第12話 翼を飛ばす側
朝は、だいたい手紙の顔をしてやって来る。
少なくとも、その日の《スカイコーチ》はそうだった。
夜明け前の空気は冷たくて、
港町の潮風はまだ眠そうで、
看板はいつも通り半分しか元気に読めない。
なのに本部前だけは、妙に目が覚めていた。
誰もちゃんと寝ていないからだ。
整備士たちは朝から工具を持つ手が少し早い。
荷受け係は木札を二回並べて二回とも順番を確認している。
ベテラン騎竜士たちは無駄口こそ少ないが、目が起きすぎている。
そしてリリカは、起きすぎた結果、朝から二回つまずいた。
「大丈夫か」
ロイドが言うと、
「大丈夫じゃないです!」
ものすごく元気な返事が返ってきた。
元気というか、緊張で空回っている声だ。
「足元が信用できません!」
「信用しろ」
「できたらつまずいてません!」
その通りである。
リリカは本部前を行ったり来たりしていた。
行って、看板を見る。
戻って、通りを見る。
また行って、白板を見る。
完全に落ち着きのない小動物の動きだ。
しかも本人に自覚がある。
「私、今すごく嫌な感じにうろうろしてません?」
「してる」
「否定してくださいよ!」
「現実は否定しない」
「こういう日に限って正論が硬い!」
だが、その落ち着かなさは職場全体に薄く伝染していた。
王家からの正式な返答は、今日届く。
届くはずだ。
届かなければ困る。
だが、“はず”と“現実”のあいだには、たいてい人の胃がある。
いま《スカイコーチ》の胃は、だいたい全員分がちょっと弱っていた。
ミラが本部から出てくる。
今日は飛行服ではない。
帳簿のギルド長でもない。
どちらでもあるが、どちらでもない顔だ。
つまり、待つ日の顔である。
「……まだ来ないわね」
「まだ朝だ」
ロイドが答える。
「朝だからこそ来てほしいのよ」
「それはわかる」
「なのに顔が静かすぎるのよ、あなた」
「静かにしてないと、周りがうるさい」
「その理屈で落ち着いてる人、だいぶ性格が悪いわよ」
否定はしない。
実際、半分くらいはそういう技術で生きている。
焦る人間が多い現場では、一人くらい温度の低い人間がいたほうがいい。
その役を買って出る人間は、たいてい少し嫌な奴に見える。
それでも必要だ。
ロイドは白板の前に立った。
片脚の短かった白板は、いまやちゃんと補強されている。
板切れ一枚の改善。
小さい。
だが、その小さな改善が積み重なるのが組織だ。
白板の上には、昨日の三便の線がまだ消されずに残っている。
王都北倉便。
東離宮補給便。
薬材緊急便。
全部、遅延ゼロ。
線は静かだ。
だが、それを見上げる人間の頭の中は、静かではない。
その時だった。
通りの奥から、蹄の音がした。
速い。
ためらいがない。
本部前へまっすぐ向かってくる種類の音だ。
全員の顔が一斉にそちらを向く。
リリカなんか、完全に両手が宙で止まった。
「来た」
ミラが小さく言う。
一頭の早馬。
王都式の外套。
整った姿勢。
昨日の使いと同じ系統の匂いだ。
本部前で馬が止まる。
使いの者が降りる。
余計な前置きはない。
それがかえって緊張を煽る。
「《スカイコーチ》ギルド長、ミラ・カエルム殿」
名指し。
ミラが一歩前に出る。
顎がわずかに上がる。
ギルド長の顔だった。
使いの者は封書を差し出す。
封は重い。
印は上等だ。
王家の蝋印。
しかも仮ではない。
正式文書の封だ。
リリカが小声で言った。
「うわ、封からして強い」
「感想が雑だな」
ロイドは言ったが、その雑さはちょっとわかる。
封書というのは、時々見た目だけで人生を変える。
それが今、目の前にある。
ミラが受け取る。
ほんの一瞬だけ、指が止まった。
だがすぐに封を切る。
ためらいが短い。
いい。
そこはとてもいい。
全員が、息をしているのかしていないのかわからない顔で見守った。
風だけが看板を鳴らしている。
リリカの口が少し開いている。
整備士の一人は腕を組んだまま微動だにしない。
ベテラン騎竜士たちの目も、紙に吸い寄せられていた。
ミラが文面を追う。
一行。
二行。
三行。
その途中で、眉が動く。
次に目が止まる。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……来たわ」
声が少しだけ掠れていた。
「正式契約よ」
誰もすぐには動かなかった。
意味が大きすぎる時、人は一拍遅れる。
リリカが真っ先に壊れた。
「せ、正式ってどの正式ですか!?」
「王家」
「王家の!?」
「独占契約」
「独占!?」
「五年」
