第十話:菫ちゃん達の合流
>>薫
朝になった。
とは言っても、早朝の5時半だから僕の胸の谷間に顔を埋めている桜も、左隣で布団に包まっている和樹もまだ寝息を立てている。
僕は桜を起こさないように気を付けながら布団から這い出ると枕元に置いた銀縁の眼鏡を掛け、娘を仰向けにして布団を掛け直してやり、パジャマを脱いで黒いパンストと青いカシミアのロングスカートを穿き、茶色い皮のベルトを締めて深緑色の長袖の綿のタートルネックを着、淡黄色のニットのガーディガンを羽織ると足音を立てないように障子を開けて部屋の外へ出た。
廊下へ出ると、向かいの部屋から出てきた葵姉ちゃんとバッタリと出会した。彼女も既に普段着に着替えていた。
「お姉ちゃん、お早う。」
「お早う。クーちゃん。」
部屋でまだ寝ている人間を起こさないように小声で互いに挨拶を交わすと、僕と葵姉ちゃんの順で縦に並びながら階段を降りる。
「クーちゃんって、こんな朝早く起きるようになれたのね。」
「お姉ちゃんこそ……。でも、主婦業を何年もやっていたら、流石に嫌でもこの時間に目が覚めるわ。」
「まあねえ……。」
「だけど……、上には上がいるのよねえ……。」
離れから簀子を渡って本館の上がり框の黒ずんだ杉の板を足で踏んだ折に、僕は上がり框の右側にあるガラス戸から、何やら水音や包丁がトントンとまな板に当たる音が聞こえて来る台所の方をちらりと覗き込んだ。
一度部屋の中を廊下の方へ回り込んで、台所に入ると、既に祖母と伯母が並んでシンクで朝食の準備をしているのが目に入った。
「お早うございます。」
と、入る間際僕と葵姉ちゃんは揃って彼女等に挨拶し、台所のダイニングテーブルに6脚ある椅子の、向かって右手前の1脚の背凭れに掛けられた薄青色と薄桃色のエプロンをそれぞれ手に取ると、素早くそれを身に付けて手を洗い、そのまま朝食の調理に加わった。
祖母と伯母の指示に従う形で御飯や具沢山の味噌汁を作って器に盛り付けると、僕と葵姉ちゃんは夫や娘達を起こす為に離れに引き返した。
障子を開けて部屋の中に入り、娘の寝顔の傍に座り込んで二人に声を掛けた。
「あなた、桜。起きて下さい。御飯ですよ。」
「……ん……。ああ……、お早う。」
と、寝返りを打って俯せになり、腕立て伏せをするように手で布団を押し付けながらのっそりと和樹が起き上がった。
「お早うございます、あなた。トランクの中に着替えが入っているから適当に着替えて下さい。」
そう夫に促しつつ、僕は桜の身体を軽く揺すった。
「ほら、桜も。もう起きなさい。」
「うにゅ――――。ん――――――!」
桜は万歳をするように両手を挙げると、僕の太腿の上に頭を乗り上げるように寝返りを打ってきた。
「こらこら、いい加減にしなさい……。」
呆れながらも僕は娘の身体を胸元に抱き抱えた。
和樹や葵姉ちゃん達と一緒に桜を抱いて離れから母屋の居間へ移動し、朝食を摂っている時、思い出したかのようにいきなり祖父が口を開いた。
「え――――と、皆も知っている通り、今日は菫達がこの家にやって来ます。」
「…………。」
「それで、誠君……。」
「はい?」
「12時25分に到着するようだから。お願い出来んかね?」
「車ですか?」
祖父は、そうだ、と言わんばかりに誠さんの方を向いて深く頷いた。
「構いませんよ。」
「じゃあ、わたしも一緒に付いて行くわ。」
と、誠さんが同意する声に重ねるように葵姉ちゃんも口を挟んだ。
