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第三話

ある秋の夕暮れ、堤防に座って海を眺めていた私の前に、一人の男が現れた。


高級そうなスーツに身を包み、数十年前と一分たりとも変わらない、若々しく冷徹な美貌。 トモカズだった。


彼は私の隣に立ち、私の横顔をじっと見つめた。 その視線には、かつての部下を見るような鋭さと、それ以上に深い戸惑いが混じっていた。


「……本当に、薬をやめたのか、ミナ」


「ええ。見ての通り、もうおばあちゃんの入り口よ。でもねトモカズ、やっぱり私はラッキーガールだったわ」


眉をひそめる彼に、私は自分の皺だらけの手をかざして見せた。


「不老のままじゃ、この『今日が最後かもしれない』っていう空気の美味しさに一生気づけなかったもの。こんなに贅沢な時間の使い方を知ることができたんだから、私、世界で一番運がいいわ」


完璧な若さを保ちながら、その実、中身が摩耗しきっているトモカズに対し、私は枯れていく肉体の奥にある充足を、誇らしげに突きつけた。


トモカズは、しばらく絶句していた。


「理解できない。君は、ユウタが死ぬ間際に見せていたあの『不合理な平穏』に毒されたのか。効率も、可能性も、すべてを捨てて……何を得たと言うんだ」


「トモカズ。あなたは、この数十年間で、何かを『得た』と感じている?」


私の問いに、トモカズは視線を逸らした。


「俺は、世界を最適化した。人類の進歩を数百年分早めた。実績は、システムの中に蓄積されている」


「そうね。でも、あなたの中には? あなたの心に、何か『消えない重み』は残っている?」


トモカズは黙り込んだ。 彼の顔は完璧に若いままだが、その瞳の奥には、出口のない迷路を彷徨うような、底知れぬ疲弊が澱んでいた。


彼は「効率」という名の城を築き上げたが、その城の主である自分自身が、城の一部という名の部品になり果てていることに気づき始めていた。


「俺は……最近、摩耗している気がするんだ。音もなく、何かが削れている。だが、削れているはずなのに、形は変わらない。それが、たまらなく恐ろしい」


不老の男が漏らした初めての弱音。 私は彼の冷たい手に、自分の、少しカサついた温かい手を重ねた。


「トモカズ。夕焼けを見てごらん。あれは、今日が終わるから美しいのよ。あなたも、いつか立ち止まりたくなったら、ここに来て。無駄な時間を、ちゃんと生きるために」


トモカズは、私の手の温もりに驚いたように目を見開いた。 そして、何も言わずに去っていった。 その背中は、かつてのような「正解」の自信に満ちたものではなく、どこか震えているように見えた。


さらに年月が流れた。


私は今、ユウタが最期を過ごしたのとよく似た、静かな部屋にいる。


鏡を見る必要はもうない。 自分の手を見れば、そこには深い溝のような皺が幾筋も走り、シミが点在している。 それは、私がこの町で過ごした二十年の、風と光の記録だ。


不思議なことに、私は今、かつてあんなに恐れていた「死」を、恐怖として感じていない。


体は枯れ果て、エネルギーは底をつきかけている。 けれど、私の中には、かつての「空白」だった永遠よりも、ずっと密度の濃い「何か」が詰まっている。


それは、ユウタと笑い合った記憶。 一人で眺めた、数千回の夕焼け。 老いゆく肉体の痛みとともに、噛み締めたパンの味。 トモカズに伝えた、ささやかな言葉。


それらすべてが、私の中で溶け合い、一つの形を成している。


ユウタが言っていた通りだ。 老いることは、失うことではない。 自分の人生を、自分の肉体という唯一無二のキャンバスに、時間を使って丁寧に描き込んでいく作業だったのだ。


私は、震える手でペンを握り、机の上のノートに最後の一行を記した。 これは、不老を選んだことも、それを捨てたことも、すべてを経て辿り着いた、私なりの結論。


『後悔はたくさんした。けれど、私は今、心の底から納得している』


窓の外では、また新しい夕焼けが始まろうとしている。 あの日、食堂でユウタが見ていた光。 トモカズが「無駄だ」と切り捨てた光。 そして今、私の全身を優しく包み込んでいる、この温かな橙色の光。


「私は最高のラッキーガールだったわ」


ゆっくりと目を閉じる。 暗闇の中に、懐かしい声が聞こえた気がした。


「待ってたよ、ミナ」


それは、白髪混じりの、けれど最高に晴れやかな顔をしたユウタの声だった。


私の砂時計の、最後の一粒が落ちる。

それは、何物にも代えがたい、完璧な「終わり」だった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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