第十一話:大晦日とお正月
>>薫
大晦日の朝が来た。
気のせいだろうか?翌日からの正月の準備の忙しさとは別に、何となく家の一角、特に子供達が固まっている辺りの空気だけがやけにフワフワと浮ついているような、不思議な感覚がして僕は頗る気になった。
だが、そのウキウキとした雰囲気を纏う発生源が判ると何とでもない。ただ単に至極ご機嫌な棗ちゃんが楽しそうに歌を歌っているだけである。
「も~一日寝ると、お正月~♪明日は楽しいお正月~♪」
黒豆を煮たてる間、珍しく母屋の居間で集っている子供達のそんな愛らしい様子を源氏襖の陰から見守って悦に浸っていると、
「そうか~、もう今年もお終いか……。」
と、突然顔のすぐ右後から息を吹きかけられて、僕は驚いて振り返った。が、目の前にあった菫ちゃんの顔を確認した途端、拍子抜けしてしまった。
「もう何よ?薫ちゃん、そんな顔なんかして。わたしの顔に何か付いている?」
「いえ、何でもないわ。少し吃驚しただけだから……。」
「ふ――――ん?」
咄嗟に誤魔化してみたものの、怪訝そうに菫ちゃんは僕の顔を凝視した。
「でも、そんなところで何していたの?」
「ちょっとね……。お豆さんを煮ている間に、少しだけ子供達の様子を見に行こうと思ってね。」
その時突然、菫ちゃんが僕から目を逸らしクスリと笑った、ような気がした。
「…………?」
思わず彼女の顔をじっと見つめると、今度は微かにクスクスと笑い声を上げた。
「どうしたのよ?急に。」
不審に思って訊ねると、菫ちゃんは僕にこう答えた。
「ううん。……本当に桜ちゃんの事が大好きなんだなあ……って。」
「当たり前でしょう!自分のお腹を痛めて産んだ、掛け替えもない大切な娘なのだから。今のわたしにとって一番の宝物よ。」
「フフフ……。」
「なあに?また……。」
「いやね。わたしにも桜ちゃんとか棗ちゃんみたいな可愛い女の子が出来たら良いな……。って思って。」
そう呟いた菫ちゃんの、幸せそうな横顔を見て、どういう訳か僕はとてつもなく羨ましく思った。外面だけは幸せそうな家庭……、恐らく彼女が想像して羨んでいるであろう物を既に手にしているのにも関わらず、である。
急に沈黙したからだろうか、
「どうしたの?」
と菫ちゃんに声を掛けられて、やっと僕は我に返った。
「いいえ!何でもないわ。少し考え事をしちゃっていただけ。ごめんね。何か心配掛けちゃって……。」
「ううん、大丈夫なら良いの。」
「そう。……あ、そうだ。そろそろお鍋の様子を見に行かなくちゃ。菫ちゃん、悪いけれど手伝ってくれない?」
「良いわ。何をしたらいいの?」
僕達は立ち上がると、揃って台所へ引き返した。
今年最後の晩御飯。
本来なら、皆で相互的に今年の勤労を労い、時の過ぎ去る速さに感慨深い物を感じつつ来年へと想いを馳せる、楽しくも厳かな時間が流れるこの時でさえ、子供達の無邪気な叫び声が反響する。
「あ!ドラえもん!」
「ピキーン!」
「ガタッ!」
年末特番の内、どれを見ようか、とリモコンを手中に収めた葵姉ちゃんがパラパラとチャンネルを変えていた最中、一瞬だけ画面に写ったドラえもんのアニメを見逃さなかった翔が大声を出した瞬間、変な奇声を上げて桜と棗が勢い良く立ち上がってテレビ画面を睨み付けた。
「お母さん。わたし、ドラえもん、見たい!」
「僕も――――!」
「は――――い、は――――い!桜も――――!」
案の定、チビ達はチャンネルの全権を握る葵姉ちゃんにしがみついた。
こうして目出度く子供らの要望が通り、画面が子供向けアニメに変わった途端、今度は和樹や誠さんが渋い顔をして愚痴をこぼし始めた。
「アニメかあ……。」
辛気臭い声を出す夫達の視線の先にある新聞のテレビ欄の文字列を覗き込む。
『年末最強王座決定戦!プライド祭り!』
どうやら裏番組として放送している年末恒例の総合格闘技を観戦したいらしい。そんな事言ったら僕だって紅白歌合戦とかN響の第九とかを聞いてみたいが、桜たちがアニメを見たいというから、自分が見たい物は我慢しているのに……。かなり深刻な頭痛を感じ、僕は無言で頭を抑えて溜息を吐いた。