「そうか……。それじゃあ、12時10分位に葵達に空港へ行って貰って、皆が帰って来てからお昼にするとしましょうか……。ねえ?母さん。」
祖父が声を掛けると、祖母はニコニコと笑いながら、
「そうですねえ、そうしましょうか。」
と答えた。
朝食が終わって片付けて、桜を薄桃色のパジャマから綿製で水色の長袖のタートルネックと白色のスカートに着替えさせて淡黄色のソックスを履かせると、僕は娘を連れて離れの2階の部屋から階段を下りて応接間まで行き、2人の子供達が遊ぶ様子を見ていた誠さんと並んで二人掛けのソファーに座り、スティーブン・キングの文庫本を読んでいた和樹の膝の上に娘を座らせた。
予告なしにいきなり乗せたので、相当驚いたのだろう。
「……?!ちょっ!おま……!いきなり何するんだよ?」
と、和樹は酷く狼狽しながらも僕の顔を睨みつけた。
「何するんだよ?ではありませんわ。あなたも父親なのだから、誠さんを見習ってたまには桜の面倒を見てくれないかしら?」
「え――――っ……。」
和樹は渋るような声を出して顔を顰めた。
「そんな事を仰らないで。わたしが向こうで家事を手伝っている一時だけで構いませんから……。桜だってたまにはパパと一緒に遊びたいわよね?」
「…………にゅ?」
状況がよく理解出来ていないのか、首を傾げて僕を見上げつつ僕の顔を見上げ、ちょこんと座る桜を夫に押し付けて僕は応接間を後にした。
2階に登って桜と僕と和樹のパジャマを回収すると、僕は下に降りて母屋の方へ移動し、全自動洗濯機の前に立って操作しようとしていた葵姉ちゃんの傍に積まれた洗濯待ちの衣服の山の上にドカッと置いた。
「お姉ちゃん、これも一緒にお願いしても良いかしら?」
「あ、うん!いいよ!一緒に洗っておくから置いといて!」
そして洗濯機が洗濯を終えるまでの間に、子守をしている男達以外、祖父母、伯父伯母、葵姉ちゃんと僕で手分けして家の中を掃除する。
請け負った他の場所の掃除を済ませ、掃除機を持って葵姉ちゃんと応接間の中に入ると、部屋の中に居た全員が僕とお姉ちゃんの方へ振り向いた。
「あ、お母さんだ!」
「お母さんだ!」
「ママ――――!」
「お母さん遊ぼ!」
「ママ、抱っこ――――!」
「駄目だよ、ショーちゃん、オーちゃん。お母さん達は今お掃除をしている最中だから、お手伝いしても邪魔しちゃ駄目。」
流石棗ちゃん、一番年上なだけはある。それぞれの母親の足元にヨチヨチと纏わり付こうとするチビ二人をお姉ちゃんらしく諌めると、そのまま床にしゃがんで足元に散らばっている玩具を片付け始めた。おチビ達二人もそんなお姉ちゃんの姿に感化されたのか、見よう見まねで遊具を掻き集めている。感心、感心。
次に驚いたのは、
「手伝おうか。」
と言いながら唐突に誠さんが立ち上がり、戸棚や書棚の上に置いてある物を適当に持ち上げ、はたきを片手に煤を払っていた葵姉ちゃんを大変上手く補助していた事だった。きっと普段から積極的に家事に手を貸しているのだろう。本当に二人の息がぴったりだった。
それに比べて愕然としたのは、同じ部屋の中にいる他の面々が立って何らかの形で掃除に携わっているにも関わらず、ソファーから一歩でも動くどころか立ち上がろうとする素振りすら見せず、下らない小説を平然と読み続けていた和樹の姿をまざまざと見せつけられた事だった。皆が動いているのに一人だけ寛いでいるなよ。手伝う気は無くても空気を読んで、せめて立ち上がって手伝っている振り位はしろ。頼むから親戚の手前、僕に恥を掻かせるな!