リリカがその場でしゃがみ込んだ。
「情報の火力が強すぎます!」
その叫びで、ようやく本部前の空気が弾けた。
整備士が思わず声を上げる。
荷受け係が控えを落とす。
ベテラン騎竜士が低く口笛を吹く。
誰かが「おいおいおい」と笑う。
ミラはまだ封書を持ったまま、少しだけ呆然としていた。
《来月潰れる》しか言っていなかった会議室から、たったこれだけの話数でここまで来たのだ。
そりゃ少しは呆然とする。
ロイドは封書の文面を受け取って確認した。
文句なし。
王家独占契約。
五年。
条件明記。
品質基準付き。
つまり、感情ではなく実務で勝ち取った契約だ。
理想的だった。
理想的すぎて少し腹が立つくらい、綺麗な紙だ。
その時、通りの向こうがざわついた。
港町のざわめきとは違う。
もっと乾いた、もっと不吉なざわめき。
人が“噂そのもの”を運んでくる時の足音だ。
一人の男が走ってくる。
息を切らし、
髪も乱れ、
どう見ても朝のニュースを抱えている顔だ。
「《ウィングメイル》が――!」
まただ。
今日はだいたい全部が紙と報せの顔で来る。
男は本部前で膝に手をついた。
息を吸う。
そして、吐く。
「倒産した!」
今度こそ、本部前が止まった。
さっきの正式契約とは違う種類の静止だった。
固まる。
理解する。
過去が一瞬だけ追いつく。
《ウィングメイル》が倒産した。
三年いた場所。
自分を追放した場所。
自分が組んだ運行が骨になっていた場所。
それが、終わった。
ミラがまず現実へ戻る。
「グレゴールは」
「行方不明だ!」
「……そう」
短い返事だった。
その短さに、いろいろ入っていた。
怒り。
呆れ。
納得。
終わった組織のトップの最後なんて、だいたい格好悪い。
それは世界が違っても同じらしい。
リリカがまだしゃがんだまま呟く。
「王家契約きて、大手倒産して、朝が情報過多です……」
「立て」
ロイドが言う。
「足に悪い」
「心に悪いです!」
それもそうだ。
だが立ってもらわないと話が進まない。
そして話は、もう次へ来ていた。
港のほうから、足音が増える。
昨夜の十四人だ。
元同僚たち。
制服は着ているが、もう昨日までの大手の色ではない。
行き場を失った人間の歩き方だ。
だが完全に折れているわけでもない。
《スカイコーチ》の本部前まで来る。
止まる。
誰もすぐには喋らない。
ベテラン騎竜士が、その中から半歩だけ前に出る。
第一話で嵐の夜を飛んだ男だ。
ずいぶん遠くまで来たものだ、とロイドは思う。
「ロイド」
「なんだ」
「雇ってくれ」
単刀直入だった。
その一言で十分だった。
後ろの十三人も、だいたい同じ顔をしている。
誇りを捨てたわけではない。
ただ、働く場所を選び直しに来た顔だ。
ロイドは十四人を見渡した。
知っている顔が多い。
整備の癖。
補給塔での悪態。
遅延が出た時の顔。
全部、知っている。
《ウィングメイル》という大きな船は沈んだ。
だが、そこにいた人間まで沈める必要はない。
むしろ、ここから先を作るなら必要だ。
ミラが横目でロイドを見た。
判断を預ける顔ではない。
確認する顔だ。
受け入れれば、人は増える。
翼も増える。
同時に、餌代も整備負担も管理も一気に膨らむ。
それでも、この瞬間にやるべきことは一つだ。
ロイドは言った。
「全員、受け入れる」
リリカが今度こそ飛び上がった。
「ぜ、全員!?」
「全員だ」
「十四人ですよ!?」
「数えたのか」
「昨日からずっと数えてました!」
「元気だな」
「元気じゃないです、情報に振り回されてます!」
だが、その振り回され方は悪くなかった。
本部前の空気が、一気に広がる。
狭かった《スカイコーチ》の輪郭が、その場で大きくなる感じだ。
ミラが封書を抱えたまま、ゆっくり頷く。
「異議なしよ」
短い。
だが重い。
それで決まった。
元同僚たちの顔に、ようやく少しだけ色が戻る。
その瞬間、リリカがはっとしたように言う。
「待ってください」
全員がそちらを見る。
「本部、狭くないですか?」
静止。
それから、誰かが吹き出した。
整備士だった。
次にベテラン騎竜士。
次に荷受け係。
最後にミラまで笑った。
たしかにそうだ。
王家独占契約を取り、
大手が倒産し、
十四人を受け入れておいて、
本部が倉庫上がりのままなのは、かなり間抜けである。
ロイドは真顔で答えた。
「狭いな」
「ですよね!?」
「あと椅子が足りません!」
「それも足りない」
「餌代も増えますよ!」
「増える」
「白板一枚じゃ絶対足りませんよ!」
「足す」
「急にやることが多すぎます!」
