教育理念でどのような教育を実施しているのか?学費等の諸経費はどの位掛かるのか?そんな簡単な事すら判断出来ず、全く足元の覚束ない状況なのである。そもそも近隣にどれだけ幼児教育を行う学校法人があるのかさえ僕はよく知らない。桜に幼児教育を受けさせる、この事だって今時点では漠然と夢想しているに過ぎない。
ところが、というか尤もだというべきか、杏子様は文字通り目を点にして口をぽかんと開けながら僕の顔を見つめていた。
「ま……、まだ何処の願書も押さえていないの?!」
「え……ええ、まあ……。」
「ええっと……、薫ちゃんは桜ちゃんに3年幼児教育を受けさせたいのよね?まずはその点を確認させて。」
「はい、杏子様、そうです。」
「だったら、早く志望園を決めて願書をゲットして受験をする手続きを取らないと!3年保育と云う事は、桜ちゃんの場合は多分来年でしょう?いくら桜ちゃんが早生まれの子だからって、男の子みたいに7歳から就学させる気は勿論無いでしょう?それとも、2年幼育も候補に入れているの?」
杏子様は立石に水、それも怒涛な勢いを持つ土石流のように一気に捲し立てた。あまりの彼女らしからぬ早口に頭がついていけず一瞬目眩がしたが、僕は何とか食らいついた。
「いいえ、そんな事は……!杏子様が仰る通り、私も桜を6歳で小学校に入れる心算ですわ。その為には来年には桜を幼稚園に入園させる心算です。」
「だったら……。」
「でも、まだ入園まで1年。入園試験が10月にあるなら、それでも相当な余裕がありますわ。それに杏子様、大概の幼稚園では要項を配るのは9月になってからの所が多いと思いますし。まだ慌てる時期ではないのではありません?」
自分にも言い聞かせるように内心必死で反論すると、お姉様と杏子様、小母様まで三者三様に厳しい表情になった。心中不安を抱いている所為か、まるで焦燥感を煽られているように感じ、僕は思わず固唾を飲んで彼女等の顔を交互に逡巡した。
「薫ちゃん、甘いわ。」
杏子様はそう断言した。
「そ……、そうですか?」
僕はまたしてもたじろいでしまった。が、そんな事にはお構いなく、杏子様は話を続ける。
「願書が配布される9月まで悠長に待っていたら、他の人に全部取られて入園試験を受ける事自体が出来なくなってしまうわよ。こういう物は、先の入学手続きが終わった時点から向こうに掛けあって願書を予約して押さえておくものなの。」
何というとんでも発言だ!そんな事をして許される、というかそこまでする必要があるの?と疑問を呈すると共に、まさか杏子様の口からそんな言葉が飛び出して来るとは予想だにしていなかった僕は、正直開いた口が塞がらなかった。
「そ……そこまでしなくても……。」
反論しようとして言葉を口から出したものの、よくよく周りを見渡せば、お姉様と小母様も、さも杏子様の意見に賛同しているが如く尤もらしい顔をしてうんうんと首を縦に振っていた。精一杯平静を装ったが、僕は半端なく大きな衝撃を受け、心中穏やかでなかった。
杏子様の話は終わらない。
「そこまでしなくちゃ駄目なのよ。」
と言って、彼女は鬱屈そうに溜息を吐いた。
「いい?薫ちゃん。何処でもそうだけれど、幼稚園や保育園には定員というものがあるの。そして、その人数は精々7、80人程度。規模が小さな所なら4、5人なんて場合もあるわ。」
「はあ…………。」
「一方……、薫ちゃんもよく知っている事だとは思うけれども、幼児教育を子供に受けさせたいと言う親の数は年々増加しているわ。」
「…………。」
「幼児教育を提供する側の席の数は決まっている。勿論、幼稚園やこども園の数も増えているから実際は増えているけれど、それだって微々たるものよ。」
「…………。」