僕は夫のこんな姿を酷く恥ずかしく思った。
掃除を終えて家の仕事が一段落すると、祖母が茶や茶菓子を置いて運ぶ盆を用意しながら、
「そろそろお茶の時間にしましょうか……。」
と口にした。すると、
「賛成!」
と葵姉ちゃんが賛同し、
「それじゃあ皆を呼びに行きましょう。」
と伯母も同調したので、
「それでは、わたし、応接間に行って主人や子供達を呼んできますわ。」
と、僕も離れのキッチンを出て応接間の方へ廊下を真っ直ぐ歩き出した。
田舎ではよくある事だろうと思うが、この家では朝食と昼食の間、仕事が一区切り着いた午前10時から11時位の時間帯にも、午後と同じ様に間食の時間を設け、茶菓子を片手にお茶を楽しむという習慣があった。
僕は応接間の引き戸に手を掛けると部屋の中の人間に向かってこう呼び掛けた。
「あなた!誠さん!それと子供達!そろそろお茶の時間にしますから此方に来て下さい。」
「はーい!わかりました――――!」
「やほーい!」
「あれれ?もう、おやつ?」
既に勝手が知れている上の二人と異なり、勝手が判らない上に普段は3時のおやつしか与えられていない桜は、朝方にもお茶の時間をすると聞いて怪訝そうに僕の顔を見上げていた。
応接間の向かいの、廊下の角にある六畳間の炬燵の所に皆が集合すると、祖母が番茶の入った湯呑み茶碗と和菓子を配り、お茶の時間が始まった。
炬燵蒲団に半分潜り込み、正座をした僕の太腿の上で三角座りをし、爛々と目を輝かせて机上の菓子を桜は見つめているが、時折思い出したかのように後ろを振り向いて僕の顔を上目遣いで見上げた。
やれやれ、別に勝手に取って食べても叱りつけたりはしないのに……、と思って、
「食べていいわよ。」
と、苦笑を漏らしつつ僕が声を掛けると、ぱあっと明るい笑顔になり、丁度手の届く範疇にあった目の前の若鮎を引っ掴み、桜はそれを僕にグイっと無言で差し出した。別にそれを僕に食べさせようとしている訳ではない。自分の力ではビニールの袋が上手く開けられなくてこのままだと食べられないから、母親である僕にビニール袋から魚型の菓子を取り出させて食べさせて貰おうという魂胆なのである。
僕は、
「はいはい。」
と言いながら娘から若鮎の入った透明な袋を受け取って切り破ると、中に入っている和菓子を取り出した。そして、どら焼きと同じ様な生地の中にモチモチとした白い牛皮が包まれているので、頬張った桜が誤って喉を詰まらせる事が無いようにそれを一口大に千切ると愛娘の口内へ一つずつ放り込んだ。そして、はむはむと頬張って満面の笑みを浮かべた桜の顔を観ている内に思わず僕の方も笑みが溢れてしまった。
午前のお茶を済ませて暫く経ち、そろそろお昼にしようかと台所で祖母や伯母と共に昼食の狐饂飩を器に盛り付けていた頃、菫ちゃん達を出雲空港まで迎えに行く為に車で出掛けた葵姉ちゃんと誠さんが戻って来た。
僕や葵姉ちゃんと違い、菫ちゃんは女学院へ行かされる事も無く、また蘭ちゃんと異なり自ら女子高へ行こうと志願もせず、小学校から大学までずっと男女共学の環境で過ごして来て、職場も男女半々の所に就職したようだから、それこそ若い(今もまだ25歳の若さだが)頃から何人も異性交遊をして彼女なりに様々な経験を積んできたらしい。お陰で長期休暇の度に頻繁に此方へ帰郷していた頃は、毎度毎度恋人との惚気話や愚痴を聞かされたものだった。だから、その彼女が一体どんな殿方を生涯の伴侶として選択したのか、少なからず興味が有ったので、僕も伯母達と共に玄関まで出迎えた。
玄関の硝子戸がガラガラと騒々しい音を立てて開くと、どういう訳か妙に気まずそうな顔をした葵姉ちゃんと誠さんに続いて、ジーンズ生地の長ズボンに濁った青と白の少し幅の広い横縞のストライプのモッコリとした分厚いウールのタートルネックのようなセーターを着て、明るいマゼンダ色で襟のフードの所にキツネ色のファーが付いたダウンジャケットを羽織り、肩まである長いストレートヘアーを頭の後ろで団子を作るように結んだ菫ちゃんが家の中へ入って来た。
「ただ今戻りました。」