「ママ……。ねえ、ママ!どうしたの?」
急に可愛らしい声が聞こえてきたので、額に当てた左手の所為で視界を塞ぐ左腕を少しだけずらすと、酷く怯えた様子の桜が垣間見えた。どうやら僕の体の具合が悪いのか?とこの娘なりに気を遣っているようだった。
僕は茶碗と箸を机の上に置くと、膝の上で座っている桜をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ。少し目眩がしただけだから、心配させてしまってごめんね。」
「本当……?」
まだ疑っているのか、桜は僕の瞳の中を覗き込んでいる。
「本当よ。……ほら、ドラえもんが始まったわよ。」
ドラえもんの『ど』が出るや否や、桜はもうテレビの方へ顔を向けていた。僕はそんな娘の様子を面白可笑しく思いつつ、彼女と同じ様にテレビの方へちらりと視線を向けた。
何気なく時計を見ると、もう深夜23時半を過ぎていた。宴が終わり、夕食も片付け終わった母屋の居間では、全員がNHKを映したテレビの画面をぼんやりと眺めながら、新しい年に向けて思いを馳せている。
そして、そんな僕の膝の上には、棗ちゃんや翔くんを膝枕している葵姉ちゃんや誠さんと同じ様に、パジャマに着替えた桜が、僕の方に頭を向けて仰向けになり、大の字になって沈没していた。
僕は、僕自身も少しうとうととしつつも、桜の頬を不規則に撫でながらその寝顔をぼんやりと見つめていた。
やがて、遥か遠くの方から、ゴ――――――ン……ゴ――――――ン……と、耳を澄まさないと聞こえない程微かだが、厳かで重みのある音が聞こえて来た。除夜の鐘である。
「おお、鳴ったなあ……。」
そう感慨深く呟いた祖父の一言を合図にするように、誰ともなく、
「明けましておめでとう御座います。」
「此方こそ。今年も宜しくお願いしますよ。」
と新年の挨拶を交わした。
「それじゃあ、子供達も寝潰れてしまった事だし、もうそろそろ我々大人も休みましょうか……。」
「賛成!じゃあ、わたしがショーちゃんを運ぶから、セイちゃんはソーちゃんをお願い。」
「良し、分かった。……よいしょっ!」
「よっこらしょ……。そうだ、クーちゃんは大丈夫?オーちゃんも眠ちゃったみたいだけれど……。」
「大丈夫よ、お姉ちゃん。心配しないで。……よいしょっ!」
そう葵姉ちゃんに返事をすると、僕は桜を抱き上げた。すると条件反射だろうか、
「にゅう……。」
と寝言を喋りつつ両手で僕の胸に抱きついてきた。
僕は自分の乳房に顔を埋めている幸せそうな娘の寝顔を見つめ、ポンポンと彼女の背中を優しく叩いた。
「よしよし。良い子良い子……。さあ、お布団の中に入りましょうね。……それでは、わたし達は一足早く休ませて頂きますわ。……行きましょう、あなた。」
「お、おう。」
和樹を促して立ち上がると、僕は改めて祖父母達の方へ振り向いた。
「じゃあ、お休みなさい。」
「わたしもお休みなさい。」
「お先に失礼します。」
「お休みなさい。」
「ああ、お休み!」
「また、朝に……。」
そして、ぼく等4人は居間から退出した。
2043年、元旦。
いつもの様に僕の布団に潜り込んでいた桜に声を掛けると、眠気眼を擦りながら彼女はのっそりと起き上がった。
「むにゅ……ん…………。あ、ママ、おはよ……。」
「おはよう。さあ……、曾お祖父ちゃん達に御挨拶をしなければいけないから、お着替えしましょうね。」
「…………?」
もうこの娘の癖となっているのだろうか?桜は疑問をたっぷりと含んだ視線を上目遣いで投げ掛けていた。
「今日は、お正月と云って、古い年が開けて新しい一年が始まる大切な日だから、曾お祖父ちゃん達にお会いしたら、いつもの『おはようございます』ではなくて、『あけましておめでとうございます』って言わないと駄目よ。」
桜に万歳をさせ、パジャマを脱がしながらそう言うと、彼女は僕の顔を眺めたまま愛らしく首を傾げた。