「それに比べて、特に首都圏では、あなたのように子供に幼児教育を受けさせたいと希望している親の数が定員に比べて圧倒的に多いわ。そうした軋轢の中で、薫ちゃん、あなたはその人達と数の少ないパイを奪わなければいけないのよ。」
「それは……解りますけれど……。でも杏子様、願書なんて予約なんかしなくても、正式に配布された後から何時でも取りにいける物でしょう?」
「だから、甘い!って言っているでしょう!」
少し興奮しているのか、杏子様の声が急に荒っぽくなった。
「薫ちゃん、幼稚園がそんな無尽蔵に願書を用意している訳がないでしょう?願書の数だって限られているのよ!だからこそ、出来るだけ早い内に願書を押さえて自分の分を確保しておく必要があるの!」
杏子様の発言を受けて僕は吃驚仰天し、思わずその場で飛び上がりそうになった。
「まさか?!だって願書でしょう?」
僕が声を荒げると、杏子様は少々顔を顰めて再び溜息を吐き、右の頬に右の掌を添えて首を左右に振った。
「幼稚園の入園試験なんて、小学校や中学校の受験と違ってペーパーテストも体力測定もない、簡単な面接があるだけよ。それも親の財力と熱意、そして子供も挨拶程度が出来る位の躾をきちんと受けていれば誰でも入れるレベルのね。だから、願書の数と期間を限定する事で受験者の数が定員の数よりも多くなり過ぎないようにしているのよ。」
「はあ……。」
相槌を打ちながらも、なるほどな、と僕は思った。しかし同時に、そんな卑怯な手段を講じて良い物だろうか?と実行に移すのはやや躊躇われた。
「でも、今からそんな真似をするのは如何かとも思いますわ。杏子様。」
「あら、そんな事もないわよ。」
と、不安を覚えて躊躇している僕と対照的に、杏子様は実にあっけらかんとしていた。
「だって、今から願書を押さえておくと云う事は、向こうに自分の熱意をストレートに伝える最適な手段なのよ。」
「…………?」
「薫ちゃん、あなたが取捨選択する立場の人として、ずっと前から予約していて準備万端で来た人と、ギリギリになってから滑り込んできた人、どっちの方が好感を持てる?」
「それは……。」
圧倒的に前者だろう。事前に用意周到に手を回し、いざ満を持して事を行おうとしている人間と、突然思いついたように締め切りの直前で名乗りでた人間とでは、信用とかその人の本気の度合いとかを推し量る上で印象が大分異なってしまう。
だがしかし、である。仮に椅子取りゲーム宜しく早い者勝ちだったとしても、実際問題として今の時分から願書を予約しておくなどという芸当が果たして可能なのかどうか?
そんな素朴な疑問を僕が投げると、杏子様は悪戯っ子のような含みのある笑みを浮かべてこう答えた。
「国立や公立なら難しいかもしれないけれど、私学なら出来ない事もないわよ。……そうねえ、例えばリリカルとか……。」
目が点になった。が、同時に何故かしっくりと納得してしまっている自分がそこにいた。成る程、ウチの学院ならそういう事も平気でやりかねない。……というより事実やっているのだろう。杏子様の話し方やお姉様と小母様の反応を窺うに、そういう事であるらしかった。
その時、今まで黙って僕と杏子様の会話を聞いていたお姉様が、唐突にこんな事を提言し始めた。
「そうだわ!リリカル!……薫、あなたも桜ちゃんを聖リリカル女学院の幼稚舎へ入れて上げればいいのよ!」
「え?ええ――――?!」
余程自分のアイディアがお気に召したのか、胸の前で掌を合わせてお姉様はニコニコと愛くるしい微笑みをその顔に浮かべていたが、反対に僕の方は突然の提案にどう反応すれば良いか判らず、ただ戸惑いのみを覚えていた。
更にそこへ杏子様が、
「まあ、それ良いわね!聡子小母様もそう思いません?」
と中腰になる位乗り気になり、彼女から同意を求められた小母様まで、