「おお、誠君も葵も御苦労様。」
「お姉ちゃん、誠さん、おかえりなさい。それとお久しぶりね、菫ちゃん。」
「こんにちは。お祖父ちゃんから話は聞いていたけど薫ちゃん達も来ていたんだね。」
等と話していると、
「お邪魔します。」
と言うバリトンが良く効いた静穏とした声と共に、また引き戸が開いて見知らぬ男性が僕等の前に現れた。恐らく菫の婚約者という男性だろうと容易に推測出来たが、その風貌に僕は思わず息を呑んで凝視してしまった。
身長は僕より頭一つ分高い位には見受けられたから170後半そこそこといったところだろうか……。如何にも鍛えていますと言わんばかりにしっかりと筋肉が付いたがっしりとした体格に、少し灰色掛かった落ち着いた感じの洒落たスーツの下にしっかりとアイロンが掛けられた白いワイシャツを着て、少し面長で日に焼けて若干褐色掛かった、頬から顎にかけてよく手入れのされた形の良い髭まで蓄えた雄々しい面構えをした精悍な男性だ。元男の僕ですら、見た瞬間格好良いと思って旦那と天秤に掛けかけた程だから、菫ちゃんがぞっこんになるのも無理はなかろうとは思えた。ただ、外見上からしてどう頑張っても35歳以下に見えないのが非常に気になった。
僕はまだいいが、問題は葵姉ちゃんと誠さん達だろう。自分達の妹の婿になるかも知れない人……つまり義弟になってこれから長い時間を付き合う事になるであろう人が自分達よりも10歳近く年上だなんて、正直言って困惑ものだろう。僕はどうして彼女等があんな腑に落ちない表情をしていたのか理由を察すると共に、僕自身も菫ちゃんの彼氏を見て、どういう応対をすれば良かろうか、と内心苦慮していた。
そんな僕達、と言っても僕と葵姉ちゃんと誠さんだけであるが……、の戸惑いを余所にその男性はきっちりと45度付近まで背中を曲げた姿勢が良く丁寧なお辞儀をすると、框の上に僕と一緒に立っている伯父と伯母に向かって静かに口を開いた。
「はじめまして。私、お嬢さんと結婚を前提としたお付き合いをさせて頂いている斉藤 由伸と申します。」
そして斉藤さんはスーツの裾から黒っぽい色をした革製の名刺入れを取り出すと、中から白い紙片を2枚出して祖父と伯父に差し出した。
その時、突如離れの方からトテトテと子供が廊下を走る足音のような音が聞こえたと思ったら、
「ママ――――!ママ――――!どこ――――?」
と母親を探して歩く桜の鳴き声が聞こえて来て、思わず僕は動揺した。
そうして目の前に立っている相手に対して失礼である事を承知して、
「すみません。子供が呼んでいますので、席を外させて頂きます。」
と詫びを述べてそそくさとその場を離れると、僕は一直線に娘の所へ小走りで駆けつけた。
母屋と離れを結ぶ簀子から離れの上がり框へ上がったすぐの所で、桜は不安げな表情をしながら呆然と立ち尽くすように僕の顔を黙って見つめていた。
「どうしたの?」
と僕が訊ねると、彼女は今にも泣きそうな顔をし、必死に何かを伝えるような感じでこう捲し立てた。
「ママ。あのね……、あのね……、桜ね。シーシー(おしっこの事)、行きたいの。」
「はいはい。わかったわ。今連れて行って上げるからね。」
「ママ、早く、早く――――!漏れちゃう――――!」
僕は桜を持ち上げて胸に抱くと、トイレに向かって歩き出した。
おむつパンツを脱がした桜を便座の上に座らせて用を済ませると、トイレを出てから僕は彼女を離れのキッチンへ連れて行き、腰を持って娘の背中を自分の乳房に押し当てるように抱き上げながら併設してある洗面所で手を洗わせた。
そして、お昼を食べる為に桜を抱いて廊下を移動する途中、応接間に入ろうとした時、本館の方から此方に向かって来た葵姉ちゃんと遭遇した。どうやら彼女も自分の子供達を母屋の方へ連れて来ようと思っていたようであった。
「ごめんね、お姉ちゃん。大丈夫だった?」
僕は出来るだけ低く声を潜めると、母屋の様子について葵姉ちゃんに問い掛けた。
すると葵姉ちゃんはクスリと微笑んだ。
