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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

前世を思い出したドアマット令嬢、賭けに出る

作者: ゼン

 花を象った陶器の小瓶、絹張りの椅子、磨かれた鏡台。

 陽を受けてきらめく装飾品の一つ一つが、()()()()()()に与えられた部屋であることを示している。


 わたしは鏡台の前に置かれ、視線を落としていた。命じられた通りに組んだ手は冷え、指先の感覚が薄い。


 部屋の中央では同い年の異母妹レティシアと、その周囲を淡い色合いの制服を揃えたメイドたちが囲んでいる。


「発色がいいのはこちらでは?」

「そう? なら、そちらにしましょ」

「はい」


 談笑しながら手にしているのは、化粧道具だ。誰の顔にも遠慮はない。


 背中のボタンが外され、ドレスがずり落ちる。

 この屋敷で、わたしに与えられる役目は、いつも動かないこと。


「もう少し右よ。もっと真ん中に描かないと、当てにくいじゃない」

「ここでいいでしょうか?」

「そうね、そこに描いて」


 背中の素肌に、口紅で丸を描く感触が走った。

 冷たさと、不快感が混じる。


 鏡の中には、くすんだ金髪を一つにまとめた自分が映っていた。

 灰色のドレスは、背中を露出させるために無理に留め具を外され、肩口から崩れている。


「描き終えました、レティシアお嬢様」

「まあ! 『(まと)』に見えるわ! ミア、動いたら駄目よ?」


 わたしは小さく頷いた。

 次の瞬間、カツン、と何かが背中に当たった。


 部屋に入るとき、床に置かれた銀の皿が目に入った。遊び道具として置かれる位置に、それはあった。


「ああん、もうっ! 外したわ。真ん中に当てるのって難しいのね。ねえ、皆! あれが『的』よ! ミアの背中に描いた真ん中の丸に、くるみボタンを当てた人が勝ち。勝った人にはサロンでマカロンをご馳走するわ。負けたら……そうねえ、ミアの謝罪文言を考えるのはどう? のうのうと生きていることへの謝罪よ」


 背後で、メイドたちの笑い声が重なる。

 謝罪の言葉なら、いくらでも思いつく。母が亡くなってから今日まで、それだけが生き延びる手段だったのだから。

「図々しい」、「身の程を知りなさい」といった言葉に、わたしは頭を下げ続けてきた。

 言葉だけで済む夜もあった。済まない夜もあった。細い線が皮膚に残るたび、それを袖で隠した。



 かつて、わたしは伯爵家の一人娘だった。

 母の膝で絵本を読み、父に抱き上げられて庭を歩いた記憶がある。


 けれど、母が儚くなってから──継母が屋敷に入り、レティシアが『本当の娘』と呼ばれるようになってから、その記憶はこの家では何の役にも立たなくなった。


 次のボタンが飛ぶ。

 衝撃と同時に歓声が上がり、目を閉じた。

 三つ目、四つ目と続けて背中に当たる。肌を打つたびに息が詰まる。

 狙いは外れ、足元でくるみボタンが跳ねる気配がした。


 もうすぐ、レティシアの婚約者が屋敷を訪れる。

 それまで耐えれば解放される。

 そう考えることで、わたしは自分を励ます。

 あと少しの我慢だ、と。



 ──《なんで、我慢なんかするの?》



 不意に、脳内で声が響いた。


 なんで……?