「だから人を入れた」
「そういう問題ですか!?」
かなりそういう問題だった。
組織は大きくなると、だいたい椅子と紙と餌代に困る。
夢のない現実だが、現実だから仕方ない。
その時、ミラがふと封書を持った手を見た。
もう一通、別の紙が挟まっている。
王家の正式契約書ではない。
もっと古い紙。
薄くて、角の少し擦れた封書。
ロイドの視線がそこに止まる。
机の引き出しの奥にあり続けた、あの未開封の封書だ。
追放の日から、いや、もっと前から、
ずっと開かなかった紙。
先代ギルド長からのものらしき封書。
いま、なぜか自分の手元にある。
たぶん混乱の中で荷物に紛れたのだろう。
あるいは、もっと前から自分で持っていたのを、いまやっと開ける気になったのかもしれない。
記憶は少し曖昧だった。
ただ、一つだけ確かなのは、
いま開くべきだということだ。
本部前の喧騒が、少しずつ落ち着く。
元同僚たちは受け入れられた。
王家契約は決まった。
《ウィングメイル》は終わった。
なら次は、始まる番だ。
ロイドは封を切った。
紙は古いが、文字ははっきりしていた。
短い。
たった二文字。
『頼む』
それだけだった。
リリカが横から首を伸ばす。
「短っ」
「見るな」
「見えちゃいました!」
「そうか」
短い。
だが、その短さで十分だった。
先代ギルド長は余計なことを書かない人だった。
それを知っている。
知っているから、その二文字だけで足りた。
頼む。
《スカイコーチ》を。
あるいは、空を飛ばす側を。
あるいは、その先を。
どこまでを指しているかは、もう問題ではない。
受け取った時点で、答えは出ている。
港の向こうから、初便の準備音がした。
新しい定期便だ。
王家契約を得た、新生ハブからの初便。
人が増えたぶん、音も増えた。
翼の音。
縄の音。
木箱の滑る音。
掛け声。
地上で支える人間たちの足音。
全部が混ざる。
だが、混乱ではない。
流れだ。
ロイドは本部前から、ハブ――旧荷馬車宿跡の方向を見る。
そこにはもう、仮ではあるが中心がある。
全部が集まり、全部がまた飛び立つ場所。
そこから初便が上がる。
ミラが隣に立つ。
王家契約書を持ったまま。
「ロイド」
「なんだ」
「今日から私たちは、大陸物流の中心よ」
ロイドは首を振った。
「違います」
「え?」
「中心はハブです。私たちは、それを動かす人です」
ミラが一瞬ぽかんとしたあと、呆れたように笑う。
「最後までそう来るのね」
「そういう話だろう」
「そういう話ね」
その時、ベテラン騎竜士が歩み寄ってきた。
第一話からいる男だ。
嵐の夜も、追放の朝も、全部を見ていた顔だ。
いまは《スカイコーチ》の色をつけている。
似合っていた。
「ロイド」
「なんだ」
「お前、ついに空に出たな」
ロイドは少しだけ空を見た。
高い。
翼が上がるには、十分な朝だ。
だが自分の足は地面にある。
ずっと地面にある。
それでいい。
「いえ」
静かに答える。
「俺は地上のままです」
それから、飛び立つ準備をする翼たちを見た。
たくさんの翼。
自分では乗れない翼。
だがもう、自分だけが届かない場所ではない。
「でも、空はもう俺のものです」
その言葉に、ベテラン騎竜士がふっと笑った。
ミラは肩をすくめる。
リリカは「うわ、最後にすごいの出た」と顔に書いてある。
本当に表情が忙しい若手だ。
初便が上がる。
巨大な翼が風を叩く。
一頭。
二頭。
三頭。
ハブから大陸間定期便が、朝の光の中へ飛び立っていく。
その下で、ロイドは初めて近くにいた飛竜の翼へ手を置いた。
温かい。
少し硬い。
生き物の熱だ。
触れられないと思っていたものに、地上から触れる。
それだけで十分だった。
リリカが隣で、こっそり聞く。
「ロイドさん」
「なんだ」
「次はどこを目指すんですか」
ロイドは飛び立つ便の先を見た。
海の向こう。
まだこの世界の飛竜便が、本気では繋ぎ切れていない距離。
そこに、もう次の地図が見えていた。
「――海の向こうだ」
リリカの目がまた丸くなる。
「また大きいこと言う!」
「小さく出る意味がない」
「出た!」
その声の向こうで、初便はどんどん小さくなる。
だが流れは残る。
地上の手が支える流れだ。
《ウィングメイル》は終わった。
《スカイコーチ》は始まった。
王家契約は取った。
第一部としては十分な終わりだ。
だが、物流に終点はない。
終点があれば、そこから先へ繋げばいい。
ロイドは空を見送りながら、先代の二文字を懐へしまった。
頼む。
その言葉に対する返事は、たぶんもう始まっている。