「そこまで心配しなくても大丈夫よ。公の席じゃないんだから。それにお母さんなら子供が呼んでいたらいの一番に駆けつけたくなるのは仕方がない事だし。それに斉藤さんという人も子供好きみたいで、そう云う事にも理解がある良い方みたいだし……。」
「そう……。それなら良かったわ……。」
そう聞いて僕は少し安堵した。
「ところで。」
「何?お姉ちゃん。」
「桜ちゃんのトイレは大丈夫だったの?」
「…………!」
大げさかも知れないが、僕は心臓が飛び上がりそうな程驚いた。
「此方まで丸聞こえだったもの。……棗!翔!そろそろお昼ご飯にするからお母さんの所へいらっしゃい!」
よく考えたら葵姉ちゃんや斉藤さん達が立っていた母屋の玄関の所の三和土と桜が立っていた離れの入り口は直線距離で10mもない滅茶苦茶近い場所にある。聞こえないと思う方がどうかしているだろう。不覚にも顔を赤らめた僕に向かってにっこりと囁くと、葵姉ちゃんは子供達の名を呼びながら応接間の中に入って行った。
葵姉ちゃん達に着いて行くように家族揃って母屋の居間に入ると、僕達はその場で正座をして改めて斎藤氏と対面した。
「先程はご挨拶を申し上げず、失礼を致しました。改めて初めまして。わたくし、そちらに居る菫さんと葵さんの母方の従妹で、富士之宮 薫と申します。こちらに居るのが主人の和樹、ここに居るのが娘の桜です。ほら、桜。こんにちは、は?」
「こんにちは――。」
「ええと、初めまして。家内から紹介を受けましたが富士宮 和樹と申します。」
「ああ、御丁寧にどうも……。私、斉藤 由伸と言います。宜しくお願いします。」
「いえ、こちらこそ……。」
と、挨拶もそこそこに男達は互いの名刺を交換していた。
「おや、富士宮じゃなくて富士『之』宮というんですか?変わった苗字をされていますね。」
「ええ、まあ……。元は普通に地名の富士宮だったらしいのですが、明治の苗字許可例の頃に、当時の当主が普通の書き方ではつまらない、と言って屋号ごと取り替えたそうで……。」
「ああ、そうなのですか……。しかし本当に変わったお名前をされていますね……。」
最初こそ斎藤氏のあまりの年上加減に和樹も面食らったようであったが、流石会社に働きに出て一家を支える社会人。こういう場面にも慣れているのか、挨拶もそこそこに手慣れた感じで世間話を交わしていた。
そんな夫の様子を久々に感心しつつ眺めていると、菫ちゃんが此方にやってくるのが僕の視界に入ってきた。
「さっきも声が聞こえて来ていたけど……、これが桜ちゃん?ちょっと見ない間に大きくなったわねえ……!もう喋る事が出来るの?」
「ええ、まだまだ発音も話し方も拙いけれどね……。」
「そうなんだ……。でも本当、久しぶりね、桜ちゃん。お姉ちゃんの事覚えているかな――?」
そう言ってニコニコしながら腰を屈めると、菫ちゃんは顔を近づけてまじまじと桜を見下ろしていたが、当の桜の方は困ったような、迷ったような表情をして小首を傾げ、彼女の顔を見上げていた。
「生まれてすぐの頃だったから流石に覚えていないわよ。……桜、この人は菫叔母さん。お母さんの従妹で、棗ちゃんと翔くんのお祖母ちゃんの娘さんで、葵伯母さんの妹に当たる人よ。あなたが生まれたばかりの頃に、一度家の方に訪ねて来てくれた事があるの。」
「ふ――――ん。」
従妹に向かって笑い掛けつつ桜に目の前にいるのがどういう人なのか説明していると、突然当の従妹が素頓狂な声を上げた。
「もうやだなあ、薫ちゃん。『おばさん』じゃなくて『お姉さん』でしょう?わたし、まだ25だよ。」
「後5年もすれば30でしょう。それにもう既に棗ちゃんと翔くんという姪子と甥子がいるし、この娘だってあなたから見たら姪っ子のような者なのだから、叔母さんでも別段問題ないでしょう?」
「分かってないなあ、薫ちゃんは。気分だけでも若く居たいじゃない。プンプン!」
そう言うと、菫ちゃんは両手の拳の人差し指を立て、頭の上に乗せて鬼の角のように天に向けると、怒ったように軽く興奮した調子で態とらしくそんなぶりっ子のような仕草をした。そしてまたにこりと微笑むと、桜と相対した。