 そうだ、どうしてわたしは、こんな目に遭わなければならないのだろう。


 わたしは伯爵家の娘だ。亡くなった母は女伯爵で、父は婿入りした男爵家の三男だ。

 この家の序列では、わたしが下に置かれる理由はない。

 継母は元は平民で、レティシアが父の子である証拠だってないのに。

 分かっているはずの事実が、今さら胸の内で形を持った。


 カツン、と背中にくるみボタンが当たり、「やったわ!」とレティシアが声を上げた、その瞬間、わたしは……いや、『私』は前世の記憶を取り戻した。


 しがない会社員・(すず)()(みね) (みやこ)として過ごした日々が、一気に頭の中へ逆流してくる。


 ──私は、不遇な伯爵令嬢に転生していた。


 さきほど脳内で響いた《なんで、我慢なんかするの?》という声は、ミアではなく (みやこ)のものだったのだろう。

 今はもう、ミアとしての『わたし』より、(みやこ)としての『私』のほうが前に出ている。


 伏せていた視線を上げると、鏡に映る顔が正面にあった。


 私は──いや、ミアは、美しい少女だった。


 金色の髪は手入れをされておらず艶を失っている。それなのに、鏡に映る肌には荒れも染みも見当たらず、白磁の器のように滑らかだ。

 化粧も紅もないのに、唇だけが、無防備なほどに鮮やかな血色を帯びている。

 母親譲りのアメジスト色の瞳は、陳腐な言い回しだが、宝石のような美しさだ。


 目を逸らす理由が見当たらず、見続けてしまった。


 感想は一つだけ。美人だ、という評価以外が成立しない。


 このミア・ヴァレンティノという伯爵令嬢は、この屋敷で最も手をかけられていないにもかかわらず、手をかけられた者たちと並べられても見劣りしない顔をしていた。



 何個目か分からないくるみボタンが背中に当たったとき、部屋がノックされた。

 きゃあきゃあと盛り上がっていた声が一段落ち、空気がわずかに張りつめる。

 がちゃりと扉の開く音がして、背中を向けたままでも、鏡越しにメイドが入室したのが見えた。


 そのメイドが告げる前から、私は察していた。この時間、このタイミングでノックされる用件は一つしかない。

 レティシアの婚約者が到着したのだ、とピンときた。


 ──エドウィン・ティリングハースト。


 ティリングハースト侯爵家の次男で、ヴァレンティノ伯爵家に婿入り予定の令息だ。

 レティシアは彼に恋をしている。己を偽るほどに、熱烈に。

 私は会ったことはないけれど、相当な美形らしい。レティシアがうっとりとした声でエドウィンのことを語るのを何度も聞いたから、情報としての彼ならよく知っている。


 ふと、私はこの状況を利用する案を思いついた。


 十五歳のミアなら決して浮かばなかったであろう、勝算もろくに見えないくせに打って出る、一か八かのやり方だ。


 前世で社会に揉まれた(みやこ)の記憶を持つ私は、この屋敷の歪みも、人の視線の意味も知っていた。


 そのやり方が、卑怯だと言われても構わない。

 目には目を、歯には歯を、下衆には下衆で、返すだけだ。

 私はレティシアからの「出て行きなさい」という言葉を待った。


 案の定、レティシアは鏡越しに命令を下してきた。


「ミア、邪魔よ。奥へ下がっていなさい」


 その言葉に素直に頷き、背中を向けたまま一礼する。従順さを装うのは、長年身に染みついた癖だ。

 ドレスは崩れたまま、背中の的も消されていない。留め具を直す時間など与えられていないのだから、当然だ。



 私は、足音を抑えたまま、意識して歩調を速める。


 いつもは通らない通路を通って、ガゼボに近い『二番玄関』と呼ばれる扉を目指す。

 レティシアとエドウィンは、月に一回、庭園のガゼボで茶会をする。婚約者同士の交流会だ。

 茶会の日は庭へ直行できる二番玄関が使われる。

 ちなみに侯爵家へ向かうのも月に一回、観劇やオペラも月に一回。茶会と合わせて、婚約者絡みの予定は月に三回ほどある。

 そういう予定をレティシアは私にべらべら話す。

 所謂マウンティングというものである。前世の給湯室然り、華やかな遊戯部屋然り、ひん曲がった根性女のやることは変わらないというわけだ。

 と、そんなことを考えている内に、廊下の先に二番玄関が見えてきた。

 カーブになった廊下の先からは人の話し声らしきものが聞こえる。


 私は陰になっている窓で自分の顔を確かめ、ついでに自分で自分の頬を叩いた。……あまり痛くない。涙が出ないので、今度は手の甲を思いっきり抓る。今度こそ痛みで涙が出た。