「あけ……お…………?」
まだお正月がどういう物なのか理解していないのか。それとも、流石にまだ長いフレーズを流暢に話す事はこんな小さな子供にとっては難しかったか……。桜は上手く言う事は出来ない様だった。本人も朧げに自覚しているのか、何となく目元を潤わせてように僕には感じられた。
「う――ん、桜にはちょっと難しかったかな……。」
「む――――っ!」
「じゃあ、ママがフォローしてあげるから、おめでとう、だけははっきりと言いなさいね。」
僕がそう言うと、ムッとしていた桜はニカッと笑い、
「うん!わかった!」
と、元気よく答えた。
家族揃って母屋の居間へ行くと、すでに御節料理の入った、金蒔絵が施された黒い漆塗りの五段の重箱が机の上に並び、家の住人が皆揃っていた。
入り際に、祖父に声を掛ける。
「ごめんなさい、遅くなりました。」
「やっと来たか、待っていたよ。ほれ、薫も桜も和樹君も早く座りなさい。」
祖父に促されるままいつもの様に葵姉ちゃんの隣、祖父母の前に、桜を膝の上に乗せて座ると、娘は彼等に向かってこう言った。
「曾お祖父ちゃん、曾お祖母ちゃん、おめでとう、ございます!」
急に曾孫が叫んだ所為か、祖父母は少しの間呆然と桜の顔を見つめていたが、
「ほら、お正月だから年始の挨拶をさせようと思ったのだけれど……。まだ上手には話せないから……。」
と、僕が気持ち控えめに注釈を加えると、やっと納得したような表情をし、
「ああ!……桜ちゃん、明けましておめでとう。今年も宜しくね。」
「はい、明けましておめでとう御座います。今年も宜しく。」
と、朗らかな顔を向けながら曾孫に返した。
さて、これから皆でお節を啄む事になったのだが、桜の好奇心に満ちた視線は見なれない重箱に一心に注がれているようだった。ワクワクとした瞳を爛々と輝かせてそれを覗いている。
まあ、無理もないだろう。まず、恥ずかしながら我が家には重箱なんて大層な物は置いていないし、昨年お姉様の所で皆と集まった時にも、食卓の上には7段もあるような立派な輪島塗の大きな重箱が幾つか並んでいたと思うが、その頃の桜はやっとハイハイをし始めたばかりの、まだ僕の母乳を吸っている位本当に赤ちゃんだったので、恐らく彼女の記憶には一切残っていないだろう。
だから、好奇心旺盛な所があるこの娘が、殆ど初めて見る物に異常に興味を示すのも、親として何となく理解する事が出来た。
やがて、桜の興味はお重から、祖父が机の上に並べた重箱と同様に綺麗な白砂青松の金蒔絵の黒い漆器の膳の上に並べられた、きらきらとした銀粉と金粉が全体に塗された漆塗りの盃と盃台、そしてやや黄色掛かった銀色に輝く錫製の銚子に移ったようだった。今まで見た事もない煌びやかで趣のある和食器に暫し魅了されているように僕には思えた。
あの銚子の中には、味醂の中に屠蘇散を混ぜたお屠蘇がたっぷりと入っているのだろう。
僕等が見守る中、盃が載った盃台と銚子を両手に手にした祖父は、皆を見回してこう言った。
「それでは、皆さん。今年も皆の息災を願って、お屠蘇を戴きましょう。」
その場に居た大人全員がシャキッと居住いを正す。
「じゃあ、まずは年少のものから……。」
そう口にすると、祖父は首を左右にゆっくりと振って周りを見渡し、僕と葵姉ちゃん、もといそれぞれの膝の上に座って、状況がよく理解出来ていないのか小首を傾げつつ事の成り行きを見守っていた桜と翔の方へ視線を向けた。
「葵、薫。」
「はい?」
祖父に名を呼ばれ、僕と葵姉ちゃんは異口同音に返事をする。
「翔と桜は……、どっちが先に生まれたんじゃったけのお?」
「ウチの子です。」
すかさず返答したのは葵姉ちゃんだった。その声に翔がピクリと頬を震わせて反応し、何か期待に満ちた目で彼の母親の方を窺っている。
「そうか……。」
葵姉ちゃんの返答を聞いてそう呟いた祖父は、こう続けた。
「じゃあ、一番目は桜ちゃんか!」
その言葉を待っていたかのように、僕の太腿の上で、尻を着いて座ったままぴょんっと桜が飛び上がった。