「そうね、とても素敵な事だと思うわ。」
と賛同したから大変な事になった。あれよあれよという間に、僕の意見は眼中にも入らず、桜は聖リリカル女学院の幼稚舎へ、という流れがほぼ確定してしまったからである。
安易に流れるのも抵抗があったが、確かにお姉様の提案と杏子様の助言は僕にとって魅力的に思えた。
まず、桜のような女の子は男の子とは違い、入舎すれば幼稚園から大学まで一貫した上等教育を受ける事が出来る。しかも勉強以外でも家事等の花嫁修業から華道や茶道や楽器といった趣向性の高い教養まで一通りの事を身につける事も出来る。おまけに周りは基本的に良い所の令息令嬢ばかりである。自分の娘を純粋培養のお嬢様に仕立てる心算は毛頭も無いが、変な奴に絡まれる、悪行に染まるといった確率がぐんと低くなると云う意味では安心感がある。勿論、エレベーター制の負の側面をもろに受けて学力的に残念な娘になりかねないという危険性も併せ持っているが、それを差し引いても通わす価値はあるだろう。偏差値的には三流校とは云え、腐っても『お嬢様学校』として極一部では知られた存在である。
次に、主に僕に様々な伝手があるという事が大きい。桜が入舎の面接を受ける頃にはお姉様は幼稚舎、杏子様は初等部に現役で通う子弟の保護者である。両人の言う所では、その子の兄や姉が園児だったり、園児の親が知り合いでその人から推薦があったりした場合、学院側からかなり融通を図って貰えるらしい。加えて杏子様は高等部を、お姉様は初等部から大学まで首席で卒業し、二人共に高等部では学生会の会長だった。そして、二人の妹分であった僕もそれを引き継いだ。決して縁故が深くないという訳では決してない。
更に僕の場合、曾祖母が学院の中核である高等部の理事長を務めていた。そういう意味で、学費等の出費に於いては目を瞑る事にして仮に桜を聖リリカル女学院幼稚舎に入れるとすると、他の子供達の父兄と比べて幾分か優位に立つ事が可能なのだ。はっきり言ってこれを利用しない手はない。それに娘にした所で、圭一君や麗奈ちゃんと一緒の学校に行けるのであれば喜んでくれるだろう。いや、喜ぶに違いない。
ただ、お姉様や杏子様の話によると、幼稚舎の学費は年間200万円程掛かるらしい。まあ、定員を50人しか取っていないのだから仕方が無いのだろう。この上入学金や寄付金や雑費等が嵩むのだから、締めた出費は相当な額になる。我が家は夫の収入だけに頼っている以上、決断を下すには和樹とよく話し合わなければいけない。
結局、前向きに検討はするが一先ず夫と相談したい、という旨を杏子様やお姉様に告げ、杏子様と圭一君を田園調布の家に送っていった際、彼女等に協力してもらう約束を取り付けた後、僕は桜と共に帰宅の途に着いた。
赤く輝く夕陽に向かって首都高速を車で走行している時、ふと僕はルームミラーに視線を向け、
「ねえ、桜……。」
と真後ろにいる桜に呼び掛けた。
シートベルトに固定されつつも、窓の縁に両手を乗せて身を乗り出し、白い息が掛かる程顔を硝子に当てるように近付けて無邪気に対向車線側の車窓の景色を眺めていた桜は、僕の声に反応し、
「なあに?ママ。」
と応えながら僕の方を振り向いた。
「麗奈ちゃんと同じ幼稚園に桜も行きたい?」
「お姉ちゃまと……。」
「そう……。」
僕は鏡に映る桜から目を離すと、再び前方へ視線を向けステアリングホイールを握り直した。返事は……ない。
痺れを切らしてもう一度バックミラーへ目を遣ると、小首を傾げて鏡越しに此方を見つめ返す桜と目が合った。どうやら、僕の言った事がいまいち理解出来ていないらしい。
「何でもないわ。ごめんね。」
「…………?」
桜は右に傾げていた首を反対側に傾け、なおも不思議そうな顔で僕の方を見上げていた。