 涙目になった私は、とんでもなく庇護欲をそそる見目をしていた。

 前髪をさっと直し、二番玄関に走る。

 そして、ゆるやかに死角になっている扉の前で、エドウィンとぶつかった。


 思い切り、ふっとばされたのは、私の体重が軽く、彼の体幹がしっかりしていたからだろうか。

 私は予想よりもずっと大げさに、床を転がった。


 痛い。これなら涙を作る必要はなかったと思うのだが、もう遅い。


「大丈夫か?」


 私は、エドウィンを見上げた。


 なるほど、と思った。

 この人なら、レティシアが執着する理由も頷ける、とも。


 青みがかった銀髪に、濃いブルーの瞳。目元は涼しげなのに、垂れ目のせいか親しみやすさがあり、輪郭も端正な美しい青年である。


「……とりあえず、これを羽織ってくれ。……君はここの使用人か?」


 ふわりと、素肌の背中を隠すように上着が掛けられ、私は反射的にぎょっとした。

 背中には、まだルージュで描かれた『的』が残っている。


 上着が汚れてしまう、と。真っ先に頭をよぎった。


 だが、彼は私の視線に気づいたのか、短く言った。


「構わない。洗えば落ちる」


 紛れもなく紳士的である。

 これで、十七歳とは。

 前世の感覚では、少し信じ難い落ち着きだ。

 などと感心している暇はない。足音が近づくのを感じ、心臓が強く脈打った。


 このまま見つかれば、何が起きるか分からない。

 そう理解した瞬間、私はエドウィンのシャツの袖を掴み、震える声を絞り出していた。


「助けてください……! 私は、ミア・ヴァレンティノと申します。先代ヴァレンティノ女伯爵の娘でございます。このままでは、命が危ないのです。どうか……王城付属監察局まで、連れて行っていただけませんでしょうか……っ」


 話しているうちに、本当に泣けてきてしまい、ぼろぼろと涙が零れた。

 演技のつもりだったはずなのに、喉が詰まり、横隔膜が苦しい。

 もう演技ではなかった。


 私は、『ミア』に同情していた。


 記憶は戻っているし、彼女は確かに私自身だ。それでも、思い出す前の彼女(きおく)を、どこか別の存在のように見てしまっていた。

 もっと早く思い出せなくて罪悪感のような気持ちもあったのかもしれない。


 言い終わったと同時に、足音が近づいてきた。

 その気配だけで、誰かは分かる。レティシアだ。


 私は、ここで主導権を失えば、連れ戻されると理解し、勝負に出ることにした。


 相手がどんな男なのか、確かな情報はない。

 あるのは、レティシアが誇らしげに語っていた人物像だけ。

 それでも、この場で信じるなら、そこしかなかった。


 レティシアを見て、私は気絶するふりをした。


 エドウィンが、どちらを選ぶのか。

 初めて会った、身元の怪しい少女を庇うのか。それとも、婚約者の言葉を信じるのか。

 その答えを、私は賭けた。


「ミア嬢……!」


 エドウィンに名前を呼ばれ、肩を支えられたときに感じたのは言いようもない安堵だった。


「レティシア、今日のところは失礼する」

「そんな! エドウィン様! どうしてですの!? 待ってください! その女は我が家のメイドです! こちらで──」

「必要ない!」


 ふわりと重力がなくなり、薄目で見た先には青を通り越して紙のように白い顔の異母妹がいた。



 ──私は賭けに勝った。



 ◇



 あれから、一ヶ月が経った。まずは緊急措置と暫定判断が下り、私は保護された。


 私は今、王城付属監察局の管理下にある施設に滞在している。

 白い石壁と簡素な調度品に囲まれた部屋で、鍵はかかっているが、閉じ込められている感覚はない。

 職員や看護師は皆優しく、食事はとても美味しい。

 病人食で米のお粥がでたときは、演技ではなく感動の涙が出た。

 お米は私にとっては世界で一番おいしい食べ物だ。全快して全部取り返した暁には絶対にふりかけを作ろうと決めた私である。

 