「でも、本当、可愛いわねえ。頬ペタもぷにぷにしていて……。」
モフモフというか、ふっくらとした赤味が差した頬を指で摘まれて少し不快に思ったのか、
「む――――っ。」
と言って桜は嫌そうに顔を顰めた。だが、親馬鹿だと言われたらそれまでのものかも知れないが、そんな表情すら可愛いと僕は感じた。
一方、菫ちゃんの方は気が付いていないのか、それとも分かった上で楽しんでいるのか、僕は彼女から面と向かってこんなお願いをされた。
「ねえ、薫ちゃん。わたしにも抱っこさせてくれない?」
「……?別に構わないけれど……。そこにショーちゃんも居るじゃない。」
菫の左側、丁度彼女を挟んで反対側に座っている葵姉ちゃんと棗ちゃんと一緒に饂飩を啜っていた翔の方を僕が冗談めかして指差すと、間髪も入れずに彼女は首を横に振り、そして憂えるように軽い溜息を吐いた。
「だって、あの子ったら全然抱っこさせてくれないんだもの。すぐにどこかへ行こうとしちゃうし。」
拗ねたように顔を右に向け、肘を机に突いて掌を空に向け、その上に顎を載せて口を尖らせている菫ちゃんの様子を見て、耐え切れず無意識の内に笑みを零してしまい、
「まあ、男の子だもの。じっとしていられないのは仕方が無いわ。……わかった。じゃあ、ちょっとだけ桜を抱っこさせて上げる。」
と、眉をハの字にして不安気に僕の顔を見上げている桜を持ち上げ、僕は彼女の膝の上にそっと娘を座らせた。
桜の小さな尻が太腿の上に着地するや否や、
「きゃ――――、凄くもふもふしてる――!可愛い――!」
と嬌声を上げて菫ちゃんは僕の娘をギュッと抱きしめた。相当力が強いのか、何かから逃げるようにべそを掻いて僕の方に手を伸ばしている。やはり愛おしい。親として娘を助けたいという気持ちも勿論あったが、それ以上に困っている娘の動作をもっと見ていたいという、少し意地悪な気持ちの方が勝った。それに、自慢の子供を褒められてちょっとだけ鼻が高くなった、という事もあった。不満気に口を尖らせて僕の顔を睨めつける桜を宥めるように、僕は菫ちゃんの腕の中に居る彼女の髪を優しく撫でた。
積もる話や、部署は違えども同じ会社であるという菫ちゃんと由伸さんの馴れ初めなど、雑談で盛り上がっている内にあっという間に時間が過ぎ、夕飯の時刻になった。
祖母達の宣言通り、子供達が楽しみにしているであろう今夜のメインディッシュを祖母と伯母と葵姉ちゃんと共に造り終えると、僕はガスコンロの火を消してエプロンを脱ぎ、近くにあった椅子の背もたれに掛けて台所を後にした。そしてぐるりと回って旧館から新館へ渡るとそのまま廊下を応接間に向かって……、ではなくその向かいの廊下の角にある台所横の六畳間の前で立ち止まり、白い蛍光灯の光が燦々と漏れるガラス障子をガラガラと音を立てて開けた。
部屋の中では、笑顔をつくりつつも何処か居心地の悪そうな顔をして胡座を掻く由伸さんと正座してニコニコと脳天気に笑いながら何処か一点を見つめる菫ちゃんと共に、彼女の視線の先で仲良く此方に背を向けて三角座りをし、離れに置いてあるテレビの中で一番大きな液晶テレビに映るNHK教育の夕方の子供番組を一心不乱に視聴しているちびっ子3人組の姿が僕の目に入った。
この部屋は今夜から当分の間、菫ちゃんと由伸さんが寝泊まりする部屋となる筈なのだが、恐らくアニメ等を見たくて応接間から子供達が押し掛けたのだろう。全く仕方がない事である。
此方の気配に気付いたのだろうか、振り向いた由伸さんと目が合った。僕は申し訳なさから苦笑しながら一礼した。
「すみません。何かウチの子供達がお邪魔してしまったみたいで……。」
「いえいえ、そんな事はないですよ。僕も子供は好きな方ですし。……それにみんな良い子達ですからね……。」
「そんな滅相もないですわ。御迷惑でしたでしょう?……本当しょうがないんだから……。」
すると今度は菫ちゃんが振り返った。
「そんな事ないわ。わたしが呼び寄せたようなものだもの。」
「ごめんなさいね。何かわたし達の代わりに子供達の世話を押し付けてしまったみたいで……。」