「やった――――!桜が一番!!」
一方、同じように葵姉ちゃんの胸の中で、
「え――――ん!」
と泣きながら翔はジタバタと地団駄を踏んでいた。
そんな又従兄の無様な様を横目で眺めつつ、祖父、僕の経由で受け取った屠蘇酒が微量に入った盃を僕の介添えで手に取ると、その小さな手にはあまりにも大きすぎる杯を口元にやり、桜はお屠蘇を一気に飲み干した。
そして案の定、泣いた。
「びぇ――――――――ん!ママ――!ママ――!うわ――――ん!」
泣きべそを掻いて胸にしがみついた娘を、
「はいはい。」
とあやしながら僕はぎゅっと抱きしめた。
後日、葵姉ちゃんから聞いた話だが、お屠蘇を呑んで号泣したウチの娘を見て戦慄を覚えたのか、母親である彼女の膝の上で青い顔をしてガクブルと震えていたそうである。
苦くもないが旨くもなく、生薬の香りがプンプンと漂う黄色い屠蘇酒が入った盃を年少者から年配者まで順番に口を付けると、いよいよメインの御節料理に手を付ける事になった。
お重いっぱいに詰められた色取り取りの縁起物の中から、自分の取り皿へ適当にピックアップしていく。
細かく角切りした蒟蒻が入った黒豆の煮物、田作り、数の子、海老を茹でたもの、だし巻き卵、伊達巻、蒲鉾、筑前煮……。そういった物を皿に取って自分でも食べつつ、桜の口の中にも放り込んでやる。箸で掴んだ食べ物を、
「あ~~~~ん!」
と、待ち構えるように大きく開けた娘の口元へ持っていっていると、まるで自分が雛鳥に餌を与える親鳥にでもなったかのような気分になってきた。
中でも、祖母手製の黒豆の煮物を桜は大層気に入ったらしく、
「お豆さん!お豆さん!」
としきりに連呼し、食べさせると頬を落として喜んだ。
自分もこの黒い煮豆が好きで思い入れが人一倍あるので、こういう娘の仕草を観察すると、やっぱり親子なのだなあと、しみじみと実感した。
1月2日、昼過ぎ。
僕達家族3人は、葵姉ちゃんと誠さんと共に、行きしと同じように誠さんの車に乗り込み、左側の前後の窓を全開にして、家の前へ見送りに出た祖父母達と向かい合った。
「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。それに伯父さん伯母さん達も、お世話になりました。」
「それじゃあ、薫も和樹君も桜ちゃんも、気を付けて帰るんだよ。」
「また機会があったら、春休みにでも遊びに来なさい。」
「はい、行けたら行かせて頂きます。」
「桜ちゃんも元気でね!」
「バイバ――イ!」
「ソーちゃん、ショーちゃん、曾お祖父ちゃん達もバイバイ!」
「はい、バイバイ!」
「京都の方にも宜しくな。」
「はい、伝えておきます。」
「それでは。」
ひと通り思い思いに惜別の情を述べると、誠さんは車を発進させた。
前庭にバックで止まっていた車が、動き出して門前の小道へ左折したのに合わせたように、親戚が門の外まで出て、此方に向かって手を振っているのがリアウインドウ越しに見える。僕は桜の手を取り、後ろに向かって手を振らせながら、今度は何時来られるだろうか、としんみりと感慨に耽った。
約10分で出雲縁結び空港へ到着して荷物を下ろすと、僕達は誠さんと別れ、受付カウンターでチケットの搭乗とスーツケースの搬入の手続きを済ませると、葵姉ちゃんと2階の出発口の前までやって来た。
「それじゃあ、お姉ちゃん。わたし達、一足先に東京へ帰るね。」
「ええ、クーちゃん。無事到着したら、此方に電話して頂戴。」
「分かっているわ。じゃあ、そろそろ……。」
「それでは葵さん、さようなら。皆さんに宜しく。」
「葵伯母ちゃん、バイバ――イ!」
「はい、バイバイ。さようなら!気を付けてね!」
そしてとうとう葵姉ちゃんにも別れを告げ、僕等は搭乗口へ向かう事にした。
「はい、いらっしゃいませ。御利用有難う御座います。御面倒をお掛けしますが、セキュリティーの為、手荷物と身体の検査をさせて頂いています!」