 さて、この数週間に起きたことを、順を追って整理しよう。


 私は、保護対象として王城付属監察局に正式に預けられた。


 医師による診察が行われ、背中や腕、脚に残っていた痕はすべて記録された。転倒では説明できない打撲や蹴られた痣、踏みつけられた跡、鞭の痕などだ。

 いずれも傷そのものは軽いが、同じ部位に繰り返し負荷がかかっていたことが問題視された。


 それ以上に注目されたのは、衣食住の管理状況だった。着用していたドレスの状態、季節に合わない薄さ、下着の不足、偏った栄養。

 どれも単体なら言い逃れはできるが、未成年の相続権保持者に対して積み重ねられていたとなれば話は別だと、監察局の職員は淡々と説明した。


 というわけで、ヴァレンティノ伯爵家では、私に対する体罰が、日常的に行われていたと認定された。

 主導していたのは継母であり、レティシアは加害に積極的に関与していた。


 さらに問題視されたのは、使用人たちがそれを止めるどころか、遊戯として加担していた点だ。

 これは家庭内の問題ではなく、明確な虐待であり、組織的な加害行為だと判断された。


 加えて、被害者が爵位相続権を持つ未成年貴族であった点が、決定的だった。

 貴族の子どもは、家の私有物ではなく、国家に預けられた将来の担い手と見なされる。

 その保護を怠り、あるいは踏みにじる行為は、家内不和では済まされない。


 一方、父の処分は、少し性質が違った。

 父は、直接手を下してはいない。だが、相続人である私が成人するまで、家の管理と監督を担う後見の立場にありながら、明確に見て見ぬふりをしていた。

 複数回にわたり異常を認識できる状況にあり、それを放置していたことが、証言と記録から裏付けられた。


 保護義務違反。

 それが、父に下された評価だった。

 家を預かる立場としての資格を失ったという判断は、単なる怠慢ではなく、後見および家政監督の権限を剥奪するべきだという結論でもあった。


 決定打となったのは、レティシアの経歴に関する虚偽申告である。

 彼女は、貴族教育を正規に受けた令嬢として紹介されていたが、実際には履修記録が一致しない。

 推薦状の一部は、父名義で改竄されていた。継母が主導し、父が黙認していたことも、調査で明らかになった。


 その過程で、私についての記録も精査された。

 本来なら先代女伯爵の実子として名簿に載るはずの私には、『幼少期に罹患し、長く療養ののち静かに逝去した』という虚偽の届け出が出されていたという。

 当時は未成年貴族の死亡について、家長と教会の連名による証明のみで受理される制度であり、形式上は不備のない書類だったそうだ。

 つまり、表向き、この家には『娘は一人だけ』ということになっていたのだ。


 しかもレティシアは年齢詐称までしていた。本来の彼女の年齢は十五歳ではなく十七歳だそうだ。

 私は彼女が父と血の繋がった親子ではないと踏んでいたが、この読みは外れており、彼らは本当の親子だった。

 ただし、彼女は異母妹ではなく異母姉だったというわけだが。


 この一件は、爵位と相続権を巡る不正と、未成年貴族への虐待事件として大々的に扱われることになった。


 本来、監察局が貴族の家に踏み込むには正式な申告か命に関わる危険が疑われる情報が必要だが、虚偽の届け出と屋敷の中で完結する暴力がそれを長く覆い隠していた、とも告げられた。


 処遇の詳細は、追加調査の結果を待って正式に決まるが、刑罰は重い見通しだと説明された。


 継母には、主犯として虚偽申告、文書改竄、未成年貴族への虐待教唆および加担の罪が並べ立てられた。

 判決が確定すれば、両頬に犯罪者であることを示す入れ墨を刻まれ、貴族籍を剥奪されたうえで、声を奪う刑『舌抜き』が執行されるという。二度と誰かを言葉で縛れないようにするためだとか。

 その後の生涯は、街外れの労役院で石畳を掃き、便所を洗う仕事に費やされる見込みだそうだ。


 レティシアは年齢を考慮されつつも、婚約は即時停止となり、破棄手続に入った。

 貴族社会からの排除も、暫定ではなく終身とする方向で協議が進んでいる。

 生存率一桁の北のアバーシュレン修道院への送致も決まった。そこで七年間の労働と沈黙を課される見込みだという。戻ってこられたとしても、『犯罪者の娘で修道院上がりの女』としてしか扱われないだろう。