「そんな気にしないで。……ところで薫ちゃんこそどうしたの?御飯?」
「ええ、少し早いけれど夕御飯が出来たから来て頂戴。由伸さんも一緒に……。それに子供達も!もう御飯だからテレビを消して此方へ来なさい。テレビなら向こうでも見られるでしょう?」
「はーい!」
合唱のように元気よく声を揃えると、そうは言っても名残惜しそうに渋々と子供達は立ち上がった。
「ほら、早くしなさい。でないとすき焼きが食べられなくなってしまうわよ!」
そう僕が声を掛けた途端、棗と翔の方がピクッと震えた。そして……、
「すき焼き!」
「すき焼き!」
「焼き――!」
「すき焼きだ――――!」
「すっき焼っきだ――――!」
「だ――――!」
と、またもや桜までも交えて子供達は変な踊りを踊り始めた。
「はいはい、分かったから。ほら、早くしなさい。」
「は――――い!」
「ところで、棗ちゃん。お父さん達が何処に居るか知らない?」
僕は男達の姿が見えないので、何処に居るのかと最年長で一番言動がしっかりしている棗ちゃんに問い質した。すると彼女はキョトンとしつつもこう返事をした。
「お父さん達?応接間にいるよ――。」
「分かったわ。ありがとう。」
硝子障子をピシャッと閉めてその足で応接間に向かう。
ソファーにゆったりと腰を下ろして手足を伸ばし、完全に心身共にリラックスしている、という感じの、テーブル越しに向かい合った和樹と誠さんの姿が僕の目に飛び込んで来た。
「あなた……。誠さん……。二人揃って何をやっているのですか……。」
呆れながら溜め息混じりに僕が口を開くと、両人共、特に誠さんの方は、ばつが悪そうに俯き、後ろ髪を掻いていた。
「いや、悪いとは思ったんだけどさ……。桜の奴がどうしても見たいって聞かなくって、ねえ……?」
「菫ちゃんが、どうぞどうぞ、って言うからついつい言葉に甘えちゃって……。」
「…………。」
僕はその意気地がないというか、はきはきしないというか……、何とも情けない男共の様子に思わず目を細め、また大きく息を吐いてしまった。
「まあ、兎に角、もう晩御飯にしますから二人ともさっさと此方に来て下さい。……あ!それと誠さん。棗ちゃんと翔くんの事なのですけれど……。」
「分かっています。ちゃんと連れて行きますから。」
「では、お願いしますね。」
3人で応接間の中を片付けて電灯を消し、部屋を後にすると、そのまま母屋へ去っていく和樹と別れて僕と誠さんは向かいの部屋の障子をガタンと開けた。そうして未だにすき焼きダンスを踊ってルンルンと燥ぐ桜を捕まえ、しっかりと胸に抱き抱えた。
生まれて初めて見たすき焼きの鍋を目の当たりにして、想像していた物と大分異なっていたのか、半ば呆然と桜は僕の膝の上で、クツクツと煮えた黒い鉄鍋の中でもうもうと湯気を上げる中身を見つめていた。
「ママ……。これが、すき焼き?」
「ええ、そうよ。」
「…………おいしいの?」
「凄く美味しいわよ。」
「……本当?」
「本当よ。さあ、そろそろ食べ始めるみたいだから、いただきます、の準備をしなさい。」
「うん!」
そして祖父の号令と共に娘と一緒に手を合わせ、
「頂きます!」
と言うと、僕は卵を各人へ回していた祖母からそれを受け取ると、普段し慣れたやり方でテーブルの甲板の上で殻を割って、手元の小皿の中に中身を投入し、黄身や白身を切るようにグチャグチャに掻き混ぜると半身を乗り出し、とり箸を用いて鍋の中から肉や白菜等を適当にピックアップした。
「ほら、桜。ア――――ンってして。」
「ア――――ン。」
親鳥に餌を求める雛鳥の様に、大きく口を開けて僕を見つめる桜の口元へ、
「はい、お肉よ――――。」
と、ゆらゆらと高そうな牛肉の切れ端を見せながら近付けていき、その口内へ放り込む。肉を咥えるや否や咄嗟にパクっと口を閉じ、味を噛み締めるようにもぐもぐと頬を膨らませる娘の仕草を見下ろし、
「美味しい?」
と、僕は彼女に声を掛けた。
すると、桜は元気よくこう答えた。
「うん、美味しい。」
「そう、良かった。」
始終ご機嫌な桜の頭を優しく撫で撫でしている内に、いつしか夜も更けていた。