金属探知の検査をする係員の声がする。小さな空港だから、出発ゲートから入ってすぐの所に検査をする機械とスタッフが待機している。
僕は桜を床の上に下ろすと、先に行った和樹に従って係員にハンドバッグと手持ちの電子機器を預けた後、桜を先に検査ゲートの向こうへ通そうとした。
だが、慌てた様子の係の男性にむんずと引き留められた。
「ああ、お嬢ちゃん!ちょっと待って、ストップ、ストップ!」
男性の声とほぼタイミングを同じにして、傍にいた若い女性スタッフが緑色の編み篭を手にして桜の傍へやって来た。桜は怪訝そうな顔で空港の制服を着たお姉さんを見上げている。
その女性は桜の目線と同じ位置になるまでしゃがみ込むと、優しそうな口調でこう言った。
「ねえ、お嬢ちゃん。すぐに返して上げるから、その熊さん、お姉ちゃんに預けてくれないかな?」
「…………!」
すっかり忘れていた。縫いぐるみだって立派な手荷物だ。うっかりしていたとは云え、何かを隠すには絶好な物である以上、しっかりと検査に掛けなければならないのは自明な事だろう。
「すみません、うっかりしていて……!」
僕は桜からアーちゃんを取り上げて係員の女性へ渡そうとした。
その途端、桜は大声で泣き出し、テディベアに掴みかかった。
「うぇ――――ん!やだ――――!ヤダヤダ――――!」
「我が儘を言わないの……。心配しなくてもすぐに戻って来るから……ね?」
「大丈夫。この機械にスウって通るだけだから。本当にすぐに戻ってくるからね。」
いつの間にか僕に加勢するように青い仕切りベルトの向こう側、機械の傍に居た男性スタッフも桜に向かって声を掛けた。
更には、桜の泣き声が聞こえたのか、
「何かあったの?」
と葵姉ちゃんが大声を上げたり、
「どうかしたのか?」
と、先に行った筈の和樹まで引き返してきたりした。
「大丈夫!大丈夫!大丈夫だから!」
もうどうにでもなれ!半分そう思いつつ僕は叫んだ。
搭乗口の検札機の前の、大画面テレビがある場所、その沢山の並んだ椅子の一つに腰掛けると、先程の顛末を右隣で聞いていた和樹が人目も憚らず大声で笑い出した。僕の膝の上では、まだムスッとした表情をした桜が、大事そうに熊の縫いぐるみをぎゅっと抱きしめている。
どうにか桜を宥めて検査を無事に終えた後、和樹と合流した僕と桜は、いよいよ飛行機に搭乗する為に、他の数人の乗客と共に搭乗口の手前までやって来た。
眼の前に広がる大きな窓の向こうのパノラマには、これから乗るであろうJALの中型ジェット機が、今か今かとその時を待っているようだった。
やがて時間が訪れると、僕等は搭乗口の奥の通路、飛行機の入り口に向かって進んでいった。
CAにチケットを見せ、指示された席に無事に着席する。左舷側のエンジンと主翼がよく見える場所で、僕は桜を窓際に座らせた。向かいの通路側では、和樹が腰掛けている。
『皆様、本日はJAL1666便、出雲発、東京羽田行に御搭乗頂きまして有難うございます……。』
キャビンアテンダントが、そろそろ出発する事を案内し、緊急時の時の装備と行動について簡単に説明する。
僕は自分と、そして桜にシートベルトを締めつつ、
「そろそろ出発するわよ。」
と、桜に囁いた。
「ママ、本当に、お空、飛ぶの?」
「ええ……。でも、他のお客さんもいるから、静かにしなきゃ駄目よ?」
「うん!」
「それと、行きしの新幹線みたいに、お耳がキーンってなると思うから、もしそうなったらすぐにママに言いなさい。飴ちゃんを上げるから。」
「うん!!」
そうこうしている内に、管制塔から離陸の許可が降りたのだろう。貴重の機内アナウンスと共に、銀翼の巨大な鳥はゆっくりと、だが徐々にスピードを上げながら滑走路に向かって動き出した。
1時間半弱もすれば、東京に到着である。
急加速をして滑走路から飛び出した飛行機の窓から、どんどん遠ざかっていく下界の景色を食い入るように見つめる桜の横顔を眺めつつ、掃除や買い物など、帰ってからすべき事を僕はぼんやりと考えていた。