 ちなみに遊戯として加担していたメイドたちも、それぞれの立場に応じた処罰を受けることになった。


 父は、当主代理としての管理権限を剥奪され、資産の大半は仮差し押さえとなった。判決後には頭を丸められ、平民籍に落とされたうえで、王国所有の鉱山へ送られるらしい。

 名ばかり当主として見て見ぬふりを続けた対価として、今度は石と闇だけを相手に生きろ、というわけだ。


 ヴァレンティノ家そのものは、後見人がつくまで王家の管理下に置かれる。

 それは、当主不在による暫定措置であり、家そのものが断絶するという意味ではない。

 けれど、家の歴史の中でこの一時期だけは、『女伯爵の死後に家を食い荒らした一団がいた』という、消えない汚点として語り継がれることになる。


 亡き母が女伯爵として正式に叙任されていたこと、そして私がその実子であることは、記録と証言によって既に確認されている。

 私が成人年齢である十八歳に達した時点で、伯爵位と家督は、正式に私へと継承される予定だと説明された。


 それらはすべて、私の目の前で事務的に読み上げられ、私はそれを聞きながら頷くだけでよかった。


 怖くもなかったし、足りないとも思わなかった。ようやく、ほんの少しだけ釣り合いが取れたのだと思った。

 彼らがこれから私に──いや、ミアにしたことを本気で悔いるとは思えない。どうせ罰の場でも、不満や悪態や呪いの言葉ばかり吐き散らしながら、みっともなく朽ちていくのだろう。それならそれで、よく似合っている。

 今、彼らの胸にはどんな言葉が渦巻いているのだろう、とも。

 それが、私が彼らに向けた最後の関心である。


 ああ、でも──


 できることなら、身なりを整えてもらった私が、みすぼらしい格好の彼らを見下ろして、「ねえ、今どんな気持ち?」と、ゆっくり問いかけてやりたい。


 そんな都合のいい舞台は用意されないだろうと分かっていても、そう想像するくらいの権利は、私にあっていい。


 そんなことを考えながら、私は何ともなしに窓の外へと視線を向けた。

 王城付属監察局の施設は、城壁から少し離れた高台にあり、窓からは整えられた庭と、その向こうに広がる街並みが見える。

 屋敷の中庭とは違い、誰かの視線を気にする必要はなかった。


 枝の細い木に、小さな鳥が止まっているのが見えた。

 羽をふくらませ、何度か首を傾げてから、ぱたぱたと軽やかに飛び立っていく。


 ああいう生き物は、居場所を選ぶのだろうか。

 それとも、たまたまここに来ただけなのだろうか。


「ミアお嬢様」


 背後から声をかけられ、振り返る。

 すっかり顔なじみになった看護師が、穏やかな表情で立っていた。


 ここの人間は、皆、私を「お嬢様」と呼ぶ。

 退院後、正式にその立場で生活することになるため、あらかじめ呼ばれ慣れておく目的なのだと説明された。

 呼ばれていた時期もあったのだから、慣れるのは早いだろうと言われたが、今のところ慣れてはない。


「はい」

「具合はどうでしょうか」

「とても良いです」


 簡潔に答えると、看護師は頷き、来客があることを告げた。

 王城付属監察局の職員か、弁護人、あるいは後見に関する話だろう。そう思い、相手の名前を聞く前に了承の意思を示した。



 扉が開き、入ってきたのは、想定していた人物ではなかった。


 エドウィンだった。


「突然で、すまない」


 エドウィンはそう前置きしてから、私の前に立った。

 そして、迷いのない動作で頭を下げた。


「謝りに来た。俺は、三年以上、レティシアと婚約関係にあった。なのに、君の置かれていた状況に気づけなかった。結果として、君が苦しむ時間を長引かせた。それは、俺の落ち度だ。償いをしたい。でも顔も見たくないと言うのなら来ない。ただ、何か助けが欲しいときは俺のことを思い出してほしい」


 言い訳はなかった。

 自分が騙されていた、とも言わない。

 ただ、事実としての過失だけを口にした。


「顔を上げてください」


 そう言ってから、私は思った。レティシアの言っていたことは、誇張ではなかった、と。


 この人は、たぶん本当に、正義感が強いのだ。

 自分の立場が変わった直後でさえ、私に向かって頭を下げられる程度には。

 婿入りの話が消えたのだから、彼にとっても無傷ではないはずなのに。


 うん、悪くない。


「ティリングハースト侯爵令息様は──」

「エドウィンでいい」

「……エドウィン様」

「ああ」

「ご婚約状況はどうなっておりますか。形式的な確認です」

「レティシアとの婚約は破棄になったが……」


 知ってる。私が知りたいのはその情報ではない。


 どうやって聞き出そうか悩んでいると、察したのか「今は婚約者はいない」と付け加えられた。


 私は、意識して表情を整え、「では」と口を開いた。


「私と婚約していただけませんか?」

「……えっ」


 実は、弁護人から彼との婚約は提案されていた。

 だが、私は頷けなかった。

 けれど、さきほどの彼の謝罪を聞いて、すとんと『条件が揃った』と理解できた。

 私に必要なのは、感情ではなく、隣に立つ相手の質だった。

 レティシアに一泡吹かせたいという、一般的には推奨されない思いがあったことも認めよう。もっとも、それを口にする気は一生ないので、存在しないことと同義である。


 私の言葉に、エドウィンは、かあっと顔を赤くした。


 予想外の反応だった。


 彼は本当に、私を『立場』ではなく『人』として見ている。


 それだけで、婚約相手としての条件は十分だった。




 ◇



 王立未成年保護監察施設の面会室は、拍子抜けするほど簡素だった。

 飾り気のない机と椅子が一組、窓には逃走防止の格子。


 先に通されたレティシアは、地味な灰鼠色の衣服を着せられていた。

 装飾も、宝石もない。髪も結い上げられているだけで、あの頃のような念入りな手入れは感じられなかった。


 一方で、私は身なりを整えている。

 エドウィンが用意した、仕立ての良いドレスだ。


 扉が閉まり、監察官の気配が一歩遠ざかった。


 短時間のみ。

 二人きり。

 ただし、何かあればすぐに介入する。

 その条件で、面会は始まった。


「どうして、あんたがここにいるのよ」


 レティシアの第一声である。

 憎しみよりも先に、混乱が滲んでいる。


「最後に会っておきたかったのです」


 私は椅子に腰を下ろし、淡々と答えた。


「はあ!? どういう意味よ!」


 レティシアは立ち上がろうとして、窓越しの職員の視線に気づき、座り直した。


「アバーシュレンの修道院行きが決まったそうですね」

「……何それ、そんな話聞いてない。出鱈目言わないで」

「あら、私としたことがうっかり口を滑らせてしまいましたね……。ふふ、あなたはね、『死んだほうがまし』と噂の修道院に入るのですよ。期間は七年でしたかしら?」

 もっとも模範生だった場合の年数だけれど、とは言わないでおいた。


 私は、机の上に視線を落としたまま告げる。


「日付も出ていますのよ」


 レティシアの喉が、小さく鳴った。


「そんなの嘘よ!!!」

「ええ、嘘だといいですね」

「……エ、エドウィン様が助けてくれるはずよ……っ! あの方は──」


 名前が出た瞬間、私はようやく顔を上げた。


「無理だと思いますよ」

「……は?」


 レティシアの視線が、私の背後に逸れた。

 そこに立っている人物を、今さら認識したかのように。

 エドウィンは、扉の向こう。窓越しに職員と一緒に私を見守ってくれているはずだ。


「私、エドウィン様と婚約したんです」


 いっそう、小声に。

 そして、ゆっくり、はっきりと。


 一瞬、レティシアは理解できていない顔をした。

 次いで、その表情が歪んだ。


「……嘘よ」

「ふふ」


 私は淡々と続けた。


「あなた方が私にしたこと、私は絶対に許しませんわ」


 あの冷たいルージュの感触。

 くるみボタンが当たるたびに上がった笑い声。

 食卓で、私の皿だけが空だったこと。

 冬物のドレスを与えられなかったこと。

 謝罪文言を一晩中考えさせられたこと。

 冷水をかけられ納屋に閉じ込められたこと。


 全部、許さない。


「だから、あなたは罰せられるのです。あなたのご両親も、ね」

「……っ」

「お父様は、あんたの親でしょ!」

「私の親は、亡くなった母だけですわ」


「いやあああああっ!」


 レティシアは立ち上がり、机を叩いた。

 声が荒れ、言葉が崩れ、罵声に変わっていく。


「返してよ! 返せえええ! 私のものだったのにぃ!」

「いいえ。最初から、私のものです。あなたが偽物だったのですわ。自覚がなくって?」


 私が言い切った瞬間、レティシアがこちらへ掴みかかろうとしてきた。


「殺してやる! 殺してやるううう! お前なんか──」


 椅子が倒れた拍子に扉が開き、職員たちが一斉に踏み込んでくる気配を感じる。


「落ち着いてください!」

 職員の一人が叫ぶ。


「離しなさいよ!」

 レティシアはなおも暴れる。


「誰か! 鎮静剤を!」

 別の職員が即座に指示を飛ばした。


「ミア嬢、大丈夫か?」

「平気ですわ」


 背後から、エドウィンの声がかかり、私はレティシアから目を逸らさずに彼の上着の裾を指で掴んだ。


「離して! 助けて、エドウィン様! エドウィン様あああっ!」


 取り押さえられ、床に押さえつけられても、レティシアは暴れ続けた。

 爪を立て、唾を吐き、聞くに堪えない言葉を吐き散らかす。


 その間、私は一歩も動かなかった。


 エドウィンは私の前に立ち、自然な動作で制止の手を伸ばす。


 職員に囲まれ、叫び声を上げるレティシア。

 守られる側にいる私。


 今どんな気持ちかなんて、わざわざ問いかけるまでもない。


 面会は、そこで打ち切られた。


 扉が閉まる直前、床に押さえつけられたレティシアと、目が合い、私は微笑んだ。



 ◇



 レティシアが修道院へ移送され、父と継母の処遇が最終的に確定した翌月から、私は後継者教育を受けることになった。


 女伯爵としての襲爵は十八歳からで、それまでは後見人の管理下で統治、法、財務、社交といった基礎を叩き込まれるのだという。


 結婚は、女性側は十六歳から可能だが、爵位を継ぐ場合は成人後まで婚姻を控える決まりらしい。

 家と領地、そして国に連なる責務と、個人として結ぶ約束は分けて考えるべきだという理屈だ。


 理不尽ではないし、むしろ分かりやすい。

 ……その分、量が多いだけで。


 気づけば、私は少し張り切りすぎていた。


 軽い知恵熱と、鼻血。

 医師からは、休養を命じられた。


 そして今日は、その休養の名目で、街に出ている。



 王都の通りに面した小さなカフェ。

 窓際の席で、私は温かい飲み物を前にしていた。

 向かいには、エドウィンが座っている。


「ミア嬢が、勉強を頑張りすぎていると聞いた」


 声音は穏やかで、詰問の色はない。


 思い当たる節がありすぎて、私は視線を逸らした。

 鼻血の件まで伝わっているのだろうか、と思い至り、耳が熱くなる。


「大事に至らなくてよかった」


 それだけで、責める言葉は続かなかった。

 私はカップに指を添えながら、息を整えた。


「少し、焦っているのかもしれません」

「その気持ちは理解できる。だけど、頑張りすぎたら、休まなければ」

「それで、いいんでしょうか」

「ああ、倒れてしまったら、元も子もないだろ?」

「……はい」


 そう答えたとき、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 甘やかされている、という感覚ではない。

 安全な場所に戻された、という感じに近い。


 私は、ようやく顔を上げた。


「今日は、勉強の話はしないでおこう。さあ、ケーキを選んで。ここは女性に人気だと兄の奥方から聞いたんだ」


 真剣にメニュー表を見る彼は、甘いものが苦手だ。

 なのに、私が甘いものを好きだと知り、真面目な顔で悩んでいる。そのことがこそばゆい。

 ……今のは『甘やかし』だろう。


「はい」



 確かに現段階では、まだ恋ではない──そう、()()

 彼も、そうだろう。


 けれど、この人となら、たとえ恋にならなくても長い距離を並んで歩いていけそうだと思った。




【完】

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